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供養集  作者: フルビルタス太郎
11/16

影森クロウの推理 プロローグ2

1.

 五月も終わりに差し掛かった金曜の午後。

 清岡市内にある清水山公園(しみずやまこうえん)の向かいにある私立清鳳学園(せいほうがくえん)高等学校の校舎は、夏の訪れを感じさせる暖かな陽射しを浴びて淡い金色に輝いていた。

 その中にある一年二組の教室では、六限目の授業が行われていた。六限目は国語で、背の高い男子生徒が、読経のように抑揚のない低い声で教科書を読み上げていた。

(ねむ……)

 昨日、夜遅くに影物と戦っていた為、少し寝不足気味のクロウは、教科書を朗読するクラスメイトの声をぼんやりと聴きながら、あふ、と欠伸をしていた。

「はい、ありがとう。えっと、次は、そうねぇ……」

(やべ、)

 国語教師の葛西(かさい)の声が聞こえ、クロウは慌てて教科書に視線を落とした。しかし、ぼんやりとしか聴いていなかった為か、一体どこを読んでいたのか、わからなくなってしまっていた。(マジか……)

 クロウは、葛西が苦手だった。

(当てられませんように……)

 そう、心の中で願う。と、同時に「ふぁ」と大きな欠伸が出てしまい、それを見た葛西が「じゃ、そこで暇そうに欠伸してる影森君。あなたに読んでもらおうかしら?」と薄い笑みを浮かべながらそう言った。

 突然の事にクロウは思わず「ふぇ?」と間抜けな声を上げた。

「ふぇ、じゃないでしょ。ふぇ、じゃ、」

 葛西は、ため息混じりにそう言った。「ちゃんと聞いていたの?」

「あ、は、はい。聞いてました」

「じゃあ、読んでみて」

「え?」

「聞いてたんでしょ?」

 葛西はそう言うと、意地悪そうな笑みを浮かべた。

「あ、はい……。えっと、えーっと……」

 返事を返すと、クロウは、教科書を持って立ち上がり、自分の記憶からそれっぽい箇所を割り出して読み始めた。

「……座席には老人と、」

「適当に答えるんじゃないのッ」

 クロウの言葉は、ものの数秒で葛西にピシャリ、と遮られてしまった。「……四六ページの九行目からよ」葛西は、ため息混じりにそう言った。

「あ、はい。えっと、……繰り返される単調で記号的な日常。生活の糧、というよりも世間体を確保する為だけに会社に行き、いい人の仮面を被りながら与えられた仕事をこなして、定時に帰宅する。晩酌は毎週金曜日で、自宅近くにある安い店で済ませる。管理されている訳でも、ロボットという訳でもないのに、だ。


――キキィィッ!


 突然の急ブレーキに車内は騒然となった。慌てふためきながら騒ぐ人々。ふと、アナウンスが流れた。

『当電車は不具合の為、緊急停止いたしました。繰り返します……』

 どよめく人々。

「あー、こりゃ、間に合わないな」

 僕は、時計を見ながらそう呟くと窓の外に広がる千切れ雲がぽつぽつと浮かぶ青空を何気なく眺めた。たまには、ゆっくりと行くのも悪くないと思いながら……」

 チャイムが鳴った。

「はい、じゃあ、今日はここまで。それと、来週は小テストがあります」

 葛西がそう言うと生徒達が不満を次々と口にし始め、それは、やがて、大きなうねりとなった。

「ちなみに点数が悪かった人には、宿題っていう素敵なご褒美がありますからね」

「えー⁉︎」

「文句があるならしっかり勉強してきなさい。以上、」

 葛西がそう言うと日直の「起立ッ!」の声と共に生徒がぞろっと一斉に立ち上がった。

「礼ッ!」

「着席ッ!」

 着席した瞬間、教室の中は、ざわざわ、がやがやと騒がしくなりはじめた。

「ったく、葛西の奴ぅ……」

 クロウが机に突っ伏しながらそう言うと隣の席に座るがっしりとした体格の三木富助(みきとみすけ)が「何言ってんだよ。欠伸してたお前が悪いんだろ?」と言い、クロウの前に座る少し太めの篠山貴志(しのやまたかし)が「そうそう」と相づちを打った。

「いや、だってさ、昨日、寝たの遅くってさぁ。今までの授業はなんとか堪えてたけどさ、気が緩んじまって、ふぁ……」

 クロウは、そう言うと大きな欠伸をした。

「遅くって?」

 前の席の篠山が食い気味にそう聞いてきた。篠山は人の話を聞くのが大好きな男だった。本人曰く、他人の話は人生をシミュレートする上で重要なデータになるらしい。

「……五時過ぎ。いや、六時かな?」

「は?何してたらそんな時間になるんだよ」

 三木は驚いたような表情を浮かべながらそう言った。

「まあ、色々……だよ」

 クロウは、歯切れ悪くそう言った。彼が影守として影物と戦っていることは秘密にするようにと養父である幻斎からキツく言われている為だった。

「ははーん。わかったぞ。さては、えっちぃ動画でも観てたなぁ?」

 篠山は意地悪そうな笑みを浮かべながらそう言った。

「ちげーよ」

「で、ほんとの所は?」

 三木の質問にクロウは「言えるわけねえだろッ⁉︎」と声を荒げた。

「おいおい、ムキになんなって、」

 三木は苦笑しながらそう言った。「なあ?」

「そうそう。動画っていう形ではあるけどさ、エロスを求めるのは人として当然。むしろ、健全な証さ」

 篠山は頷きながらそう言った。

「ていうか、なんでエロ動画観てた前提になってるんだよ。アニメやソシャゲかもしれねえだろ?」

 クロウは、不満げな表情を浮かべながらそう言った。

「ふむふむ。なるほど、影森は二次元派か……」

 篠崎は、うんうんと頷きながらそう言った。

「ちげえよ」

「そう否定しなくてもいいさ。二次元も良いよな。色んな設定が楽しめるから、さ、」

 篠山は、そう言うと軽く笑った。「例えば、可愛い女の子が幼馴染、とかさ、」

「まあ、確かに。その点、お前は恵まれてるよな。可愛い女の子の幼馴染がいてさ、」

 三木は、ため息混じりにそう言うと「俺なんか、幼馴染、コイツだぜ?」と篠山を指差した。

「ハハ、俺だってこんないがぐり頭じゃないもっと可愛らしい幼馴染が欲しかったよ」

「そりゃ、俺だって同じだよ」

 クロウがそう言うと、篠山は「かーッ、贅沢だねぇ」と老人のようなしわがれた声でそう言った。

「なんだよ。俺は、理想の幼馴染の女の子っていうのはさ、優しくて、口は悪くなくて、背は俺よりも低くて、甲斐甲斐しく尽くしてくれて、胸が大きくなきゃって思うんだよ」

 クロウは、自身ありげに持論を展開し始めた。SNSで発信したら大炎上必死のその内容に誘われるかのように一人の女子生徒がふらりとクロウの背後にやって来た。

 髪の色は栗色で、髪型は少し軽めのウェーブが掛かったセミロング。背は高く、手には丸めた教科書を持っていた。


――彼女の名前は宗方翡翠(むなかたひすい)。クロウの幼馴染で、幼稚園以来、実に一〇年ぶりの再開であった。


「それに比べてアイツはさ、しばらくぶりに再開したってのに、口は悪くなってるし、背は俺よりも高くなってるし、……」

 クロウがそう言うと同時に翡翠の教科書を持つ手が高く振り上げられた。「……デブだし、あと、仏像好きってのがねぇー?」

「おい、影森……」

 篠山は、青ざめたような表情を浮かべながらそう言った。

「ん?どうした」

「う、後ろ……」

「後ろ?」

 篠山の言葉に後ろを振り向くと同時にクロウの頭、目掛けて丸めた教科書が振り下ろされる。しかし、クロウは、それを避ける事なく「ほっ!」という掛け声と共に手刀で丸めた教科書を弾き飛ばした。

 教科書は、翡翠の後ろに向かって飛んでいき、バシッという鈍い音を立てた。それと同時に篠山と三木が「あっ」と小さく声を揃えた。

「ハハ、残念だったな。翡翠。俺の隙をつこうだなんてじゅうね……あて、」

 自信満々にそう言うクロウの頭を手刀がコツン、と軽く叩いた。

「俺の隙がなんだって?」

 厳ついスキンヘッドの男がクロウを見下ろしながらそう言った。彼の名は平野孝明(ひらのたかあき)。芸大卒の美術教師で、クロウのクラスの担任でもあった。その厳つい見た目からは想像もつかないが、平野は可愛い動物のイラストを得意としており、学園が発行する機関誌の表紙も手掛けていた。

「何すんだよ、ひらせんッ」

 クロウは、キッと平野を睨みつけながらそう言った。

「そりゃ、俺のセリフだ」

 平野はため息混じりにそう言った。「人の身体に当てておいて……。まったく、後で職員室に来い」平野はクロウに向かってそう言った。後ろから、翡翠の押し殺した笑い声が聞こえていた。

「あと、そこで笑ってる宗方。お前もだからな」

「は?なんで、」

「さ、そろそろホームルームを初めっぞーッ」

 抗議する翡翠を無視して平野はそう言いながら教壇の方に向かっていった。「日直、」

 平野がそう言うと日直の「起立ッ!」の声と共に生徒がぞろっと一斉に立ち上がった。

「礼ッ!」

「着席ッ!」

 日直がそう言い、皆が着席すると平野は、こほん、と軽く咳払いをした。

「さて、今日は大事な話が……」

 平野が深妙な面持ちでそう言いかけると宮田恵子(みやたけいこ)という派手な見た目の女子生徒が「なになに?あッ!まさか、ひらせん、結婚すんのッ⁉︎」と驚きながら叫んだ。すると、それを合図とばかりに生徒達が一斉に騒ぎ出した。

「うっそッ⁈誰、誰?」

 誰かが、ピィー、ピィー、と口笛を吹いた。

「新聞部の佐藤です。平野先生、結婚式の出馬という事でしょうか?平野先生ッ!」

「園芸部の鈴木です。お相手は誰なんでしょうか?」

「先生、一言お願いします」

「違うっつーの!」

 平野は、政治家の記者会見風に質問する生徒達に向かってそう言った。「てか、なんだよ。結婚式の出馬って、」平野は、軽く笑いながらそう言った。

「じゃ、なんの話なんだよ」

 前の席に座る伊藤がそう言った。

「最近、物騒になってきてるから用心しろって話だよ。昨日もこの辺りで通り魔事件があったばかりだからな」

「なぁんだ、」

 宮田は、安心したかのような表情でそう言った。

「なぁんだ、とはなんだ。なぁんだ、とは。お前たちの事をだなぁ……」

「はいはい、わかった、わかった」

 宮田は、平野の言葉を遮るようにしてそう言った。

「でも、けーこ。その通り魔の話さ、ネットで結構話題になってるよお?」

 宮田の隣に座る萩原がそう言うと後ろの席の栗原が、うんうんと頷きながら「うん、知ってる、知ってる。見た目はキチンと紳士風って感じらしくてさ、顔が無くて全身真っ黒なんだよね。まとめサイトに書いてあったよ」と言った。

「あはは、うちの近所にある空き巣に注意の看板みたいじゃん、」

 宮田は笑いながらそう言った。

「……顔が無くて全身真っ黒、ね」

 クロウが、小さくそう呟くと隣の席の三木が「アホらし、そんな奴いるわけないってのに、さ。それって、ただの空き巣じゃねえの?」と言った。

「でも、信憑性はないだろ?」

 平野は栗田に向かってそう言った。

「でもさ、そう書いてあるからそうなんじゃないの?」

「あまりネットの話は鵜呑みにしない方がいいぞ?」

 平野は、ため息混じりにそう言った。「どれがデマで、どれが本当の事なのか、わからんからな」

「てか、新聞やテレビもそうだって。あれも信用出来ないから、」

 宮田は苦笑しながらそう言った。

「まっ、とにかくだ。夜に出歩いたりするんじゃないぞ?わかったな?」

 平野がそう言うと「はーいっ」という声が教室中に響き渡った。

「よし、じゃあ、今日はここまでッ!それと、影森と宗方は後で職員室に来るように。逃げたら保護者に連絡だからな?」

「「げ、」」

 二人はほぼ同時にそう言った。

「じゃ、日直、」

 平野がそう言うと日直が「起立ッ!」の号令を掛けた。生徒達がぞろっと一斉に立ち上がった。

「礼ッ」

 それと同時にチャイムが鳴った。

「じゃ、気をつけて帰れよー?」

 平野がそう言いながら外に出て行くと、教室の中は一気に騒がしくなり始めた。

「じゃ、影森。頑張れよ」

 三木と篠山はそう言うと軽く笑った。

「他人事だと思いやがって、」

 クロウは、ぶつぶつと文句を言いながら教室を出て翡翠と一緒に職員室に向かっていった。

「ったく、アンタの所為でアタシまで怒られたじゃん」

 廊下を歩きながら翡翠は、不満そうに言った。

「あ?俺の所為だってのかよッ」

「だって、そうでしょ?アンタが大人しく叩かれてればこんな事にはならなかったのよッ」

 翡翠がそう言うとクロウは、鼻で笑いながら「はっ、だったら、もう少し気配を消せよな。あれじゃ、丸わかりだっての」と言った。それを受けて翡翠が嫌味ったらしく「よく言うわよ。篠山に言われなければ気づかなかったのにさ、」と言うとクロウは「なんだよ。そもそも人の頭を教科書で叩こうってのがさ、」と反論した。すると、翡翠は「あー。よく言うわよッ!元はと言えばね、アンタが悪いんでしょうがッ!」と早口で捲し立てた後、あからさまに残念そうな顔をしながら「あーあ、昔はあーんなに素直で真面目で正義感に溢れていてカッコ良かったのになぁ……。どこで間違っちゃったんだか、」と言った。するとクロウは「お前だって、昔は可愛げがあって淑やかだったのにな」と嫌味ったらしく言った。

「な、なんですってぇッ‼︎」

 翡翠がそう言うと同時に「……ゴホン、」とわざとらしい咳払いが聞こえて来た。

「「え?」」

 見ると、平野がこちらを見ていた。

「あ、えっと……」

「あはは、」

 平野は、愛想笑いを浮かべる二人に満面の笑みを浮かべた後、大きく息を吸い込み「廊下で騒ぐんじゃないッ‼︎」と大きな声で言った。

「「は、はいッ‼︎」」

 二人は、硬直したように背筋をピンと伸ばしながらそう言った。その後、平野から説教と有難いお話を聞かされ、解放されたのは、ホームルームが終わって三十分後の事だった。


2.

 平野の説教が終わり、職員室を後にした二人はそのまま黙って下駄箱へと向かっていった。先程の反省からか、校門を出るまで二人は一言も会話を交わさなかった。

「……はあ、最悪」

 翡翠は、校門を出て道路に出るとため息混じりにそう言った。「アンタの所為だからね?バツとしてなんか、甘いものでも奢りなさいよ」

「ヤダよ。今月、ピンチなんだよ。てか、そんなに甘いモンばっか食べてると太るぞ?」

 クロウが、そう言うと翡翠は「はあッ⁉︎」と声を荒らげた。

「なんだよ、だってそうだろ?ていうか、おまえさ、少し太ったんじゃな……」

 クロウが、そう言いかけると翡翠の腕が鞭のようにしなり、クロウの頬を力一杯、引っ叩いた。


――パンッ!

 

 乾いた音が辺りに響いた。

「サイッテーッ‼︎」

「いってぇッ‼︎何すんだよッ」

 クロウは、赤い手形がくっきりと付いた頬をさすりながらそう言った。目には涙が浮かんでいた。

「アンタが太ったとか言うからでしょッ‼︎」

「いや。俺はさ、お前が……」

 クロウがそう言いかけると翡翠は「何?謝りもしない訳ッ⁈もうッ、あったまきたッ!ほら、行くわよッ!」と言って、クロウの腕をむんずと、掴むとずんずんと、歩き出した。

「お、おい……」

「最近、街中に美味しいスイーツバイキングのお店が出来たのよ。確かぁ、アルッパイプ……だったかな?結構、高いのよ。あそこ、」

 そう言うと翡翠は、不敵に笑った。

「な、ま、まさかそれを奢れってんじゃ、」

 クロウが不安そうにそう言うと翡翠は「あったりぃ、」と言いながら満面の笑みを浮かべた。

「いや、待てって。だから今月、ヤバいんだって。ほら、甘いモンがいいなら別の店でさ……」

「つべこべ言わない。ほーら、行くわよ」

 クロウの説得も虚しく、翡翠は、クロウを引きずりながら清鳳学園の最寄り駅である駿府電鉄(すんぷでんてつ)音羽(おとわ)町駅に向かっていった。

「なあ、マジで街中まで行くのか?」

 カンカンカン、と踏切の警笛が聞こえる中、クロウは、翡翠にそう聞いた。

「そうよ」

 翡翠はそう言いながらポケットからスマホを取り出した。

「俺ん家、反対方向なんだけどさ……」

「じゃあ、はい」

 翡翠はそう言うとクロウの前に手を差し出した。

「なんだよ?」

「わたしだけで行くから、お金ちょうだい」

「いや、ちょうだいって。俺、キャッシュレスアプリなんだけどさ……」

「だから何?」

 翡翠は、少しムッとした不機嫌そうな顔でそう言った。「私だってキャッシュレスくらい持ってるわよ」

「でも、おまえのって、定期券と一体になってるやつだろ?」

「だから?」

「たしか、コレって、定期券型とアプリ間の残高の移動は出来なかったハズだぜ?」


――クロウの言うコレとは、清岡(きよおか)市に本社を置くIT企業コクゾーと清岡市が共同で展開するキャッシュレス決済サービス《エビッス》の事である。

 エビッスは、納税から交通機関まで、清岡市内なら何処でも使う事が出来る為、市民の二人に一人は必ず利用しているサービスで、スマホアプリと定期券型の二タイプがあった。


「あ、ほんとだ」

 翡翠は、定期券を裏返すとそう呟いた。「じゃ、キャッシュ」

「……いくらだ?」

 クロウは、財布を取り出しながらそう言った。

「二千円ッ」

 翡翠は、そう言いながら指を三本立ててクロウの目の前に突き出した。

「千円じゃ、ダメか?」

 財布を開いたクロウは、そう言った。財布の中には千円札が一枚と小銭が数百円分あるくらいだった。

「じゃ、行きましょ?」

 翡翠は、そう言ってクロウの腕を掴むと駅のホームへと向かっていった。

 その後、二人は、電車に乗って駿府電鉄新清岡駅に行き、そのままの足で清岡市中心部にある呉服町商店街に向かっていった。目的の店は《アッルパルイ》という名前で、田丸屋ビルの向かいにある細井ビルヂングの一階にあった。

「結構、混んでんなぁ……」

 店の中に入るなりクロウはそう言った。空席がいくつかあるものの、店内は満席に近い状態だった。

「まっ、人気店だからね」

 翡翠がそう言うと奥の方からフリルの付いたピンク色のメイド服に身を包んだ店員がやって来た。身長はクロウと同じくらいで、髪型はボブカット、髪の色は翡翠と同じ栗色だった。

「いらっしゃいませ……って、クロウじゃん」

 店員はクロウを見るなりそう言った。

「げっ、沙霧……」


――彼の名前は、影森沙霧(かげもりさぎり)。影森家当主・幻斎の実子で、クロウの義理の兄であった。

 幼い頃から影守となるべく修行を積んでいたが、影守に最も必要なカゲを操る才に恵まれなかった。その為、現在は情報収集などの裏方に徹していた。

 ちなみに女性のような見た目をしているが、男である。


「げッ、はないんじゃないかな?」

 店員は、少し引き攣った笑顔を浮かべながらそう言った。

「知り合い?」

「……あー、うん。知り合いっていうかさ、俺の義理の兄弟の……」

 そう聞かれ、クロウが翡翠に店員を紹介しようとすると店員は「影森沙霧です。よろしく」とクロウの言葉に被せるようにそう言うと軽く笑った。

「あ、どうも。宗方、翡翠です……」

「ふうん、キミが翡翠ちゃんかぁ……」

 沙霧は、翡翠を見ながらそう言うと「クロウとは、幼馴染なんだって?」と言った。

「あ、は、はい……」

「コイツ、素直じゃないけどさ、仲良くしてやってね?」

「は、はあ……」

「さて、立ち話もなんだし、席に案内するよ」

 沙霧は「二名様入りまーすっ」と大きな声で言うとクロウと翡翠を席に案内した。

 案内された席は店の奥まった所にある窓際の席で、スイーツが並べられたテーブルやカウンターがよく見えた。

「じゃ、わたしが先に取ってくるから。荷物見張っておいてね?」

「はいよ、」

 クロウがそう言うと翡翠は、スイーツを取りに行った。

「いらっしゃいませー、」

 遠くで店員の声が聞こえた。見ると、無愛想な男四人組の姿があった。

(ふーん、男だけでもこういう店に来るんだな、)

 クロウは、男達を見ながらそう思った。

 その後、翡翠が戻って来た後、それと入れ替わるようにクロウは、スイーツを取りに向かった。好物の苺を使ったスイーツをいくつか皿に乗せて席に戻ると、翡翠がケーキを食べていた。

「そんなに食べて大丈夫か?」

 クロウは、翡翠の皿に盛られたケーキを見ながらそう言った。

「何よ、アンタだって……」

「心配しなくてもちゃんと太らないようにしてっから、」

 クロウは、翡翠の言葉を遮るようにそう言うと軽く笑った。

「あー、そうですか、」

 翡翠は、不満げにそう言うと話題を変える為に「さっきの子、沙霧ちゃんって、いったけ?なかなか綺麗な子じゃない」と言った。

「そうか?」

「そうよ。同性のわたしから見てもさ……」

「なんか、勘違いしてるみたいだけどさ、アイツ、男だぞ?」

「は?え、嘘……?」

「本当だよ。アイツも俺と同じ養子でさ、俺より三、四歳くらい上なんだよ」

「あの子の方が年上なんだ?見えないな、」

「しかも、あんなナリしてっけど、結構強いんだよ……。おかげでガキの頃は散々な目にあってたよ、」

「ふーん」

 意外だな、と翡翠は思いながらそう呟いた。

「なあ、鏡子(きょうこ)さん元気か?」

 クロウが、そう言うと翡翠は驚いたような表情を浮かべながら「え?」と呟いた。

「ああ、いや、なんとなくそう思っただけなんだけどさ、」

「……覚えて、ない、の?」

「ん?何をだ?」

「お姉ちゃんが死んだ、こと……」

 翡翠の表情が一瞬、暗くなる。

「えッ⁉︎そう、なのか……」

 クロウは、信じられないというような表情を浮かべながらそう言うと「……悪りぃ」と小さく呟いた。

「ううん。別にいいよ。いいけど、本当に覚えてないの?」

「いや、まったく……」

「そう、なんだ」

「なんか、悪りぃ。俺さ、ガキの頃の記憶が少しねえんだよ」

 クロウがそう言うと翡翠は、驚いたような顔をしながら「え?」と小さく呟いた。

「ちょうど、一〇年前くらいかな?そこら辺の記憶が一部無くてさ。そういや、影観(かげみ)が使えなくなったのもその時期なんだよなぁ……」

「影観?」

 翡翠は、首を傾げながらそう言った。

「ほら、昔、幼稚園で飼ってたうさぎが脱走した時、おまえが探してって言った事があっただろ?」

「あ、うん。覚えてるよ。確か、地面に手をかざして探してくれたやつでしょ?あれって、影観っていうんだ」

 翡翠は、そう言うと「……ねえ、」と小さな声で言った。

「ん?」

「……その影観ってやつが無くなったのってさ、もしかして、わたしの、所為……だったりしない、よね?」

 翡翠は、そう言った。まるで、何か心当たりがあるような言い方だった。

「んな訳ねえだろ。単に力が不安定だったってだけの話だよ。おまえだから言うけどさ、あの力は女に発現する事が多いんだよ」

 クロウは、そう言うと軽く笑った。「まあ、稀に俺みたいに男に発現する場合もあるらしいけど、不安定らしくてさ。何かの拍子に消えちまう事が多いんだと。ばあちゃんがそう言ってた。だから、御影(みかげ)の家は女性が当主なんだって、」

「そう、なんだ……」

 翡翠がそう言ったのと同時に斜め向かいの席に座っていた男達が立ち上がった。先程やってきた四人組だった。


――ぱんぱんぱん、


 男達は、唐突に手を叩いた。店内に乾いた音が響き渡ると同時にぞろっと客の目線が男達に向けられる。

「突然で申し訳ありませんが、今からみなさんには、我々の人質となっていただきますッ‼︎」

 背の高いひょろりとした身体付きの男が、声を高らかにそう言うと若い男が「何言ってんだよッ!ふざけんなッ」と大声で怒鳴った。それと同時に店内に銃声が響いた。

「きゃあッ!」

 悲鳴と共に混乱する店内。それを見ながら銃を発砲した厳つい男が「静かにしろッ!」と怒鳴った。

「静粛にッ!」

 ひょろりとした男が手を叩きながらそう言った。皆の視線が彼の方に向けられた。

「安心してください。我々は、みなさんに危害を加えるつもりは毛頭ございません。目的が達成された時点で、速やかに開放する事をお約束致します」

 男は穏やかな口調でそう言った。

「ほ、本当か?」

 先程、声を荒らげた若い男がそう言った。

「はい。しかし……、」

 ひょろりとした男は、笑顔でそう言った。「騒いだり、不審な行動が見られた場合には、見せしめに一人づつ処刑いたします」

「なッ⁉︎」

「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。ただ、大人しくしていていればいいだけの事なんですから。簡単でしょう?」

 ひょろりとした男は、そう言うと軽く笑った。それは、まるで獲物を絡めとる蛇にも似た残忍さを内包したような生理的嫌悪感を感じさせる笑みだった。

「ね、ねえ、どうしよう……」

 翡翠が不安そうにそう言うとクロウは「どうしようって、静かにしてるしかねえだろ……」と言った。

「そ、そう、だよね……。正義のヒーローとかが助けに来てくれるわけでもないし、ね」

(……相手は四人。俺と沙霧なら……)

「それでは全員、そちらの隅の方に集まっていただきましょうか?」

 ひょろりと男がそう言うとクロウ達は、壁際に移動した。

「……妙な事、しない方がいいよ」

 クロウの隣に立った沙霧が小さな声でそう言った。

「……なんでだよ?」

「……勘。多分、あの人達に人は殺せない」

 沙霧は小さな声でそう言った。

「……違ったら?」

「……その時は、おまえの好きにしたらいいよ」

「では、携帯電話をこの中に入れてください」

 ひょろりとした男は、ガラ袋を広げながらそう言った。ホームセンターでよく見かける細く刻まれたビニールで織り上げられた麻袋を模したものだった。

「つぎに手を縛らせていただきます」

 ひょろりとした男がそう言うと、彼らはクロウ達、客や店員の手を結束バンドで縛っていった。

 四十代くらいのうらびれた中年男が翡翠の腕を縛ると翡翠は小さな声で「……痛っ、」と言った。

「おっと、悪りぃな。嬢ちゃん」

 男はそう言った。

 全員の両手を縛り終えるとひょろりとした男はスマホを取り出して何処かに電話をかけると「もしもし、警察ですか?」と言った。

「今、我々は呉服町のアッルパルイという店に立て籠もっています。おっと、変な事を考えない方がいいですよ?人質が、いや、もっと大勢が死ぬ事になりますからね……。ふふ、」

 ひょろりとした男は、そう言った。

「要求ですか?ええ、ありますよ。一〇年前に起きた村井唐二郎の事件の再調査を求めます」

「村井……唐二郎、」

 ひょろりとした男の言葉を聞いた翡翠は、復唱するようにそう呟いた。

「知ってんのか?」

「……うん。名前だけだけど、」

 クロウの問いかけに翡翠がそう答えると銃を持った厳つい男が「おいッ!何、喋ってんだッ⁉︎」と言いながら銃を翡翠に向けた。

「ひぃッ!あ、いや。村井唐二郎って、なんか聞いた事ある名前だな、って……」

 翡翠が怯えながらそう言うと男は、銃を下ろした。

「村井さんの事、知ってんのか?」

「いや、名前だけです……。そんな、名前を昔、聞いた事があるんです」

「そうか……」

 男がそう呟くと交渉が上手くいったのか、ひょろりとした男が「……ほお、そうですかッ!いや、話がわかる方で良かった。それでは、お願いします」と嬉しそうな声を上げた。

「ええ、もちろん。人質は解放いたしますよ。では、後程……」

 ひょろりとした男は、そう言って電話を切るとスマホをポケットに仕舞った。「おい、再捜査が決まったぞ」

「本当かッ⁉︎」

 仲間の男達が駆け寄る。

「ああ、県警の伊地知って奴が約束してくれた」

「伊地知……?」

 ひょろりとした男の言葉を聞いたクロウは、復唱するようにそう呟いた。

「え、アンタの知り合い?」

「いや、知らねえけど、そんな名前を聞いた事がある気が……」

 クロウがそう言うと沙霧が「気のせいじゃない?」と呟いた。

 ふと、手を叩く音が聞こえてきた。振り向くとひょろりとした男が「みなさん。お騒がせいたしました。我々の要求は無事に通りました。ですので、今からみなさんを解放いたします」と言った。男の言葉に客達は安心したようにほっと胸を撫で下ろした。それから、男達はハサミで結束バンドを切ると店の外に出るように促した。

 クロウ達が店から出ると同時に大勢の警官を引き連れたスーツ姿の男達がやって来た。

「あ、苅部(かるべ)さんッ」

 スーツ姿の男達の中に見知った顔を見つけた翡翠は、手を振りながらそう言った。

「あれ、ちーちゃん?」

 背の高いがっしりとした体格の男が困惑したようにそう言った。


――彼の名前は苅部啓介(かるべけいすけ)といって、翡翠の姉である宗方鏡子の元婚約者で、現職の警察官であった。


「なんで、ここに?」

「事件に巻き込まれたからに決まってるだろ?」

 クロウがそう言うと苅部はクロウを睨みつけながら「なんだ、この……」と言いかけた後、ハッとした表情を浮かべ「もしかして、クロウくんかッ⁉︎」と言った。

「久しぶり苅部さん」

 クロウはそう言った。「ところで、そんなカッコしてどうしたのさ?」

「ああ、クロウは知らないんだよね。苅部さんね、五年くらい前に異動になって、今は刑事をしてるんだよ?」

「へえ、そうなんだ」

「おう、今は清岡市警察署の捜査一課に所属してんだ」

 苅部がそう言うと「苅部さーん、何してるんですか?」と若い大きな声が聞こえてきた。

「おう。今行く。じゃあな、」

 そう言うと苅部は声の主の方に向かっていった。

 その後、警察が店の中に突入したが、すでに犯人達は逃げた後で、店の中はもぬけの殻だった。クロウ達は、簡単な事情聴取を済ませた後、帰路についた。

「はぁ、疲れたぁ……」

 地下道を清岡駅方面に歩きながら翡翠はそう呟いた。

「大丈夫か?」

「うん。大丈夫……。あんな事があった後だからかな?ちょっと、疲れたってだけ……」

「そっか、気をつけて帰れよ?」

「わかった。じゃあね、」

 翡翠は、そう言うと軽く笑って地下道の階段を駆け上がっていった。

 クロウは、それを見届けた後、自宅へと帰る為、もと来た道を引き返していった。


4.

 クロウが暮らす影森家は、清鳳学園近くの住宅街の一角にある。周囲の画一的な四角い家とは対照的な立派な門構の日本家屋で、築五〇年の平屋建てだった。

「坊っちゃま、おかえりなさいまし、」

 門の前で掃き掃除をしていた若い女性が、クロウに気が付き、声を掛けてきた。


――彼女は、影森家に仕える忍びの一人で、名前は三隅須磨子(みすみすまこ)。歳は二三で、身長はクロウや沙霧、翡翠よりも高い一七八センチ、大人の色香を感じさせる整ったプロポーションをしていた。普段は、おっとりとした優しい性格で、近所での評判もよく人気もあった。

 能力は低いが、彼女も影守であり、情報収集や影物の討伐に従事しながらこの家で住み込みの家政婦として働いていた。 


「ただいま、スマ」

「何か、ありましたか?」

 須磨子は、クロウの顔色を見るなりそう言った。

「まあ、ね」

 クロウは、そう言って門の扉を開けて敷地内に入った。玄関の戸を開け、ただいま、と言おうとした瞬間、鋭い殺気と共に何処からともなく黒い物体がクロウ目掛けて飛んできた。


――ドスッ!


「うおッ⁉︎」

 咄嗟に躱すと、同時に耳元で鈍い音がした。見ると扉に黒い小刀が三本、ぶっすりと突き刺さっていた。

「殺す気かッ!ジジイッ」

 クロウがそう怒鳴りながら人差し指と中指を立てた手を素早く一閃させ、影手裏剣を放った。指の先端から出た黒い刃は、真っ直ぐ飛んでいき、目の前の壁に突き刺さった。

「はっはっは、なあに、ちゃんと手加減しているんだ。このくらいで死にゃあせんて」

 そう聞こえたかと思うと、何処からともなくクロウの養父であり当主である影森幻斎(かげもりげんさい)が人の良さそうな笑みを浮かべながら姿を表した。

「むしろ、この程度でくたばる様では影守なぞ、とても……」

 そう話す幻斎目掛けてクロウは影手裏剣を放った。カッ、と言う小さな音と共に刃は、幻斎の額に深々と突き刺さり、同時に幻斎の身体が、ゆらり、と揺めき、そのまま刃と共に霧のように跡形もなく消えてしまった。

「お前こそ俺を殺す気かッ⁉︎」

 いつのまにかクロウの横に移動していた幻斎がと声を荒げた。

「なんだよ、お互い様だろ?」

 幻斎に怒られたクロウは、なぜ、自分だけ?と思いながら不満げにそう言った。

「なら、少しは手加減しろッ!」

「生身のアンタが相手だったらちゃんと手加減してたね」

 クロウは、そう言うと、へらり、と笑った。

「まったく、育ての親に対してなんちゅう言い草だ……。それで、今日は随分と遅かったようだが?」

 幻斎は、そう言った。

「……門限なんてねえんだから別にいいだろ?」

 クロウは、不満げにそう言うと、一つ、間を開けてから「……ちょっとした騒ぎに巻き込まれた」と言った。

「ほう?」

 クロウの言葉に幻斎は目を細めた。

「今日、翡翠と沙霧のバイトしてる店に行ったんだけど、そこで立て篭もり事件が起きてさ、」

 クロウは、靴を脱ぎながらそう言った。「……ああ、安心しろよ。忍法は使わなかったから」

「まあ、沙霧がいたのならどのみちお前に力を使わせなかっただろうがな」

 幻斎はそう言った。「で、その翡翠というのは、前に話していたお前の幼馴染の事か?」

「そうだよ。この前も言ったけどさ、こっちに来る時に別れて以来だから……一〇年、ぶりくらいかな?」

「なるほどな。で、その子は《影観》の事は知ってるのか?」

 幻斎がそう言うとクロウは「ああ。御影の家の事も、な」と軽く頷きながらそう言って靴を下駄箱に仕舞った。

「……別にいいだろ?もう、使えなくなった能力なんだしさ、」

「まあ、な……」

 幻斎は、そう言った。そして、上り框(あがりかまち)の上に置かれているスリッパを履き、荷物を持って自室に向かって歩いていこうとするクロウに向かって「……影守の事は言ってないだろうな?」と静かな口調で言った。

「言ってねえよ。まっ、言ったところで信じやしないだろうけど、」

 クロウが軽く笑いながらそう言うと幻斎の目つきが僅かに鋭くなった。それを察知したのか、クロウは振り返りながら「……わかってるよ。力が悪用されるかもしれねえってんだろ?」と言った。

「ふむ。まあ、わかっているならそれでいいがな……」

 幻斎は、そう言うと軽く笑った。先程までの僅かに鋭い目つきは鳴りを潜め、人の良さそうな柔和な表情に戻っていた。「……それと、大事な話がある。着替えが終わったら俺の部屋に来てくれ……」

「任務か?」

「察しがいいな……」

 幻斎は、そう言った。

「話なら、ここで聞くぜ?」

 クロウがそう言うと幻斎は首を横に振った。「そう焦るな。それに今回は少しばかり厄介な相手だ。色々と話しておきたい事がある」

「厄介な相手?」

 クロウは、幻斎に向かってそう聞いた。しかし、幻斎は、クロウの問いに答えることなく、私室に向かっていった。

「ちっ、なんだよ……」

 クロウは、舌打ちをしながらそう呟くと、手洗い、うがいを済ませた後、自室のある離れへと向かっていった。

 クロウの部屋は離れの一角にある六畳ほどの広さの和室で、大きな窓からは庭と母屋の一部が見えていた。

 部屋に入るや、否や、クロウは鞄をベッドの上に放り投げた。ボスン、と鈍い音が部屋の中に響いた。

「……今日は、散々な一日だったな」

 そう呟きながらクロウは、制服を脱いでいった。脂肪分の少ない、細身ながらも腹筋の割れた引き締まった身体があらわになる。

 クロウは、部屋着にしている半袖のシャツと短パンに着替え終わると、ぐーっと伸びをした後、ワイシャツを持って部屋を出た。

 部屋から出た瞬間、帰宅して部屋に入ろうとしていた沙霧と出くわした。彼の部屋はクロウの部屋の向かいにあった。

「あ、ただいま」

 沙霧はそう言った。彼は店で見たような可愛らしい姿ではなく、年相応の無愛想な若者、といった服装だった。

「お、随分と早いんだな」

「当たり前でしょ?あんな事があった後なんだからさ」

 沙霧は、軽く笑いながらそう言うと部屋の中に入っていった。

 クロウは、途中、母屋にある脱衣所に寄り、ワイシャツを脱衣カゴの中に放り込むと母屋の一角にある幻斎の私室に向かっていった。

 幻斎の部屋は、庭に面して作られた一五畳ほどの広さの和室だった。

「来たか」

 クロウが襖を開けると、庭を背に座る幻斎がそう言った。この部屋は書斎も兼ねており、周囲には、壁際の本棚に収まらなくなった本が堆く積まれていた。「まぁ、座れ」幻斎は、自分の前に置かれた座布団を指差しながらそう言った。

「で、任務内容は?」

 クロウが座りながらそう言うと幻斎は「まあ、そう焦るな、」と言って軽く笑った。

「最近、この辺りで通り魔が目撃されているという話があるだろ?」

「ああ、今日、学校で聞いたよ」

 クロウは、そう言うと怪訝そうな顔をしながら幻斎に「まさか、その通り魔の正体が影物(かげもの)だって言いたいのか?」と聞いた。

「そうだ」

 幻斎がそう言うとクロウは「ハッ、冗談、」と馬鹿にしたように鼻で笑いながらそう言った。

「影物ってさ、黒いガス状の動物みたいな見た目だろ?」

「うむ、そうだな」

 幻斎は、そう言うと軽く頷いた。

「でも、ネットじゃ、通り魔は……」

 クロウがそう言い掛けたところで、幻斎は言葉を被せるかのように「黒い顔の無い紳士風の男、だろう?」と言った。穏やかな、それでいて威厳に満ちた声だった。

「……わかってんじゃねえかよ。なら、」

 クロウがそう言いかけると、幻斎は言葉を遮るように「……その通り魔の正体は、憑物(つきもの)と呼ばれているものだ」と言った。

「……つきもの?」

 聞き慣れない言葉にクロウは首を傾げながらそう言った。

「影物は人間の残留思念である影が変質した存在……。これはわかるな?」

「ああ。何回も聞かされてっからな」

 幻斎の言葉にクロウは、軽く頷きながらそう言った。「で、そのつきものってのは、なんなんだよ?」

「……憑物というのは、人に取り憑いた影物のことだ」

「人に?」

「そうだ。奴らは、人の怨み、嫉妬、憎しみ、歪んだ欲望などといった負の感情につけ込み、物を介して取り憑く」

「物を介して?直接取り憑くんじゃねえのか?」

 クロウは、幻斎に向かってそう聞くと幻斎は首を横に振った後「いや、影物は、基本的に不安定な存在だ。故に初めの頃は人に直接、取り憑くよりも物を介して取り憑くことが多い」と言った。

「……初めの頃は、って事は直接取り憑く事もあるのか?」

 クロウは、幻斎に向かってそう聞いた。

「……一定の段階まで成長すれば、な」

 幻斎は、クロウの問いに答えつつ、続けて「……奴らは、人と同じ姿形で言葉を話し、自我を持っている。加えてずる賢いものが多い……」と言った。

「げっ、マジかよ……」

 クロウが顔を顰めながらそう言うと、幻斎が「最初に言っただろ?厄介な相手だと」と言って軽く笑った。

「だが、奴らは宿主の能力以上のことは出来ない。その点でいえば我々に分があるといっていいだろう……。しかし、相手が生身の人間である以上、慎重にならなければいかん。それに……」

「それに?」

「取り憑いた影物は時間と共に宿主の精神エネルギー(カゲ)生命エネルギー(コウ)を徐々に吸い取っていく……。タイムリミットは一か月、それを過ぎたら助からないと思え」

 幻斎は、まっすぐな、威厳に満ちた眼差しで、クロウを見つめながらそう言った。

「……もし、タイムリミットを過ぎたらどうなるんだよ……」

 クロウが、幻斎に向かってそう聞くと、幻斎は、一呼吸、おいた後「衰弱死した宿主の内を喰らい尽くした後、その器を乗っ取り、(さなぎ)となる。成り物(なりもの)となる為の、な」と言った。

「……蛹?成り物?」

「影物の上位種、まぁ、妖怪みたいなものだな。そして、身体が完成した時点で、器を破って外に出る。蝶が蛹から羽化するように、な」

 幻斎は、そう言った。「……成り物はさらに厄介な相手だ。影守の力を持ってしても倒せるかどうか分からん」

「じゃあ、どうすんだよ」

「まあ、蛹になる前、或いは、蛹の段階で倒すしかないな」

 幻斎は、淡々とした口調でそう言った。

「さて、今回、お前が退治するのは、この辺りを騒がせている通り魔、つまり、この男に取り憑いた憑き物の退治だ」

 幻斎は、そう言うと一枚の写真をクロウに向けて投げた。写真には眼鏡を掛けた冴えない男が、隠し撮りと思われるアングルで写っていた。髪はボサボサで、無精髭は伸び放題。着ているスウェットはヨレヨレだった。

「宿主の名前は高倉慎介(たかくらしんすけ)。現在は無職で、お前の学校の近くにあるマンションに住んでいる」

 幻斎がそう言うとクロウは「あそこか……」と呟いた。

「本当にコイツなのか?」

 写真を見ながらクロウが、そう呟くと幻斎は「……なぜ、そう思う?」と言った。

「いや、その通り魔って若い女性を襲ってるって話だろ?なんていうか、そういう風には見えねえっていうかさ、」

 クロウがそう言うと幻斎は「だろうな」と軽く頷いた。

「しかし、憑き物は、人の奥底にある負の感情が具現化したものだといわれているからな。外見では、判断出来んよ」

 幻斎は、そう言った。「……で、だ。お前には、明日から汲霧に行ってもらう」

 幻斎がそう言うと、クロウは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしながら「は?」と言った。

「なんだ、知らんのか?汲霧は……」

 幻斎がそう言いかけるとクロウは、幻斎の言葉を遮り「いや、知ってるよ。県境近くにある集落だろ?でも、この高倉って奴となんの関係があんだよ?」と少し困惑したような表情を浮かべながら言った。

「明日、汲霧にある汲霧神社で年に一度の祭りが行われる。しかも、一〇年に一度の神事が執り行われる特別な日だ。高倉は、その神事に参加する為に汲霧に行くらしい」

「そこで退治しろってか?」

 クロウがそう言うと幻斎は「そうだ」と言って軽く頷いた。

「ていうか、近くなんだからさ、今から行ってサクッと退治すりゃあ良いじゃねえのか?なんで、こんな回りくどいやり方すんだよ」

 クロウが、そう言うと幻斎は「だろうな」と言った。

「だったら……」

「しかし、そう簡単にはいかない。高倉の住んでいるマンションは、セキュリティが高いことで有名だ。加えて、周囲には高い建物も少なく屋根づたいに屋上から侵入することも出来ない。しかも、周囲は明るく人通りもそこそこある」

「でも、影忍法には気配を消す技もあんだろ?それを使えばいいんじゃねえのか?」

 クロウがそう言うと幻斎は軽く頷きながら「確かにな。だが、憑き物退治でもっとも重要なのが依代が何であるか、だ。先程も言ったように基本的に憑き物の本体は人の身体ではなく、物だ。それがわからない以上、無闇に動くことはできない。最悪、取り逃す可能性があるからな」と言った。

「そりゃ、高倉が汲霧に行っても同じなんじゃねえのか?」

「いや、そうでもない」

 幻斎は、そう言うと一呼吸、置いてから続けて「憑き物は、宿主の強い思い入れのある物に憑依するとされている。そして、宿主と憑き物は一心同体。理由なく離れることはない」と言った。

「つまり、高倉が汲霧に行くってことは、依代も一緒ってことか?」

 クロウがそう言うと幻斎は「おそらく、な」と言って軽く頷いた。

「まあ、しかし、念の為に依代が他の物という可能性も考えて高倉が留守の間、誰かに探らせる予定ではあるが、な」

「当然、準備は出来ているんだよな?」

「ああ、詳しくは沙霧に聞いてくれ」

 幻斎がそう言うとクロウは「わかったよ」と言いながら高倉の写真をポケットの中に仕舞い、立ち上がった。

「いいか、クロウ。抜かるなよ?」

 幻斎が威厳に満ちた声でそう言うとクロウは「了解、」と言って部屋から出て行った。


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