二輪霊日記 3 The Diary of Ghost Rider 3
雷鳴が轟いた。驚いて見上げた空には雲ひとつなかった。やがて直線道路の向こうから一台のハーレーがやって来るのが見えた。重心が低く重そうなフォルム。そうだ、ハーレーはまず音からやって来る。
跨がっているのは女だった。「やはりハーレーは直線道路がよく似合う」そう思ったすれ違いざま女がこちらを振り返った。ヘルメットからのぞいた口元が動くのが見えた。
まさかとミラーに目をやると大きなシルエットがこちらの車線にターンをしている。後を追って来るつもりなのか、見える女がハーレーで追ってくる、一体どういうことだ。僕は混乱を振り払うようにアクセルを開けた。振動するミラーからハーレーがみるみる小さくなっていく。本線を右折して峠道に入った。峠にハーレーは似合わない、追っては来ないだろう。
展望台エリアで二輪を止めヘルメットを外した。もちろんヘルメットをかぶる必要もないのだが、生きていた頃の癖というものだろう、あれば落ち着くのだ。二人のライダーがせり出した展望台に立っている。一人は革のライダースジャケット、一人は背中に大きなロゴの入ったブルゾンを着ている。さっきのカウル付きだな、と僕はすぐ後ろのベンチに座った。
「ところでさ、ここまでの道って俺たち二人だけだったよな」
「あぁ、貸切りみたいで最高だったよ」
「そうだよな」
「どうした」
「いや、途中のカーブでいきなり背後からエンジン音が迫ってきたので、てっきりお前が追いついてきたなと走りに集中した訳よ。そしたら、ほら、最後のきついカーブがあっただろ、あそこで減速してふと気づいたのよ、誰もいないって。でもすぐ後ろで走っている気配はずっとあったんだよな」
「俺たちの間に他のヤツはいなかったと思うぜ。途中で俺は誰にも抜かれていないし」
「だよな」
「気のせいさ。それに周りを見てみろよ、平日のこんな時間、バイクどころか車一台停まっていないよ」ロゴ男が僕の方を振り返って言った。
「そりゃ、後ろに気配はないよ、僕が最後のカーブで抜いたからね」ベンチに座ったまま二人に声を掛けた。
革男は連続するカーブで神経が研ぎ澄まされていたのだろう、だから最後のカーブで僕の気配を感じたに違いない。現に今こうして直ぐ後ろから話し掛けているのに気付きもしない。
「そういうことだ」と伸びをして空を見上げた。自分に影がない事実を一瞬忘れるほどの青空が広がっていた。
突然雷鳴が響き渡った。まさかと振り返るとハーレーがのそりと入ってきた。間違いない、あのハーレー だ。前の二人は展望台から振り向かない。雷鳴は彼らには届いていない。僕は咄嗟に立ち上がり前の二人の横に並んで仲間のふりをした。何故追ってきたのか知る由も無いが振り向くわけにはいかない気がした。
背後で吹かされるエンジン音が空気を震わせた。あたりの木々から鳥たちが一斉に飛びたった。驚いた二人が辺りを見渡したがすぐにまた話し始めた。僕は隣の革男の肩を叩いたり笑ったり頷いたり、と仲間の小芝居を続けた。
やがて雷鳴は遠のき去って行った。その後二人は展望台のテーブル付きの木製ベンチに腰掛けバーナーで湯を沸かしカップ麺を食しコーヒーをドリップし煙草に火をつけた。僕は目を閉じそれらの音と匂いを楽しんだ。車一台がやってきたタイミングで二人は腰を上げた。僕は二人の後をついて行くことにした。二台は等間隔で下りの峠を加速していく。石組みのトンネルに入った途端、冷んやりとした空気とエンジン音に包まれた。僕は二台の赤い灯を追って走った。こうして縦に並んで走るのも気持ちのいいものだなと思った。
おや、先頭を走る革男のリアシートになにか人影のようなものがちらりと見えた。目を凝らすとヘッドライトに照らされたそれは縮小された人の形をした何かで、革男の頭あたりをまるでトランポリンを使っているみたいに跳ねている。
しばらく跳ねてから今度は大きく飛び上がり、膝を抱えてくるりと一回転した。そして前を走るロゴ男のリアシートにきれいに着地した。両手を広げて体操選手のような決めポーズをとっている。格好は体操着ではなくきちっとしたジャケットを羽織っていた。また跳ねだすと降下する度にジャケットの裾がひらりと揺れた。二人はまったく気づいていないようだった。トンネルの出口はまだ見えない。
ハイビームに入れた途端こちらに跳んできた。後ろに着地するや「あれッ、なんだッ」と大きな声をあげた。思っていたよりずっと野太い声だった。僕がミラーに手を掛けるや、背後から「僕はあんたと同じだよ、鏡になんか映りはしないさ」と言った。
跳ね男は跳ねながら話すので聞き取りにくい。
「あんたの、邪魔をする、つもりは、ないから、さ」と後ろで言っている。
「邪魔がなんだって」
「で、どっちを、狙って、いるんだい」
「ねらうってなにを」
「あんた、姉さん、の仲間だろ」
「姉さんって」
「いや、あの、ぼくは、ただ、跳んでいる、だけ」
跳ね男は急に口籠り跳ぶ高さも低くなった。
「姉さんってハーレーに乗っている女か」
「いや、ち、ちがうよ、全然、ちがいます」
減速すると、さらにしどろもどろになった。振り返るとせわしなく小刻みに跳ねている。
「ぼ、ぼ、僕は、トンネルから、出るつもりは、ないのです、あっ、もう出口だ、それでは、さようなら」と今度は大きく跳び上がり天井の闇に包まれた後もう降りてはこなかった。
トンネルから出ると前を走っていた二台を見失っていた。しばらく走ると茂みの中に消えそうな矢印の看板がみえた。追うのをあきらめ、矢印先の小道を進み続けると木々の隙間からキラキラと光る池があらわれた。使われなくなったキャンプ場といったところか。ほとりを奥まで入ってエンジンを切ると静寂に包まれた。人の気配も何も無い。物音もしない。まるで広がる池の水が辺りの音をすべて吸い込んでいるようだった。
季節が深まったせいか焚き火にする枝はいくらでもあった。じっと火を見つめていると鳴き声がした。枝を組み合わせた結界の向こうから猫がこっちを見ている。
「へえ、僕が見えるのか」と声を掛けるとひょいと枝を飛び越えやって来た。猫は一度伸びをして僕の足元に擦り寄り丸くなった。猫の存在を感じながら僕は薪ストーブのあるテントを想像していた。冷たい風がテントを揺らす中、僕は薪ストーブの覗き窓から揺れる炎をじっと見ている。薪ストーブには薬缶が置かれ時折ドサリと雪の落ちる音が聞こえてくるのだ。こういう場所でゆっくり春を待つのもいいかもしれないぞ、と思っていると不意に猫が身構え、唸り声をあげ跳躍した。
「ひやぁ、かんべん、かんべん」
声の主はあの跳ね男だった。猫は前足でしっかり跳ね男を押さえている。跳ね男はさっきのジャケット姿のままだった。
「タスケテ、タスケテ」
手足をバタバタさせている。猫は誇らしげに僕を見た。
「トンネルから出ないとか言ってたよね」と僕は声を掛けた。
「ち、ち、ちがいます、ちょっとあなた様に、忠告をさせていただこうと思って参った次第です」
言い終わるや雷鳴が轟いた。焚火の火が大きく揺らめいた。雷鳴は近づいてくる。
「ははん、お前がハーレー 女を呼んだな」
「ちがいます、ちがいます」
「今隠れてたろ」
「あなた様が猫使いとは知らなかったもので、失礼いたしました、ひゃあ」
跳ね男はまた悲鳴をあげ、身をよじった。
雷鳴が止んでもしばらく辺りの空気は震えていた。やがてブーツの足音が真っ直ぐこちらに近づいてきた。
「ねぇ、展望台では呼びかけたのに無視したでしょ、話したいことがあるのよ、出てきなさいよ」
女の身を包んだ黒いレザーに焚火の炎が反射している。女にもちろん影はない。
「それにしても馬鹿げた音だ」
「FLHよ、お褒めの言葉をありがとう」
向こうで大きなフォルムのハーレー が炎に揺らめいている。
「そうね、まずはお近づきにどう、乗ってみる」
「いきなりだな」
「私が後ろに乗ってあげるから」
「ちょっと怖いね」
「なによ、怖いって、私をこんな場所に一人で待たせるつもり、ただね、走った後一つお願いをきいてほしいの」
「そのお願いが怖いんだよ」
ここは跳ね男の忠告に従った。とりあえず女の願いは先送りだ。
ハーレー は女の好みにセッティングされているはずだが心地よい振動が僕の全身を包んだ。思わず歓声をあげスロットルの開閉を楽しんだが、あまり喜んでいると女の願いを断りにくくなるぞと思った時ミラーが光った。黒いワゴン車が並走し窓を開けたドライバーが何か言っている。ハーレー の爆音と大音量の音楽で何も聞き取れない。ワゴン車は一気に加速して前方斜めに急停車した。スライドドアから男が二人飛び出してきた。僕はなんとか二人の前に重いハーレー を止めた。
「ラッキー、ラッキー」と作業着男と柄シャツ男がニヤついている。
「お宝バイクに女をつけてオレたちの前をノーヘルでちんたら走るっていい度胸だよ、おっさん」
「あんた、オレたちにプレゼントを配るいい人って訳だな、ウケるよおっさん」
街灯の下、おっさん、おっさん、と連呼する二人を見るとしっかりと影がある。これはいったいどういうことかと混乱していると、ハーレー を降りた女はつかつかと二人に歩み寄った。
「へぇ、あんたたち、見えるんだ。どう、いい女でしょ」と腰に手を当てた。
「おれ、誘われちゃったぜ」
「この女なんか変だぜ」
「いいよ、いいよ、乗せちゃえ、乗せちゃえ」
さらにスライドドアの奥から声がした。
「もう、何人乗ってるのよ」と
嬉しそうに声をあげ女はワゴン車に乗り込んだ。
「誰かおっさん見張っとけ」
スライドドアが勢いよく閉められた。
その直後にトラックがワゴン車に突っ込んだので、女の殺戮が先だったのか衝突が先だったのか僕には知る由もなかったが、とにかく一瞬のうちに道路一面に色々なモノが撒き散らされていた。ひん曲がったスライドドアから顔を出している血まみれの作業着男の両目はすでになく、柄シャツ男は体が奇妙な方向に折れ曲がってトラックの向こうに放り出されてピクリとも動かない。おそらくもう全員の目は女にえぐり取られているのだろう。
「これは、これは」
例の跳ね男が傾いたトラックの屋根から僕の前にストンと降り立った。
「君がトラックを誘導したわけか」
「いや、いや、いや、あなた様がワゴン車を呼び寄せたのです。これで姉さんにおかれましてはしばらく鏡に不自由はいたしません。鏡に映らない我々が自分の顔を見る唯一の方法は人の目玉でございますから、私も一安心でございます」
そう言うと跳ね男はゆっくりとした動作でジャケットのボタンを一つ留め、またトラックの屋根へ跳ねた。
ワゴン車のテールライトを照明にして、女はハーレー に腰掛け手にした目玉を覗き込み熱心に髪の毛を整えていた。察するに女の言っていた願いとは僕の目玉をくれといったところか。
「猫さんとは和解しましたのでご安心ください」
トラックの屋根の上から跳ね男が顔をのぞかせ言った。
「あなたも自分の顔をご覧なさいな」と女は目玉の手鏡を覗き込んだまま言った。
「遠慮しておくよ」
僕は人の目玉で自分の顔など見たくはなかった。
「あなた、けっこう整った顔をしているのに、勿体ないわ」
「何度もおっさんと言われたが」
「若い子は年上の男を見ればそういうのよ」
そう言うと女は手にした若い目玉をこちらに振ってみせた。
「またあなたに会いにきてもいいかしら」
「いや、目玉をえぐられるのは勘弁だね」
「ちがうわよ、なに言ってるのよ、あなたとは見つめ合うだけよ。見つめ合ってお互いの顔を確認するのよ、素敵じゃない。私は自分の顔を見たい時に見たいだけ。たったそれだけのこと、贅沢でもなんでもないわ」
目玉を覗き込む女の横顔がみるみる美しくなっていくように見えた。女の果てしない鏡の時間から逃れるべく僕は歩くことにした。二輪が待つ焚火までそう遠くないはずだ。
「次はいっしょに走ってみる」
女が後ろから声をかけてきた。
「ハーレー はハーレー 同志で走るもんだろ」
僕は振り向かず手を振った。
消えかけた矢印の看板まで結構な距離を歩いた。池のほとりまで来た時雷鳴が轟いた。
見上げた空は満天の星々がきらめいていた。