第3章「好きは書かずにいられない」①
…災難でもいいから起こってほしい…
この平凡でありきたりな毎日から抜け出せるなら。
そんなことを考えていたわたしは、大馬鹿者だった。
これを災難と呼んでいいのかはわからないけれど、自分の身にこんな辛いことが起こるなんて思ってもみなかった。
確かにわたしは、人生に刺激を求めていた。
思い描いていたものとは少し違うけど、そのおかげで日常は華やかになった。
この毎日は、永遠だと思っていた。
永遠なんて存在しないって、そんな読み書きよりも簡単なことにどうして気がつかなかったんだろう。
始まりは奇跡だったのに、終わりがこんなに残酷だなんて聞いてない。
こんなことなら…
初めから何も起こらなければよかったんだ。
そうすれば…
こんなに悲しい思いをせずにすんだはずなんだから。
わたしが、船長に小説を見せなければ…
船長とわたしが出会わなければ…
わたしが香辛出版に勤めていなければ…
わたしが…
この世界に生まれてこなければ…
………。
規模が大きすぎることは、自分でもよくわかっている。
それでも、頭が考えることをやめてくれない。
…この世界から、消えてしまいたかった。
どんなに楽しい日々にも終わりがあって、その終わりが悲しみしかもたらさないのなら、生きている意味なんてないじゃないか。
でも…
わたしには自ら命を絶つ勇気もなく…
それが幸か不幸かもわからないのだった。
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どうやって家まで帰ってきたのか、記憶がない。
気がつけばベッドに潜り込んでいて、案の定、風邪を引いた。
道端でクミンちゃんとすれ違ったような気もするし、帰ってきたときマーサに出迎えられたような気もする。
…ひどくぼんやりしているのは、風邪を引いたせいだということにしておこう。
午後から眠り続けて、日頃の寝不足も祟ったのか、目が覚めたのは翌日の朝だった。
ぐっすり眠ったせいか、気分はだいぶ良くなっていた。
家にいたのかいなかったのかわからないマーサは、今日も舞台の稽古らしく朝からいなかった。
ひとりで良かった…
これなら、泣いていたって心配されない。
昨日のことを、ほんの少し思い出すだけで涙が溢れてくる。
不安が心に棲みついていた。
夏の入道雲のように膨らんで、涙という名の雨を降らせる。
止まない雨はない…なんて言葉が嘘のように、わたしの涙はとどまることを知らなかった。
その涙が、自分は何をやってもダメなんだ、何もうまくいくわけがない、という後ろ向きな気持ちを連れて来て、またとめどなく流れていく。
わたしは、心のどこかで期待していたのだろう。
叶う見込みのない夢を追いかける、ちっぽけなわたしを応援してくれる船長のことを。
船長なら、わたしがどんな文章を書いても褒めてくれると思っていた。
以前のように「いいものを読ませてもらった、ありがとう」と、そう声をかけてくれるって当たり前のように考えていた。
ああ、もう。
ほんと…バカだな、わたし。
そんなの…
嘘だったら、もっと悲しくなるに決まってる。
これでよかったんだと自分を納得させたいのに、そう考えると余計に涙は止まらなくなる。
…こうして、ベッドの中で泣き暮らす日々が数日ほど続いた。
小説の原稿は、マーサに頼んで香辛出版に届けてもらっていた。
もちろん、病欠中ということにして。
夏風邪の治りが遅いことに、これほど感謝したことはない。
マーサとは、伝染ると理由をつけてドア越しに会話するだけでいい。
風邪のおかげで、声がヘンでも不思議に思われなくて助かった。
こうして泣き疲れて眠り、空腹で目が覚めたある日のことだった。
先日までは水すら喉を通らない状態だったので、何か食べたくなるなんて久しぶりの感覚だった。
まぶたは開いているのが不思議なくらい腫れぼったくなって重く、鼻は鼻水をかみすぎたせいでヒリヒリと痛む。
鏡を見なくてもわかる…
わたし、今とんでもない顔してる。
まだまだ家からは出られそうにないし、だれにも会えそうにない。
とりあえず、家にあるものでお腹に優しそうなものを食べることにした。
台所へ向かおうと居間を横切ると、玄関のほうから音がした。
玄関のドアを叩く音だ…
どうやら、お客さんらしい。
父母は「たまには帰って来い」と言うばかりでここへは来たことがないから、マーサのお友達でも訪ねてきたのだろう。
ひどい顔だけど、仕方ない…風邪を引いていることにして押し切ることにした。
マーサは舞台の稽古に行ってて留守なの…せっかく来てくれたのに、ごめんね。
そう伝えようと、ドアの把手に手をかける。
…マーサの友達なら今頃マーサと一緒に舞台の稽古中だということに気がついたのは、ドアを開けてからだった。
「…シーナ…」
頭上から降ってきたのは、聞き覚えのある低く穏やかな声。
顔を上げると、木賊色のキレイな瞳と目が合った。
「シーナ、大丈夫か…?」
心配そうな声が耳に届いた途端、わたしは反射的にドアを閉めて鍵をかけていた。
もうすっかり枯れ果てたと思っていた涙が頬を伝う。
鼻をすすると、またドアが叩かれた。
船長の声が、わたしの乾いた心に染み込んでくる。
「この前は、ついきつく当たってしまった…泣かせるつもりはなかったんだ…」
「……」
何も言えなかった…
言いたいことは、山ほどあるはずなのに。
船長…悪いのは、打たれ弱いわたしなんです。
あんな、自分に似合わないカタイ文章を書いてしまったわたしなんです。
そうは思っていても、出てくるのは涙と鼻水ばかり。
ごめんなさい、船長…
今はまだ…
あなたに会うための勇気が足りません。
「……」
しばしの沈黙の後、ドアの向こうからガサガサという音が聞こえてきた。
何かの紙袋…だろうか。
ガサガサ音は、わたしの頭の高さから下へ下へと移動していき、やがて床の上でカタタンと音を立てた。
「香辛出版でシーナが風邪を引いていると聞いたから、見舞いに来たんだ。…近くでプリンを買ってきたんだが、良ければ妹とふたりで食べてくれ」
お見舞いに、プリン…。
しかも、元気いっぱいで今現在家にいないマーサの分まで…。
船長…
そんなに優しくしないでください…
わたしが悪いんですから…
全部、わたしが…。
ズッと鼻をすすると、それが返事であるかのように、船長はドアの前を離れていった。
コツコツと、足音が小さくなっていく。
と…
その足音がピタリと止まった。
「……?」
不思議に思って、ドア横の小窓からそっと通りの様子を覗いてみた。
船長はドアの前で左を向いて立っている。
そのさらに左側から、
「あなたがジーク船長ですか」
なんと…
マーサの声が聞こえてきた。
もう少し頭を出して覗き込んでみると、マーサが船長にツカツカと詰め寄っていくのが見える。
えええ…?
マーサ、どうしてここに…?
舞台の稽古で遅くなるんじゃなかったの…?
わたしの疑問をよそに、マーサは船長に近づいていく。
その背中から、揺らめく炎のようなものが見えた。
なんだか…とても怖い雰囲気だ。
昔、わたしが間違えてマーサのおやつを食べてしまったときと同じ……あっ
マーサ…
すっごく怒ってる…!
「あなたが、ジーク船長ですね」
先ほどよりも強い口調…怖い顔をしたマーサが返事をしない船長を見上げている。
船長は、小さなマーサに凄まれて半歩後ろに下がりつつも「あ、ああ」と頷いていた。
「ジークは俺のことだが…君はもしかして、シーナのいも」
「ちょっといいですか」
食い気味に切り出したマーサは、ニコリともせずに船長を見上げている。
船長はマーサの勢いに押されて頷くばかりだ。
そして、マーサは腹から声を出した。
「歯、食い縛ってください。一発殴りたいんで」
「……え」
は?
ちょ、ちょっとマーサ、何言ってんの…?
呆然とする船長とどうすることもできないわたしが見守る中、マーサは右手で拳をつくると、電光石火の如き早業で船長の左頬に勢いよくパンチを繰り出した。
…マーサは女優の卵だ。
毎日筋力アップのトレーニングをしていると誇らしげに報告してくるあたり、わたしより力は強いはずで…
ゴッ
というなんとも鈍い音が、まるで家の中まで聞こえてくるかのようだった。
油断していたらしい船長は、その場で少しよろめいた。
いったい何がどうなったら、マーサが船長に一発お見舞いすることになるんだろう…?
そんなわたしの疑問に答えるように、マーサは頬をさすっている船長に向かってトドメの一撃…いや、トドメの一言を繰り出した。
「あたし、女の子を泣かせる奴がいちばん許せないんです。今度泣かせたら…特訓中の回し蹴り受けてもらいますから、そのつもりで」
船長を見上げるマーサの顔は、本気そのものだった。
女の子を泣かせた船長…
最初はピンと来なかったわたしにも、なんとなくわかってきた。
マーサは、わたしのために船長に一発お見舞いしたんだ。
女の子なんて呼ばれ慣れないから、だれのことかと思ってしまった。
でも…
どうしてマーサは知っていたんだろう。
わたしが泣いていたことも、船長が関わっていることも…。
「それじゃ、さよなら。…プリン、ありがとうございます」
マーサはぶっきらぼうに言い捨てると、玄関に置かれた紙袋を手にドアを開けた。
船長はというと…
すでに通りから姿を消していた。
これは…謝りに行った方がいいのかも…
殴られたところ、痛そうだったし…
でも…
「ただいま。もしかして、さっきの見てた?」
玄関から入ってきたマーサが、わたしのへっぴり腰を見て声をかけてきた。
見てた、と頷いてみせると、マーサはわたしの心を読んだかのように、
「クミンさんに聞いたんだ。土砂降りの雨の中を、泣きながら走っていくシーナを見かけたって。船長さんの家から出てきたところだったみたいだけど、大丈夫かなって心配してたよ」
と、一発お見舞いした理由を説明してくれた。
どうやら、あの雨の日にクミンちゃんとすれ違ったことは気のせいではなく、家に帰って来たときマーサの気配がしたのは気のせいだったらしい。
「で…何があったの」
ぶっきらぼうな口調のマーサに、わたしはあの日のことをすべて話した。
もちろん、船長には何の非もないことも含めて。
「ふ〜ん、なるほどね」
マーサはそう言うと、紙袋の中からプリンを取り出した。
小さなビンに詰められた、柔らかそうな薄黄色…ビンの底に敷かれた飴色のカラメルが、今か今かと出番を待っている。
「シーナは…もう大丈夫なの」
食器棚からスプーンを取り出しながら、マーサが背中で聞いてきた。
普段は、お互いの心配なんかしたことないし、気にかけ合うこともない。
でも…
マーサはわたしを守ろうとしてくれた。
…詳しい理由も知らなかったくせに。
「うん。…ありがとう」
「……」
マーサは聞こえないフリをしているのか、わたしの言い慣れないお礼が当てもなく彷徨ってしまった。
勇気を出して言ったんだから、何か返してくれないと気まずい…そう思ったとき。
一瞬見えたマーサの横顔、その口許が、
「よかった」
と、動いたように見えた。
お互い照れ屋なのは昔からだから仕方ない。
ところで…
気になっていることがまだある。
「マーサ、今日は舞台の稽古じゃなかったの?」
スプーンを受け取りながら尋ねてみると、マーサは椅子に座りながら、
「演出家の先生が風邪引いて休んじゃって。みーんな早上がり」
そう言って、いただきますとプリンのフタを開けた。
なるほど、そういうことだったのか。
納得したわたしはプリンのビンを手になんとなくロゴを確認した。
…目玉が飛び出るかと思った。
「近所のプリンってこれ…1日10個のみの販売で、おひとり様1個までで有名な超高級プリンだよ!」
「え、マジで!?」
あやうく無造作にスプーンを突っ込もうとしていたマーサも、慌ててビンを回して確認して…ゴクリと唾を飲んだ。
「…ほんとだ。一流菓子職人バニラの超高級プリンって噂は聞いてたけど…限定10個のうちの2個がここにあるってことだよね」
「そ、そうだね…」
マーサは興奮冷めやらぬようで、さらにまくし立てた。
「でもでも、おひとり様1個まででしょ? どうして2個も買えたんだろ。船長さん、変装して2回並んだのかな」
「……」
違うよ、と言いかけて口にはできなかった。
…そこから、楽しかった思い出が零れていってしまいそうだったから。
もちろん、わたしは知っている。
船長には、プリンを買うために一緒に並んでくれるガタイのいい相棒がいること。
甘いものが苦手な船長のために、的確な助言をくれる奇抜な髪色の仲間がいること。
でも…まだ言えない。
零れ落ちる涙のわけを、上手く説明できそうにないから。
それにしても…
船長、そこまでして私のこと励まそうとしてくれたんだ…
どうしよう…
ますます会いにくくなってしまった。
心はあまり晴れやかではなかったけれど、プリンはほっぺたが落っこちるくらいなめらかで美味しかった。
つづく