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その見覚えのある人物は、昨日会ったばかりの、「よしみ」といわれる女子だった。あの時、もう1人の女子と話していた洋服の話が、
鮮明に脳内に蘇ってくる。
今、その席に着いたら、よしみと顔を合わせることになり、とても面倒くさいので、少し戸惑いながら、やがてくるりと踵を返し、他の空いている席を探そうと思ったその時、自分の名前が呼ばれ、背筋がびくっとなる。
「あれ?匠じゃない?ここ空いてるよ!」
しまった。気づかれてしまった。せっかく1人で勉強するためにわざわざ大学の図書館まで足を運んだのに、いつも顔を合わせるメンバーの1人に出くわしてしまった。こんなことになるくらいなら、家にずっといれば良かったと思った。
暑いし。
「あ、あれ、よしみさんも来てたんだ。丁度席探してたんだよ。ラッキー」
俺はここでも、初めてよしみに気がついたかのように嘘をつく。夏休みなのにねー、なんて返事をするよしみの向かいの席に、俺は今の嫌な気持ちが顔に出ないように押し殺しながら、座った。大体、こいつも芳樹たちと遊びに行くんじゃなかったのか。そうだ、それを聞いてみよう。
「そういえば、今日は芳樹と遊びに行くんじゃなかったの?」
「そういう匠も、頭が痛いんじゃないの?」
しまった。余計なことを言ってしまった。約束を断って図書館にいるなんて芳樹たちに知れ渡ったら、俺と彼らとの間に亀裂が入るかも知れない。大学生の人間関係なんて、所詮そんなものだ。今まで必死に自分を取り繕い、積み上げてきた信用が、崩れ落ちる可能性があるのだ。焦った俺は、脳みそをフル回転させ、言い訳を考えていた。
そんな中、ふとよしみの方に目をやると、よしみは俺の脳内の混乱を感じ取っているかのように、ニヤニヤと笑っている。それを見ると、ますます不安な気持ちに駆られたが、やがて、ひとつの考えが頭に浮かぶ。
確かに、俺は仮病を使い、約束を断った。しかし、彼女もまた、何らかの嘘をついてここに来ているに違いない。そうだ、そこに切り込むことにしよう。そう思った時だった。
「私はね、バイトって嘘ついた。こんな真夏にバーベキューなんて、めんどくさいしねー」
あはははっと笑うよしみを俺は呆然と見つめる。何故なら意外な事実がたくさん、浮上してきたからだ。まず、今日はみんなでバーベキューに行ったのだということ。俺が話を聞かずにスマートフォンをいじっている間に決まったことのようだ。次に、彼女も嘘をついて誘いを断っていたということ。そして最後に、その事実を何の躊躇いも無く俺に教えてきたということだ。
一体、どういう心積もりなんだろう。俺がみんなに告げ口したらどうする気なんだろう。
いや、彼女の何気ない表情から、俺は誰にも言わないだろうという絶対の自信があることが、
微かに感じ取れた。
「匠って本読むイメージないわ、どんなの読むの?」
「あ、えーとね、」
「えーー!!法律の勉強!夏休みに勉強するの!!私を出し抜かないでよ!」
言葉に詰まる俺の様子を気にする素振りも無く、よしみは俺が持っていた分厚い法律の本をひったくり、ぱらぱらとページをめくる。
「なんだか、何書いてんだかわかんないや。
匠はすごいね。いつもこんなの読んでるんだ?」
「う、うん。まあね。」
俺はかく言う彼女の手元にある本の背表紙を覗きこむ。すると何のことは無い。最新の文庫本だった。なんだか拍子抜けだ。こんなことなら俺も簡単な小説でも読めば良かったと、後悔した。
「よしみさんは、小説が好きなの?」
「うん、こうやって涼しいところで本を読んだりするのが好き。ほら、インドアだから。
暑いの嫌いー」
おどけたように風を仰ぐまねをする彼女が少しだけ可笑しく、つい口元が綻んでしまうのを感じる。
「そうだったんだね。」
俺は気を取り直し、当たり障りの無い返事をする。しかし意外だ。あんなに明るいメンバーと一緒にいる彼女は、インドアだったのか。彼女も俺と同じように、いつもはみんなに対して気を遣っているのだろうか。しかも、みんなと一緒にいる時よりも少しだけフランクな気がした。それは、俺という、波風の立たない存在を前にしているからなのか、俺も同じような気持ちでいることを感じ取っているからなのかは、分からなかったが、そんなことはどうでもいいことだ。
その後、俺はよしみと大して会話することもなく、あまりに難しい法律の本の内容を解読するのに夢中になっていた。