前夜
夜。
夕食の準備を手伝ったシンクは、そのまま夕餉にも招かれた。
余程求められるレベルが高く無くて、基礎さえ押さえていれば、料理とは案外何とかなるものである。
恐らく、彼等の住むオリムの料理なのだろうか。
シンクの見たことの無い物もあるが、アヴィアの御蔭か無事にこなす事が出来た。
一つ、大きく驚いたことは、夕食の準備はターナだけでなく、使人やオルガまで一緒に手伝っていた事である。
そういう習慣は土地の物か、家由来のものか、シンクには解らない。
しかし、後になって考えてみれば、それなりの人数で作っていたのだ。
シンク一人が、それに追加された所で、どれだけの助けになったか。
知れた事である。
恐らく、ターナが気を使い、シンクを夕食に招くため、わざわざ作った口実であろうと推測出来た。
食事をしていると、オルガが話しかけて来た。
「……お前、何処から来た?」
「パルティアよ。」
オルガは眉を顰める。
「そうか……。歩きなら一週間はかかるな。」
「途中で休んだから……もう少しかかったわね。」
何もなければ、確かに7日程。
しかし、雪が降れば、足は止まる。
此処の所の天候を逆算すれば、10日程。
ただ、別に正確なところを言う必要はないと気付き、ぼかした言い方をした。
「何故、留学を?」
「私はとっても優秀だったのよ? でも、私の先生が、貴女は世間知らずだから、色んなものを見て学んで来なさいって。」
シンクは世間知らずと言われた辺りで、不満さと、嬉しさが入り混じったような表情をした。
「首都の良い所の出か?」
これでも、シンクは元王族。
オルガには彼女の仕草などから、シンクが普通の出自とは思えなかった。
なお、優秀の下りには、興味が無いのか、信じていないのか。
なんの反応も無かった。
シンクは汁に口をつけ、舌と喉を湿らせる。
「もともとはね。先生の所に住み込みだったから、実家にはもう、何年も帰ってないわ。」
シンクは内心、ぬるぬると出てくる自分の嘘に呆れてしまった。
ただ、それもそう続くものではないと理解している。
「ねえ、山脈越え。オルガたちは初めてじゃないんでしょ? 私も話には聞くけど、実際、どんな感じなの?」
早々に自分の話は切り上げさせた。
オルガは一度、むっと考え込んだ後、話し出す。
「基本的に、サルファディア側はそれほど、危険ではない。」
シンクは眉を上げる。
「そうなの?」
オルガは、この辺りでは珍しい、マッカと言われる魚の干し身を飲み下し、頷いた。
「サルファディア側の危険と言えば……山脈の上の方は冬と変わらぬほど寒い。コペレティオが夏に組まれる理由だな。そして、山の天気は変わりやすいからな。突然、猛吹雪に襲われたり、突風に攫われて、転落したり落氷……まあ、精々そう言った感じだな。」
オルガに冗談をいう気配はない。
「私には充分、危険に思えるけど……?」
シンクは眉を顰め、肩を竦める。
それから、深意を問うように、オルガの瞳を真っすぐ見つめた。
「それでも、サルファディア側で死ぬ奴は、毎年5人に満たない。……自然は明確に、こちらの命を狙っているわけでは無いからな。」
シンクは唇をへの字に曲げ、何やら考える様に、数度頷いた。
「やっぱり、聞いておいて良かったわ。随分、私の認識とは違うのね。」
オルガは「ふん」と鼻を鳴らすと頷いた。
「問題は、山を越えてからだ。超えたばかりは、まだ、標高もあって寒さが残っている。そして、その後、急激に気温が上がり始める。……サルファディアに生まれた者ならば、感じたことの無い程にな。」
ベンデルは比較的暑い国である。
しかも、季節は夏であれば、サルファディアとの寒暖差は40度近くになる事もあった。
そういうと、一度、言葉を切って、白湯を一口、口に含んだ。
「……。そうなったら、もうそこは、魔物の領域だ。奴らは明確にこちらの命を狙ってくる。例え違くとも、獣を見つけたら、全て魔獣か、そういう姿の魔物だと思え。奴らは狡猾で、残忍だ。ただで殺してもらえる等と思うな。奴らが奴らの”おもちゃ”に夢中な隙に、自らの活路を見いだせ。……あの地において、それは恥ではない。」
想像以上のろくでも無さに、シンクは顔を青ざめさせた。
「……ありがとう。でも、そんな所にどうして、また、行こうと思うの?」
「……ふん。」
癖なのか、オルガは再び鼻を鳴らす。
「俺たちの故郷、オリムは銀鉱の町だ。お陰様で皆、懐ばかりは暖かいがな。銀の精錬の為に、他の普通の街よりも多くの溶石が必要だ。……だが、俺みたいな変わり者じゃないと、行きたいという奴はいない。」
そう、詰まらなそうにオルガは語ると、まだ残っていた汁椀の中身を、一気に飲み干した。
「あら? でも、昼間の男は自分が行きたがっていた様だけど?」
オルガに絡んでいた若い男の話だ。
シンクには、彼が山越えを変わる様に迫っている様に思えた。
オルガは眉を寄せ、険しい表情する。
「お前、質問が多いぞ!」
シンクは負けじと、眉を吊り上げる。
「何よ? 教えてくれても良いじゃない? それとも、後ろめたい事でもあるのかしら?」
太々しくオルガをねめつけた。
しばらく二人が睨み合っていると、ターナが呆れた様子で口を挟む。」
「テラフ君は、オリムの商工会長の一人息子なのよ。」
「ターナ!」
オルガは妻を睨む。
しかし、ターナは気にせず続ける。
「責任感の強い子でね。自分が率先して行くんだって……。ただ、商工会長にはお世話になっているし、何より彼は若いわ……。」
50も過ぎれば長老と言われるような世界で、30中程のターナやオルガ、老け込むほどではないにしろ、確かに若いとは言えない。
シンクの中で、テラフと呼ばれていた男の評価を大きく修正した。
そして、ふと気づく。
「あら、じゃあ、オルガ。貴方は、そんな人を嵌めようとしたの?」
シンクは眉を上げて見つめた。
「ふん。……人生経験だ。少なくとも死ぬことは無い。」
そういう、オルガの表情は変わらない。
「呆れた……貴方、相当、ひねくれてるのね。」
「……。」
オルガは何も答えず、ターナは苦笑いを浮かべている。
「でも、追い払うようにしちゃったけど。明日出発でしょ? 明日、何かしてきたりしないかしら?」
シンクに対して、オルガは首を振る。
「あいつは青いが、ボンクラではない。……流石に周りの私兵共が諫めれば、止まるはずだ。」
シンクは口を尖らせ、何か納得いかない様な顔をする。
「ふーん……そう。」
しかし、自分が考えても仕方のない事。
気の無い風な返事をして、残りの食事を進め始めた。