夜の闇
その後、2時間程歩いた辺り、あと一時間も歩けば、日が陰り始める。
再び、列が停止した。
列の先頭には、キヤたちが付いていた。
シンク達も何れ、先頭を歩く時が来る。
今日だけでも、シンクは極度の緊張の中で歩き通し、これが後、幾日も続くのかと思うと、眩暈すら覚えた。
しかし、今更、戻る事も出来ず、そんな場所も在りはしない。
負けてはいけない。
踏破するしかないのだ。
静かに深呼吸を行い、気持ちを入れなおすと、この停止は何か、耳を澄ませ、周囲を伺った。
すると、オルガが近くに寄ってきて、シンクの耳元に小さな声で告げた。
(黙って聞け。オウジェンの谷だ。難所の一つでこれから暫く、姿を隠せる木々が途切れる。此方からも発見しやすいが、魔物にとっても、此方をすぐに目視できる。……俺やアヂンが襲われた場所だ。)
オウジェンの谷は、道幅3m程の崖路を、山に沿って縦走しなくてはならない。
当然、谷と言うだけあり、隊の進む山の対面にも山があり、そこは、セレニエンなどの飛行型の魔物の住処となっていた。
話を聞いたシンクは、顔を強張らせ、オルガにじっと目を合わせる。
オルガは一つ、頷いた。
(恐らく、戦いは避けられない。……今は、このままいくか、明日、夜が明けてから進むのか、決めかねているのだろう。幸い、オウジェンに出る鳥獣種の魔物は、夜目のきかない者が多い。ただ、それが全てではないし、幅の狭い道を、灯りもなく進むのは、それだけでも危険だ……。)
シンクは難しい顔をする。
彼女が決めるわけではないが、確かに何方を選んでも、賭けとなりそうな選択である。
オルガは、必要な情報は与えたという事だろう。
元居た場所に戻って行った。
その後、10分……20分……30分、いくらの時間を経ても動きは無かった。
荷車の傍で、ターナがシンクを手招いた。
「?」
シンクが近寄っていくと、他の使人達も、同じく近づいて来た。
(多分、今日はここで一晩を超すことになるわ)
ターナは言葉少なく、小声で囁いて、車の中からそれまで布団に使っていた布を取り出して、シンクへと手渡した。
(気休めだけど、防臭の布よ。夜はこれを頭から被って、座りながら休むの。)
布団として使われていた布は、ただの布では無かったらしい。
布を被り匂いを決して、闇に紛れて魔物、魔獣から姿を隠して過ごすという事であった。
闇夜の中ではいくら優秀な私兵であろうとも、闇を見通す魔物には敵わない。
であれば、極力存在を消して、運に任せる方が生き延びられる可能性は高いという事だ。
シンクの中で、細かい事への好奇心がふくらみ、あれこれと聞いてみたくもなる。
しかし、状況が許さない。
ターナは手早く他の人間にも布を渡して、シンクは使人から夕食分の保存食を受け取った。
皆、それぞれに受け取ると、布を頭から被り、ポコポコと彼方此方、布の小山を作っていった。
シンクも布を頭から被った。
他の大人達であれば、足元の隙間から、まだ、夕暮れの光が漏れ入って来たかも知れない。
しかし、大きな布は、身体の小さなシンクを完全に覆いつくし、内側には一切の光を通さない常闇を作り出してしまった。
暗闇と静寂が、シンクの心に唐突な心細さを与えた。
それを紛らわす為、シンクは、先程受け取ったばかりの保存食の包みを開いた。
暗闇にほんのりとなれた瞳には、何やら四角い輪郭が映し出される。
これはテテを一度砕いて乾かし、その上から固め焼いた物である。
発酵や、カビは、それに含まれる水分が原因になっている事が殆どである。
実際、それ程持たせたことは無いが、もともと、パサパサと水分の少ないテテから、更に水分を奪うことで、4年はゆうに持たせる事が出来ると聞いていた。
シンクはそれを、小さく口に含む。
あまり、美味しいという物ではない。
しかし、ほんのりと微かに香る、芋特有の甘味を感じ、普段であれば水と共に飲み下すそれを、なるべく時間を掛けて、舐め解かす様に食べた。
目を閉じて、その甘さだけに意識を集中すれば、この辛い旅路や心細さも忘れられる気がしたのだ。
それでも、少しでも気を抜けば、この様な夜が、あと数日続くことを思い出す。
シンクは小さく、音の漏れぬ様にため息を吐いた。
「……。」
(オルガやキヤ達は本当にすごいわ。)
シンクは心の底から、彼等、コペレティオの面々を尊敬する。
このような目に合う事が解っていて、それでも、また、ここへ挑みに来ているのだから。
ふと、シンクは思い出した。
コペレティオには留学生が毎回参加する。
今回は、シンクもその様に偽っての参加だ。
しかし、留学生が帰ってきて、国の為に何かを成した、立派な学者になった、家臣になったという話は、王宮に居た頃も、トンと聞いたことが無い。
恐らく、ベンデルに渡ってその後、帰って来たものは居ないのだろうか。
(お父様はそれを解って送り出していたのかしら……、)
今となっては、シンクには解らないし、何かベンデル側に理由があったのかもしれない。
シンクは暗闇の中で眉を顰めた。
そして、再び静かに一息吐いて、目を瞑る。
この暗闇の中で、目を必要以上に開けている意味は無いのだから。
(私も、ベンデルのおばさまに会った後、また、この山脈に戻ってくるのかしら……。)
シンクはそう考えて、すぐさまその考えを打ち消した。
(今、その事を考えてはダメ。……きっと良くない答えが出るわ。)
シンクはまた、テテの欠片を口に含み、昼間溜め込んだ疲労を癒すことに、全神経を集中させた。
翌朝、周囲を複数の人間が歩き回る様な音を聞いて目を覚ました。
足元までしっかり覆える布を少し持ち上げる。
布の隙間から、明かりが内側に入ってきた。
シンクは目をシパシパと瞬くと、布を全て取り払った。
もう、朝になっていたようで、私兵たちは既に起きていて、辺りを警戒していた。
どうやら、生き延びる事が出来たらしい。
ひとまず、シンクは安堵のため息を吐いた。
(首が痛いわ……。)
座った姿勢で寝たせいか、首がこって、じんじんと痛んだ。
シンクは首や肩を回すと、布に着いた土埃を静かに払い、畳みながら立ち上がった。
それから30分後、シンク達は昨日と同じように、歩みを進め始めた。
食事は歩きながらだ。
そして、5分ほど歩いた辺りで、地面に血痕が残っているのを見つける。
その様な物音は気付かなかった。
しかし、恐らく運無く、夜中に襲われ、遺体はその魔物か魔獣が持ち去ったのであろうか。
シンクは顔を青ざめさせ、朝食を飲み込むのに苦労する事となった。