地Ⅱ
妙に何かが胸に引っ掛かる。
「それ……」
思わず声を上げていた。あまりにも悲愴な面持ちに、続く言葉が出てきてくれない。
「ちょっとね」
クラウは儚げに微笑むと、すっと立ち上がる。そのまま食器を手に取ると、何も言わずに廊下へと出ていってしまった。
いつか消えてしまいそうで、いなくなってしまいそうで。心がほんの僅かに騒めく。
多分、あの指輪はクラウの物ではないのだろう。失くした大切な人の物――それは家族だったのかもしれないし、恋人だったのかもしれない。分からないけれど、触れられたくないのは確かだ。
失礼な事をしでかさなかっただろうか。考えてみたところで、やはり分からない。分からないことだらけだ。
溜め息を吐きたくなりながらグラスを手に取り、部屋の傍らにあるデスクに腰掛けた。日記帳をパラパラとめくる。
ここ最近は、大したことは書いていない。『朝起きたら頭痛が酷かった』とか、『暇だった』とか、その程度のことだ。過去を見せられた日のページですら、『訳の分からない過去を見せられた。頭が痛い』くらいしか記していない。
今日も内容は変わらないだろう。ブルーブラックのインクに緑の羽ペンを浸す。
『鎮痛剤を飲んだからか、頭痛は無い。日中はフルートの練習をしてた。あと、ケーキも食べた。後は……あんまり覚えてないや。朝食はパンとフルーツサラダ。昼食はマルゲリータ、夕食はカルボナーラ』
すらすらと書き出し、ペンを置いた。ヌメ皮の表紙も閉じる。
何となくグラスを手に取り、口へと運ぶ。酸っぱい。中身がレモンソーダである事を忘れていた。
飲み込んでから口から息を吐き出し、背凭れに身体を預ける。
明日は何をしよう。アレクに会ったら問い詰めてしまおうか。うん、そうしよう。後は、楽器の練習をして、美味しいものを食べて――アレクの話の内容が納得出来るものであるならそれで良い。
窓の向こうの星空を眺め、ほうっと吐息をついた。
* * *
鳥の鳴き声を聞きながら、ぱっと瞼を開けた。ほのかにコンソメの香りが漂ってくる。昨夜にカーテンを閉め忘れたのか、部屋に朝日が差している。それに照らされているのはアレクとフレアの横顔だった。
頭痛を感じることもなく、むくりと身体を起こす。
どうしよう。まだ心の準備が整っていない。起き抜けにこの状況になるとは考えていなかった。
「あ、おはよう」
「ん? 朝飯持ってきたけどよー、何か言いたそーな顔だな」
フレアに続いてアレクに声を掛けられても、反応らしい反応が出来ない。
「違ぇのか?」
「えっと……」
昨日はクラウに聞けたのに。日を跨いでしまうと、意気込みは消えてしまうのだろうか。
しっかりしなければ。両手でナイトドレスを握り締める。
「この前は追い返しちゃって、ごめんなさい」
アレクとフレアは顔を見合わせ、苦笑いをする。
「あたしたちが悪いんだから、ミユが謝る必要はないよ」
「ホントに済まなかった」
アレクとフレアは頭を下げる代わりに瞼を伏せる。
「それで、アレクが言い掛けてたことって……」
「あぁ、その話か」
まずいことを聞かれたかのように、アレクは顔をしかめた。フレアもアレクを不安そうに見るばかりで、何も語ろうとはしない。
「先に、飯食わねーか?」
「今はご飯より、その話が気になるの」
「そーか……」
アレクは片手で頭を軽く掻き、唇を噛む。
「アイツも呼んでくるか?」
「ここで話すつもり?」
「もう、話すしかないだろ」
良く分からないやり取りをすると、彼らは頷き合う。私が不信感を抱きながら小首を傾げるところを、恐らくアレクは見ていない。足早に部屋から立ち去ってしまった。
「きっとね? あたしたちの話を、ミユは信じないと思う。でも、嘘でもなんでもないの。もう嘘を吐く必要はないから」
フレアはぼそぼそと小さな声で言う。
気になる話を伝えられる前に言われても、なかなかピンと来ない。フレアの自己満足だ。
「う~ん」と小さな唸り声を上げる。そのまま何を話して良いのか分からずに、静かな時間だけが過ぎていった。フレアの頭越しに時計を見て、その場をやり過ごしていた。
次にノックの音が聞こえたのは、十分程経ってからだっただろうか。姿を見せたのはアレクとクラウだった。二人はフレアの横に並ぶと、覚悟を決めたような目をこちらへと向ける。
「良いか? ミユ、話すぞ」
「うん」
アレクは息を吐き出し、改めて姿勢を正す。三人の緊張感がこちらにも伝わってくるので、思わず生唾を飲み込んでしまった。
「簡単に言う」
頷くのも躊躇われ、じっとアレクを見詰め返す。
「あの『過去』はオレらの中にある『記憶』だ。つまり、あの『記憶』に出てくる百年前のアイツらは、オレらの『前世』だ。だからよー、影に殺られた地の魔導師は、オマエ自身なんだ」
受け入れられない訳ではない。否定したい訳でもない。ただ、酷く悲しい。心にぽっかりと穴が開いたような感覚だ。
それなのに、何が悲しいのかが分からない。
左目から涙が零れ落ち、過去を見た訳でもないのに視界が歪む。
駄目だ、倒れるかもしれない。そう思った時には、視界は天井を捉えていた。




