第2章「好きを書かずにいられない」③
エフクレフさんに連れられて隠れ家を訪ねると、客間にいた船長はテーブルに置かれた雑誌を前に苦い顔をしていた。
雑誌を覗き込んでみると、それは『週刊さんぱんち』だった。
やっぱり、わたしの小説が変なのかな…
それとも、ほかの記事に何か問題が…?
不安を隠すように雑誌を見つめていると、
「船長。連れてきましたよ」
エフクレフさんが、物を放るような口調で声をかけた。
すると、苦い顔の船長と目が合った。
「ああ…いらっしゃい、シーナ」
船長の瞳は、今日の空の色と同じように暗く翳っていた。
「お気の毒ですが…」とか、「手は尽くしたのですが…」なんて言うときの顔だ。
やっぱり、覚悟はしておいたほうがいいかもしれない…
けど……
いや、大丈夫。
…船長に言ってもらえるなら、なんだって受け止められるはず……
「読ませてもらったよ、2話目まで」
思考を遮る声、暗い瞳に促され向かいの椅子に腰かける。
船長は『週間さんぱんち』を手に取ると、深く折り目のついたページを開いて差し出した。
…それは、真っ赤なページだった。
まるで血糊のように、一面が真紅に染まっている。
いったい何の記事かとよく見てみると…
かろうじて隅に書かれた文字が見えた。
…シナモン…
わたしの名前…
これ…
わたしの小説のページだ…
「……」
黒い文章の上を舞い踊る赤インク。
二重線、矢印、大きなバツ印…
「…ツッコミどころが多すぎて、手に負えない」
船長がページをめくると、そこには赤インクのキレイな文字が所狭しと並んでいた。
それが、わたしの小説を添削したものだということは一目でわかった。
わたしの泥で汚れた小説が、船長の美しい文章によって磨かれたページ…。
「どうして、こんなカタい文章になったんだ…?」
わたしを見据える、木賊色の瞳。
見つめられると、身動きはおろか、息もできない。
「……」
確かに、読む人によってはカタい文章に見えるかもしれない。
船長への小説は一人称で書いていたのだから、今回の三人称の文体に船長は驚いたのに違いなかった。
でも。
今までずっとこういう文体で書いてきたんです、わたしは。
…そう言おうとしたのだけど、口は開かなかった。
自分を語れるほど、わたしは大人じゃない。
「……」
それに、ある程度は覚悟もしていた。
助言だってなんだって、ありがたく受け取ろうと思っていた。
それなのに…
ここまで何も喋れなくなるなんて。
自分が、こんなにも心の弱い人間だったなんて。
「シーナ」
船長が、俯くわたしの顔を覗き込む。
そこから聞こえてきたのは、こんな言葉。
「残念だが…今回は背伸びが過ぎたようだ」
そして、小さなため息。
それが、すべてを物語っているように、わたしには聞こえた。
まるで、わたしの小説ではなくて、わたし自身に失望したかのようなため息だった。
こいつは、所詮この程度か。
こんなんで、よく小説家になりたいなんて言えたものだ。
がっかりだ。
「……」
そのとき、わたしは自分の心が折れる音を聞いた。
頭の中が真っ白になる…
何も考えられない、息もできない…
苦しい…
「……」
痛い…
折れた心の傷口から、わたしが零れていく…
わたしが、わたしでなくなっていく…
「……」
張り裂けそうな胸の痛みを堪えて、もう一度赤インクのページに目をやった。
落ち着け…
船長は、私のために時間をかけて添削してくれたんだから。
それがわからないほど、わたしは子どもじゃないんだから。
必死に言い聞かせて、赤インクを目で追いかける。
でも…
ダメだった。
あまりに手を入れられすぎて、わたしの文章の面影は微塵もない。
胸が痛む…
先ほどの折れた痛みとは違う、グサグサと刺される痛み。
ああ…
わたしは、何もかもダメなんだ。
構想3年の大作でもこのザマなんだもの、そりゃあ船長だってがっかりもするわ。
…どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。
どうして…
テーブルがぼやけて見えるんだろう。
「……」
鼻をすすると、その小さな衝撃で涙がテーブルに零れて水たまりを作った。
こんなことで泣くなんて、子どもじゃあるまいし…
泣いたって何にも解決しないのに…
涙が溢れて止まらない。
「シーナ…?」
異変に気づいた船長に見られないよう、顔を背ける。
これ以上、子どものわたしに失望しないで…!
込み上げる嗚咽を隠すように、椅子を鳴らして立ち上がる。
そのままカバンを手に隠れ家を飛び出した。
ずっと俯いたままだったから、わたしの名前を呼ぶ船長の顔は見えなかった。
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石畳の道は、緩い下り坂になっている。
走りにくいヒールでも、勢いがつけば速度も上がって、足音も次第に喧しくなっていく。
みっともなく鼻をすすると、ひんやりとした風の中に雨の匂いがした。
足下を見れば、雨粒が丸いシミを作り始めている。
…見上げれば、曇天。
堪えきれずに零れた涙のような雨が、次第に激しさを増していく。
顔中が水浸しだ…
拭っても拭っても拭いきれない。
雨なのか涙なのかわからない水が、頬を伝って流れていく。
土砂降りの雨がワンピースの裾から水滴となって滴っていた。
当てもなく走り続けていると、ようやく船長への想いが言葉となって浮かんできた。
決して褒めてもらいたかったわけじゃない。
わたしは、ただ認めてもらいたかっただけ。
シーナはこういう文章も書けるのかって知ってもらいたかっただけ…
あなたには…
あなたにだけは、わかってもらいたかった。
それなのに…
船長なんて…
船長なんて大……
「っ!」
自分の心の声を止めようとしてバランスを崩したわたしは、濡れて滑りやすくなった石畳につまづいてすっ転んでいた。
肘の先がヒリヒリと痛い。
一張羅のワンピースは全体が泥で鼠色になったのに、投げ出されたハイヒールは雨に濡れてもキラキラと美しく光っていた。
…まるで、わたしの文章と船長の文章みたいだ。
ヒールを履くと背が高くなって、自分がキレイになったような、こそばゆいかんじがして好きだ。
でも…
あの言葉が脳裏を過ぎる。
『背伸びが過ぎたようだ』
船長は、もちろん物理的な意味で言ったわけじゃない。
それでも、確実にわたしの心を抉っていた。
背伸びが過ぎたようだ、背伸びが過ぎたようだ、背伸びが…
何度も何度も再生される言葉。
わたしの心は、水を入れすぎた粘土のように、形を保ってはいられなくなっていた。
雨は激しさを増していく。
水たまりはどんどん大きくなり、雨粒が追い討ちをかけるように水たまりに飛び込んでは、王冠のような飛沫を上げていた。
「…背伸び、なんて…して、ない…」
込み上げる嗚咽を堪えるように、言葉を吐き出す。
「…なんなのよ…」
片方だけ脱げずにいたヒールを脱いで、手に取る。
背伸びなんかじゃない。
あれは…
あの文章は、わたしそのものだ。
今まで読んでもらえなかった作品は、みんなあの文体で書いてきた。
それなのに…
背伸びが過ぎる、なんて…
わたしのこと、よく知りもしないくせに…っ!
「わたしの何がわかるっていうのよっ!」
爪がくい込むほどの力でヒールを掴み、腕を振り上げる。
渾身の力で叩きつけようとした、そのとき。
『はー! いいものを読ませてもらった』
「……」
『シーナの文章は、軽快で読みやすいな』
あのときの船長の言葉が、いくつも浮かんでは消えていった。
言葉だけじゃない…
あのときの笑顔まで一緒に。
『シーナが人気作家になる日も近いな』
思い出したくなんてなかった。
この感情の逃げ道がなくなってしまうから。
『シーナ、ありがとう』
信じていたのに…。
厳しいことも言うけれど、最後はきっと褒めてくれるんだ。
あなただけはわたしの味方だって、そう信じていたのに。
…好きだったのに。
「……」
振り上げた腕から、力が抜けていく。
雨音がやけにうるさく聞こえた。
…そっか…
わたし…
船長のこと、好きだったんだ。
これが恋心なのかは、恋をしたことのないわたしにはよくわからない。
ただひとつ確かなことは、わたしが小説仲間として船長のことを好きだったということ…。
ううん、違う…
今だって好きだ。
だから…
たとえ心が救われるとしても、八つ当たりなんてできない。
船長なんて大嫌い、なんて心の中ですら言えるわけがない!
「……」
爆発しそうだった感情が、行き場をなくして心でくすぶっている。
それをあやすように、宥めるように、わたしはヒールを胸元に抱き寄せると、雨音に負けないくらいの大声を上げて泣き続けた。
第2章おわり
第3章へつづく