第4章「好きに書かずにいられない」①
そこからは、あっという間に半日が過ぎ、その日の夕刻にはわたしは港町カイサーへ向かう荷車に揺られていた。
荷車は南へと向かっている。
暮れなずむ夕日が大空をすみれ色に染めて、地平線は淡いオレンジ色に輝いていた。
収穫の近い小麦畑が、秋風に揺れてさざ波を描いている。
そんな情景を横目に眺めながら、わたしは大きな旅行カバンを膝に抱え、これまでのことを思い出していた。
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「マーサ…わたし、この国を出ることにしたの」
そう告げたとき、マーサは少し驚いた顔をしたけれど、すぐに真面目な表情に戻って、
「そっか…船長さんについて行くんだね」
そう、訳知り顔でうんうんと頷いていた。
おかげで、あらぬ疑いを抱いてしまい…
「ちょっとマーサ…手紙、読んだの?」
「はぁ? 何言ってんの?」
危うくケンカになるところだった。
「うーん、昨日の夕方ぐらいだったかな…。隠れ家がもぬけの殻になってたから、船長さん行っちゃったんだなぁって思って」
「えっ…知ってたの?」
「もちろん。…ああ、シーナは出不精だもんね。気づかなくても仕方ないね」
「……」
「そんな顔してる暇があったら、急いで追いかけたほうがいいんじゃない。あたしも、荷造り手伝ってあげるよ」
マーサはわたしに構うことなく、ふたりで使っていた大きな旅行カバンを衣装棚から引っ張り出すと、まるで自分の旅支度をするように荷物を詰め始めた。
「着替えとかは、あたしに任せて。シーナは自分の小説セットまとめてきなよ」
「…うん」
なんて頼りになる妹だろう…
彼女と離れて、わたしは上手くやっていけるだろうか…
なんて、考えている場合じゃない。
これが最後。
これからは自分でなんとか生きていくんだから。
マーサ、今までありがとう。
わたしはマーサにお礼を言ってから、2階の自室へと向かった。
机に広げたままだったメモ帳や鉛筆を仕事で使っていたカバンに入れ、つい最近書き上げた小説も紐で綴じて入れた。
もちろん、船長に読んでもらうためだ。
そしてもうひとつ、忘れてはいけないものがある…
洗濯しておいたポモさんのハンカチだ。
ボクは旅が好きです。だから、きっとまたこの国を訪れます。
ふと、メモ帳に書き留めたポモさんの言葉を思い出す。
メモしておいたほうがいい、と言ったエフクレフさんも含めて。
…何か…
大事なことが…
「………あ」
頭の中で、ジグソーパズルのピースが正しい場所に収まったような、カチリという音が響いた。
そっか、そうだったんだ。
何の変哲もないコーヒーを、大事そうに啜るポモさん…
編集長の「侯爵同士の仲が険悪で輸入品の制限もあったりするらしい」という言葉…
この国を去る間際に、ポモさんの正体に気がついてしまった。
これは…
特ダネだ…!
わたしは、城下町を出る前に香辛出版に立ち寄ることにしていた。
辞職のお願いをするためだ。
もちろん、突然の辞職にいい顔をする人はいない。
迷惑がられるのではと心配していたけれど、特ダネのおかげで迷いは吹き飛んだ。
ようやく、香辛出版の役に立つときが来たのだ。
「…それじゃ、行ってきます」
まるで仕事に行くときのような挨拶だったけれど、いつもは見送ってくれないマーサは玄関まで来てくれた。
「気をつけてね…手紙、暇なときでいいから書いてよ。ちゃんと読むから」
マーサの呟きはいつになく小さくて、わたしは咄嗟に思い出したことを口走っていた。
「マーサの舞台、観に行けなくなっちゃって、ごめんね」
すると、マーサの寂しげな様子が豹変した。
「ほんとだよ! せっかく初めての準主役だっていうのにさぁ! 気が変わったら、観に来てくれたっていいんだからね!」
そう言って勢いよくドアを閉めたマーサの顔は、楽しそうに笑っていた。
よかった…
笑顔で別れることができて。
…そう思っているのは、わたしだけかもしれないけれど。
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「…シナモンちゃん、もうすぐ今晩の宿に着くよ。…宿っていってもオレのばあちゃん家だけど」
荷車を引くクミンちゃんの同僚、執事のバクリッコさんに声をかけられ、わたしの意識は現在へと引き戻された。
空は、すっかり群青色に染まっている。
わたしはお礼を言って、薄暗くなった景色をぼんやりと眺めながら、その後の香辛出版でのことを思い出していた。
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「編集長、突然で申し訳ないのですが…」
西日の差し込む午後の香辛出版は、わたしの突然の辞職願にも慌てふためくことはなかった。
それほど、わたしは役に立ってはいなかったらしい。
「…理由を、聞かせてもらえるかな」
穏やかな顔で机に身を乗り出した編集長に、わたしは船長について行くためにこの国を離れる決意を説明した。
突拍子もない理由だろうに、編集長は終始にこやかな表情をしていた。
そして、わたしが話し終えると、
「そうか…ご両親には伝えたのかい?」
と、最もなことを聞いてきた。
「あっ…」
しまった、すっかり忘れていた。
香辛出版には父が編集長と知り合いのおかげで入れてもらったわけだし、突然辞めたなんて知られたらどうなることやら…
そんなわたしの表情を読み取ったらしい編集長は、
「そうかそうか、わかった。…お父様には、私から話しておこう」
そう言って、じっとわたしを見つめていた。
なぜ、と尋ねる前に、編集長はにっこり微笑むと、
「君が自分の意志をはっきりと口にしたのは、これが初めてだからね。ずっと一緒に働いてきた私も、何か力になれることがあったら協力させてもらうよ。…よかったじゃないか、自分が心からやりたいと思えることに出会えて。応援しているよ」
「…編集長…」
鼻の奥が、じんと熱くなった…
感動と、申し訳なさで。
わたしはいつでも、ここから抜け出すことばかり考えていた。
ここにいる日常に飽き飽きしていた。
…こんなに素晴らしい上司に感謝もしないで。
涙を拭こうとカバンからハンカチを出そうとして、大切なことを忘れるところだったと気がついた。
わたしはメモ帳を取り出し、編集長に手渡した。
「あの、これ…セレアル侯国の貴族様が残していった、この国の感想です」
小声で話していたはずなのに、なぜかわたしの後ろ、記者たちの机がざわつき始めた。
編集長も、目を丸くしてメモ帳とわたしを見比べている。
「シーナ君…これ…」
室内が慌ただしくなってきた反動か、わたしは落ち着いて話し続けることができた。
「時間がなくて、裏取りはできなかったんですけどね。だから、信憑性は低いです。『週刊さんぱんち』に掲載するかどうかは編集長がお決めに」
「載せるに決まってるだろう! 特ダネなんだから!」
編集長は目をキラキラとさせて記者たちに指示を飛ばし始めた。
記者たちも、特ダネを他社に出し抜かれまいとテキパキ動いている。
自分の仕事に誇りを持っている人たち…
最後まで馴染めなくて、ごめんなさい。
そのままこっそり帰ろうとすると、編集長に呼び止められた。
「城門の前に、港町に荷車を持っていくよう頼まれた執事のバクリッコがいる。ヤツは城内での仕事をサボる代わりに、君の友人の同僚として力を貸してくれるらしい。…支度が整ったら、城門へ行きなさい」
エスペーシア城で働く執事のバクリッコさん…
あまりにサボり癖がひどいので、お城へ通っていたわたしでさえ数回しか会ったことがない。
それなのに、力を貸してくれるとは。
編集長といい、クミンちゃんといい…
世話好きにもほどがある。
でも…
それがエスペーシア王国の平和を築いているのかもしれない。
彼らが『エスペーシア王国の平和の秘密』という特ダネに気づくのは、いつのことやら…。
さて、そろそろ行かないと。
支度なら最初から整っているので、わたしは編集長に深々と頭を下げると、急いで城門へと向かった。
…そしてわたしは、バクリッコさんの引く荷車に乗せてもらい、今に至るのだった。
つづく