オウジェンの谷
オウジェンの谷は、シンクが聴いていた通り険しく切り立った崖路であった。
シンク達が歩いている道は、木々の生えない岩山道になっており、荷車を考えると、辛うじて商隊が通れる程度の道幅である。
しかし、谷、というだけあって、谷底を挟んで向こう側にも山が存在してた。
そちらも聞いていた通り、岩山道とは対照的に急な斜面に土が被り、そこから鬱蒼とした木々が生えているのが見て取れた。
山脈を下って来たが、まだまだ海抜に比べれば、随分と標高は高いようで、谷底は吸い込まれてしまいそうな程、深かった。
シンク達が谷に入ってから一時間程。
数度、小さな落石があり、その都度、一瞬「いざ、来たか!?」という緊迫した空気がびりびりと流れた。
今の所、魔物からの襲撃は無かった。
しかし、それは今の所というだけである。
皆、この谷に入ってから、やはり早く抜けてしまいたいという事だろう。
昨日に比べて、明らかに列全体の進行ペースは速くあり、歩幅の狭いシンクには、なかな辛かった。
それでも、シンクは額に汗をかきながら、必死で付いて行く。
時折、ターナが心配げにシンクの方を見やるが、その度に、シンクは大丈夫という意味を込めて頷いて見せた。
(……大丈夫。あと、二時間も歩けば、谷は越えられるのよね)
谷に入る前、オルガから運が悪くなければ、3時間程歩けば抜けられると聞いていた。
確かに、難所というだけあって、魔物の巣となっている森から此方は丸見え、戦うにしても、足場は狭い。
セレニエンの話も聞いている為、多少無理をしてでも、早く抜けてしまいたいのシンクも同じであった。
だが、運が悪い。
「アングーだ!」
私兵の一人が叫んだ。
魔物に狙われている今、静かに過ごす意味は無かった。
シンクが久方振りに聞いた大きな声。
当然、それは喜ばしい事では無い。
アングーとは、熊の頭に、タカの身体をした魔物で、彼等は力が強く、群れで獲物を襲ってくる。
すぐに戦いは始まった。
アングーはこの辺りに出る魔物の中では、弱い方である。
しかし、例えそうであっても、シンクの胸の鼓動が、破裂しそうな程に高鳴る。
何とか、気持ちを静めようとするが、上手くは行かなかった。
生存本能が高まり、皆、目が血走っていく。
生死の境が、今、目の前にあると、身体の全てが訴えてくるのだ。
(これだけ長い行列なのに、どうして私たちの所にくるのよ!?)
シンクは内心で悪態をついた。
他の商組もアングーの姿を見ている。
しかし、商組から距離を取った魔物相手に弓で牽制を入れる程度で、助太刀に駆けつけるという事は無い。
そうして、自らの守りを弱めれば、魔物達はそこに襲い掛かるのだ。
奴らには、そのくらいの知恵がある。
シンクとターナ、非戦闘員の使人が荷車の近くで固まって、その周りを私兵、そして、本人も戦えるのか、オルガが固める形で戦っていた。
シンクは未だ、武器を抜いていない。
間近で行われる戦いを固唾を飲んで見つめ、胸に抱きしめた剣が、鞘の中でカタカタと音を鳴らした
やはり、無傷の戦いとはいかなかった。
こちらの私兵が一人首に噛みつかれ落命する間に、他の者達が三匹のアングーを仕留めた。
しかし、一人やられたことが、一瞬の動揺を産む。
その一瞬の隙を付いて、アングーの一匹が、オルガに向かって突撃し、あっという間、馬乗りに押し倒してしまった。
押し倒されたオルガは、噛みつこうとするアングーの口に、自ら剣を押し当て、何とか耐えている。
使人や私兵たちが、すぐさま救い出そうとした。
しかし、他のアングー達の猛攻にあい、すぐには動けなかった。
オルガとアングーがギリギリと鍔迫り合いの様に押し合うが、人と魔物、アングーの牙がジリジリとオルガの方へと近づいていく。
-----カシャン
戦いに突入してから、始めてシンクは鞘から剣を抜き放った。
気の強い彼女にしても、魔物は怖い。
しかし、この時、不思議とシンクの中で肝が据わっていくのを感じた。
逆上しているわけではない。
いっそ、此処にいる全てを私が守ってやる、そのくらいの気持ちが彼女の中に湧き出していった。
「だめよ! 貴女がいっても殺されてしまうわ!」
自らの夫が襲われて、力があれば自らが飛び出していきたいであろうに。
それでも、ターナは戦う気でいるシンクを止めに入った。
しかし、シンクはターナが掴んだ腕を振り払うと、剣を腰だめに構える。
「私が死んで困る人間なんかより、オルガの方がよっぽど多いわ! サルファディアには溶石が必要なんだから! オルガを守るわよ!」
例え、オルガが死んでも、ターナと彼女を固める使人が残って居れば、商いは成立するのかもしれない。
だが、シンクの頭の中に、そのような考えはないし、例えあったとしても、今の彼女は納得しないだろう。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
シンクは声を勇ましい叫び声を上げると、走り出し、勢いをつけて、身体ごとアングーの頭に剣を突き立てようとする。
体躯の小さいシンク。
下から、かち上げる様な剣突は、勢いそのままにアングーの脳天を貫いて、一瞬にして魔物を絶命させ、オルガは危機を逃れた。
しかし、誤算が産れる。
ここは非常に狭い崖路。
シンクは、全力の一撃、その勢いのあまり、アングーの死体と共に、そのまま崖に向かって転落して行ってしまった。
あっと言う間の出来事であった。
その様子を見つめていたターナは、悲鳴と共に思わず顔を覆う。
オルガは、突撃してきたシンクの額に、何か淡く不思議な光を見た気がした。
すいません。
今回、短めです。
逆に明日、明後日の投稿分は非常に長い物となっています。
区切りの都合でこうなってしまいました、ご理解いただければ幸いです。