表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一話「椿姫」(全編)

日本で唯一の市立オペラハウスである、桜園シティオペラハウス。

ここで上演されるオペラ舞台で起こる「事件」に挑むのは、

「オペラ探偵」こと毛利さくらと、舞台裏スタッフアルバイトの有沢みなみ。

今日の「事件」は、ヴェルディの傑作「椿姫」の舞台裏で起こります。

美少女探偵コンビは無事に「事件」を解決して、全てを大団円に導けるのか?

「椿姫」の開幕です。

序曲〜オペラ探偵 毛利さくらの美学〜


毛利さくらには美学がある。

頑なに守られるその美学のおかげで、彼女はシティオペラハウスの客席で、色鮮やかなアゲハ蝶のように一際目立つ。

オペラハウスの常連の中には、密かに彼女目当てに来場している隠れファンもいると聞く。

だが、毛利さくらがそんな人々の噂話や好奇の視線を気にするはずもない。

今日も彼女は、自分の美学を貫いて、桜園シティオペラハウスの上手の桟敷席に、背筋をしゃん、と伸ばして座っている。

劇場を包み込む豊穣な音楽の響きに包まれ、滑らかな頬をうっすら桃色に染めて。

華やかな舞台の色とりどりの照明ライトの照り返しに、大きな瞳をキラキラ輝かせながら。

今日も、明日も、おそらく明後日も。



幕前劇その1 桜園シティオペラハウス前階段


「蔵本先生お休みか…」ため息混じりに呟いた。

駅前広場につながる幅広の階段の登り口に設置された公演ポスターの掲示板。今日、その前に立って、今の言葉を呟いた人は、きっと私だけじゃないと思う。掲示板に張り出された大判ポスターには、大きく書かれた「椿姫」の飾り文字が踊っている。背景になっているのは豪奢なシャンデリアの下がった19世紀風のボールルームに、煌びやかな衣装の貴族達が立ち並ぶ舞台写真。その下に並ぶ出演者の顔写真の中で、とりわけ大きなプロフィール写真は、燕尾服に大きな紫の蝶ネクタイを締めた白髪のオジサンだ。こちらに向けられた鋭い視線。その下には、「音楽監督・指揮 蔵本稔」と、これまた他の出演者より2回りくらい大きな活字。そしてそんな華々しいアピールを自分でも恥ずかしいと思ったのか、随分控えめな小さな赤文字のシールが、写真の胸元あたりに遠慮がちに貼ってある。

「本日体調不良にて代理指揮者となります」


「楽しむの、楽しむのよ。ただ快楽に巻き取られて…」階段の方から歌うような声がする。

「払い戻しチケットどれくらい出るかな…」と、私が呟くと、階段に座っていたスミレ色の花がふわり、と立ち上がる。

「そはかの人か…」スミレ色の花が続ける。「逆にワクワクしてるお客様もいるんじゃない?これで真谷先輩が華々しくデビューすれば、私たちは歴史的瞬間を目撃できる。」

にっこり微笑むスミレ色の女。階段の上から駅前広場を見下ろすその姿は、たった今ファンタジーアニメの世界から現実世界に舞い降りてきた妖精みたいに周りから浮き上がって見える。つややかな黒髪をまとめているのは、光沢のある真珠をあしらった紫のカチューシャ。白のレース襟にゆったりと広がる白い袖、胸元を飾る大きなスミレ色のリボン。その中央には真っ青なジュエリーが輝いている。胸元もリボンと同じスミレ色の生地だが、装飾は最小限でシンプルにまとめて清楚感は保ちつつ、金色の飾りボタンでゴージャス感は欠かさない。腰のあたりにもスミレ色のリボンがあしらってあり、リボンからスカートの裾に向かってオーガンジー生地がふんわりと広がって、スカートを柔らかなドレープで包む。そして何より目を射るのは、スカートの裾に施された一面に咲き乱れるスミレの花だ。一つ一つの花弁にキラキラ光るラメ加工が施されていて、七色の光の花畑を纏っているような豪華さ。輝くスミレの花畑を綺麗に見せるためにスカートがふっくら膨らんでいるのは、下にしっかりパニエを仕込んでいるからだろう。ほっそりした足を包むのはやはり薄紫のタイツ、靴は白に薄い青のリボン付きのパンプスですっきりシンプルに仕上げている。

「今日はスミレがテーマなのね?」私はため息混じりに言う。

「ありがちだけどね」と、毛利さくらは、私、有沢みなみの前で、くるりと回ってポーズを取った。長いサラサラの黒髪が、鮮やかなすみれ色のゴシックロリータ風衣装の上に無数の光の輪を広げる。「あえて他の色にすることもないだろうし」と言って、にっこり微笑む大きな瞳。ちょっと悔しいけどこいつ、やっぱり見とれるほど綺麗だな。


オペラは可能な限り、華やかな衣装で見る。

それが毛利さくらの美学で、それに多少本人の2.5次元的趣味も加わって、毛利さくらはシティオペラハウスの公演を、必ずゴシックロリータ風の衣装で観劇する。そして、桜園音楽大学の理事長家の一員、という特権を遠慮なく行使して、理事長がキープしているオペラハウスの上手の桟敷席に陣取る。ゴスロリ衣装が違和感なく似合ってしまう美貌も手伝って、私が通う桜園音楽大学舞台総合芸術学科の同級生の中でも、否が応でも注目の的になっているこのオペラマニアの女が、一般中流家庭出身で平凡度で一二を争ってる私みたいな地味子になんだってやたらと絡んでくるのか、未だによく分からない。


「オペラハウスはね、客席に入った瞬間から既に非日常でなければいけないの。19世紀に大衆化されたと言っても、やはり当時もオペラハウスは上流階級の社交場だった。桜園市立シティオペラハウスは、客席にお客様が足を踏み入れた瞬間から非日常を演出しなければいけない。私のこの衣装はオペラハウスの経営陣のスポンサーシップも付いてるのよ。」


初めて彼女にオペラハウスに誘われた時、待ち合わせの場所に真っ赤なゴシックロリータ衣装に赤い薔薇をあしらったカチューシャをつけて登場した彼女は(ちなみにその晩の演目は「カルメン」だった)、私に向かって豪然とそう言い放った。私もそれなりに気張ったお嬢様ワンピースで臨んだのだけど、桟敷席から舞台を睥睨する真っ赤なバラに変化した毛利さくらの隣では、バラの茎に取り付いたアブラムシ程度の存在感しかなくて、客席から自分の姿が見えないように桟敷席の壁際にびったり貼り付いていた。今でも闘牛士の歌を聴くと、あの時の自分の火照った頬の熱さと、それを冷やしてくれた桟敷席の壁の感触を思い出す。


「あのさ」と、毛利が言った。急に声が小さくなる。

「終演後、ロビーで待ってるからさ。一緒に写真撮らない?」

語尾が消え入るように小さくなって、視線が斜め下に落ちる。さっきこれ見よがしにモデルターンしてた時のオーラがしゅるしゅるっと消えていく音がしそうだ。

「このカッコの私と?」と、自分を見下ろす。ジーパンにスニーカー、黒Tシャツに黒のスタジャン。スタジャンの背中には、SAKURAZONO CITY OPERAHOUSEの青いロゴ。黒Tシャツの胸元には、真っ赤な文字で、La Traviataと染め抜いてある。まさに絵に描いたような舞台裏方スタッフの出立ち。

「そのカッコがいいんじゃん!」毛利が口を尖らして言う。そんなにムキになることかな。

「せっかくなんだから、舞台裏に来て、ヴィオレッタさんとかアルフレードさんと撮ればいいじゃん。あんたならフリーパスでしょ。」

「理事長家の特権振り回すのは美しくないって有沢言ってたじゃん。」

「でもこんななりの私とじゃ写真の時空歪むぜ。」

「スタジャン姿の有沢と撮りたいの!」ちょっと甲高い声に、階段を上ってきたおばさま達がこっちを見上げた。日差しを浴びて動く宝石みたいに煌めいている毛利を見て目を丸くしている。毛利のピスクドールみたいな透き通った頬にみるみる血潮が上がってくるのが分かる。何に照れてるんだろう。時々毛利は私に対してこういう急激な人格交代を見せる。毛利さくらの第二形態。意味がよく分からない。とりあえず、終演後にロビーで待ち合わせる約束をして、ご機嫌を直していただく。階段を駆け下りながら見上げると、にっこり微笑んでこっちに手を振った。異世界ファンタジーの貴族の城に転生したみたいな眩暈。



幕前劇その2 オペラ「椿姫」開幕前


楽屋口の入館予定者名簿にチェック入れてたら、「みなみ、おっはー」と、磯谷先輩が声かけてくれた。「ケータリング来てるから、頼むわ」と言われて、関係者室にカバン放り込んで楽屋に向かうと、廊下にセットされたテーブルの上に弁当の入ったビニール袋が積み上げてある。午前中に出演者が出したゴミの清掃と、お昼の弁当配りからスタート。まぁ、舞台スタッフの一番下っ端アルバイト学生に相応しい仕事だね。


桜園市に、日本で唯一の市立オペラハウスを設立しよう、という構想は、市が持っていた多目的ホールの改装と桜園音楽大学の誘致のタイミングが合致した所がスタートだったと聞いている。そこそこ首都圏に近くてベッドタウンとして発展はしていたけど、他の似たような郊外都市と比較してさほど特徴のなかった桜園市の行政に、オペラハウスのある街、として売り出していくのは如何ですか、と売り込んだのが、毛利さくらの祖父にあたる桜園音楽大学の当時の理事長。そりゃ桟敷席の年間チケット押さえるなんてのはチョロいよね。


とはいえ、市の限られた財源では、欧州のオペラハウスや、新国立劇場に比肩できるほどの立派なオペラハウスを作るわけにもいかなかった。客席は最大650席、オーケストラピットを設営すると最大540席。講演会などの多目的ホールとしても使用できるようにホール機構に妥協を重ねた結果、効率より高級感を重視した構造は最小限に抑えられ、桟敷席は上手下手にそれぞれ2箇所ずつ、とてもささやかに設置されている。それでも、限られた予算の中で日本唯一の施設を作り上げようという熱意のもとに落成したこのシティオペラハウスは桜園市民の誇りだし、桜園市の小中学生の音楽鑑賞の授業で、このオペラハウスの公演を見に行かない生徒はいない。


そして私が、舞台スタッフ、という職業を選んで、その技術を学ぶために、桜園音楽大学舞台総合芸術学科、という進学先を選んだのも、小学校五年生の時に見たオペラ舞台に脳天に突き抜けるような衝撃を受けたせいだ。演目は「愛の妙薬」で、典型的なオペラブッファの楽しい笑える舞台だったのに、私は1幕のアディーナのアリアから号泣し始めて、周囲の同級生や引率の先生が心配して声をかけてくるくらい、終幕までずっとボロボロ涙を流し続けていた。ドゥルカマーラが大団円を寿ぎながら去っていく祝祭的なフィナーレに拍手しながら、私は誓ったのだ。この舞台を作り上げる人になると。


指揮者楽屋のドアが開いていたので、ドアの脇の柱をノックがわりに叩く。「失礼します」と声をかけて、弁当片手に入ろうとすると、中から豪快な笑い声がしてちょっとのけぞった。「元気だよ。元気は元気なんだよ。がははは。」

一人がけの椅子に座ってふんぞりかえって大笑いしている白髪の背中。その向こうに、真谷先輩がホビット族かと見まごうばかりに小さく固まっているのが見える。目の前でガハガハ笑っている白髪オヤジを三白眼で睨みつけている。視線でこいつが殺せるものならと思っているような恨みがましい目線だけど、元々の童顔のせいで、コツメカワウソみたいな小動物がヒグマを威嚇しているみたいにしか見えない。

「しょうがないでしょ、ほら、指がね、なんかピリピリ痺れるんだよねぇ。昨日もさ、2幕の途中あたりでこりゃヤバいなぁって。指揮棒持ってるのも辛い感じでね。」

「打ち上げの時のビアジョッキは軽々持ってらっしゃいましたよね?」真谷先輩が地の底で喋っているような声で言う。

「そうねぇ、不思議だよねぇ。やっぱりストレスかなぁ。がはははは。」

「みなみちゃん!」真谷先輩が急に声のトーン上げて、そおっとお弁当を置いて立ち去ろうとした私は飛び上がった。「お弁当そこに置いたら、このクソジジイの頭、私の代わりにぶっ叩いてやってくれないかな?」

「ひどいなぁ。みんなのアイドルみなみちゃんが困っちゃてるじゃんねぇ。がはははは。」ジジイ、と言われた白髪頭が振り向いたのを見て、私は目を剥く。「蔵本先生?お休みじゃないんですか?」

「そう。今日はお休み。でも暇だからさ。可愛い弟子の顔見に来たの。ほら。もう血の気引いちゃって紫色になっちゃって、これが本当のヴィオレッタ、なんちゃって、がはははは。」心底楽しそうに笑ってる。がははははって、小説なんかで笑い声の描写で使う言葉だけど、本当に、がははははって笑うのを聞いたのは蔵本先生が初めてかもしれないなぁ。

「みなみちゃん、この悪魔を裏のゴミ捨て場に捨ててきて」真谷先輩が真顔で言う。

「今更楽譜にかじりついたって遅いのよ。スコアなんか見なくっても、隅から隅まで全部頭に入ってるでしょ?そのちっちゃい頭の中にさ」蔵本先生がよっこらせ、と掛け声をかけて立ち上がる。「まぁ、僕があげた折角のチャンスなんだからね、僕の名前に傷付けないように、しっかりやってちょうだい。」

ひとしきり、がはははは、と笑ったあと、頭抱えている真谷先輩のつむじのあたりに、ポン、と手のひらを置いた。おっきな手のひら。「大丈夫。あんたならできる。この中にある、あんたの椿姫、僕は大好きだよ。」

蔵本先生がガハガハ笑いながら出ていく背中を私は呆然と見送る。オーケストラメンバーらしい黒服の男性に話しかけられて振り返った蔵本先生が、また大口開けて笑っているのが見える。

「何しに来たんだクソオヤジ!」真谷先輩が吐き捨てるように言う。言いながら、自分の頭の上に手を置いた。蔵本先生の手のひらの感触確かめるみたいに。


「その師弟漫才、私も見たかったなぁ」磯谷先輩がお弁当をかき込みながら呟く。

「蔵本先生、全然元気そうでしたよ」私が言うと、「仮病に決めってるじゃん」と磯谷先輩が、鳥の唐揚げ突き刺したお箸を私に向けながら笑った。「毎回のことよ。全公演の中の一回は、なんのかんのと理由をつけてお弟子さんに代振りさせるんだよ。そうやって本番経験を積ませるの。でもまぁ、正直言うと、広報部には評判悪い。」

まぁそりゃそうだろうな。蔵本先生目当てに来るお客様だって多いし、代振りの指揮者が必ずしも有能とは限らない。むしろ師匠の作り上げたアンサンブルを崩すまいとして、安全運転のつまらない演奏になることも多いだろう。

「とはいえ、若い世代への先行投資だよって先生も言うし、成功例もいくつかあるからねぇ。武藤さんとか中元さんとか、代振りの舞台でファンがついたケースもあるし。」

そういうところも、このシティオペラハウスならではなんだろうな。代振りの指揮者の多くは、桜園音楽大学指揮科の出身で、シティオペラハウスでの学生公演の頃から地元の固定客に目をつけられている人もいる。指揮者だけじゃなく、歌い手をはじめとする演奏家達を、桜園市全体で育てていこうって言う空気感がある。地元密着型のオペラカンパニーのメリットだ。

「真谷先輩大丈夫かなぁ」私が呟くと、磯谷先輩も深く頷く。「大丈夫だと思うよ。オペラハウスの連中はみんな、ゆづちゃんのサポーターだもん。彼女が学生の頃からみんなで見守ってきたんだからね。」

磯谷先輩もね、と言うと、ちょっと照れたみたいに笑った。磯谷先輩はまさに、桜園音楽大学舞台総合芸術学科の初期の卒業生で、このオペラハウスで舞台裏を学び、舞台スタッフとして色んなホールで経験を積んで、この春、シティオペラハウス付きの舞台スタッフとしてホームに戻ってきた生え抜きだ。磯谷先輩を見守ってきた年配のホールスタッフさんも多い。そして、そんなホールスタッフ達みんなが、同じように学生の頃から見守ってきたのが真谷先輩。


「大学卒業公演の時の真谷先輩のフィガロは伝説になってる」毛利さくらの声を思い出す。「先輩が弾くチェンバロでレチタティーヴォを歌う歌い手が、楽しくてたまらないっていうキラッキラの声で歌うんだ。大学オケがあんなに輝く音を鳴らしたのを初めて聞いた。

「でもね」と、毛利は付け足した。「あのフィガロ以上の舞台はそのあと作れてない。真谷先輩の指揮はそつがないけど、そんなにワクワクしない。そろそろ殻を破って欲しいって、蔵本先生も思ってるはずだね。」

毛利さくらは、私と同じ舞台総合芸術学科の学生だけど、舞台裏スタッフを目指す私と違って、オペラを中心とした舞台制作のプロデューサーになるのが夢だと言った。彼女の家柄からすれば決して夢物語じゃないだろう。ビジネスとして舞台を見ることもできる彼女なりに、真谷佑月という指揮者を商品としてシビアに見ている。


磯谷先輩ともっともっと話したいけど、我々舞台裏スタッフにお昼休みなんてあってないようなものだ。食べ終えた弁当のゴミをどこに捨てればいいか、みたいな私でも答えられる質問や、演出の小道具のセッティングとハケるタイミングといった、舞台の流れを把握している磯谷先輩みたいなステマネクラスの裏方でないと対応できない質問まで、色んな人が、この、「関係者室」の入り口にやってくる。この部屋の扉は当たり前のように開けっぱなし。私たちが着ているスタジャンは、「なんでもお伺いしますよ」という看板みたいなものだ。今回の公演だけに参加するエキストラの出演者も多いから、舞台裏の基本構造のご案内から含めて、お昼ご飯を頬張りながら楽屋の廊下を走り回るのはしょっちゅう。


でもやっぱり、この本番前の活気に満ちた舞台裏が、私はたまらなく好きだって思う。華やかな舞台を支える楽屋は公共施設らしい殺風景なリノリウムの廊下で、警察の取り調べ室みたいな無機質な扉が並んでいるだけ。埃が溜まった奈落含めて暗くてかび臭いステージ裏。どこを切り取っても芸術からはかけ離れた殺風景な光景なのに、それが奇跡みたいに光り輝く舞台を生み出している。開場は14時、開演は14時半。そろそろ気の早いお客様が入場口に並び始める頃だ。指定席って分かっていても、なんとなく開場時間より前から並ぶ人がいるのが不思議だよなぁ。そして多分、毛利さくらは、お昼ご飯の後のデザートとお茶をゆっくり楽しんでらっしゃるんだろう。当たってるかな、と、LINEを開いてみたら、メッセージが届いてた。「つまんねー」と一言。


「何してるの?」と返信したら、「お茶してる」と返ってきた。予想通りだな。

「いつもの皆さん来てないの?」開幕前の毛利さくらとお話しするのが大好きなお歳を召した常連さんも多くて、オペラハウス併設のカフェ「ラ・ボエーム」にいれば、開幕まであんまり退屈しないのが普通なんだけど。

「来てる。お話中」なんだ、一人じゃないのか。「お話してるなら退屈しないでしょうに。」

「有沢がいないとつまんねー」と返信。なんでこいつはこういうバカップルみたいなメッセージ送ってくるかな。「真谷先輩元気してる?」と聞いてくる。

「元気だよ。蔵本先生が先生なりに激励してた。」

「師弟漫才か」と返信。よく分かってらっしゃる。

「幕が降りるまでドキドキだよ」って返したら、「無事を祈る」って返ってきた。おお、祈っててくれ。ハープとコントラバス以外の音出しを終えるように、という舞台裏アナウンスが流れる。舞台上の1幕のセッティングを確かめないと。


でも、毛利の祈りは届かず、この日の公演は、「無事」というわけにはいかなかった。この日起こった「事件」のおかげで、私は今でも、「椿姫」の序曲が流れると、背筋にゾワッと冷たいものが走る感覚がする。この日の開演直後の、あの何もかもが凍りついたような刹那の静寂。何も気づかず膨れ上がる客席の期待感を背中に、ゆっくりと顔を上げて、オーケストラを見回した真谷先輩の鬼神のような表情。その唇に浮かんだ小さな微笑み。怒りも激情も何もかもを超えて、全てのものを自分の指揮棒でねじ伏せるのだ、という強い決意の微笑みは、ふっと絶望の切なげな哀しみに取って代わり、ヴィオレッタの死を予言する暗い序曲に向けて、真谷先輩のタクトが静かに振り下ろされる。私の全身に鳥肌が立ったあの一瞬。そしてこの日の公演の記憶の最後を飾るのは、全てにスッキリと道筋を示してくれたオペラ探偵毛利さくらの横顔に浮かんだ、ちょっとはにかんだ美しい微笑みなのだ。



第一幕 パリにあるヴィオレッタのサロン


楽しむのだ、盃とこの喜びの歌を、最高の夜にするために

この天国で、新たな一日が我らに訪れるように


1幕冒頭の「乾杯の歌」の合唱が終わった途端、客席は拍手で爆発した。音楽と光が織りなす魔法のような時間に包まれて、客席全体が何かに酔ったようにぼうっとなっているのがわかる。そんな魔法が、真谷先輩のタクトから迸っているのが見える。客席も、オケも、舞台上のソリストさん達も合唱団も、そして我々舞台裏のスタッフ達すら、気迫に満ちたタクトから導かれるヴェルディの音楽の魔法にがんじがらめにしばられて、時間も空間も別の世界に引きずり込まれたみたいだ。私の頭も真谷先輩の魔法で半分痺れたようになっているけど、残りの半分でやるべきことをしなければならない。この熱狂的な拍手が続いている数十秒間が最初のチャンスだ。私は桟敷席の扉を音のないように開けて、するり、と客席に滑り込む。スミレ色の毛利さくらが拍手しながら振り向いた。興奮に潤んだ瞳が大きく見開く。「有沢?」

「ごめん、ちょっと確かめたいことがある」毛利の肩に手を置いて、彼女の膝の上に置かれた金色の取手付きオペラグラスをそっと取り上げた。毛利さくらの愛用のオペラグラス。目に当てて、オケピットを覗く。視界の中に、真谷先輩を捉える。そしてその前にある譜面台。

譜面台の上には、椿姫のフルスコアが置かれている。閉じられたままの表紙の上には、真っ白な花弁が瑞々しい椿の花が一輪置かれている。開演以降、真谷先輩はこの花にも、楽譜にも、指一本触れていない。

真谷先輩は、「椿姫」全幕を、暗譜で振り切る気だ。

「真谷先輩、凄いよ。今日は別人みたいだ」毛利が囁く。振り向いて、耳元に口を寄せた。「1幕明けの休憩の時に、また来る。ちょっと相談に乗って。」

流石の熱狂的な拍手も少しおさまってきた。そのまま桟敷席を去ろうとすると、手をつかまれた。振り返ると、ちょっと泣きそうな顔で、こっちを切なげに見つめてくる。「待ってる」拍手にかき消されそうな小さな声が少しパープルを加えた艶やかな色の唇から漏れた。一瞬、運命の人に出会った予感に胸震わせるヴィオレッタの姿と毛利が重なって見えて、思わず毛利を抱きしめそうになった。いかん、私の頭も半分真谷先輩の魔法に酔っぱらってる感じだ。


開演の時、舞台監督の千葉さんのキューにあわせて、オケピットに降りていった真谷先輩。舞台センター、プロンプターボックスの横、コントラバスの後ろの入り口から、楽器の間を縫って指揮台に歩み寄り、コンマスと握手をし、オケを起立させる。指揮者を抜いたスポットライトの中、客席にお辞儀をして、指揮台に向き直る。見慣れたルーティンの直後、真谷先輩は凍りついた。譜面台の上に置かれたフルスコアに手を伸ばしたまま、微動だにしない。多分十数秒くらいの時間だったと思うけど、下手の操作卓の前で、指揮者を正面から捉えたモニター画面を見つめていた我々スタッフが騒然となるには充分な時間だった。何かが起きている。舞台監督の千葉さんが「なんだ、どうした?」と呟いた直後、真谷先輩がゆっくりと顔を上げた。

スタッフ全員が石像のように固まってモニター画面を見つめる中、舞台袖に流れてきた弦の咽び泣くような旋律に、私は心底ゾッとした。なんて濃密で絶望に満ちた音。「椿姫」の序曲は、孤独の中で死んでいった主人公ヴィオレッタの最期を冒頭の音楽で描写することで、終幕の悲劇を予言すると共に、1幕の世紀末的な乱痴気騒ぎを際立たせる。うちのオケはこんな濃密な音を出せるのか。

「客席カメラをオケ側に振って下さい」磯谷先輩が押し殺した声で、千葉さんに囁く。千葉さんが、目の前のジョイスティックの一つに触れると、操作卓の上に並んだモニターの一つの映像が動いた。「オケピットの中、指揮台の上をアップにしてもらえますか?」

磯谷先輩の声に合わせて、指揮台がズームされる。指揮台の上に置かれた楽譜と、その上に何かが置かれている所までは分かるが、解像度の低いカメラの位置が遠すぎてそれ以上はよく分からない。それでも、

「ゆづちゃん、暗譜でやってるな…」千葉さんが呟いた。指揮者を正面から捉えたピット内のカメラの映像を見ても、真谷先輩は譜面台に一切視線を落とそうとせず、指も触れようとしない。自分の頭の中に全部刷り込まれている「椿姫」の音楽だけで勝負している。

「すげえな、クライバー並みじゃん」私の隣に立っていた田口先輩がボソッと呟いた。操作卓の前にかがみ込んでいた磯谷先輩が、凄い勢いで振り返って、田口先輩を睨みつけた。その視線に田口先輩が一瞬怯むのと、磯谷先輩が私の腕を掴んで、「ちょっと来て」と言うのが同時だった。


桟敷席の扉の外に、磯谷先輩が待ち構えていた。「どうだった?」

私は首を横に振る。「楽譜の表紙は綺麗でした。ヴィオレッタの絵が描かれていて、それだけ。」

「やっぱり」磯谷先輩が唇を噛む。絞り出すように言った。「あれはゆづちゃんの楽譜じゃない。」

「どういうことですか?」私が言うと、磯谷先輩は顔を上げた。血の気が引いている。「ゆづちゃんの楽譜は、蔵本先生から贈られたものよ。表紙には、蔵本先生からの献辞、というか、いたずら書きが大きく書かれている。ゆづちゃんも気がついた。それで暗譜で振るって決めたんだ。」

「誰かが違う楽譜を置いた?」そこまで言って、突然気づいた。磯谷先輩の血の気が引いている理由。

「私が指揮台に楽譜を置いた」磯谷先輩は泣き出しそうな声になる。「開演前に指揮台の上に楽譜を置いた時、椿の花をその上に置いてくれって言う蔵本先生からのサプライズのことで頭が一杯になってた。ちゃんと確かめなかった私のミスだ。」

「磯谷先輩が入れ替えたわけじゃないですよね?」私は言った。「じゃあ誰が楽譜を別の楽譜に入れ替えたんですか?」

「そんなの」磯谷先輩の声に怒気が混じる。「あいつに決まってる。」

そして廊下を駆け出した。私は慌てて後を追った。


田口先輩が、憮然とした表情で差し出した楽譜を見つめて、磯谷先輩が凍りついている。指揮者用の大判楽譜。気だるい表情で鏡に映る自分の顔を眺めるヴィオレッタが描かれている。さっき私がオペラグラス越しに見たのと同じ楽譜。表紙は同じく、綺麗なままだ。

「磯谷がオレを疑うのは分かる」田口先輩が言う。廊下のスピーカーから、会場を満たしている豊穣な音楽のカケラが漏れ出して聞こえる。


それはあの人だったのかしら…

乱痴気騒ぎの中でも一人ぼっちの私の心が

不思議な絵の具で心の中に描いていたのは…


「真谷が指名された時は悔しかった。なんでオレじゃないのか、とは思ったさ。蔵本先生門下生の誰もがそう思っただろうけど、オレは特別だ。」

「そうよ、アンタには動機がある」磯谷先輩が言う。「そして機会もある。あの時、オケピット出入り口で楽譜を入れ替えることができた人は一握りだ。」

オケピットへの出入り口は二つ、舞台センターと下手にある。舞台面と同じ階にある楽屋フロアから階段を降りてオケピットに抜ける通路を通るのは、舞台裏スタッフとオケのメンバーだけ。音出しを終えたオケのメンバーは楽屋に戻り、ピットでのチューニング前の事前チューニングをしている時間。となれば、磯谷先輩の言う通り、楽譜を入れ替えることができる人なんて一握りだ。まして入れ替える指揮者用の大判楽譜を持ってるとなると。

「でも、オレの楽譜はここにある」田口先輩が言う。

「アンタがもう一冊楽譜を持ち込んで入れ替えたのかもしれない」磯谷先輩が呟いた。

田口先輩は天を仰いだ。

「磯谷、オレを信じてくれ」田口先輩は真っ直ぐ磯谷先輩に向き直る。「確かにオレは悔しかった。真谷が選ばれて心底悔しかった。でも同時に、腹の底から興奮した。真谷の振る『椿姫』を聴きたいって思った。蔵本先生の正統を、あいつがどう受け継ぐのか、そしてあいつが先生の世界をどう壊すのか、聴いてみたいって本気で思った。聴いてみろ」と、天井から降りてくるヴィオレッタのアリアを指差す。


愛はときめき

全ての鼓動

神秘と高貴

そして私の心を引き裂く…


「あいつは今奇跡を生み出してる。これはオレ達全員の夢だったじゃないか。オレ一人じゃない、真谷一人じゃない、桜園音楽大学から、蔵本先生を超える伝説の指揮者を生み出すんだって、オレ達卒業生全員の夢が、今現実になろうとしてるんだぞ。」

2人がしっかり見つめ合う。桜園音楽大学で同期生だった2人。強く絡み合う視線の上から、真谷先輩が生み出すヴィオレッタの激情の歌が降りてくる。


バカな女!無意味な夢よ!

パリという名の荒野に

たった一人捨てられた女…


楽譜をすり替える動機と機会。その機会に一番近かったのは磯谷先輩だ。舞台スタッフとして、開演直前の真谷先輩の楽屋のドアを頃合いを見てノックし、楽譜に顔を突っ込みそうに未練タラタラの真谷先輩から楽譜を預かり、オケの入場前にオケピットの譜面台まで持っていく。でも、磯谷先輩には動機がない。

楽屋からオケピットまで運ばれた楽譜。その途中で楽譜を入れ替えることができる人なんているのか。

「あの時、舞台裏にいた関係者の中に犯人がいる。私の動線を追ってきて、私が蔵本先生から預かった椿の花を取りにピットの入り口からちょっと離れた隙に、楽譜を入れ替えた奴。」

そして田口先輩には確かに動機もある。田口先輩は真谷先輩より5歳上だ。蔵本先生のもとで、副指揮者として修行を積んできた時間は、真谷先輩より長い。それでも自分が代振りに指名されないこの世界の残酷を、一番よく分かっていても、一番悔しい思いをしている人であることは確かだろう。そしてあの大判の指揮者用のフルスコアは、オケや歌い手が持っているパート譜やボーカル譜とはサイズも中身も全然違う。指揮者か、指揮者志望の蔵本先生のお弟子さんしか持っていない特殊な楽譜だ。でもさすがに、入れ替えるための楽譜まで用意して、こんな嫌がらせを仕掛けたりするかな。

「あんた、開演前にはどこにいたの?」磯谷先輩が自分を励ますように言う。

「アリバイかよ」田口先輩は苦いものを噛み締めているような声で言う。「アリバイはないよ。舞台袖の暗がりに、合唱団の邪魔にならないように座ってたからな。誰も証言する人はいない。

「磯谷、お前がやったんじゃないのか?」田口先輩が言って、私はギョッと磯谷先輩を見つめた。磯谷先輩の顔が蒼白になってる。

「お前が、蔵本先生に言われてやったって言うのが一番平和な答えなんだ。分かるだろ?」

そうか。磯谷先輩には動機がないと思ったけど、そういう答えもあるのか。

蔵本先生に、楽譜の上に椿の花を置くサプライズを指示されたのは磯谷先輩だ。その時、楽譜の入れ替えまで指示されたとなれば、納得できる。入れ替え用の楽譜は蔵本先生から事前に預かっておけばいいわけだし。でも、

「田口先輩、それはあり得ないですよ」私は横から口を挟む。「もし蔵本先生のアイデアだったら、磯谷先輩からそう言えばいい話じゃないですか。」

幕開け直後のサプライズが終われば、もう種明かしをしたっていいはずだ。磯谷先輩がこんなに真っ青になったり真っ赤になったりしながら舞台裏から客席通路まで走り回る必要なんかない。

「分かってる」と、田口先輩は言った。言いながら、磯谷先輩の両肩をがっちり掴んだ。「でもな、磯谷。磯谷がそう言えば、この場は丸く収まる。終演まで、誰も傷つかない。誰もが納得して、カーテンコールまで辿り着ける。

「お前は舞台スタッフだ。舞台スタッフの一番の仕事は、本番舞台を何事もなく、無事に終わらせることだ。違うか?」

「本当に蔵本先生がやったのかも」と私が呟くと、磯谷先輩は、私の方に弱い視線を飛ばして「それはない」と言った。「先生は随分前に客席に行ってたから。だから私に椿の花を託したんだ。先生なら、楽譜の入れ替えと椿のいたずらを同時にやるだろう?」

そりゃそうだ。私が頷くと、田口先輩の、磯谷先輩の両肩を掴んだ手に力がこもった。「お前が疑ってる通り、オレがやったのかもしれない。オレは自分が犯人として突き出されるのが嫌で、こうやってお前を騙してるのかもしれない。でも信じてくれ。オレはやってない。そして、ここで犯人探しで大騒ぎすれば、この公演の魔法はそこで終わる。」

田口先輩の目には涙が浮かんでいた。「磯谷、終演まで我慢してくれ。蔵本先生に言われてやったことにしよう。犯人探しはその後でもできる。舞台裏は防犯カメラだらけなんだぜ。映像を洗えば、絶対犯人が映ってる。」

確かにそうだろう。田口先輩の言う通り、今大騒ぎして、スタッフ全員がお互いの中の真谷先輩への悪意を疑い始めたら、それは確実に舞台の空気を変えるだろう。魔法はそこで終わってしまう。

「分かった」磯谷先輩が、田口先輩を見上げて、瞳の奥を覗き込む。「もしアンタが嘘つきで、アンタが犯人だったら、殺すかんね。」

ちょっとゾワっとした。でも田口先輩は、ニヤッと笑って言った。「お前に殺されるのも悪くねぇな。」

磯谷先輩の頬が真っ赤に染まって、両肩を掴んでいる田口先輩の手を振り払った。楽屋廊下から下手舞台袖に向かって、くるりと踵を返す。「有沢、行くよ!」

あれ、ひょっとしてこの2人?と思ったけど、口には出さず、磯谷先輩の背中を追いかける。1幕ラスト、ヴィオレッタのカバレッタの最高音がオペラハウスに響き渡った。



1幕〜2幕 幕間


「でも、まだ問題が残ってるんだ」一通りの経緯を説明し終わって、私は付け足した。桟敷席のいいところは、ボックスの中で他の人に聞かれたくない会話ができる所だ。昔のオペラハウスに桟敷席が必須だったのは、上流階級の密談の場として活用されたっていう実利的な意味もあったんだろう。

「真谷先輩の楽譜を取り戻さないといけない」毛利がすかさず言う。「そういうこと」私はうなずく。「蔵本先生のいたずらでしたって説明しても、真谷先輩が蔵本先生からもらった大事な楽譜が行方不明なのには変わりないから。

「犯人が返してくれたら一番いいんだけどね」私が言うと、毛利はオケピットの方を見下ろして考えこんでいる。1幕が終わって楽屋に戻った真谷先輩は、譜面台の楽譜に指一本触れていない。白い椿の花までそのままに、入れ替わったフルスコアは譜面台に置かれている。

1幕終了後の熱狂的な拍手の間に、私はまた桟敷席にするっと入り込んで、毛利さくらの隣に滑り込んだ。いつもなら、毛利は幕間の休憩でロビーに出て、オペラハウスの非日常的空間を彩る南国の鳥のように華やかに、常連さん達と歓談するのが常だけど、今日はそういうわけにはいかない。私は最初からこの件について毛利の協力を仰ぐことを決めていた。毛利には私達に見えていないものが見えているはずだ。確信があった。ほぼ舞台関係者の一員と言ってもいい毛利にこの件を相談することに、磯谷先輩も全然異論を唱えなかった。

「開演前に、楽譜が譜面台に置かれてから、真谷先輩が入場するまでに、ピットの中で譜面台に近づいた人を見たりした?」私は聞いてみた。

「いなかったと思うけど」毛利が言う。「確信はない。」

「流石に客席から丸見えだからなぁ」私は言った。「オケピット内で入れ替えるなんて、そこまで大胆なことはしないか。」

「指揮者用モニターの記録は残ってるの?」毛利が言う。「田口先輩が言う通り、色んな所に防犯カメラがあるし、絶対どれかに映ってるよね。」

「映ってるかもしれないけど、それをチェックするとなると結構大ゴトになるんだよなぁ」一度、館内に不審者が入り込んだという騒ぎがあって、警備室にモニター映像記録をもらいに行ったこともある。パソコン操作に慣れないシニア世代の警備員さんが四苦八苦して、結局どうにもならずに警備会社のシステム担当を呼び出すハメになった。「それは最後の手段だなぁ。」

「なら、一つ確かめてみたいことがある」毛利が言った。「もし私の想像が当たっていれば、この休憩中に楽譜を取り返すのはほぼ無理だと思うんだ。」

「…どういうこと?」私は言った。まるで楽譜がどこにあるのか知ってるみたいな言い方じゃないか。

「真谷先輩の楽譜の表紙には、蔵本先生の献辞が書かれてるって言ったよね」毛利は言った。「見てみたいって思わない?」

私はちょっと考えこんだ。「でも、蔵本先生が真谷先輩に贈った言葉となると…どうせ何かくだらない一言なんじゃないのかと…」

「何が大事かは人それぞれだよ」毛利は言って、にっこり微笑む。なんだ、この余裕の笑みは。

「次の休憩は、2幕明けだね」毛利が言う。「椿姫」は、2幕一場と2幕二場の間に場面転換の休憩をとることが結構多いけど、今回の演出家さんは幕の構成に沿って、廻り舞台を使った転換で2幕を通しで上演するスタイルを選んでいる。次の休憩は2幕二場、パリのサロンでの賭博のシーンの後だ。

「2幕が始まったら、私がこれから言う場所に行きなさい」毛利は言った。そして、もう一度、華やかな笑顔を真っ直ぐこちらに向けて、言った。

「多分、楽譜はそこにある。」


2幕一場 パリの郊外のヴィオレッタの家


「…どこにあったの?」磯谷先輩が、呆気に取られた顔で絞り出すように言った。隣に立っている田口先輩はまだ口をあんぐり開けている。

私が差し出した大判の楽譜。表紙のヴィオレッタの白くてふんわり広がった袖からタイトルの上に向かって広がる余白に、子供が書いたのかと思うような汚い字でデカデカと、「アイ らぶ YUZUKI!」と書かれている。その下に、歪んだ円に囲まれたスマイルマークのようなものと、見たことのある蔵本先生のサイン。くだらないんじゃないかなとは思っていたけど予想以上のくだらなさだ。退廃的な表情のヴィオレッタが落書きの酷さに嘆いているようにも見える。

「どうして『アイ』がカタカナで、『らぶ』がひらがながいい、なんて思っちゃったんですかねぇ」言いながらしげしげ楽譜を見ている私の腕の中から、田口先輩が楽譜をひったくった。もどかしげにページをめくる。「すげえ」声が漏れる。

「蔵本先生の書き込みだらけだ」田口先輩は血走った目を私に向ける。「次の休憩まで、2幕の間だけでいい、この楽譜、俺に貸してくれ。」

「何バカ言ってるの」と磯谷先輩が言いかけたけど、田口先輩はもう、ページを食い入るように見つめて楽譜を離さない。モニタースピーカーから流れ出す2幕の音楽を譜面上で追いかけ続けている。「そうか、ここは蔵本先生流か」なんてブツブツ独り言まで言い始めた。

「悪い、有沢」磯谷先輩が呆れ顔で言う。「こうなると誰にも止められない。2幕が終わるまで、私がコイツを見張ってるよ。詳しいことは後で聞くから、代わりに場転入ってもらえるかな。」

そうか、磯谷先輩は、まだ、田口先輩を信じきってるわけじゃないんだ。愛があっても、というか、愛があるから、田口先輩のことを知り抜いてるから、この人があの楽譜に執着する理由も分かるんだな。

「何が大事かは人それぞれ」と毛利は言ったけど、そういうことなんだ。この楽譜に特別な価値を見出す人達が、確かにいる。楽譜のあちこちに書き込まれた蔵本先生のメモ。今の円熟に至る数々の苦悩の歴史が、楽譜の至る所に残されている。ヴェルディが残した「椿姫」という、オペラ史に残る傑作との闘いの日々を、刻み込んだ楽譜。そんな大事な楽譜を、愛してるの軽口と一緒に、蔵本先生は真谷先輩に託したんだ。

そして今、真谷先輩は、蔵本先生の歴史を踏み台に、入れ替えられた楽譜には見向きもしないで、何もない空間に向かって、自分の中にある音楽だけを頼りにタクトを振り続けている。


ああ、絶対に嫌!

あなたはご存じないのです、どんなに激しく

私があの人を愛しているのかを?

私には友も、頼りにできる身内も

この世に一人もいないということを?


操作卓の前に行くと、モニターを見つめるスタッフの後ろの椅子に、蔵本先生が腰掛けていた。見ると、目に涙を浮かべている。「蔵本先生」と、そっと声をかける。

「みなみちゃん」目を開けた蔵本先生は、半ベソをかいた子供みたいに私を見上げた。「ヴィオレッタ、可哀想すぎるよねぇ。パパジェルモンも必死なのは分かるけどさぁ、ここまで追い込まなくていいじゃんねぇ。ヴィオレッタも、ここで身を引くことないじゃん。もっとゴネればいいじゃん。ほんと、何とかならなかったのかなぁ。」

そう言って、世界も認める大指揮者の先生は、20歳そこそこの小娘の前で、子供みたいにポロポロ涙を流した。真谷先輩の神がかった演奏のせいもあるけど、結局こういう所がこのオッサンの魅力なんだろうなぁ。音楽に対して真っ直ぐで開けっぴろげ。「みなみちゃんだったらどうする?絶対ゴネるよね?」

「私だったら」と、私はニッコリ微笑んで言った。「そもそも、あんな脳みそ空っぽのお坊ちゃんテノールには惚れません。」

「それがいい」蔵本先生は真剣に頷いた。「みなみちゃんは賢い。この後のアルフレードとか、いい歳してただの駄々っ子だからねぇ。聴くたびぶん殴ってやりたくなるよねぇ。」

「先生、少しだけお話できますか?」私が言うと、蔵本先生は頷いた。「ちょうどいいよ。この後の音楽真剣に聴くと、舞台に出て行ってアルフレードぶん殴りたくなるから、耳半分で聞くつもりだったんだ」そして、よっこらしょ、と立ち上がった。



2幕二場 パリのサロン、賭博の場


毛利の予想が当たっていたからには、彼女の指示に従って動かないといけない。蔵本先生と話した後、場面転換の作業を手伝って、2幕二場のサロンでの仮装パーティの音楽を聴きながら、舞台裏に駆け戻り、楽屋口にある入館者名簿をチェックする。犯人さんだけじゃなくて、私も蔵本先生も、毛利の手のひらの上で踊らされている気がしないでもない。毛利が演出する舞台の登場人物になった気分だ。


我らはジプシー、遠方より来りて

あなた方の手のひらを、読みといて差し上げよう

星々に問えば、全ては明らか

これからのことを、占ってしんぜよう


さて、毛利の占いは当たるかどうか。一度始まった音楽を止めることはできない。ただでさえ舞台裏は、次に起こる段取りを予測して準備していくことが重要なのだけど、今夜の私は舞台スタッフであると同時に毛利の指示にも従わないといけないから、走る距離もいつもの倍だ。舞台袖の操作卓に戻ると、少し離れた所に椅子を3つ並べて、蔵本先生と田口先輩、磯谷先輩が並んで座っていた。田口先輩は相変わらず、何かブツブツ言いながら楽譜に顔を突っ込むようにして譜面を追っている。蔵本先生が、私に気がついて、「ちょっと」と手招きした。

「終演まで、楽譜は返さなくていいさ」楽屋の廊下で振り返って、蔵本先生は言った。「今渡すとゆづちゃんの覚悟が鈍る。田口君も三幕まで譜面を眺めていたいだろうし。」

「でも、まだ誰も、この件について真谷先輩と話せてないんですよ」私は言った。1幕終了後の休憩で、真谷先輩は周囲の声には一切耳を貸さず、真っ直ぐ自分の楽屋に飛び込んで内側から鍵をかけてしまったそうだ。磯谷先輩も田口先輩も、一言も声をかけることができなかったらしい。「今だったら、蔵本先生を悪者にしないで、何かの手違いだったとか、言い訳もききます。」

「いいのいいの」と、蔵本先生はまたガハハハ、と笑う。「憎まれ役になって若い人を守るのが僕らジジイの役目だから」そう言って、蔵本先生は、廊下のスピーカーから降りてくる音に耳を傾けた。ヴィオレッタを巡って鍔迫り合いを演じる男たちのカード賭博の場面。ヴィオレッタの裏切りを疑うアルフレードのヤケクソのカードの読みはあたり続け、彼は勝ち続け、ヴィオレッタの不安はどんどん大きくなる。


行ってちょうだい、不幸せな貴方

汚れた名前のことはもう忘れて

すぐに私から距離を置くのです

貴方には会わないと誓ったの。

誓う権利をお持ちの方に


「ホントはねぇ、ボクがあの楽譜を取り上げなきゃいけなかったんだよね。ゆづちゃんからね」蔵本先生はボソッと呟いた。「ボクがゆづちゃんの扉に鍵をかけてたんだなぁ。」

そう言って、私の前に右手を広げて見せた。大きな手のひら。かすかに、指が震え始める。

「丁度この2幕の終わりぐらいだったんだよね。昨日、指先がビリッときてさ。指揮棒一瞬取り落としそうになったんだ」右手を左手で包み込んで、じっと見つめる。ちょっと寂しそうだけど、どこか満足げでもある視線。「まぁ、よく働いてくれたよね。この手もね。」

「扉の向こうに広がる世界を真谷先輩に教えてあげたのも、蔵本先生じゃないですか」私が言うと、蔵本先生はにっこり微笑んだ。「みなみちゃんは優しいねぇ。

「そんなに優しいならきっとモテるだろうねぇ。恋人とかいないの?いい男紹介しようか?」

「そういうこと言うから真谷先輩にクソジジイって言われるんですよ。」

そろそろ2幕が終わる。オペラのクライマックスはまだまだ先だけど、私の今日の大仕事のクライマックスは、次の休憩の間に起きる予定だ。舞台用語で、開幕前に舞台の上の所定の位置につくことを、「板付き」と言うけれど、私の板付きの時間が近づいてきた。

「彼にも、優しくしてやってね」蔵本先生が言う。「きっとみんな、『椿姫』が大好きなだけなんだよ。」



2幕〜3幕 幕間


「楽譜はそこにはありませんよ。」

背中から私が声をかけると、その人影は文字通り飛び上がった。振り向いた顔が怯えている。暴力沙汰になったらヤバいと思って念のため握りしめていた木槌を、腰の工具ベルトに差し込む。「楽譜は蔵本先生のそばにあります。」

「なんで?」と、掠れた声で言う細身の男性。黒の礼服とドレスシャツ、そのシャツの首元には、大きな紫の蝶ネクタイ。そして彼の背後には、彼が今ゴソゴソと、隠したはずの楽譜を探していた大きな楽器ケースが、巨大昆虫の抜け殻みたいに通路にへたり込んでいる。オケピットから楽屋に抜ける通路の途中、通行の邪魔にならないように壁際に積み上げられた楽器ケースは、4本分あるはずだ。


「楽譜をすり替えたのは、偶然の機会に衝動的にやったことだと思うの。磯谷先輩が都合よく楽譜から離れるタイミングを狙うなんて、計画としては成功率が低すぎる。衝動的にやったのなら、その人は、放置された蔵本先生の楽譜の前を、たまたま通りすぎる機会があった人じゃないといけない」毛利は言った。「磯谷先輩が楽譜を譜面台に持っていくのは、ピットの音出しが終わって、オケの全員が楽屋でスタンバイしている時間。オケピットに出入りする人はいないはずだから、通り過ぎる機会のある人もいないように思う。でもね、ピットの音出しが終わった後でも、残って開幕前まで音出しを許されている楽器がある。」

「コントラバスとハープ」私が呟く。楽器の調整が複雑なハープと、楽屋に楽器を持ち帰ることができない大型のコントラバスだけは、開幕直前まで奏者がピットで音出しをすることが多い。「指揮者出入り口に一番近いのはコントラバスだ。」

「大きな楽譜を持って楽屋に戻るわけにはいかない。通路のどこかに隠してると思う。コントラバスのケースはソフトケースだし、大きいから大判楽譜を隠すのに都合がいい。コントラバスケースが置いてあるのはどこ?」

「指揮者出入り口のすぐ近くだよ」私は言う。「ピットに明かりが漏れないように、照明も暗く落としてある。」

「大きな楽器だから車で移動する人も多い。荷物の中に、大判楽譜を加えても、さほど苦にならない。」

「コントラバスは4人いるけど」私が言うと、毛利は人差し指を唇に当てて考え込んだ。「多分あの人だと思う。あまり見かけない顔だから、エキストラ、ひょっとしたら今日だけの出演かもしれない。名簿で確かめてみるといいよ。」

「動機はなんなの?」私は言った。「何でその人は、蔵本先生の楽譜を見たいと思ったの?」

「会えば分かるよ」毛利はにっこり微笑んだ。


「林さんですね?」私が言うと、細身の男性は力無くうなづく。楽譜が隠されていたコントラバスの楽器ケースにも、Y.HAYASHIの文字があった。オケの名簿にあった林義雄という名前の脇には、賛助出演の文字と、今日の日付だけが書かれていた。1日だけ、オケメンバーの予定がどうしても合わない時に助っ人で呼ばれたエキストラの奏者。

「その紫のネクタイ、蔵本先生リスペクトですね?」私は優しく言った。ポスターの写真の蔵本先生が身につけている大きな紫の蝶ネクタイと、全く同じ柄の蝶ネクタイ。「指揮者志望なんですか?」

林さんはうなづいた。田口先輩や磯谷先輩と同世代か、少し若いくらいだろうか。真谷先輩と同級くらいかもしれない。

「どうして僕だって分かったんですか?」林さんが消え入りそうな声で言う。

「ジプシー女の占いです」私は言った。林さんがキョトン、とするのを見て、「いや、千里眼の友達がいてですね」と付け加える。毛利の推理の道筋をしっかり説明するのも面倒だしなぁ。

「僕をどうするおつもりですか?」林さんは下を向いた。不貞腐れるでもなく、開き直るでもなく、しおらしくしょぼくれている。悪い人じゃないんだなぁ。

「表沙汰にする気はないですよ」私は言った。「蔵本先生もおっしゃってました。その人はきっと、『椿姫』が大好きだっただけなんだって。」

林さんは顔を上げた。ちょっと目が潤んだ。「蔵本先生はそういう人なんですよね。音楽が好きな人には悪い人はいないって、無邪気に信じてる。」

「蔵本先生を崇拝してるんですね。わざわざ同じ蝶ネクタイをしてくるくらいに」私は言った。「それで、あの落書き見て、思わず楽譜に手が出ちゃったんだ。」

「そんなに純粋でもないんです」林さんは顔を歪めて、自分の中のタガが外れたみたいに早口で喋り始めた。「蔵本先生の書き込みを見たいとも思ったけど、やっぱり悔しかったんだと思います。ずっと蔵本先生に憧れてて、やっと先生のタクトで弾ける機会が、今日1日だけ与えられたって思ったのに、今朝になって急に代振りだって連絡受けて、ホントにガッカリしたんです。

「せめてサインだけでももらおうと思って、自分の勉強用の楽譜持ってきて、開演前にサインもらったんですけど、でもその前に、真谷さんの楽屋で2人がホントに楽しそうにおしゃべりしているのが聞こえてきて、なんだか凄くムカついてきちゃって。」

そうか、あの時楽屋を出て行った蔵本先生を廊下で呼び止めていたのは、林さんだったのか。

「そのまま指揮者楽譜持ってオケピットに行って音出しして、楽屋に戻ろうと思ったら目の前にあの楽譜があったんです。周りに人気がなかったんで、ちらっとめくってみたのは好奇心だったんだけど、気がついたら自分の持ってた楽譜と入れ替えて、先生の楽譜を、そばにあった自分の楽器ケースの中に押し込んじゃったんです。」

椿姫の音楽の魔法だろうか。この楽譜を見てみたい、一瞬でも自分で独り占めしたい。

「そんな純粋な気持ちだけじゃない、蔵本先生の楽譜に頼れない真谷さんが、一体どんな指揮をするのか、見てやろうって言う悪意も間違いなくありました。」

そこまで視線を落ち着きなくキョロキョロさせながら早口で喋っていた林さんは、急に目を上げて、私の方にすがるような視線を向けた。「1幕が終わった後の休憩時間の間ずっと、トイレの個室にこもって楽譜を見てました。心底打ちのめされました。蔵本先生の解釈の厚み、それを踏み締めて、さらに高みを目指している真谷さんの音楽の輝き、しかも真谷さんはそれを、自分の頭の中にある音楽だけを頼りに紡ぎ上げている。

「終演後に、楽譜は返そうって心に決めました。お二人の音楽の世界を邪魔する資格なんて僕にはない。自分の浅ましさが恥ずかしい。」

そう言って、林さんは頭を垂れた。

「蔵本先生は、全部自分のいたずらだったことにするそうです」私は言った。林さんが顔を上げる。「蔵本先生はとっくに気づいてたんですよ。あなたがやったことだって。」

「どうして?」と林さんが言う。

「指揮者用の大判楽譜を持ってる人なんて、この会場の中に何人もいません。真谷先輩と、田口先輩っていうもう一人の副指揮者、そして蔵本先生。田口先輩の楽譜は確認済みだから、蔵本先生は、サインを求めてきたあなたの楽譜が指揮台にあるんだって、すぐ気づいたんですよ。」

「先生に謝らないと」林さんは言った。

「そろそろ3幕が始まります」私は言った。「蔵本先生の伝言をお伝えします。『真谷さんの扉を開くきっかけを与えてくれてありがとう。今日来たお客さま全員の夢を壊さないように、君たちの『椿姫』をフィナーレまでしっかり作り上げなさい。』」

林さんは真っ直ぐ私を見つめた。瞳に燃える光を確かめて、私はささやいた。「それから、終演後にロビーに来てください。あなたの楽譜をお返しします。」

「ロビーのどこに?」林さんが言った。

「一番目立つ女を探してください。そのそばにいます」私はにっこり答えた。



3幕 ヴィオレッタの寝室


アルフレードとの仲を裂いたことを謝罪する父ジェルモンの手紙を読み、ヴィオレッタは「遅すぎるわ!」と絶望の声を上げる。死病に取り憑かれ、病みやつれた自分の姿を鏡に映しながら、自分の命が燃え尽きていく瞬間まで、道を踏み外してしまった自分の過去を悔い、神の慈悲を乞い願うヴィオレッタの絶唱。


私の墓碑に捧げられる涙も花もない

私の名を刻んだ十字架すらない

ああ!道を踏み外したこの女の願いを聞き届けてください

許しを与えてください、神様、その御許にお迎えください

ああ、何もかもが終わってしまった


客席だけじゃない、舞台袖もしんと静まり返って、ヴィオレッタの最後の命の煌めきに耳を傾けている。操作卓のモニター画面を食い入るように見つめる私達スタッフの背後で、楽譜を追いかける田口先輩が何度も涙を拭っている気配がする。一瞬、モニター画面の中の切なげな真谷先輩の表情が悪魔のようにぎらつき、ヴィオレッタの不幸と犠牲を嘲笑うようなパリの謝肉祭の喧騒が鳴り響く。パリの狂騒に踏みにじられ、人生で一番美しい日々を儚く散らせたヴィオレッタ。その最期の瞬間に駆け込んでくるのは、最愛の人アルフレードだ。

「遅いんだよなぁ」背後から蔵本先生の呟きが聞こえる。「この脳みそ空っぽのお坊ちゃんテノール野郎がさぁ。」


誰も、悪魔だろうと天使だろうと

2人を引き離せるものはいない

愛するあなた、パリから離れよう

そして2人で人生を過ごそう

これまでの苦悩は今報われるのだ


オケピット全体を映すモニター画面の奥、目を凝らすとぼんやりと映るコントラバスの端に、林さんの姿を見ることができた。ゆったりしたピッチカートを刻みながら、林さんの顔がしっかり真谷先輩の方を向いているのが分かる。細かい表情までは見えないけど、きっと真谷先輩の全ての指示やわずかな視線の変化まで、全部読み取ろうと必死なんだろう。


二重唱以降、父ジェルモンや医師グランヴィルなど、ヴィオレッタを支える人々が駆けつける幕切を、孤独に死んでいくヴィオレッタの幻想とする演出もある。解釈としては分かるけど、あんまりヴィオレッタが可哀想で、私はやっぱり本当にアルフレードやパパジェルモンに見守られながらヴィオレッタが旅立ったのだと思いたい。そうじゃないと、最後の瞬間、迫り来る死が一瞬だけ彼女に与えた苦悩からの解放の歓びが、天国への入り口に立った彼女への一瞬の救済の音楽が、濁ってしまうような気がするのだ。桟敷席で、きっと涙を流しながらこのシーンを見つめているあの美しい私の友人はなんていうだろうか。一度じっくり、椿姫の話を彼女としてみたい。オペラの話をする時、とりわけ光を増すあの大きな目を見つめながら、今夜の真谷先輩が作り上げた椿姫の話をしてみたい。


苦痛が消えた…

蘇った…動き出した、力が!

ああ、私はきっと生きられる!

何という歓び!


歓喜の声を上げながら息絶えるヴィオレッタの周りに、呆然と立ち尽くす人々の影を深く深く残して、真谷先輩が紡ぎ上げた椿姫の物語が、終わった。


終幕後


終演後の興奮をそのままに、ロビーを埋めて演奏の感想を口々に語り合っていた聴衆たちも流石にまばらになり、ロビーの真ん中でシャンデリアが舞い降りたように輝いている毛利さくらを取り囲んでいた常連さん達も散り散りになる。話の長い数名をニコニコとあしらっていた毛利は、大きな紙袋をぶら下げてロビーに駆け込んだ私を見つけて満面の笑顔で手を振った。それを潮に、毛利の周りの人の輪が散らばって、私は毛利のそばに駆け寄った。

「真谷先輩、怒ってた?」毛利が言う。

「怒ってた、と言うかなんというか」私は言葉を探すけど、終演後の真谷先輩のことを表現する言葉がよく見つからない。泣いたり笑ったり、極端な狂騒状態だったのは確かだけど、蔵本先生があの楽譜を差し出した一瞬、真谷先輩は棒のように固まった。手渡された楽譜をしっかり胸の中に抱き締めると、蔵本先生の胸を拳で殴り始めた。ボコボコ殴りながら、いつのまにか蔵本先生の胸にすがりついてわんわん泣き始めた真谷先輩を優しく抱き締める蔵本先生を見ながら、磯谷先輩も田口先輩もポロポロ涙をこぼしていた。

「本当のこと言わなくてよかったのかな」私が呟くと「よかったんだよ」と毛利は微笑んだ。「あの2人の間に、何か別のものを差し挟まない方がいい。結局のところ、林さんは蔵本先生の思いを違う形で実現したわけだし。」

「結局、全部毛利の推理通りだったね」と私が言うと、毛利はちょっとドヤ顔になって、「このオペラハウスで私が解けない謎はない」と鼻の穴を膨らませる。さっきまでお嬢様然として慎ましい笑顔ふりまいてたくせに、学校の成績を誉められた子供みたいだ。

「じゃあさぁ、一つ、どうしても分からない、と言うか、蔵本先生に聞けなかったことがあるんだけど」私は言った。「毛利なら分かるかな。」

私がスマホに写した画像を見せると、毛利は小首を傾げた。「何これ?」

私が見せた画像には、例の指揮者用の大判楽譜の表紙が写っている。終演後、記念に、と撮らせてもらったのだけど、見れば見るほど疑問が膨らんできた。「このマーク、なんだと思う?」

落書きのような「アイ らぶ YUZUKI!」の文字と、その側に書かれた見慣れた蔵本先生のサイン。私はそのそばを指差す。歪んだ円の中に描かれたスマイルマークのような、マンガっぽい笑顔。

「スマイルマークじゃないの?」毛利が言う。

「私もそう思ったんだけどさ。なんか、ちょっと違う気もするんだ。下手くそな丸かな、と思ったけど、わざと上をへこませてるようにも見えるし、なんか点々みたいなのも描かれてる。」

「そばかす入りの顔かな?」毛利も自信なさそうに言う。

「毛利にも分からない謎か」と言うと、毛利はふっくらした唇を尖らせた。「蔵本先生の絵が下手くそ過ぎるんだよ。」

「あの」と、蚊の鳴くような声がそばでした。「林です。」

ジャケットと蝶ネクタイを外して、ドレスシャツだけになった林さんが申し訳なさそうに立っている。慌てて立ち上がった。「すみません、わざわざ。」

「いえ、謝らないといけないのはこっちで」林さんが深々と頭を下げる。

「素敵な『椿姫』でしたね」毛利がよそゆきのお嬢様スマイルで会釈する。ゴスロリ美女に声をかけられて、林さんの顔が気の毒になるくらい真っ赤に染まった。「彼女と、私、そして蔵本先生しか、今回のことは知りません。他に2人ほど関わってる人もいますけど、誰がやったのかまでは秘密にしてあります」私は紙袋から楽譜を取り出した。「蔵本先生のサインがちゃんとあるか、確かめて下さい。」

林さんは表紙をひらいて、見開きを穴の開くほど見つめていた。顔を上げて私に向けられた目が潤んでいる。「真谷先生が、サインを?」

見開きに書かれた蔵本先生のサインの下に、控えめなしっかりした文字で、「真谷佑月」と書かれている。今日の日付と一緒に、生真面目な文字で、こう書かれている。

「最高のクソジジイ野郎へ」

「ありがとうございます。家宝にします」楽譜を大事そうに紙袋にしまいながら、林さんは言った。「今日の『椿姫』一生忘れません。この舞台に参加したこと、生涯の誇りです。」

「そうだ」私は急に思った。蔵本先生推しの林さんなら分かるかも。「林さん、この楽譜のこのマーク、蔵本先生の書いたへしゃげたスマイルマークみたいなの、何か分かります?」

林さんにスマホの画像を見せると、しげしげと眺めたあと、顔をパッと輝かせて言った。「これ、ゆずですよ。」

「ゆず?」毛利と私が同時に言った。

「柑橘系の、ゆず。真谷先生のマークなんです。ほら」もう一度見せてくれた真谷先輩のサインの脇に、確かにみかんみたいな果物の中にスマイルマークが書かれているのが見える。

「…全然似てないですね」私は呟く。

「ゆずっていうより、じゃがいもじゃん」毛利が言った。

私たち3人は、顔を見合わせて笑った。「今度は別の演目で、蔵本先生のタクトで参加したいです」林さんが言う。「新谷先生の指揮する別の演目でも。」

「是非また、我が街のオペラハウスへ」毛利が艶やかに微笑むと、林さんはまた耳たぶまで赤くなって、ぺこり、とお辞儀をして駆け出そうとした。「あ、ちょっと待って!」と、その背中に毛利が声をかける。まだ何か話があるのか?

毛利は立ち上がって、すみれ色のバッグからスマホを取り出して、林さんに差し出した。

「この人とのツーショット、撮ってもらえませんか?」

そう言ってはにかむ毛利の横顔を見て、ちょっとくらっとする。悔しいけど、やっぱりこいつ無茶苦茶かわいいなって、改めて思った。



毛利さくらには美学がある。

頑なに守られるその美学のおかげで、彼女はシティオペラハウスの客席で、色鮮やかなアゲハ蝶のように一際目立つ。

今日も彼女は、自分の美学を貫いて、桜園シティオペラハウスの上手の桟敷席に、背筋をしゃん、と伸ばして座っている。

劇場を包み込む豊穣な音楽の響きに包まれ、滑らかな頬をうっすら桃色に染めて。

華やかな舞台の色とりどりの照明ライトの照り返しに、大きな瞳をキラキラ輝かせながら、オペラハウスで起こる全ての謎を鮮やかに紐解いてみせる。

今日も、明日も、おそらく明後日も。



(第一話「椿姫」 幕)

大好きなオペラを舞台にして、人が死なない小さな謎解き話を書いてみたいなあ。という昔からの妄想と、さくら学院の卒業生で、@onefiveのMOMOさんとして活躍されている森萌々穂さんのゴージャスな衣装を見てみたいなぁ、という妄想ががっちゃんこして、ある日突然生まれたこのお話。

オペラとアイドル、という、随分色合いの異なるものではありますが、自分の好きなものだけを組み合わせて物語を綴る時間は、本当に至福の時間でした。

以前、全3話をそれぞれ連載形式で投稿したのですが、読みやすいように、各話全編を再投稿します。

色んなところにさくら学院へのオマージュが散りばめられていますので、さくら学院の父兄さん(ファンの方々)は、その辺りも是非お楽しみいただけたら、と思います。

この後、第二話「アイーダ」に続きます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ