人間と傷
『…ん?おい坊主、おめぇ何やってんだ!』
『げ、何だよ。ラシマウのおっちゃんじゃねぇかよ』
『タートル、おめぇ何やってっか聞いてんだ!危ねぇからやめろ!』
『はっはっは!俺様は冒険好きでね!ジャングルも砂漠も行った事があるんだ!』
『だからって何で砂浜で船なんか作ってんだ!?』
『船って技術自体はあるのによ、誰も海に行こうとしねぇじゃんよ!だから俺が海へ出て、世界は広いって事を証明してやんのさ!見てなって!』
『馬鹿!おめぇ命ドブに捨てる気か!?』
『へへっ、ボロ船に見えるだろ?魔法で補強してあるから平気だって!俺はこのタートル号と共に伝説となってくるぜ!いけっ、しゅっぱーつ!!!』
『おい!タートル!!!』
『…!……!』
『くそっ、しようのねぇクソガキだ!今助けてやるから待ってろ!』
『…!』
『はぁ…おらっ、大丈夫か?』
『あ、ありがとよおっちゃん。けど今のは一体…?』
『馬鹿!人類が誰も海に出ねぇのは《大陸にしか空気がない》からなんだよ!おまけに魔力ってのは空気中にしか含まれちゃいねぇんだから魔法も使えない無力な人間様はたちまちお陀仏さ』
『ひぇぇ…そういう事かよ。道理で魔法が使えねぇと思ったよ…』
『ともかく、これに懲りたらもう二度と海へ出るだなんて馬鹿な真似するんじゃねぇぞ?』
『あぁ…俺もう、海は諦めるよ。冒険なんて危ないものやめて実家の花屋さん継ぐよ』
〜〜〜〜〜〜〜
「空気…?」
キッズさんの姿を借りた人物の発言に、アセツさんは首を傾げる。そう、彼の『空気が生物である』という旨の発言。そんな話なんて信じられる筈がなかった。かく言う私も、戸惑っている。
だが当の本人はまるでその反応を予想していたかのように気に留めてはいなかった。彼は帽子を外すかのように自然に脳天へと突き刺さった氷柱を片手で抜くと、もう一方の手を自身の額に翳した。するとその瞬間、緑色の光と共に彼の傷はみるみるうちに塞がる。
「回復魔法…世界でも指折りに会得するのが困難とされる魔法を…」
アセツさんが呟くと、キッズさんの身体を借りた彼はどうでも良さそうに欠伸をしながら答えた。
「ガウ。人間が魔法を使えるのも空気ありきだっピ。君ら以上に魔法に詳しいのは当然だメェー」
「…あながち、空気だって主張も間違いじゃないかもね」
アセツさんは構える。目の前のとぼけたような口調の青年を、警戒しているのだ。
「『偽物は本物以上に本物である』」
「んー?何の話だにゃー?」
「偽物は本物であろうとするが故に、本人よりもその人に対しての理解度が深いっていう事よ。…貴方が魔法の祖だったとしても、魔法使いとして鍛錬を続けて来た私にも充分に分はある」
「ごもっともだミン」
「加えて、身体自体もキッズの物。単純な格闘においてもチャシには勝てないよね」
「人間の中では筋肉質な方ではあるが、確かに特筆するようなものではないヒヒーン」
「それじゃ、どうする?」
だが、彼の反応は変わらなかった。アセツさんが脅しをかけたのにも関わらず、空気を名乗る彼は相も変わらず危機感が欠落しているかのように声色を変えず、伸びをしている。
「どうモーしないけど」
「勝てる根拠があるとでも言いたいのかな?」
「違う違う。そもそも、戦う理由も無いアオーン。別にそれでもいいけど、互いにメリットが無いクルッポー」
「…それもそうか。ただキッズと入れ替わっただけだからね」
「そういう事キリキリ。どちらかと言うと、そこの人間に用があるケロ」
そう言うと、彼は倒れ込む私を見る。彼の思わぬ言葉に、内心ギョッと驚きながらも私は何とか言葉を紡いだ。
「私に…?」
「そう」
彼はそう言うと、自身の掌を上へ向ける。すると突然、室内であるというのに風が吹いた。その爽やかな風はまるで私達を囲うかのように吹き、そして彼の掌へと集約する。
そして次の瞬間、青年の手には硝子のように透明な物体が握られていた。
「魔族になろうよ」
その声は酷く優しく、安らぎのあるものであった。以前プラントさんから聞いた事がある。魔族になるには、透明な魔石を取り込まなければならぬと。恐らく…彼の持っているその物体こそが、プラントさんの言っていた明澄の魔石だ。
彼は私の毛むくじゃらになった片腕をちらりと見やると、話を続ける。
「その腕を見るに、魔族に片足…いや片腕を突っ込んでいるみたいだブーン。この石を受け取って、完全な魔族になるんだシャー」
「あなたの目的は何…?それに、どうしてそんな物を持ってるの?」
「確かに人間は自己紹介から始めた方が安心するワン」
彼はこほんと小さく咳をし、躊躇う様子も見せずに言い放った。
「名称は空気、またはミィ。この世界の何処にでも存在し得る者。『精霊の一種』」
「精霊…!?」
驚きのあまり、声を漏らしたその瞬間であった。氷の剣を即座に生成しそれをミィさんに振り下げるアセツさん、そしてアセツさんの動きに合わせて逆サイドから爪で引っ掻こうとするチャシさんの二人を、ミィさんは空気の膜を魔法で張る事により防いだ。
「理解不能。どういう事だカー?」
「私達の目的は白の魔石を手に入れる事、その為に今まで精霊に会う為の研究を続けてきたんだ。そんな精霊がこの場に居るのなら…是が非でも捕らえさせて貰うわ」
「白の魔石なんかより、透明な魔石の方が良くないコケ?望むのなら恵んでもいいモー」
「そんな魔族になる為の物なんか要らない。私達の希望…目的はただ一つ。白の魔石だけ」
「あんな欠陥品を欲しがるなんて変わってるね。けど生憎あんなもの所持してないよ」
ミィさんを包んでいた膜が消えたと思ったその瞬間、強風がアセツさんとチャシさんを後方へと吹き飛ばす。そうして床を転がる二人にも目を向けずに、彼はゆっくりと落ち着いた歩みで私の目の前までやって来る。
「さぁ、決断の時だ。改めて聞くよ、魔族になる?」
「私…は…」
「そこに転がってる魔族…じゃらもんと呼んでいたかコッコ?あの個体を守れなかったのは、無力だったからじゃないヒヒーン?」
「………」
「失われていい命なんて無いガウ。君にも当然、生きる義務があるキョーン。強くなる為に、魔族になるんだ」
『例えそれが自分の正義に背く道だとしても、生き残らねぇと話になりゃしねぇだろ』
あの時と同じだ。プラントさんに助けられた、あの時と。私はあの時…決めたのだ。例え人間としての生き方を捨てたとしても、私は生きて、人間の幸せを守るんだと。もう二度とテト達のような…そんな悲しい犠牲を増やさない為にも。その為に、生きると決めたのだ。
確かに、私は弱かった。弱かったからこうなったのだ。今は力が必要なのだ。誰かを、救う為の力が…
「私は…魔族に…」
そう、言いかけたその時であった。突然私の足にぬるぬるとした、蛇のような気持ちの悪い感触が巻き付く。その蛇のようなものは私の足を引っ張ると、そのまま引き摺りながら私をミィさんの元から離した。
そして気持ちの悪い感触が私の足から離れた時…私の隣には、見覚えのある怪物の姿があった。その怪物はうねうねと赤黒い触手を動かし、光の無い黄色の瞳のようなものでミィさんの姿を見つめる。
「キッズさん!?…じゃなくて、もしかして…」
「う、うん。たす、助けにきたよ、キャロ」
「クリさん!」
「ご、ごめんね。じ、実はこの姿がお、おれの本当の姿なんだ。軽蔑…し、した?」
「ううん。ちょっとびっくりしたけど、軽蔑なんかしてないよ!でも、どうやって助かったの?キッズさんは始末したって…」
「き、キッズはこの身体の凄さを知らなかったんだ。再生力が高く、て…焼却炉に捨てられたけど、何とか耐えて脱出したんだ…」
「良かった…せめてクリさんだけでも生きててくれて」
「…じゃらもんは、残念だったね」
クリさんは全てを理解したのか、じゃらもんちゃんの遺体を見つめて悲しそうに声を震わせる。しかし彼は震える触手に力を入れると、覚悟を決めたように言った。
「け、けど…じゃらもんの為にも、キャロは逃げなきゃ」
「でも…私には力が要るの。皆んなを守る為の力が欲しい。だから、逃げる前にあの魔石を…」
「駄目…駄目っ、だよ」
「どうして?」
「魔族は…間違ってる」
思わぬ言葉に、私は顔を顰める。
「間違ってるって…どういう意味?」
「あ…違うんだ、悪いって意味じゃなくて…ならない方が、良いんだ。まぞ、魔族はっ…その者の心の底の願いを映し出した姿になる…」
「そうだね。力を求める者は鬼に、っていう話は前にも聞いたよ」
「け、けど…その願いって何から来てる?」
「何からって…私の場合は皆んなを守りたいから…」
「そ、そこだよ。裏を返すとね…そ、それは『恐怖』による願いにもなる。皆んなを失うかもっていう恐怖が…」
「…確かにそうかもしれないけど、でもそれがどうしたの?」
「心の底を映し出すって事は…きゃ、キャロは恐怖に支配された存在になる、なるんだ。確かに力は得られる、かもしれないけど…で、でも、膨張した恐怖が精神にどう作用するか、分からない。恐怖を取り除く為に、恐ろしい事をするかもしれない…」
「大丈夫だよ。私は絶対に、恐ろしい存在になんてならないから」
「キャロ、は…魔族と触れ合った事ある…?」
「うん。あるよ」
「本当に…自分も大丈夫って言える?」
「………」
『人間を滅ぼす。それだけが俺の存在価値だ』
『自分を愛せなくなった者は周囲の者さえも愛せなくなる。今思えば…最低だったな、私。周りを巻き込んでよ』
『私がさぁ…思い知らせてやんだよ!親友の命は軽くなかったって事をさぁ…!』
彼の質問に、私は答えられなかった。プラントさん、アカマル、シークイさん。その誰もが心の底からの悪人ではない筈なのに…皆んな、何かに取り憑かれていた。もしかしたら私が知らないだけで、他の皆んなもそうなのかもしれない。
『魔族という存在の根っこには深い闇があるから。あの三人も心が強いから今は何とかなってるけど、いつ心が壊れて人を襲うようになるかも分からない。魔族は普通の生物とは違う、矛盾だらけの生き物なんだ』
初めて出会った時、リィちゃんが言っていた言葉だ。私は今まで…魔族という存在をただ『力のある存在』程度にしか認識していなかったのかもしれない。アカマルも、プラントさんも、グロテスクさんも、皆んなはまるで人間のように私と接してくれた。だから、彼らが魔族である事など気にも留めていなかった。
けど…理解した筈だ。あんなにも精神的にも肉体的にも強いアカマルが…ムッテでは私達を殺しかける程に、追い詰められていたのだ。私なんかよりもアカマルは強いけど…でも、心の何処かで助けを求めていたんだ。
魔族は人間と敵対している。それは魔族の心には深い傷があり、自分を見失っているからだ。けど、人間に拒絶された魔族達はその傷を治す手段を持たない。だからこそリィちゃんは…魔族の国を、彼らの居場所を作ろうとしたのだ。唯一の人間として、彼らに寄り添えるように。リィちゃんこそが魔族と人間が手を取り合う為の架け橋、希望なのだ。
私も…皆んなを助けたい。リィちゃんだけに重荷を背負わせず、一緒に皆んなの居場所を作りたい。彼女と同じく人間である私だからこそ、出来る事もある筈だ。
だが…それでも、力が無ければ命を守る事は出来ない。それはリィロントが襲撃された時、そしてじゃらもんちゃんの命が失われた時に痛感した筈だ。私は…変わるしかないのだ。
「クリさん…私は、力が欲しい。今この現実を変える為には…力が必要なの。例え私の心が壊れちゃったとしても…今はそれしかないんだ」
「キャロ…は、人間だよ…ね?」
「うん…」
「な、ならそれを踏まえて…もう一度…じ、自分の腕を、み、見てみて」
言われるがまま、私は自分の腕を見る。片腕は獣のように毛むくじゃらで、もう片方は今まで通りの人間の腕だ。
「キャロは人間だけど…ふ、普通じゃない」
「………」
「でも…そんな腕を持ってても、キャロはに、人間なんだよ。その事に、意味があると思う…」
「人間…」
「お、おれもキャロが何者かは知らない。でも…知るべき、だと、思う。自分が何なのか…」
「私が何者かだなんて…そんなの分からないよ…」
「それを知る為に…お、おれが時間を稼ぐ。これ食って…」
まるでトカゲの尻尾切りかのように、クリさんの八本ある触手のうち一本、その先端が切れた。彼はその切れ落ちた触手を持ち上げると、私の口元へと持っていく。
「お、おれの身体は栄養あるから…これ食べれば少しの間、う、動けるようになる…と思う。だからそれ食べて逃げて…」
「でも…クリさんは?」
「おれはこ、ここに残って戦う。キャロを逃がす為、そ、そしてじゃらもんの遺体を守る為…」
「………」
「行って。人間でありながら、魔族のような腕があるキャロこそが…希望だと、おれはおも、思ってる。だから…行って」
「…クリさん、ありがとう」
「こ、こっちこそありがとう。おれ…今までこの見た目だったから、誰にも愛されなかった。けど名前付けてくれて、お話してくれて…本当に嬉しかった。キャロ、ありがとう」
「クリさん…」
「行って…早く!」
私は彼の勢いに乗せ、渡された触手を口に入れる。ねっちょりしたような歯応え、腐ったリンゴのような酷い味。それでも…噛めば噛む程に、力が湧いてくる。そしてそれと同時に…クリさんの優しさを痛感した。
先程まで動けなかった筈の私は立ち上がる。するとクリさんはこちらに触手を伸ばした。
「これ…」
「出入り口の鍵!?じゃらもんちゃんが持ってた筈じゃ…」
「おれ…食べ物をこっそり盗んで生きてきた。だから…さっきバレないように取れた…」
「クリさん…本当に何から何までありがとう!」
「頑張ってね。…キャロ」
私は貰った鍵を握りしめ、クリさん達へと背を向ける。すると背後から二つの声が聞こえた。
「魔族にならないっポー?理解不能だメー。魔族になった方が幸せだカパカパ」
「逃がさない…ようやく手に入れた、白の魔石の保有者!私とチャシはずっとこの時を待ち続けてきたんだ…!」
「なら…瀕死にして、魔族にするコン。これも、皆んなの為だピヨ」
「逃がしてたまるか…!私達の悲願を叶える為に、今までいくつもの命を踏み台にしてきたんだ!生活も何もかもを捨てて…この時の為に!今更諦められるか…!」
ミィさんとアセツさんの声に足が竦む私の背を、クリさんの触手が押した。ぬるぬるとした気持ち悪い感触、それでも…優しくて、暖かかった。
「っ…クリさん!」
私はそのまま走り出した。全てを置いて、鍵だけを持って…クリさんもじゃらもんちゃんも置いて、逃げ出したのだ。
「こ、この先へは行かせ、ない…よ!お、おれがキャロを守る…守るんだ…!」
後方から聞こえる戦闘の音にも振り返らず、私は前だけを向いてただ走った。彼の気持ちに、報いる為に。