第3章「好きは書かずにいられない」③
ポモさんとエフクレフさんが帰ってから数日経っても、わたしは船長からの手紙を開けられずにいた。
「うーん…」
机の上に置かれた、白い封筒。
裏にはト音記号のスタンプが押してある…
なんてオシャレなんだろう、船長らしい。
…だからこそ、ますます読みにくい。
「ううーん…」
内容なら、想像がつく…
絶対わたしの小説の感想だ。
完結しているのだから、船長なら何か一言でも書いてくるに違いない。
そう思うと、やっぱり封は切れない。
「うううーん…」
さて、どうしたも
「あーもー! いい加減にしなさい!」
「うぎゃっ!!」
机に向かって思案していると、いつの間にか後ろに立っていたマーサが大声を上げたので、わたしのお尻は椅子から浮き上がった。
「シーナってば毎日うるさいっつの! 一緒に住んでる妹の身にもなってよね! 毎晩唸り声がうるさくて眠れないんだから!」
「…す、すんません…」
素直に謝ると、怒り眉のマーサは大きなため息とともにわたしの部屋を出ていった。
そんなに唸ってたのか、わたし…。
仕方ない、マーサの安眠のためにも船長の手紙を読んでみよう。
わたしは、念のためにティッシュとゴミ箱を準備してから船長の手紙を開封した。
中から、文字で埋め尽くされた紙が出てくる。
あのときの赤インクと同じ筆跡に尻込みしたが、どうやら小説の感想ではないようなので、ほっとひと安心と胸を撫で下ろして文字を目で追った。
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シーナ
俺が書いた添削案のことは忘れてくれ。
小説は、もっと自由であるべきなんだ。
それなのに、人の作品にとやかく口を出して…
俺は少し思い上がっていたようだ。
あのときの心の痛みは癒えただろうか。
心に負った傷は、勲章だと俺は思っている。
きっと将来の役に立つものだと。
だから…
今は勲章を胸に一歩ずつ前に進んで行ってほしい。
…そんなこと、今はできないと思ったか?
けれどな…
クヨクヨ悩んでいる間にも腹は減るし、暗く沈んでいるときにも色々なところで面白いことや楽しいことが起きているんだ。
…きっとシーナは、いろいろ「これから」なんだろうな。
何事も経験してみるといい。
そこから見えてくることだってあるんだ。
シーナが楽しく過ごせるように、耳を目を、触覚を、五感を広げて動いていけることを願っている。
追伸。
俺とエフクレフは、ポモコの依頼で近々この国を出る。
そろそろ次の滞在先を探そうと思っていたところで、この国にはもう戻らないだろう。
俺は、どこにいようとシーナの小説を読みたいと思っている。
だから…
俺がいなくても、小説を書くことだけはやめないでくれ。
次回作も、楽しみにしている。
ジークレフ
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「…どうして…」
本当は、感動して涙を流したい気持ちでいっぱいだった。
まさか、船長がこんな手紙を書いていてくれたなんて…
勇気が湧いてくるような、優しくて、それでいて力強く背中を押してくれる文字たち…
わたしだけに贈られた、船長からのプレゼント。
それなのに…
手紙を最後まで読み終えたわたしは、何も持たずにとりあえず家を飛び出していた。
「どうしていちばん大事なことを追伸に書くんですかーっ!」
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船長の隠れ家は、わたしの家からは走っても10分ほどかかる。
わたしはヒールを盛大に鳴らし、石畳の道を転ばぬように全力疾走した。
午後の昼下がりだけあって、人通りも多い。
冷たい風に秋の訪れを感じる暇もなく、わたしは人混みを縫うように走り続け、路地裏で足を止めた。
「……」
船長とエフクレフさんが住んでいた隠れ家からは、何の気配も感じられなかった。
ト音記号とヘ音記号の木板は外され、扉の鍵も外されている。
ドアを開けてみると、中はすでにもぬけの殻…。
家財道具はおろか、ひと間を仕切っていたベニヤ板すら撤去されている。
船長の手紙は、エフクレフさんが数日前にくれたもの…
ってことは…
いつから…
いったいいつから、こんな状態なの…?
こんなことなら、もっと早く手紙を読んでいたならよかった…
そうしたら…
…え、待って待って…
そうしたら…??
自分の思考に待ったをかける。
もっと早くに手紙を読んでいて、国を離れる準備をしている船長に会えたとして、わたしは…
わたしは、どうするつもりだったの…?
「シーナ!」
大通りから名前を呼ぶ声に振り向くと、お団子頭の人影が見えた。
逆光の中でよく見えないけれど、クミンちゃんが真面目な顔をして佇んでいる。
わたしは、声も出せないままに船長の隠れ家だった空き家をおずおずと指さした。
クミンちゃんは事情を察してくれたらしく「ああ」と呟いてから、
「昨日、船長さんが大荷物を担いだエフクレフさんと真っ赤なトマトみたいな髪の女の人を連れて、ここから出てきたの。お出かけですか? って話しかけたら、これから港町カイサーに向かうんだって言ってた。…もう、ここには戻ってこないって」
「昨日…港町カイサー…」
港町カイサーは、商人たちが政治の要となっている、エスペーシア王国唯一の自治領区だ。
城下町から歩いて半日ほどかかるから、船長たちが昨日のうちに出発していたとすると、もうすぐ到着する頃だろう。
大丈夫…
まだ追いつける…
追いついてからのことは、わからないけど。
「あのね、シーナ…」
謎の決意を胸に抱いていると、クミンちゃんが躊躇いがちに口を開いた。
「わたしね、船長さんに頼まれちゃったの…」
ここに、シナモン色の髪をポニーテールにした女の子が来たら伝えてほしい。
…俺のことは、忘れてくれ…と。
「特に、追いかけて来ようとしているようなら、念入りにって」
「……」
「ここに来るのがシーナだってわかったから、わたし、ここで待ってたの。…よかったよぉ、ちょうど出会えて」
クミンちゃんは、ふぅっと息をついてわたしを見つめると、
「伝言を頼まれたわたしが言うことじゃないけど…シーナは船長さんのこと、追いかけたほうがいいと思う」
「え…どうして…」
「だって…シーナはそのほうが幸せでしょう?」
「……」
クミンちゃんは、にっこり笑っていた。
わたしは、船長を追いかける…。
船長に出会えたら、言うべき言葉はただひとつ。
わたしも、一緒に連れて行ってください!
「シーナ、好きなら手放しちゃダメ! どこまでも追いかけて行かなきゃ!」
クミンちゃんの目には、うっすらと涙の膜が張っていた。
船長は、もうこの国には戻らないと言った。
つまり、わたしが船長について行くということは…
わたしも、この国には帰ってこないということ。
「……」
それでも…
それでもわたしは…
船長を追いかける。
その気持ち、大切にしたほうがいいよ…きっとシーナの味方になってくれるから。
そう教えてくれたのは、クミンちゃんだ。
「…ありがとう」
そう呟くと、ぼやけた視界の隅でクミンちゃんが微笑んだ気がした。
わたしは、一度自分の家に戻って、身支度を整えることにした。
路地裏を出てからも、クミンちゃんはわたしに手を振り続けてくれていた。
冷たい秋風が人混みを縫うように駆け抜け、わたしのワンピースをなびかせていった。
第3章おわり
第4章につづく