第三話「ラ・ボエーム」(全編)
日本で唯一の市立オペラハウスである、桜園シティオペラハウス。
プッチーニの名作オペラ「ラ・ボエーム」の制作が進む中、
「オペラ探偵」こと毛利さくらの相棒、有沢みなみは、
仲間達の未来、進む道、そして、将来の夢について思いを巡らせます。
貧しい中で精一杯、輝かしい明日を夢見て生きた、パリのボヘミアン達のように…
そしてそのオペラの舞台上には、
そんな若者たちの夢のように美しい、一枚の絵が飾られているのです。
「ラ・ボエーム」の開幕です。
「ラ・ボエーム」 1幕幕切れ前
外は冷えるよ
側にいれば大丈夫
で…帰ってきたら?
もう、知りたがり屋さんね!
プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」の1幕から2幕への舞台転換ほど、オペラの魔法を見せてくれる瞬間はないと思う。貧しいボヘミアン達が住む侘しいモンマルトルの屋根裏部屋だった舞台が、1幕のラストの愛の二重唱が終わり、休憩が明けて再び幕が上がるといきなり、クリスマスでごった返すパリの雑踏に変貌しているのだ。ゼフィレッリが作り上げた有名なMETの舞台セットは、二階建ての立体的でリアルな造形とそこに溢れる人、人、人の群衆達で見るものを圧倒する。そのまま本当にパリに通じているのではと錯覚しそうなくらい舞台の奥の方まで通じた街並みから、次々に登場してくる人々、クリスマスの売り子達、駆け込んでくる子供達、兵隊の隊列。2幕の幕が上がった瞬間に客席から起こる拍手は、そんな舞台の魔法への賞賛の拍手だ。
桜園シティオペラハウスの「ラ・ボエーム」初日。この日に起きた「事件」を思い出すとき、いつも私の心には、1幕ラスト、舞台袖で2幕の準備をしていたあの瞬間の光景が浮かび上がってくる。我々舞台方は、ミミとロドルフォのイチャイチャラブラブの愛の二重唱を聴きながら、休憩中に始まる魔法のためにスタンバイしている。私の側には児童合唱指導の香奈がいて、棒のように突っ立っている小さな女の子をぎゅっと抱きしめて、その耳元に何か囁いている。私の目の先にある舞台上を満たすのは、照明装置が作り出した人工の月明かりだ。その幻の光の中に一際美しく浮かび上がっているのは、ボヘミアン達の暮らす屋根裏部屋に無造作に置かれた、鮮やかな色彩に溢れる美しい一枚の絵なのだ。
桜園市立美術館とシティオペラハウスのコラボ企画「ラ・ボエーム」
12月の桜園シティオペラハウス公演「ラ・ボエーム」に合わせて、桜園市立美術館では、企画展「モンマルトルのボヘミアン達」が開催される。国内有数の19世紀末パリ美術コレクションである毛利コレクションから、ユトリロ、ロートレック、ラウル・デュフィなどの佳作を展示。一部の作品は「ラ・ボエーム」が上演される桜園シティオペラハウスロビーにも展示される。
(桜園市報から抜粋)
桜園市立美術館展示室 児童合唱練
「さぁ、行進だぞ!」と香奈が声をかけると、子供達がキャーキャー甲高い声を上げながら、ピアノの奏でる行進曲に合わせて行進を始めた。市立美術館展示室の中に大きな円を作ってぐるぐる回り始める。先頭に立っているのは音楽大学附属高校の合唱部の有志だから、私より上背のあるのっそりしたお兄ちゃんとかも混じっているのだけど、小さい子は本当に小学校3年生くらい。行進の輪は時にぶつかったり走り出したり喚いたり笑ったり、まさに宇宙の根源のようなカオスの様相を呈し始める。「はい、そのまま、その場で足踏み!笛を吹いたらストップね!」
ちょっと意外なくらい、子供達は香奈の声に合わせてピタッと止まり、その場で足踏みを始めた。笑い声は止まらないけど、足踏みのリズムはピアノの音に合わせてキレイにそろっている。そして香奈が笛をリズムに合わせて吹き鳴らし、いちにのさん、のリズムを刻むと、足踏みは綺麗に揃って止まった。おお、と思わず拍手してしまう。
「みんな上手!少し休憩して、歌詞の復習だよ!」
香奈の声にあわせて、再び展示室はカオスになる。「毎回こんな感じ?」と聞くと、ピアノを弾いていた小夜が、「こんな感じ」と笑った。香奈がピアノのそばに駆け寄ってくる。「有沢、何しに来たの?」
「美術館と搬入搬出の打ち合わせだよ」私は言う。「展示品のある公演の、ロビーとの連携学ぶのにいい機会だから、行ってこいって磯谷先輩に言われて。」
今回の「ラ・ボエーム」のように、美術館所蔵の本格的な美術作品がロビーに展示される、というのはあまり聞かないけど、オペラハウスのロビーに色んなものが展示される、というのはない話ではない。作曲家の直筆楽譜のような資料的な価値のあるものや、初演時の衣装、舞台美術のミニチュアやラフスケッチなど。資料の価値や形態に応じて、ガラスケースに封入してしっかり照明を入れて展示する場合や、立ち入り禁止ロープで囲う、テーブルの上に並べて自由に触れるようにして、持ち帰りだけを防ぐ、などなど、対応もさまざま。ロビー周りは受付スタッフの領分で、我々舞台方は普段あまり関わらないのだけど、搬入搬出の段取りなど、無関係ではいられない。
‥ということで張り切って打ち合わせに同席したのだけど、受付担当の野津先輩がキビキビ説明してくれた、オペラハウス側の持っている展示ケースの仕様や数、展示場所や展示方法など、正直半分くらいしか理解できなかった。私って徹底的に舞台裏の人間なんだなぁ。
「ここを練習会場にできるのもありがたいよ」香奈が言う。「大学のレッスン室とか、広い場所は競争率高いからさ。」
「そもそもシティオペラハウスは桜園音楽大学の施設を自由には使えませんからね」と私が言うと、「有沢、もう公務員みたいなこと言うなぁ」と小夜が笑う。桜園音楽大学はシティオペラハウスと強い協力関係にはあるけれど、市立の施設と私立大学の間で線引きをしないといけない部分は結構あって、練習会場の提供、というのはその最たるものだ。大学の施設が空いていれば、あくまで有料でオペラハウスが使える。学内オペラ公演はその逆で、オペラハウスが空いていれば、有料で貸し出してくれる。多少の大口割引などの制度は利用できるとはいえ、馴れ合いはなし。
市立美術館の展示室は小さなコンサートも開催できるかなり広いフリースペースになっていて、グランドピアノも一台備えてある。今回の「ラ・ボエーム」は、美術館とのコラボのおかげで、展示室が空いている時は無料で使用できることになっていた。「ラ・ボエーム」の見せ場の一つである、2幕のパリの雑踏で登場する児童合唱の練習に、早速ここが活用されているという事情。
「明日のアンサンブル練習は小夜になったんだよね?」と私が言うと、「愛子先輩の都合つかなくなっちゃったんだよね」と言う。「有沢、練習スケジュール関わってるんだっけ?」と聞いてくる。
「私は関わってないけど、毛利がさ。」
昨夜もそれでかなり長文の愚痴メッセージが届いて、しょうがないからビデオチャットでガス抜きしてあげたんだよな。確かにオペラ一本の練習スケジュール管理ってのは制作方の一番の頭痛のタネだ。オーケストラ、ソリスト歌手、合唱、香奈のような合唱指導者、指揮者、副指揮者、演出家、そして小夜や愛子先輩のような練習ピアニスト、いわゆるコレペティトゥアに至るまで、総勢100人規模の出演者やスタッフの予定を確認し、練習計画を作成する。練習計画表をメールした直後に、ソリストから、「その日は別の予定入れちゃった」なんて連絡が来て計画の組み直し、なんてこともしょっちゅう。
「毛利が練習計画作ってるのって珍しいね」香奈が言う。「いつも広報とか渉外じゃん。」
確かにその通りで、大抵の公演での毛利の仕事は、チラシやパンフレット制作や地元企業などのスポンサー回りが中心だった。毛利さくらがにっこり微笑めば、パンフレットの広告ページがびっしり埋まる、というわけだね。
「今回の公演は理事長の意向が結構強いらしくてさ」私は言った。「大学の広報からスタッフ来てるらしくて、毛利の出番ないらしい。」
「香奈はちゃんとスケジュール提出した?」小夜が言う。
「したけどさ」香奈が言う。「こっちも結構大変なんだよねぇ。子供たちのお稽古ゴトのスケジュール埋まりまくってるからさ。」
小夜はピアノ科、香奈は声楽科で、私と同じ学年で何度か学内オペラで一緒になってる。小夜はコレペティとして、香奈は歌い手として参加。香奈はソリストも張ったことがあるかなりの実力者だ。今回のオペラハウスの本公演では、小夜がサブのコレペティと、香奈が児童合唱指導のアルバイトという形で参加していた。学生のうちから本公演のスタッフとして関わる経験ができるってのが、我が桜園音楽大学の最大のウリだ。とはいえ、
「香奈が教育実習入るのいつからだっけ?」小夜が言う。
「ボエーム終わったらすぐだよ」香奈が言う。「それの準備もしなきゃなんだよなぁ。」
「私は先月終わったから気楽」小夜が言う。「せっかく余裕あるからさ。今回は記念に合唱で参加するんだ。むっちゃ楽しみ〜」
2人とも教職取って、そのまま学校の先生になるのかなぁ。香奈は歌の実力だけじゃなくて、子供達の扱いがすごく上手で、それもあって合唱指導の大賀先輩から直に、今回の児童合唱のサポート依頼されてる。小夜が手伝ってくれているコレペティという仕事は、普通のソロのピアノとは全然違って、歌い手の呼吸や言葉のさばき方を敏感に聞き取れる感覚が求められる。どちらも確かに学校の先生に求められる大事なスキルだと思うけど、オペラの現場にも欠かせない能力なんだけどなぁ。
「さて、練習再開するぞ!こら、床に寝転がるんじゃない!」香奈が子供達の群れの中に突っ込んでいく。
「ラ・ボエーム」開演1ヶ月前、スターバックスコーヒー
「コラボ企画ねぇ」と毛利がパソコンに顔を埋めるようにして言う。シティオペラハウスの向かいにあるスタバで、毛利と2人でコーヒー飲みながら色々情報交換。オペラを見に行く時以外の普段の毛利は、意外とシンプルなファッションが好きだったりする。今日も、黒のプリーツスカートに白い水玉模様入りの黒のブラウスというモノトーンの装い。ゴスロリ衣装はオペラを見る時のハレの雰囲気を演出するもので、普段から身につけてしまうと特別感がないのだそうだ。でも、こういう普通のファッションでも、なんとなく周囲から浮き上がって見える華やかなオーラが出てしまうみたいで、さっきから店内のお客様やスタッフがチラチラこっちをうかがっている気配がする。モデルさんかなぁ、とか囁いてるんだろう。
「面白いのは、展示される絵と同じ絵が1幕と4幕のロドルフォ達の部屋に置いてあるっていう仕掛けなんだよ」私が言うと、毛利はパソコンから顔を上げた。「どんな絵?」
「すごく綺麗な絵だったな。花畑の中でオーケストラが演奏しててさ。」
「『野外コンサート』」毛利が呟く。「ラウル・デュフィだね。青とピンクが綺麗だったでしょ。」
「そう」私は言う。「毛利の家にあった?」
毛利が頷く。「リビングに飾られてたよ。ピンクの色の中に花がいっぱい描かれていて、その中の一輪が特にお気に入りでした。美術館に寄贈したのは私が中学に入った頃かな。」
今回の展覧会で展示される美術品は、毛利のおじいさま、桜園音楽大学の先代理事長がお父様から受け継いだコレクションが中心になっている。既に市立美術館に寄贈されているとはいえ、今回のコラボ企画に理事長の意向が強く反映されているのもその辺りが理由だろう。
「美術館に移されてからは見てないなぁ。毛利コレクションって常設展示されてないからね。前回の企画展の時はロートレックが中心だったから、デュフィが展示されるのって、ひょっとしたら初めてかもしれない」パソコンの画面のエクセルを眺めながら、「オケリハどこでやるんだっけ?」と聞いてくる。
「美術館の展示室」私は答える。「でも面白い演出だと思わない?展示されている絵を描いた19世紀末の実在の画家と、オペラの中のマルチェッロが重なって見えることで、ボエームに出てくる若者達がすごくリアルに感じられる気がする。もちろん舞台用の複製なんだけどさ。綺麗な色彩がなんとなく目に焼き付いて、ロビーに出てくると、それと同じものが展示されてるっていうのが素敵じゃん。」
「なんか悔しいな」毛利がアイスコーヒーに手を伸ばしながら言う。「金もあって権力もあって知恵もある大人の力業って感じがする。」
「自分の親に向かって言うセリフですか」私は呆れて言う。
「ママは昔舞台演出家目指してたのよ」ストローから唇離して言う。「おじいちゃんも画家目指してたことあるって言うし、我が家はみんなそういう寄り道してから、結局は家業を継ぐの。」
言葉の中に自嘲のような響き感じる。毛利は時々、自分の家庭に対してこういう斜に構えた姿勢を見せることがある。「毛利は、オペラ制作の道に進みたいんでしょ?」
「私は一人娘だからなぁ」と、パソコンの画面をぼんやり眺めている。「若いうちは好きなことやれても、結局は、婿養子取って、家継げって言われるかもなぁ。」
香奈と小夜に会った時といい、最近、自分達の将来について考えることが多いなぁ。私は私で夢があるんだけど、毛利に言ったら爆笑されそうなぐらい実現可能性の低い夢なんだよな。表舞台で輝いてる毛利の方がよっぽどリアルな将来像見てる気がする。
「ショナールのオッさん、いつになったらスケジュール出してくんだよ!」綺麗な唇から聞くに堪えない悪態が続く。こっちをチラチラ見ている窓辺の男子高校生には聞かせられないなぁ。
「ラ・ボエーム」開演3日前 桜園オペラハウスロビー
ロビーに設置されたガラスケースの前に、ビジネススーツの美人が腕組みして立っている。「白川先輩」と声かけると、こっちに振り返って笑顔になった。「搬入口の駐車券、千葉さんから預かってきました。」
「磯谷今日来てる?」と聞かれて、「来てますよ」と答える。「今仕込みの仕上げ中だけど、30分くらいで休憩入ると思います。」
「じゃ、久しぶりに顔見に行くか」と笑顔。以前磯谷先輩が見せてくれた舞台写真の笑顔思い出した。白川先輩は磯谷先輩と同期で、声楽科で頑張ってた立派な声のアルト歌手だったそうだ。「蝶々夫人」のスズキとか、「イル・トロヴァトーレ」のアズチェーナとかの老け役専門だったけど、最近実年齢と外見がやっと近づいてきた、って磯谷先輩が言ってたな。
「やっぱりちょっと無理して展示ケース持ち込んでよかったわ。配置が楽だし、何より安心」白川先輩が言う。「ここにデュフィがいいかもね。天井が高くなってるから解放感があっていい。あっちの天井の低い場所にはロートレックがいいでしょう。ユトリロとモリゾはどうしようかな。」
「白ミキが美術館員になるとは思ってなかったねぇ」と、磯谷先輩が言っていたのを思い出す。「在学中から美術に興味あるとは思ってたけどさ。学芸員とかじゃなくて、事務職らしいけど、好きな絵の側にいたいって、なかなかない転身だよねぇ。」
「白川先輩は絵がお好きなんですね」って声をかけると、「好きなんだよねぇ」と、手元の図版を見ながら言う。「19世紀美術が一番好きでさ。オペラも同じ時期に発達したから、共通してると言えばそうなんだけど、まぁ大学で勉強したことはほとんど関係ないことばっかりだな」と笑う。
「学内オペラとか、役に立ってないですか?」と聞いたら、私の顔をじっと見つめた。「関係なかったから役に立ってないかっていうと、それは違うと思うな」と言う。
「どんなことでも、一つのものを作り上げるプロセスとか、その成果をどう評価して、次につなげるか、とか、全部一緒だからね。便利な道具みたいなもんよ。お箸って、色んなお料理に使えるじゃん。洋食でも和食でも、お箸が一膳あれば食べられる。そういう道具を身につけるのに、役に立たないことなんかない。どんなに寄り道に見えてもね。」
「ハサミとかの道具を身につけるみたいな」私が言う。
「そうそう。『磯谷とハサミは使いよう』」白川先輩が言う。
「磯谷先輩に伝えておきます。」
「ラ•ボエーム」初日 開演前 桜園シティオペラハウス前
「今日のテーマは?」ため息混じりに聞くと、「普通に19世紀末パリかな」と毛利が言う。「ベルエポックのS字型シルエットはちょっと大人っぽ過ぎるかなって。でも本当迷うよね。19世紀末パリのファッションどれも最高だからさ。」
ということで、「ラ・ボエーム」初日の毛利の衣装は、シルエット自体は割とシンプルな鮮やかな青を基調にしたワンピース。でもヒロインのミミが、ロドルフォからボンネットをプレゼントされる、という大事なエピソードはしっかり取り入れて、額の上に大きく張り出した薄いピンクのフリル付きボンネットでガツンとゴージャス感を出している。ワンピースの上に羽織ったボレロは鮮やかなブルーで、アールデコ風に単純化された草花の刺繍が銀糸で綴られていて、縁取りのフワフワの白い毛が暖かそうだ。ワンピースの方もただのワンピースではない。世紀末パリを彩った様々な可愛い意匠が、クラシックなデザインのフレームに収まって幾つも並んでいて、よく見ると華やかな色彩のルドンやルノワール、モネやデュフィ、シャガールなどの19世紀末絵画のモチーフも散りばめられている。全体の図柄が華やかな分、襟元はシンプルな白のレースにブラウンの細いリボン、ベルトもシンプルなブラウンでキュッとまとめて、白のタイツと赤い編み紐付きのパンプスが足元を引き締めている。そしてブラウスの袖口と手を包むのは、柔らかそうな真っ白いマフ。これも最終幕、ミミがプレゼントされるマフへのリスペクトだな。
「今日は客席から見るから、あんまりシルエットが膨らんじゃうのは避けたんだ」と毛利が言うから、「珍しいね」と言った。初日は桟敷席で見る、というのが毛利の基本なのに。
「桟敷席はママが使うって」毛利が言う。ママって、理事長か。ますます珍しいじゃん。桜園音楽大学理事長、毛利華江が、学校外のイベントに顔を出すなんて、あんまり聞いたことがない。
「デュフィの絵が出展されるんだから、行きたいって言い出してさ」毛利が言う。「理事長が客席で、理事長の娘が桟敷席ってわけにはいかんでしょう。」
「一緒に見ればいいのに」と言うと、ちょっとそっぽ向いて、「やなこった」と呟いた。あんまり人の親子関係に首突っ込まない方が良さそうだ。話を変えよう。「2幕の舞台セット、期待しててね。METまでは行かないけど、かなり頑張ってるからさ。」
「うっす」と笑顔。「無事を祈る。」
でも、今回も毛利の祈りは届かなかった。
「ラ・ボエーム」開演前 直前リハーサル 舞台上
頭上で起きた大きな音と悲鳴に、奈落にいた私がギョッと顔を上げた時、さっきまで隣でパリのカフェのテーブル片付けてた磯谷先輩は、もう舞台上に通じる階段を駆け上がっていた。慌てて後を追いかけて、上手袖に飛び出すと、ビジネススーツの白川先輩が呆然と舞台上を見つめていた。周りにいるのは19世紀末のパリの衣装をつけた合唱や児童合唱の出演者で、そこに純現代風にビジネススーツの白川先輩が立ってるのがすごく違和感があるなぁ、なんて、全然関係ないことを考えた。非常事態が起きると、人間変なことを考えるもんだよなぁ。
舞台上に集まった群衆の真ん中に、2幕に出てくるパリの街灯がぶっ倒れている。それを引き起こしている舞台方の側から、パリの街娘姿の香奈が立ち上がった。両腕に女の子を抱えている。「どいて!」と叫ぶなり、上手袖から猛然と楽屋に向かって駆け出していく。抱えている女の子だって中学生くらいの結構大きな子なのに、軽々と運び去っていく姿が男前過ぎて、ちょっと見とれる。いかん、また余計なこと考えてる。
「お姉ちゃん!」と泣き声上げながら追いかけていく女の子の背中を見送って、そっちを追いかけようか、と歩み出すと、「有沢!」と磯谷先輩が声を上げた。半分悲鳴のような声。慌てて舞台の中央、さっき街灯が倒れていた場所に駆け寄ると、磯谷先輩が呆然とセットの壁際に置かれた絵を見つめていた。絵、ではない、絵であったもの。
「『野外コンサート』が」磯谷先輩が呟いた。「やられた。」
磯谷先輩と私がいる舞台上は、1幕のボヘミアン達が暮らす屋根裏部屋のセットだ。当日午前中、本番直前の返し稽古で、3幕、2幕、4幕、1幕、と抜き稽古をやる段取り。それであれば最後は1幕の舞台セットの状態で開演をむかえられる。2幕の抜き稽古がおわり、小休憩の間に、4幕、つまり屋根裏部屋のセットに場面転換の作業中だった。
「合唱の人が街灯の電源コードに足引っかけちゃったらしいです」舞台上にいたマルチェッロさんが言った。「街灯が倒れかかる所に児童合唱の子がいて、なんか、かばおうとして一人怪我しちゃったみたいで。」
「有沢、角材持ってきて!」磯谷先輩が尖った声で言いながら、絵の残骸をかき集め始めた。「はい!」と舞台袖に駆け出しながら、急に涙出そうになる。磯谷先輩は、あの破壊された絵を、ガムテと角材で開演までに修復する気だ。街灯の先端に、木枠ごとグシャグシャに破壊されてしまったあの絵。
華やかな色が夢のような『野外コンサート』の絵を。
時間がない。舞台袖に集積してある角材の中から、丁度いいサイズのものを選んで振り返ると、磯谷先輩が舞台袖に、絵の残骸を抱えて駆け込んでくる。舞台上は4幕への転換がほぼ完了している。千葉さんが下手の操作卓からこっちに走ってくる。
「抜き稽古始めるぞ。そっちは任せたからな」言うなり、下手に駆け戻る。磯谷先輩が絵の残骸を広げ、角材を裏に当て始めた。なぐりを腰から引き抜く。「有沢、あんた、子供の様子見てきてくれるかい?」
「はい」頷いて立ち上がった。間に合うか。いや、間に合わせるんだ。現実には存在しない夢の世界を舞台上に作り上げるのが私たちの仕事だ。壊れたものだって、すぐに元通りに直してみせる。
私たちは、舞台裏の魔術師だ。
私は楽屋に向かって駆け出した。「4幕抜き稽古始めます!」千葉さんの声がホールに響いた。
「ラ・ボエーム」開演前 直前リハーサル 演出卓
「結奈は歩けそうにないんで」香奈が演出卓の真ん中に座った幹代先生に向かって言った。「妹の珠里に隊列の先頭やらせます。家で姉妹で練習してたんで、段取り完璧入ってるんです。」
「結奈ちゃん、ソロは歌えるの?」幹代先生が言うと、香奈は頷いた。「私がおんぶして入場します。いけると思います。」
幹代先生は一瞬、香奈の顔をじっと見つめたけど、それ以上何も言わずに、舞台上に視線を飛ばした。舞台上に、磯谷先輩が応急措置した『野外コンサート』の絵が置かれている。緑と青とピンクの鮮やかな色彩の中で、オーケストラが楽しげに演奏している絵。侘しい屋根裏部屋の中で、そこだけが、若いボヘミアン達の未来を寿いでいるような明るさで、それが今回のコラボ企画の一つの目玉でもあった。はずだった。
今、舞台上に置かれているのは、何だか「夢の残骸」のように見える惨めな絵だ。破壊されたカンヴァス枠を裏から角材で補強し、絵の裏からガムテで、カンヴァス布の破れた場所を補強してあるのだけど、一旦引き裂かれてしまった無数の傷跡が、客席の中央にある演出卓からもはっきり見える。磯谷先輩の精一杯の魔法でも、ここまでだったか。
「あの絵は諦めるしかないな」幹代先生が呟いた。「磯谷さんに、ありがとうって伝えてくれる?よくやってくれたって。」
悔しいけど、仕方ない。明日以降なら、オリジナルの絵の画像データを拡大してポスター印刷したもので代替できるだろうけど、流石に開場まで1時間切っている今の時点では難しい。私は頷いて、舞台裏の関係者控室でへたり込んでいる磯谷先輩にどう伝えようか、一瞬考え込んだ。その時、舞台上から声が響いた。
「幹代ちゃん!」
会場の隅々まで響き渡る、オペラ歌手のような輝きのある声。ステージの真ん中で、濃いブルーの色合いのパンツスーツの女性が傲然と立っている。ブルーのスーツの襟には花束を思わせる七色のジュエリーに輝くブローチが飾られていて、スーツの下のブラウスの襟を飾るフレアに細かい銀糸の刺繍が舞台照明を反射してキラキラ光っている。シンプルなシルエットなのに、ただ立っているだけで漂うゴージャス感。舞台袖にいる白川先輩が、何だかオロオロとこちらを窺っている。
「これ使いなさい!」と、ステージの中央に立った圧倒的なオーラを纏った女性が、自分の足元からひょいと絵を掲げてみせた。幅130センチくらいあるかなりのサイズの絵なのに、この人が持つと随分小さく見える。そして、その額の中に溢れる鮮やかな色彩。
「華江、本気?」幹代先生が立ち上がって叫ぶ。なんだろう、客席の幹代先生とタイマン張ってる感じ。下手に2人の間に立つと、バチバチ弾ける火花で一瞬で灰にされそうだ。
「いいのよ。私の絵だから。」
言うなり、舞台上の女性はクルッと踵を返し、セットに置かれた磯谷先輩の必死の修復作品を片手でひょいとどかした。舞台袖からバネじかけの人形みたいに飛んできた白川先輩の手にそれを渡すと、自分が持ってきた絵を同じ場所に置く。
「幹代先生、ひょっとして、あの絵って」私はやっと事情を理解し始めた。
「ロビーに展示する絵持ってきやがった」幹代先生が珍しくあまり品のない言葉遣いになる。顔に浮かんでいる苦笑い。「みなみちゃん、ちょっとロビーの様子見てきてくれる?展示コーナーどうする気なんだ、あの女。」
舞台上を見ると、紛れもない、毛利さくらのママ、桜園音楽大学理事長、毛利華江その人が、自分が置いた絵を少し離れて見ていた。そして、ちょっとセンター寄りに場所を移す。「幹代ちゃん、この場所でいい?」そう言って、自分は少し袖の方に移動する。
「カンペキだよ」幹代先生が、演出卓に座り直して、マイク越しに言った。舞台上に置かれた鮮やかな色彩が、数センチ動いただけで光を増したように見えた。
ロビーに出ると、空っぽの展示ケースの前の床に毛利が這いつくばっているのが見えた。人の形をした巨大な花のよう。「何してるの?」
振り返った毛利の目がピンクの可愛いボンネットの下で血走っている。「そこのポスタル取って!」
足元に転がっているピンクのポスタル取って手渡す。毛利が這いつくばっている床の上には模造紙が広げてあって、その真ん中に「野外コンサート」のカラー写真が貼ってある。その写真の上に、毛利の手書き文字で大きく、
「本日、特別展示!舞台上にご注目下さい!」の文字が踊っている。なるほど、これを展示ケースに貼り出す気だな。
「理事長から頼まれたの?」私が聞くと、肩から流れ落ちる黒髪をかき上げて頷いた。「悪い、髪ゴム持ってる?」
私は自分の髪をまとめている髪ゴムを外した。毛利の華やかな衣装にはあまりに似つかわしくない普通の黒の髪ゴムだけど、仕方ない。毛利がポスタル持ってる右手側に髪がこぼれ落ちないように、左側に髪を集める。透きとおるような白いうなじの少し下で髪をまとめてあげた。その間も、毛利はずっと手を動かしている。「ママから急にLINE来てさ。『野外コンサート』を舞台に上げることになったから、展示コーナー何とかしろって。なんだかよく分からないお知らせ文だけ送り付けてさ。無茶苦茶だよなぁ。」
「美術館側は承知してるのかな」私が言うと、「白川先輩恫喝したんでしょ」と言う。自分の母親を反社会勢力の人みたいに言うなぁ。「毛利コレクションは、美術館に寄贈したわけじゃないのよ。管理のために長期貸与してるっていう整理になってて、まだ所有権はウチにあるの。だからどう使おうが自由だし、何があっても誰も責任は問われないって理屈ね。」
「舞台上で白川先輩オロオロしてたよ」って言うと、大きな文字の周りにお洒落な飾りを描いていた毛利の手が一瞬止まった。「白川先輩、舞台側にいるの?」
「午前中からいたね」私は言った。「事故の時にも舞台にいたし。」
「さくらさん、開場30分前です!」受付からスタッフの声がして、毛利の手が猛然と模造紙の上を走り始めた。「じゃ、私は舞台に戻るよ」って言ったら、振り返りもせず、左手のサムアップだけの返事。こっちは毛利に任せて、私は持ち場に戻らねば。
「ラ・ボエーム」第一幕
でもね、雪が溶ける時が来たら、
初めての太陽は私のものなの!
四月が最初にキスをするのは私なのよ!
鉢植えの薔薇も芽吹きだす。
一枚一枚の葉を覗いてみる。
花の香りは本当に優しいの!
でも、私が作る花には、ああ!香りがないのよ。
貧しいけれど、夢に溢れた若者たちが共に暮らす屋根裏部屋。仲間たちが街に繰り出した後、一人残って文章を書き綴る詩人のロドルフォを訪ねてくるのは、お針子のミミだ。つましい暮らしの中で、近づく春の予感に高鳴る胸の鼓動を歌うミミ。ロドルフォじゃなくっても、このミミに恋しない男なんかいないだろう。そして二人の傍らには、画家のマルチェッロが描いたのだろう輝かしい色彩の絵が置かれている。ミミの目に浮かぶ春のパリのよう。でも、その花の絵には香りがないんだなぁ。
舞台袖には、2幕に登場するパリの群衆役の合唱陣が次第に集まってくる。パリの少女の姿をした小夜が側に寄ってきた。「あれ、展示されるはずだった絵なんだって?」と囁いてくる。頷くと、「綺麗な絵だよねぇ」と言うなり、急にポロポロ涙をこぼし始めた。な、何事だ?
「だって、ミミがかわいそうじゃん。春の日差しは私のものって歌ってさ。あの絵みたいに綺麗な春が来る前に、病気で死んじゃうんだよ。ロドルフォと春を過ごすこともできずにさぁ。ひどくない?」と言って、また涙をポロポロこぼす。あんた、どこまで心がキレイなんだ。
「小夜、また泣いてんの?」と、香奈がやってきた。「怪我した子、大丈夫?」と囁くと、しっかり頷く。「大丈夫。私がしっかり支えて歌わせて見せるさ。私の筋肉を信じなさい」と、力こぶを作って見せた。
「それより、白川先輩、あっちの椅子で頭抱えてたけど、大丈夫?」と、香奈が言う。まぁ頭痛くもなるわな。120年前に描かれた価値ある絵が、その他の大道具と一緒に歌い手さんの足元に無造作に置かれてるんだから。ボヘミアン達が家主のベノアさんを追い出すシーンとか、握りしめた両手の指の関節真っ白だったもんなぁ。
「香奈先生」小さな子が香奈のそばにきて囁いた。「どうした?」と香奈がしゃがみ込むと、耳元で何か囁く。香奈が、ちょっと厳しい表情になって、上手袖の奥に歩き出した。ロドルフォを呼ぶボヘミアン達の合唱が聞こえる。
モミュス、モミュス、
我らが詩人が詩を見つけたようだぜ!
香奈が戻ってきた。小さな女の子の手を引いている。俯いていて、顔がよく見えない。パリの子供の衣装をつけた、児童合唱の子だな。
「珠里、見てごらん」香奈が座り込んで、女の子を後ろからぎゅっと抱きしめながら言う。「舞台の上に照明が当たってきれいでしょう。次の幕ではもっときれいになる。ここがパリの街になる。そこで、珠里がみんなの先頭に立って歩くんだ。」
「ムリ」女の子が半ベソかきながら言う。
「結奈姉ちゃん、練習の時、カッコよかった?」香奈が言う。
女の子は頷いた。
「みんなに褒められてたか?」香奈が言う。こっくり、また頷く。
「珠里だって、上手にできるのにって、悔しくなかった?」
女の子は固まっている。香奈が女の子を抱く力を強める。
「珠里の方が上手にできるよって、思わなかったかい?結奈姉ちゃんばっかり褒められるの、悔しいって思わなかった?
「珠里、あんたの方が上手にできるかもしれない。結奈姉ちゃんも、ママもパパも、珠里すごいなぁって言ってくれるかもしれない。」香奈は女の子の頭をキュッと撫でる。「あんたを守った結奈姉ちゃんがくれたせっかくのチャンスだ。珠里ならできる。結奈姉ちゃんをびっくりさせてやろう。お姉ちゃんが悔しがるくらい、上手にやってやろう。」
「香奈は子供乗せるの上手だなぁ」駆け出していく後ろ姿見送って、私が言うと、「あの子はね」と香奈が言った。「お姉ちゃんへの対抗心とか、負けん気強いから、そこを刺激してやると途端に気合入るのさ。いい子だよ。
「子供はいいよ。分かりやすくて」香奈は言う。「私、学校の先生って天職だと思うんだよなぁ。どこの学校でもいいから、なんとか潜り込めないかなぁ。」
そうか。突然気がついた。香奈は別に、オペラ歌手になれないから先生になろうとしてるんじゃない。先生になりたくて、そのために必要なことを、オペラ舞台から学んでいるんだ。
私の大好きなオペラ舞台。この夢の舞台に関わる人は、みんなこの舞台を仕事にしたがってるって思い込んでた。そんなわけない。人がなりたいもの、将来の夢は様々だし、そこに優劣なんかない。自分がどこかで傲慢だったのかもって、ちょっと顔が赤くなった。
下手袖中で、ミミとロドルフォの二重唱が終わり、幕が静かに下がってくる。ため息をつくような短い間の後に、客席をゆっくりと拍手が包む。下手袖で磯谷先輩がスタンバイしているのが見える。さあ、舞台裏の魔法使いの出番だ。
「ラ・ボエーム」1幕〜2幕 幕間
千葉さんがセリの上に立つよりも一瞬早く、上手袖から脱兎のように飛び出した白川先輩が、野外コンサートの絵の側に駆け寄った。絵を抱え込むように持つと、千葉さんに向かって頷く。千葉さんが下手操作卓へ指示を出すと屋根裏部屋のセットがゆっくりと奈落へ沈んでいく。その前に、下手側の扉からミミが中を伺う踊り場のセットは、既に磯谷先輩の手で切り離され、下手袖の方に移動している。
奈落は千葉さんが行くのか、とちょっと不安になった。あの絵があるなら仕方ないか。本当なら、舞台上の転換仕切って欲しい所なんだけど。
磯谷先輩が、千葉さんの代わりに舞台転換を仕切る。屋根裏部屋のセットの裏、ホリゾント幕の間に仕込まれたパリの街角の大階段を、磯谷先輩と私と転換スタッフで、奈落に張り出すようにセットする。セットの下にタイヤが仕込まれているので4人くらいでも軽く動く。ストッパーを後方につけて、五寸釘をなぐり(トンカチ)で打ち付けて床に固定。オペラハウスの床にはこうやってセットを固定した釘の穴がいっぱいだ。それを見るたび、ちょっと切ない気分になるのは私だけかな。
舞台上手袖と下手袖から、そして舞台奥から、それぞれに舞台中央に向かって押し出してくるのは、カフェ・モミュスのセットや、階段の両側に迫り出してくる遠景の建物の書き割り。これだけ奥行きが出るのも遠近法のマジックだよなぁ。お騒がせの元凶になったパリの街灯を出しながら、2度と誰かが引っ掛けないように、電源コードを養生テープでセットの裏側に固定する。舞台上の構造物は全て転換しやすいように仮置きになっているけど、出演者の安全を守るために必要なことをしっかりやらねばならない。それを怠ったから、事故が起きた。
奈落からセリが上がってきて、カフェ・モミュスのテーブルや椅子がわんさと乗ってくる。千葉さんが両手に椅子を抱えて合流する。舞台上はもうすっかりカルチェラタンの通りだ。お客様が拍手してくれること間違いなし、もし拍手が出なかったら、拍手することも忘れるほどの出来栄えだったってことで。
楽屋に合唱のスタンバイ確認しに走った時、スマホに毛利のメッセージ見つけた。「悪い、忙しいと思うけど、できたら電話くれ」
「どうした?」楽屋の香奈にスタンバイ確認して、すぐ電話すると、「悪い、一つ確認したいんだ」と毛利が言う。
「午前中の抜き稽古の舞台に、白川先輩がいたんだね?」
「いたよ」私は答える。何が引っかかってるんだ?
「2幕の転換の時も?」毛利が言う。
「いたよ。千葉さんと一緒に奈落に降りてった。」
「奈落」と、毛利は繰り返した。「有沢。一幕を客席から見てて、確信したことがある。多分間違いなく、今回の公演の裏で、全然別の企みが進行している」毛利が言った。企み?
「そして多分、その企みの1番の被害者は白川先輩だ」毛利が苦々しげに言う。「白川先輩をいじめた悪者を成敗せねば。」
「誰のことだよ」私が言うと、「我が母君である」と言った。何で急に時代劇?
「ラ・ボエーム」第2幕〜第3幕
私が一人で街を歩いてると
みんな立ち止まって私を見るの
綺麗だなぁって、私を隅々まで眺めるの
頭から足の先っぽまで…
「ラ・ボエーム」の舞台は冬のパリ。舞台の上は全幕を通して、寒々とした冬景色に終始する。それなのにこのオペラの全編に横溢する生命力はなんだろう。若者達はそれぞれの今を本当に精一杯生きて、楽しんでいる。冬の先に訪れる春を信じて。
「ラ・ボエーム」には魔法も神様も出てこない、19世紀後半のパリを必死に生きている若者たちの青春が描かれる、いわゆるヴェリズモオペラの典型。だけど、だからこそ、演出と舞台裏は色んな工夫や稼働を強いられる。リアリズムを追求するにせよ、道具を抽象化した人間ドラマにするにせよ、中途半端は許されない。
祝祭的な雰囲気に満ちた第2幕から、雪の降りしきる第3幕の関所のシーンへの転換でも、客席から拍手が起きた。躍動から静謐。舞台を覆う雪景色は、若者達が生きる世界の厳しさを表して冴え冴えと冷たい。でも、ロドルフォとミミ、マルチェッロとムゼッタの2組のカップルの4重唱の熱量の高いこと。
春が再びやって来たなら
また太陽は僕らの友だ。
泉も、夕方の風も、
僕らにささやくだろう
痛い目にあわせてやろうか、
お前が他の男といちゃついてるなら!
なんで私に怒鳴るのよ、
あんたと結婚したわけじゃないわ!
熱っぽく愛を語り、あるいは大げんかを繰り広げる4人の若者の上に絶え間なく降りしきる雪。私はその雪を降らせている雪籠に繋がった綱を持って、時々それを揺らす。私の手は天の手。小さな舞台の上の小さな人工の世界の中で、愛することにも喧嘩することにも全力で命の炎を燃やしている若者たちに、静かに白い慈悲の雪を降らせる。触れても決して冷たくない、紙で作られた幻の雪でも、今この瞬間、この場所は間違いなく、19世紀末のパリの青春のひとときだ。
「3幕も雪籠係で手が離せないなら、チャンスは4幕の間だね」スマホの向こうで毛利は言った。「その時間なら大丈夫?」
「全然大丈夫だけど」私は言った。「でも、白川先輩が先に奈落に降りちゃうかもよ。」
「大丈夫。その時には大事な絵は舞台上にあるから」毛利は言った。「犯人グループのメンバーはそれぞれの場所に足止めされて動けない。そこで自由に動けるのは、有沢みなみ、君だけだ!」
「あんた、なんか楽しそうね?」私が言うと、毛利は、「だって我が母君の鼻をあかしてやれるんだもーん、うひひひ」と言った。うひひひって、本当に文字通り笑う笑い声を初めて聞いた気がするな。
「ラ・ボエーム」終演後
マリア様、私は
あなたに許される価値のない女です。
でも、このミミは、
天から舞い降りた天使なのですよ
「奈落って寒いんだなぁ」毛利が言う。
「コンクリートむき出しだからねぇ」私は答える。「空調も切っちゃったし。私の職場環境は決して楽園ではないのだよ。」
2人して、終演後の奈落に身を潜めて、毛利の言う所の「犯人グループ」の登場を待ち受けている。終演後、ロビーに溜まっていたお客様の前で、恭しく展示ケースにデュフィの『野外コンサート』が収められた。さっきまで舞台上に置かれていた絵がケースに収まった瞬間、なんとなくロビーに拍手が起きたのは、今日限りの特別企画が成功した証だろう。
そんなロビーの群衆もいなくなり、熱気はすっかり冷めて、舞台上も明日の公演の準備を終え、関係者も退館し終わっている。人がいると思われないように奈落の電気も消しておいた。オペラハウスはもう静かな眠りについている。それでも、
「あいつらは必ず来るよ。それも、オペラハウスの搬入口からのゲートが閉まる前に、しらっとやって来る。今日中に片をつける気でいるはずだから。」
そういう毛利の言葉を信じて、私と毛利は奈落の暗がりにいるわけだ。非常口の案内ライトだけがぼんやりと照らす奈落に置かれているのは、カルチェラタンの通りに並ぶカフェのテーブルや椅子。毛利はその椅子の一つに腰掛けて、暖かそうなマフに手を突っ込んで身を縮めている。「有沢、もうちょっと近くに来てよ」と毛利が言う。
荷物を持って毛利のそばの椅子に座ると、立ち上がってこっちの膝の上にフワッと腰掛けた。私の自由な片手を握って、マフの中に引き込む。あったかいなぁ。
「なんて冷たい手」毛利が言う。ミミの手に初めて触れたロドルフォのアリアだな。
「毛利、髪ゴムつけたままだよ」目の前に毛利の白いうなじが見えて、私が言うと、「髪まとめてた方がミミっぽくてよい」と毛利は言う。「お針子さんっぽいって、常連さんにも評判良かったよ。」
その時、奈落の明かりと空調がついた。誰かが電源を入れたのだ。舞台袖に通じる階段から、複数の足音が聞こえる。毛利が立ち上がって、ちょっと名残惜しそうにマフの中の私の手をぎゅっと握って、そっと放した。
「誰かいるの?」階段の途中で立ち止まった人影が言った。
「出たなドロンジョ!」毛利が言った。「あんたの企みは、この毛利さくらが丸っと全部お見通しだ!」
「誰がドロンジョだ」階段から降りて来たゴージャス美女が言った。毛利華江理事長。毛利のママその人だ。「小娘風情が、一人前の口を叩くようになったわねぇ。それにネタがちょっと古くない?」
「ママの年に合わせてあげたのよ」毛利さくらが言い返す。「阿部寛大好きじゃん。」
「年の話をするな」理事長が言う。「ボヤッキー、この目障りな小娘をやっておしまい!」
「誰がボヤッキーだよ」階段の上から頭をかきながら降りて来たのは、千葉さんだ。「さくらちゃんは何でもお見通しだから、隠し通せるわけないって言ったでしょ?」
理事長が口をとがらせた。いたずらが見つかって拗ねてる子供みたいだ。なんだか可愛くって思わず苦笑いしてしまう。「お二人がお探しなのは、これですよね?」手にした大きな荷物を見せる。4幕のうちに奈落に降りて、壁際に隠してあったのを見つけておいた。幅130センチほどのカンヴァスに描かれた、鮮やかな色彩の絵。
「デュフィ作、『野外コンサート』」と、私は言う。「の、偽物ですね。今ロビーの展示ケースの中にある本物そっくりに描かれた。」
「模写って言うんです」階段の上から、白川先輩の声がした。白川先輩が来るかどうかはちょっと分からないって毛利は言ってたけど、やっぱり最後まで見届けに来たんだな。これで当事者が全員揃ったわけだ。
「さて」毛利さくらが腕組みをして言う。「始めましょうか。謎解きはオペラの後で。」
「大体、最初から変だなぁって思ってたのよ。ママがこんなにオペラハウスの本公演に入れ込むなんて、今まで全然なかったから」毛利さくらが、椅子に座った理事長を見下ろして言う。理事長は口を尖らせてそっぽ向いたままだ。
「舞台にデュフィを使うなんて、演出にまで口出してさ。なんか企んでるんじゃないかなって思ってた時に、白川先輩が当日の朝から舞台袖にいたって聞いて、引っかかったのよ。」
「私が?」白川先輩が呟いて、理事長の視線を浴びて身をすくめる。
「白川先輩はそもそも美術館側の人間なんだから、舞台袖に行く必要なんかないのよ。それも当日の午前中に。白川先輩の立場なら、前日の夜からロビーに展示されている絵の所に真っ先にきて、そのまま張り付いているはずなの。何より絵の大好きな白川先輩が、わざわざロビーの絵から離れて舞台袖に行くってことは、誰かに呼び出されたか、そこに別の絵があったか、その両方か。
「その時、舞台上でデュフィの絵を使うっていうアイデアが頭の中で結びついたの。ひょっとして、舞台上で本物の絵そっくりの絵が飾ってある、という演出の発想自体が、本当のデュフィそっくりの絵がもう一枚あることから発想されたんだとしたら。もし、当日の午前中、舞台の方に、そのもう一枚のデュフィの絵があったとしたら。午前中から白川先輩がその絵のために呼びつけられたとしたら。呼びつける人間は一人しかいないし、そんな絵を持ち込む人も一人しかいない。毛利華江理事長以外にはね。
「空になった展示ケースに張り出す模造紙には、展示される予定の『野外コンサート』の絵の写真図版が添えられていた。穴の開くほど見て、はっきり分かったの。この『野外コンサート』は、私の知ってる『野外コンサート』じゃない。そっくりだけど、微妙に違う。そして一幕の舞台上に置かれた絵を客席から見て、確信した。」
「デュフィの『野外コンサート』が2枚ある。本物と、そっくりな模写と」私が説明を引き継いだ。「そして、美術館に収められていて、今回ロビーで展示される予定だったのは、模写の方だった。今回のコラボ企画の本当の目的は、美術館に誤って収めてしまった模写の絵を、デュフィの本物に入れ替えることだったんですね?」
「誤って収めたわけじゃないのよ。もっと悪質な確信犯」ため息混じりに、理事長が口を開いた。「おじいちゃんでしょ」毛利さくらが言う。
「デュフィの真作を自分の手元に置いておきたかった、なんて殊勝なこと言ってたけど、絶対嘘よ。美術館の人達が、自分の描いた模写に気づかないのを見たかったのよ。自分の技術が、デュフィ並みだってことを証明したかったんでしょ。」
「じゃあこの絵は」私は手にした色鮮やかな絵を見つめる。どこから見てもデュフィの絵にそっくり。そのものだ。
「そう。毛利徳治、私の父が画家修行中に完成させたもの。私の目で見ても、本当によく描けてるし、我が家のリビングにかけてあったこの絵が、私は大好きだった。美術館に寄贈するって聞いて、ちょっと残念だったけど、父の言う通りにしたのよ。デュフィじゃなくて父の絵で、真作は我が家に置いてあったなんて、全然知らなかった。」
「おじいちゃん、去年入院した時に白状したんだね」毛利は言った。
「さすがに気が弱くなったんだろうね。自分が死んでから真作が出てきて大騒ぎになったらどうしようって、やっと気がついたんでしょう。そんなの最初から分かってんじゃんねぇ。バッカじゃないの」いつも生徒の前で品よく立派なスピーチしてる理事長が悪態つくのを見るのは新鮮だなぁ。しかし、ざっかけない喋り方が毛利さくらそっくりだ。親子だなぁ。
「美術館に今更ごめんなさいって言うのもできれば避けたいって思った時に、オペラハウスで入れ替えることを思いついたんだね。千葉さん巻き込めば何とかなるって。」
「巻き込むとか、言い方悪いじゃん」理事長が言う。「協力してもらったのよ。ねぇ、ボヤッキー?」
「だから誰がボヤッキーだっての」千葉さんが言いながら笑顔になる。「でも楽しかったよ。久しぶりに姫の演出する舞台手伝ってるみたいでさ。」
「姫?」私が言うと、千葉さんはまた笑顔になった。「大学時代のあだ名だよ。」
「千葉さんとママは桜園音楽大学舞台芸術総合科の同期生なの」毛利さくらが言う。「ついでに言えば、幹代先生も。まだこのオペラハウスが建つ前のね。」
「姫の舞台演出は面白かったんだぜ。割とアドリブ重視でさ。ガッチリ作り上げるタイプの幹代ちゃんとは違うタイプだけど、2人とも天才だった。家業継ぐって聞いた時はもったいねぇなぁって思ったよ。」
「こっちの方が全然面白いって気づいたのよ」理事長が言う。「現実世界を演出できるんだから。」
「千葉さんを巻き込んだ時点で、絵の入れ替え自体はかなり簡単なことに思えたでしょう」毛利さくらが続ける。「千葉さんはオペラハウスの全部の鍵を利用できる立場だから、オペラハウス内の展示ケースに絵が収納されてしまったあとに、事前にオペラハウスのどこかに持ち込んでおいた真作と、展示ケースの中のおじいちゃんの模写を、閉館後にでも2人でこっそり入れ替える。それで終わり。でも、そもそも『野外コンサート』がロビーに展示されないとどうしようもない。それで、舞台上に同じ絵が飾られてる、という演出を思いついた。」
「いいアイデアでしょ?」理事長がテストの成績褒めてほしい子供みたいな声を出す。「幹代ちゃんだって褒めてくれたんだから。それ面白いなぁって。」
「全て上手くいくはずだった。でも、誤算が生じた」毛利さくらが言う。「確かに、この誤算さえなければ、この件はママの思ったとおりに無事に済んだでしょう。公演前日の夜の間に、展示ケースに収められた絵が入れ替わっていた、というのなら、私だって気がついたかどうか分からない。子供の頃よく見ていた絵と少し違っていても、家に戻ってきたおじいちゃんの絵の方を見せられて、こっちが飾ってあったんだと説明されれば納得してしまったかもしれない」そして毛利は、白川先輩の方を向いた。「白川先輩、貴女が誤算だったんですね。」
白川先輩がカメみたいに首をすくめた。理事長はその姿を見て微笑む。「全く、市立美術館もいい事務職雇ってるよね。まさか、オペラハウスの展示ケースじゃなくて、美術館から自分達の展示ケース持ち込むとは想定してなかった。」
「オペラハウス内の展示ケースならオレが鍵を使える」千葉さんが言った。「でも美術館持ち込みのケースの鍵は、白川さんが自分で管理していた。オレも迂闊でさ。展示ケース持ち込みって事前確認しときゃよかったんだけど、夜のロビーで展示ケースの鍵開けようとして初めて気がついた。手も足も出なくて2人して途方に暮れたよ。」
「ごめんなさい」と白川先輩が消え入るような声で言って、毛利さくらが、「白川先輩は被害者ですよ、謝る必要なんかカケラもないんです!」と声のトーンを上げる。「美術館から手間かけて展示ケース持ち込んだのも、美術品の管理と展示に責任取りたいって言う誠意じゃないですか。悪党はこの2人です!」
「おっしゃるとおりでございます」理事長が言う。「ごめんなさい。許してください。」
「ホントに反省してるの?」毛利さくらが言うと、白川先輩が慌てたように口を挟んだ。「いいんです。そもそも、カタログを鵜呑みにして現物のチェックを怠ったキュレーターの方に責任があるんです。今朝入館するなり、千葉さんにここに連れてこられて、理事長から本物の絵を見せられた時から、私もこの件に協力しなければって思ったんです。」
「素晴らしい」理事長が拍手をする。「市立美術館、キュレーターはヘボいけど事務員は優秀。」
「その優秀な事務員の誠意を利用したくせに」と毛利は言って、理事長の前に仁王立ちになる。「とりあえず、初日の展示はおじいちゃんの絵を展示するしかない、そして、初日の夜に、白川先輩に展示ケースの鍵を開けてもらう、という段取りをつけた後に、偶然の事故が起きた。舞台上の絵が破壊されてしまうっていう事故。そこで、おじいちゃんの模写を舞台上で使おうっていうアドリブが生まれた。思いついたのはママだと一瞬思ったけど」と、毛利さくらは少し言葉を切った。
「このアイデアをママに提案したのは、白川先輩、貴女ですよね?」
白川先輩が毛利さくらを見上げる。その視線の強さに、私は少し驚いた。いつも真面目で優しい白川先輩がこんな顔するんだ。
「たとえどんなに素晴らしい絵でも、卓越した技術で描かれた模写でも、真作の名前を名乗った瞬間にそれは贋作になってしまうの」白川先輩は言った。「展示のために、貴女のおじいさまのこの絵を見た時、私は単純に感動した。それがデュフィの絵だと思って見たからかもしれない。でも、今こうやって見てもやっぱりとっても素敵な絵だと思う。技術も色彩感覚も、オリジナルのデュフィに肩を並べるレベルに達してる。」
白川先輩は、私の足元にある「野外コンサート」を愛おしげに見つめた。「たとえ1日だけの展示であったとしても、デュフィの作品ですと名乗って展示されたら、その瞬間からこの絵は贋作になってしまう。理事長から話を伺った時に思ったの。何とかこの絵を、贋作ではない、毛利徳治という画家が描き上げた優れたデュフィの模写作品として、あなたのお家に帰してあげられないかって。この絵はそうやって、毛利家の人々にずっと愛されるべき絵だって。」
みんなの視線が、毛利のおじいちゃんの模写の絵の上に集まる。生きる喜びを色んな色が声を上げて歌っているような、華やかな色彩の「野外コンサート」。
「でも、どうして私のアイデアだって分かったの?」白川先輩が言うと、毛利はにっこりして自分のスマホを出した。そこに表示された文章を読み上げる。「本日、特別展示!舞台上にご注目下さい!」毛利が展示ケースに張り出した模造紙のお知らせ文だ。
「若者達の夢のような色彩が19世紀のパリの街で音楽と共に歌い出します。本日限りの絵画と音楽のコラボレーションを舞台の上で確かめてください。」
読み終わって、毛利は白川先輩に向かって微笑む。「この文章には、デュフィも、『野外コンサート』も、オリジナルの作品に関する言葉が一言も出てこない。展示されるべき絵が舞台上にある、ということをお知らせする文章にしては情報量が少なすぎる。うちのママなら絶対に書きそうにない文章。この文章を考えた人は、舞台上の絵がデュフィの絵だって言いたがってないような気がしたの。あれは違う絵ですよって言いたいみたいな。」
「舞台上に置かれたとしても、デュフィの絵を名乗ってしまえば、客席のお客さまに対してこの絵は贋作になってしまうから」白川先輩が言う。
「白川さん、本当に貴女、うちの学校の事務に来てくれないかしら」理事長が嬉しそうな声で言う。「今の2倍の給料出すわよ。」
「ごめんなさい、私は学校経営より美術が好きなので」白川先輩が申し訳なさそうに答える。千葉さんが脇でくつくつ笑っている。「姫の思い通りにならないこともあるわな。」
「うるさいトンズラー。」
「誰がトンズラーだよ。」
「2幕への場面転換で、普段舞台上にいる千葉さんが、白川さんと一緒に奈落に降りてったって聞いて、本物の絵は奈落に隠してあるって分かったの」毛利が言う。そろそろ謎解きの仕上げだ。「場転の中で本物と模写を入れ替えて、4幕の時に舞台上に置かれているのは入れ替わった後の本物。流石にこれだけ注目集めたら、そのまま舞台上から展示ケースに本物を移動させた方が自然だし。」
4幕が始まってすぐ、奈落で模写の絵を確認した私が、上手袖に戻ってきたら、白川先輩は今にも気を失いそうな風情でガタガタ震えながら舞台上を見守っていた。ボヘミアン達の決闘ごっこのシーンで、パンの剣で襲いかかってきたコルリーネに、ショナールが壁にあった別の絵を盾に防戦し始めた時は、そのまま卒倒するんじゃないかと思うほど血の気がひいていた。可哀想に。
「でも、確かにいい演出だったね」毛利さくらが理事長に向かって言う。「ミミが死んだ後、完全暗転の一瞬前に、絵の上にだけスポットライトが残ったでしょう。あれは泣けたなぁ。若者達の未来は輝いてる。でもそこにミミはいない。」
白川先輩が、ウッと言って目頭を押さえる。この人も心キレイなんだなぁ。
「楽しかったなぁ」理事長が言った。「久しぶりに千葉ちゃんとワイワイ色んな仕込みの相談してさ。幹代ちゃんと舞台の話してさ。学生時代に戻ったみたいだった。」
「また舞台演出家に復帰したい?」毛利さくらが言うと、理事長は笑って首を横に振る。「私はね、さくら。舞台演出家になれなくて家を継いだんじゃない。音楽大学の理事長になりたくて、家を継いだの。あなたや、みなみちゃんや、白川さんや磯谷さんみたいな若い人達が、オペラから色んなことを学んで巣立っていく。こんな楽しい仕事ないよ。
「貴女は家を継ぐ責任なんか感じなくていい。自分がやりたいこと、叶えたい夢に向かっていけばいいの。その夢を実現するのに、この理事長の地位が必要なら、いつでも譲ってあげる。家とか地位とかを目的にしちゃダメ。それは全部、叶えたい夢を実現するための手段に過ぎないんだからね。」
桜園シティオペラハウス正面
叶えたい夢か。
理事長の言葉を思い返しながら、毛利さくらとシティオペラハウスの外に出る。理事長と一緒に車で帰ればいいのに、有沢と一緒に電車で帰る、と言って、ゴージャスな19世紀のお針子さんが隣にいる。一度ゴスロリ衣装の毛利と電車で一緒に帰って、乗客にサイン求められた事があったな。モデルか芸能人と間違われたみたいで。
「寒い」毛利が言う。「あったかいもの飲みたい。」
「スタバ入る?」と聞くと、首を横に振った。「それだと腰すえちゃう。缶コーヒーでいい。ちゃっと飲んで、ちゃっと帰ろう。」
「じゃあコンビニに寄るか」私が言うと、毛利は頷いて先に立った。「お腹もすいた。チョコレートパン食べたい。」
オペラハウスの前の階段の途中に2人で座って、缶コーヒー飲みながら5個入りのチョコレートパンを2人で分けた。ほろ苦さと甘さが口の中に広がるコラボレーションが絶妙。
「そういえばさ」私はふと、気になっていた疑問を口にした。「おじいさまの模写と、デュフィの本物と、どこで見分けたの?私には全然分からなかった。」
「ピンクの色が広がってる中に沢山お花が描かれてるでしょ?」毛利は飲みかけの缶コーヒーをマフの中に入れて握りしめている。マフが汚れるぞ。
「おじいちゃんの模写には、あの中に一輪、ちょっとだけオリジナルより濃く描かれてる花があったの。花の形もオリジナルとはちょっと違う。よく見ないと分からない程度なんだけどね」毛利は微笑んで、缶コーヒーを一口飲んだ。
「子供の頃、絵を指差しながら、これは何?って、描かれてるものをおじいちゃんに聞いたの。子供ってそういうこと、よくやるじゃん。これはチェロだよ、これはコントラバスだな、とか言ってくれて、その花を指差した時、『これはさくらだよ』って言ったんだ。『これはさくら。お前の花だよ』って。」
「いい話じゃん」チョコレートパンを口に放り込んで、私は言った。
「いい話でしょ」毛利が、手にしたチョコレートパンの端っこをかじりながら言った。「あの絵、またリビングに飾りたいな。」
「有沢」と、毛利が呟くように言った。
「何?」
「叶えたい夢って、ある?」
毛利も同じこと考えてたか。
「あるっていえばあるけど」私は唸るように言った。「それこそ夢物語だからなぁ。」
「聞きたい」毛利が言う。「有沢の夢。」
「‥毛利は夢があるの?」あまりに気恥ずかしくて言葉に詰まって、毛利にボールを投げ返す。
「いっぱいあり過ぎてわけわかんないなぁ」毛利は言う。「有沢とオペラ舞台一緒に作りたいし、やりたいオペラいっぱいあるし、桜園シティオペラハウスで海外公演やったりさ。有沢と一緒にスカラ座とか行きたい。」
「私が一緒じゃなくていいじゃん。飛行機あんまり得意じゃない。」
「有沢と一緒がいいの!」毛利が唇尖らせてると、「お二人さん、こんな所で何してるのおおお!」とでっかい声が階段の下から聞こえた。「香奈?小夜も?」
香奈は「うほほ〜」とか、よく分からない叫び声上げて階段駆け上がってくる。「お、いいもんみっけ!」と、私と毛利の間にあったチョコレートパンをつかみ上げた。
「こら、それは私のものだ!」毛利が立ち上がる。
「もう食っちゃったもーん」
「戻せコラ!」
じゃれあってる2人を見上げながら、階段を降りた。「香奈、酔っ払ってる?」
「飲んでるのもそうだけど、レセプションで、みんなの前で、幹代先生にベタ褒めされてさ。舞い上がってるの」小夜が呆れ顔で言う。
「ベタ褒め?」
「足怪我した女の子いたでしょ?結奈ちゃん。」
あの子をずっと背負ったまま、舞台上で合唱パートを歌い切った香奈の体力と、背負われた状態でしっかりソロを歌い切った結奈ちゃんの頑張り、突然の代役を演じ切った妹さんの演技、そしてもう一つ、香奈の決断を激賞されたのだそうだ。
「原作では元気のいい子供がおもちゃが欲しいって駄々をこねるソロなのよ。でもそれを、おんぶされている怪我した子供が歌うことで、逆境の中でささやかな幸せを望むミミ達ボヘミアンと、パリの子供の境遇が重なる演出になったって。幹代先生が、自分では思いつかなかった素敵な演出を、香奈ちゃんが舞台に取り込んでくれたって。ありがとうって。」
「そりゃ舞い上がるね。」
「月まで舞い上がりますよ。」
ほんとうだ、今夜の月も綺麗だなぁ。
「小夜は、香奈みたいに、学校の先生になるの?」って、月見ながら聞いたら、「いや、私はピアノで食っていく」と、さらっと言った。
「今回の伴奏で、マルチェッロさんが指導してる合唱団の伴奏ピアニストに来ないかって言ってもらえたんだ。安定収入確保しないとだから、ピアノ教室の看板かけて生徒さん募集したり、大手の音楽教室の講師の口探したり、色々大変だけどね。うちは実家にレッスン室がある分恵まれてるんだよ。そこに生徒さん呼べるから。」
すげえ、むっちゃリアルに、卒業後のライフプラン描いてるじゃん。
私の夢。私の夢かぁ。
毛利と香奈は、階段の上で、なぜかあっち向いてホイをやり出している。最後のチョコレートパンを巡って勝負してるのかな。その様子を見ながら、小夜がケラケラ笑っている。私たちの上には星が輝く冬の夜空が広がっていて、冴え冴えと冷たいけれど、澄み切った明るい月の光が私たちを照らしている。
綺麗だなぁ。まるでオペラの舞台みたいに綺麗だ。今から100年以上前、パリの空にもこんな風に月が輝いていて、若者たちが夢を語ってたのかなぁ。
「有沢、泣いてるの?」小夜が声をかけてきた。そんなわけない、私は、小夜や白川先輩みたいに心きれいな人じゃないのに。
毛利と香奈が階段から降りてくる。毛利が、私の頬に、マフから出した手のひらをあてて、流れる涙を拭ってくれた。なんて温かい手。
「毛利」私は言った。「私の夢はね」今なら涙の勢いを借りて言える。
「この桜園市で、音楽祭を開くことなの。」
言いながら恥ずかしくなって笑ってしまう。「ザルツブルク音楽祭や、バイロイト音楽祭、メルヴィッシュ湖上音楽祭みたいなさ。街中が何週間も音楽で一杯になるんだ。桜園市の色んな公民館やホールで、次々色んなコンサートやオペラが上演されて、街の公園でも野外コンサートが一杯あって。シティオペラハウスは毎週、週替わりでオペラをやる。世界中から一流の音楽家や声楽家も集まるし、地元や日本中の音楽家も集まる。クライマックスは、桜園スタジアムでの野外オペラ公演。」
「ヴェローナみたいな」毛利が呟く。
「そう。桜園スタジアムを満杯にして、全国、全世界からオペラ愛好家が集まってくる。そんな音楽祭を、この桜園市で、毎年開催する事ができたら。」
私たちの街が音楽に満たされる。あの野外コンサートの絵のように、街中で奏でられる音楽は、この街を鮮やかな音の色彩で染めるだろう。
「すげえ」香奈が言う。「野外オペラ公演は絶対児童合唱付きの演目にしてよ。児童合唱のあるオーケストラ曲の演奏会とかもあるといいな。マーラーの千人とかさ。」
「千人やっちゃったら野外オペラと張り合っちゃうじゃん」小夜が言う。「でも3番とかはいいかもね。オペラは『カルメン』とかかなぁ」
「桜園スタジアムでやるなら、『アイーダ』もいいかも。サッカーファンに馴染みもあるし。」
「弦楽アンサンブルもいいなぁ。桜園音大の講堂とか、レッスン場とかも会場にしてさ。」
何、こいつら。私のこんな夢物語に、なんで乗っかってくるのさ。こんな夢物語、実現するわけないじゃん。
「バッカじゃないの!」毛利が言い捨てた。香奈も小夜も、口をつぐむ。そりゃそうだ。本当に馬鹿みたいな、実現不可能なあり得ない夢。香りのない花の刺繍のように儚い夢だ。
「大手のスポンサー付けて、桜園市の政治家動かして、日本の音楽界の偉い人たちにもネゴして、世界中のプロモーター達に話つけて、スケジュール調整して出演交渉して」毛利さくらが言いながら階段を昇っていく。昇るにつれてどんどん声が大きくなる。そりゃそうだよな。「ラ・ボエーム」の出演者のスケジュール調整なんて比較にもならない。
「そんなバカバカしい夢」毛利は階段の上で振り返った。「こんなにバカバカしくって、こんなに最高にワクワクして、最高にキラキラして、こんなにガンガンに燃えてくる夢、実現できるのは」と、髪を結んでいた髪ゴムを左手で取った。サラサラの黒髪が月明かりの中にぱあっと広がる。
「この毛利さくら以外に、いないじゃないのよ!」
毛利さくらの家に行くと、リビングの暖炉(毛利さくらの家のリビングに暖炉がないはずはない)の上に、あの「野外コンサート」が飾ってある。毛利徳治23歳の時に製作された精巧な模写。華やかな色彩で、リビングの空気をぱあっと明るくしているこの絵を見るたびに、私の頭には、あの夜、月明かりを浴びて階段の上に仁王立ちになって私を見下ろした、19世紀末のパリのお針子風ゴシックロリータ衣装の毛利さくらの姿が浮かんでくる。「有沢みなみ、あなたを共同プロデューサーとして指名する!」と、偉そうに私に向けた左手の薬指に、私があげた髪ゴムが巻き付けてある。なんだか面映いような高揚感でその姿を思い出すたびに、私はその毛利さくらの姿に向かってこっそり囁きたくなるのだ。
毛利、薬指にそのゴム巻くのはやめてくれ。それじゃ結婚指輪みたいじゃないか。
(第三話「ラ・ボエーム」 幕)
@onefiveのMOMOさん(森萌々穂さん)とGUMIさん(有友緒心さん)にインスパイアされた「オペラ探偵」のシリーズ、やっぱりラストは、@onefiveの四人全員が揃って欲しいなって思って、KANOさん(藤平華乃さん)とSOYOさん(吉田爽葉香さん)にもご登場いただきました。BGMはもちろん、@onefiveの名曲、「缶コーヒーとチョコレートパン」。
MOMOさんにゴスロリ衣装着せてみたい、という、最初の動機からどっぷりヲタ小説なんですが、自分なりの理想のオペラハウスの中で、大好きなオペラを題材に、昔から書きたかった、誰も悪い人がいない、誰も人が死なないミステリーを書く時間は、もう楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。こんな至福の時間をくれたさくら学院と@onefiveにただただ感謝です。
「オペラ探偵」のシリーズはこれで一旦完結。続編の予定は全くありませんが、毛利さくらが、「私の話をもっと書きなさい!」と言ってきたりする未来がもしかしたら訪れたり…しないか。
ここまで読んで下さった方がいらっしゃったら本当に嬉しいです。皆様の毎日と、さくらの子達の日々が、笑顔と素敵な音楽に溢れていますように。ありがとうございました。