第3章「好きは書かずにいられない」②
わたしの連載小説は、それから2週間後、無事に完結した。
本当はもっと長く連載される予定だったのだが、編集長に頼み込み、3話ずつ載せてもらって全8話で終了となった。
3話目以降の手直しには、想像以上の時間がかかってしまった。
それもそのはず…
なんてったって、すべて書き換えたのだから。
最初は根気よく添削を続けていたのだけど、何か書き出そうとするたびにあの日のことが思い起こされ、気がつけば原稿が涙で滲んで使い物にならなくなってしまう。
…添削だって、ほとんどが殴り書きの状態で、あとで見返しても何と書いてあるのかさっぱりわからなかった。
何を書いても、面白くないような気がして手が止まる。
苦労して一文を書き上げても、こんなもの人に見せられないと、紙ごと丸めてくずかごに捨てた。
くずかごは、ものの10分でいっぱいになった。
…もう、限界だった。
だから…
昔書いたものはすべて捨てた。
大まかなストーリーはそのままにして、三人称の文体は一人称に。
主人公の目線に寄り添い、せっかちなシーンを長く伸ばすために苦手な風景描写にも挑戦してみた。
…船長が褒めてくれた、わたしらしい軽快な文章にするために。
涙と鼻水で顔も原稿もぐしゃぐしゃにしながら、わたしは身を削る思いで連載小説を書き上げた。
もちろん、満足のいく作品ではない。
できれば、だれの目にも触れない場所に葬り去ってしまいたいくらい。
編集長は雑誌が厚くなって大喜びだったけれど、わたしとしては複雑だった。
小説を書き終えたわたしは、しばらく執筆から離れようと、机の上に広げていた筆記用具を片付けた。
鉛筆の先が丸くなっていたけれど、気にせず引き出しに放り込む。
また文章を…自分の気持ちを書きたくなる日が来るのなら、それは遠い未来のことだろう…
今は白い紙すら見たくないのだから。
…しかし。
仕事を終えて家に帰ってからすることのなくなってしまったわたしは、嫌でも自分の気持ちと向き合わなくてはいけなくなった。
あの日、わたしの心がもう少し強かったなら。
泣いて家を飛び出したりなんかしないで、船長の添削案を喜んで受け取っていたはずだ。
…もちろん、推測だけど。
何も考えたくないのに、眠る前なんかは特に考え込んでしまう。
もう、これしかないの?
ほかに目指すべきものが、自分に向いているものがあるんじゃないの?
本当に…
このままでいいの?
行き場をなくした不安たちが、頭の中を回り続けている…
おかげで夜もあまり眠れない。
「……」
わたしは、そんな日々に別れを告げるため、久しぶりに机に向かった。
ウジウジしたままの自分に苛立ち、引き出しの中から取り出した鉛筆の芯を、イライラに任せて注射針のように尖らせる。
そして、真っ白い紙の上を滑らせるように鉛筆を動かし、真っ黒い文字で埋めていった。
最初はただの棒線や波線だったものが、やがて読める文字へと変化していった。
紙が文字でいっぱいになったら、次の紙へ。
なんの脈絡もない文字たち…
昨日食べたもの、朝の天気…
それが、やがて自分の感情になっていく。
わたしは、小説を書くことが好き。
好きだから、書かずにいられない。
これからも、書き続けていきたい。
執筆と同じくらい、船長のことが好き。
これからも、船長にわたしの小説を読んでもらいたい。
……。
頭に渦巻いていた不安が、自分の前向きな感情になって、腕から手へ、手から指先へ、指先から鉛筆に乗って紙に書き出されていく。
わたしは鉛筆を走らせ続け…
文章はやがて、ひとつの物語になった。
小説家を目指す「わたし」が「船長」の小説と出会い、喜んだり悲しんだりしながら成長していく物語。
その中で、「わたし」は呟くのだ。
『文章を書くことでできた傷は、文章を書くことでしか癒せない。だからわたしは…書く。好きなことを書かずにいられないから、書くんだ』
…これを船長が読んだら何て言うだろう。
随分と独りよがりだな。
なんて、笑われるのかな…。
自分の文章をまた船長に読んでもらいたいと思えるほど、わたしの心の傷は回復していた。
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そんな「わたし」の物語が書き上がった翌日のことだった。
書き散らかした紙を集めて頁数を振っていると、玄関のドアを叩く音が聞こえてきた。
あいにくマーサは本番が近くなってきた舞台の稽古で、連日留守にしている。
もしかしてもしかすると…
いや、もうあのときドアを閉めて泣き出してしまったわたしじゃない。
船長が来たって、笑顔で迎えてやるんだから!
…と思いつつも、心を落ち着けるために深呼吸をしてから玄関のドアを開いた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、鮮やかな緋色の髪の毛…。
「シーナたーん! お久しぶりでーす!」
なんと、ポモさんが満面の笑みで万歳をしていた。
その後ろにはエフクレフさんが控えていて、目線だけで会釈してくれた。
「え、おふたりとも、どうしたんですか?」
尋ねてみると、ポモさんは「よくぞ聞いてくれました!」と、羽織っていたカーディガンのポケットから1枚のハンカチを取り出した。
「シーナたんを泣かせてしまったとジークさんから相談されて、涙拭いてねハンカチを持って来ましたー! どうぞ!」
受け取ったハンカチは滑らかな肌ざわりで、触れているのかいないのかわからないくらいだった。
ハンカチというよりは、スカーフに近い。
今は泣いていなかったけれど、わたしは「ありがとうございます」と目許にハンカチを当ててみせた。
「ああ、良かった。シーナたん、思ったより元気そうでなによりです」
ポモさんは嬉しそうに微笑んでいた。
せっかくだから、家に上がってもらうことにしよう。
付き添いらしいエフクレフさんも一緒に。
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姉妹ふたり暮しの散らかった居間を数秒でお客様の入れる場所にして、わたしはお客様ふたりのためにコーヒーを入れた。
「ジークさん、とてもヘコんでたんですよ。あんなに何日も泣かせるつもりはなかったって」
ポモさんはコーヒーカップを押し頂いて、わたしが入れた何の変哲もないコーヒーを美味しそうに啜った。
「この前会ったときも、依頼の話をしているのに上の空で…あんなジークさん見たことなかったので驚きました」
「……」
「ジークさんに、シーナたんは元気そうだったって伝えておきますね」
ポモさんの笑顔に、わたしは何と答えたらいいのかわからなくて、ただ黙って頷いていた。
…そういえば、ポモさんは船長にいったいどんな依頼をしたのだろう。
ちょっと聞きにくいことかもしれないけれど、わたしが船長と普通に話ができるようになったら、思いきって尋ねてみることにしよう。
「ポモコ、そろそろお暇しましょう」
コーヒーを一気飲みしたエフクレフさんが、椅子を吹っ飛ばす勢いで立ち上がった。
まだ数分も経ってないのになぁと思っていたら、そんな残念そうなわたしの心を読んだかのように、
「ポモコは多忙なんです。今だって無理してここに来てるんですから」
と、エフクレフさんは不機嫌そうに口を開いた。
当のポモさんはというと「あと3分待ってください〜」なんて言っている。
ポモさんが飲むと、わたしの下手な入れ方のコーヒーも美味しそうに見えてくるから不思議だ。
宝物を扱うように、ひと口を大切に飲んでいる。
まるで、よそでは決して飲むことのできないもののように…。
「…そうでした、忘れるところでしたよシーナたん」
ふと、ポモさんが顔を上げた。
「ボク、シーナたんに話しておこうと思っていたことがあるんです。シーナたんだけに、特別に」
「わたしに…?」
ポモさんは嬉しそうに頷いた。
その隣ではエフクレフさんが珍しく困惑しているようだったが、ポモさんはお構いなしに口を開いた。
「ボク、この国が好きです。とってもとってもステキな国…! いろんな国を見てきたけれど、こんなにステキな国はここだけです。とても楽しい日々を過ごすことができました。…ありがとうございました」
静かに頭を下げるポモさんに、わたしはなんと言ったらいいかわからず、手にしたコーヒーカップを握りしめていた。
これって、もしかして…。
「ポモコは帰り支度で多忙なんです」
エフクレフさんがポツリと呟いた。
ああ、やっぱりコレ、お別れの挨拶だったのか。
ポモさん、この国に住んでいるわけじゃなかったんだ…。
わたしが口を開く前に、ポモさんは顔を上げて、
「ボクは旅が好きです。だから、きっとまたこの国を訪れます。今は帰らなきゃだけど、大好きだから何度でも来ます!」
そう宣言して微笑んだ。
「シーナ。今のポモコの言葉は貴重です。メモを取っておいたほうがいい」
「え…?」
ポモさんの言葉を聞いていたエフクレフさんの口調は厳しめだったけれど、口角はほんの少し上がっている…ように見えた。
最初は困惑気味で、ポモさんの言葉ひとつひとつに緊張していたみたいなのに…今は何か吹っ切れたような顔をしている。
わたしは、手元に置いているメモ帳に急いでポモさんの言葉を書き留めた。
すべて書き終えたタイミングで、手元に白い封筒が差し出された。
「船長から、あなたに。…心が落ち着いたときでいいから読んでほしい、とのことです」
「……」
エフクレフさんの鋭い眼光に押され、わたしは仕方なく封筒を受け取った。
船長からの手紙…
いったい何が書いてあるのか…。
また、小説の添削案かな…
つい最近、完結したわけだし…
開けて読むには、まだ勇気がいりそうだ。
いつになるかはわからないけれど、必ず読みます…そう伝えようとすると、
「…あなただけが不幸だと思わないでください」
はっとして手紙から顔を上げると、エフクレフさんは先ほどと同じ怖い顔でわたしを睨みつけていた。
「あなたの苦しみなんて、船長のものに較べれば…」
「船長の…?」
わたしよりも深く辛い苦しみ…
船長も昔、小説を書いていてわたしのような経験をしていたのかな…?
と、想像していたら、ポモさんが神妙な顔で口を開いた。
「ジークさんは、船に乗っていた頃に大切な人を海で亡くしてるんです」
…えっ…
今、なんて…?
「違います、亡くしたわけじゃない。まだ行方不明の状態です。…それに、船長の大切な人ではなくて、船長を大切に想っていた人です」
エフクレフさんが怒ったように割り込むと、ポモさんも申し訳なさそうに俯いた。
「……」
そ、そんな痛ましい出来事が…?
今の堂々と格好良い船長からは想像もつかない。
行方不明だというその人が家族なのか友人なのか、それとも恋人なのか…
尋ねようにもエフクレフさんは怖い顔でこちらを牽制している。
そして、事情をすべて知っていると言わんばかりに咳払いをすると、
「いつまでも粘っていないで帰りますよ」
と、コーヒーを飲み終えたポモさんを連れて「お邪魔しました」と出ていってしまった。
気になることばかりだけど、仕方がない。
玄関で見送ろうと顔を出すと、ポモさんは名残惜しそうに遠くの曲がり角を曲がって姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。
旅好きのポモさんは、これからも旅を続けるのだろう。
「…また会えるといいな」
だれにともなく呟いて居間に戻ると、テーブルの上にポモさんのハンカチがぽつねんと取り残されていた。
わたしの置いた場所が悪かったのか、テーブルに何かの水滴が残っていたのが悪かったのか、ハンカチは端が少し濡れていた。
これでは、走って追いかけて返すことは失礼だろう…
ちゃんと洗濯しないと。
手触りの良いハンカチを広げてみると、隅に美しい刺繍が施されていた。
…女の人の横顔だ。
美しい金髪をなびかせ、穏やかな表情で凛々しい薄紫色の瞳を細めている。
何気ない刺繍のはずなのに、わたしにはこれが何か重大な意味を持っているような、そんな気がした。
つづく




