オルガ
シンクは翌朝、普段より早く眠りに入ったせいか、まだ、外は暗い中で目が覚めた。
分厚い風よけ布は、思っていたよりも保温性に優れている。
石肌に厚めの布を引いたうえで、寝たにしては、すっきりと起きられた。
体の痛みも無視できる範囲だ。
あくびを一つして、頭の覚醒を促すと、石の上で寝てもへっちゃらな王女なんて、私くらいよね。と、そんな事を考えながら立ち上がった。
(……まあ、元だけど。)
周りを見ると、まだ寝ている者と早くも起きて、外に居る者がいる様だ。
寝ている者は、疲れているのだろう。
昨日、銀鋼の積まれた車を引いていた使人達が主だった。
シンクは他の人を踏まないように、そっと歩き出そうとして、自らの掛け布の端に、妙な膨らみがある事に気付いた。
不思議に思ってめくってみると、そこには一昨日のクワァムがいた。
「あら……、そういえば、姿を見てなかったけど、ちゃんと付いて来ていたのね。」
シンクは小声で話しかける。
商品である筈なのに、繋がれてもおらず、また、逃げもしない小地竜。
恐らく、昨日は雪避けの屋根壁のある車の中に居たのであろうか。
クワァムはノーンと一鳴きすると、シンクの足をタシタシと叩いた。
布を剥がされたことへの不満なのか、かまえと言っているのか、別の何かか、シンクには解らない。
とりあえず、かがんで、クワァムを抱え込むと、大人しく赤子の様に、仰向けで抱っこされた。
「ふふふ……。愛らしい子ね。でも、あなたは足が長くて、抱っこしにくいわ。」
右手で抱え、左手で喉やお腹をさすってやると、クワァムは気持ちよさそうに目を細める。
「あら? おちんちんが付いてるから、貴方は男の子なの? 昨日はあったかしら?」
依然、遊んでやった時は、無かった気がする。
同じの子ではないのかとも思ったが、それでは何故ここで一緒に居るのか。
結局考えても解らない事である、気のせいかしらと、首を傾げながらクワァムを撫でてやった。
しばらく、撫でられていたクワァムであったが、急に手足をパタパタ振り藻掻くと、シンクの手から逃れ、風よけの外へ走って行ってしまった。
車へ戻ったのか、外をふらふら探検するのか。
一応、商品であるわけだし、連れ戻した方が良いか、とも頭をよぎる。
しかし、もともと雪山に住む種類の生き物だ。
あの子が逃げても、ろくに管理もしていないオルガ達が悪いんだわと、そう思って気にしない事にした。
クワァムに続き、シンクも石肌に紐で固定された風除けから顔を出す。
雪山の冷たい風がシンクの顔を洗っていく。
日は昇ってはいない。
しかし、ベルデルディアから見下ろすサルファディアは、青く輝くアギモラの灯木によって思っていたよりも美しく明るかった。
(昨日よりも風が強いわ……。)
外へ出ると、止められた車を風よけに、オルガが携帯竈に火を熾し、鍋を温めていた。
シンクが近づいていくと、すぐに気づき、顔を上げる。
「起きたか」
「ええ、おはよう。」
「疲れは取れたか?」
オルガからその様な言葉が出るとは思わず、シンクは小さく眉を上げた。
「え……、ええ。まったく問題ないわ。」
「そうか……なら良い。」
オルガはそういうと、パチパチと音を立てて燃える竈に小さな溶石を放り込んだ。
「昨日はごめんなさい。」
シンクは改めて謝罪した。
オルガは訝し気に眉を顰める。
「……しおらしいな。」
シンクは口をへの字に曲げる。
「私だって、初めての山脈越えよ……。貴方達には世話になっているもの。邪魔になりたい訳ではないわ。」
シンクがそう告げると、オルガは何か考える様に黙り込んだ。
「……。」
そして、唐突に話し出す。
「セレニエンという魔物を知っているか?」
「? いいえ。魔物には詳しくないわ。」
真剣な顔をして、オルガはシンクを見つめる。
「アーリオンとは違う、鳥の姿をした魔物だ。……非常に残忍で、毒なのか……俺には解らないが、セレニエンの鋭い爪で引っ掛かれると、身体が徐々に衰弱していって、動けなくなる。奴らはそうなった人間を、息の根を止めることなく、引っ搔き続け、血が噴き出して苦しむ姿を見て、楽しんだ。」
シンクはまるで、えぐい物でも口にした様に、口をへの字にしたまま、眉をハの字に下げた。
「4年前、俺たちは奴らの群れに襲われた。」
シンクは黙って、静かに耳を傾ける。
「俺の前を進んでいたのは、ヘリオスから来た、キヤとも親しいアヂンというベテラン商人だった。そして、山脈に入って6日目にベルデルディア側で襲われた。俺たちを含め、戦ったが……ダメだった。アヂンも何とか抵抗したが、最期には血だるまになった。」
オルガはそこで、一拍置くと目を瞑る。
そしてまた、瞼の裏に焼き付いた光景を、再び追体験する様に話し出した。
余りに強い感情の発露か、言葉の脈絡が大きく乱れている。
「……ただ、俺は……、本当は助けてくれと言っていたのかも知れない、だが、俺には……奴らに群がられ、ズタズタにされて身体は動かないのに、バチバチと強い意志で俺を見つめる、アヂンと目が合ったんだ。その目は、俺に「早くいけ!」と言っている。死を目前に、怯えるその中に決意を込めた目をしていた様に思えたんだ。」
オルガは珍しく饒舌に語ると、昂る自分を落ち着かせるように、「ふー……」と長く、ため息を吐いた。
魔物は恐ろしいものだ。
人死は他人事ではなく、オルガの山脈越えはこれで二度目。
引退したのでも無ければ、つまり、それは、その前の年、前任者が落命したことを意味する。
「俺たちは、必ず……必ず、帰らなければならない。」
オルガはそう言うと、竈の炎を見つめ、溶石の欠片をまた一粒放り込んだ。