蜘蛛の糸 その後
人称の統一など、変更しました。
最後は原作の最終部分となっています。
全国の「カンダ」姓の名前が「タ」で始まるすべての人に捧げます。
御釈迦様が極楽の蓮池からぶらぶらと歩き始めると、沈んだはずの血の池からカンダタの大音声が聞こえてきました。
「俺を救おうと、蜘蛛の糸を垂らした者よ。お前の罪は問われないのか」
聞き捨てならない問いに、御釈迦様は極楽の蓮池に戻るとカンダタに答えました。
「私に何の罪があると言うのか」
カンダタは答えがあったことに驚きつつも、さらに勢いよく言いました。
「自らの罪に気づいてもいない愚か者が極楽にいて良いのか。ここでも不公正なのか」
「何をもって私に罪があり、愚かであると言うのか。私はあなたが生前蜘蛛を助けた功徳に報いて地獄から救おうとしたのに」
御釈迦様は何となく少しだけ不安になりました。
「もし俺が他の罪人に蜘蛛の糸から降りるように言わず、俺が極楽まで昇って行ったらお前はどうするつもりだったのか」
御釈迦様は予想外の質問だったので困ってしまいました。カンダタは地獄から救う価値があると思って蜘蛛の糸を垂らしたのですが、他の罪人も登ってくるとは思っていなかったのです。しばらく考えてから、こう答えました。
「あなたが極楽に着けば、蜘蛛の糸は切るつもりでした」
カンダタの返事は、しばしの沈黙の後でした。
「なんと浅はかな。……そして極楽と地獄の違いがそれほど軽いとは」
カンダタが深い嘆息の後、続けました。
「地獄の罪人の責め苦は閻魔大王が決めているはず。だが、お前は俺に続いた罪人を問答無用にこの高さから血の池に落とすと言う。お前に地獄の責め苦を増やす権限があるのか。俺が他の罪人に蜘蛛の糸から降りるように言うことで、お前も救われたのではないか」
カンダタは一気呵成に続けました。
「そもそも、俺の足の下でお前が蜘蛛の糸を切れば他の罪人は登って来られず何も問題無かったのに。俺は再び血の池に落ち、お前は極楽で何の罪を背負うことも無いとは、不公正極まりないではないか」
御釈迦様は自分が立っている極楽の雲が、さっきまでよりも不安定で踏み応えが頼りなくなってきたように感じられました。
「私はあなたを助けようとしたのですよ」
御釈迦様は懇願するように、カンダタに言いました。
「俺はなぜ地獄の責め苦を受けねばならなかったのだ」
カンダタの質問の意味が、御釈迦様にはわかりませんでした。
「……それはあなたが罪を犯したからです」
カンダタは再び嘆息して言いました。
「では、なぜ俺を極楽へ誘ったのだ」
御釈迦様は正直に答えました。
「あなたが蜘蛛を助けたことを思い出したからです」
「……ふざけるな」
カンダタは怒気を隠そうともせず、御釈迦様に答えました。
「私は、ふざけてなどいません」
御釈迦様はカンダタの怒気が理解できず、怪訝そうに応えました。
「じゃあ聞くが、俺の本来の居場所はどっちだったんだ? 極楽だったのか、それとも地獄だったのか」
御釈迦様はそこで気が付きました。
蜘蛛を助けた功徳で極楽に来られるのなら地獄に落とした最初の判断は間違いであり、蜘蛛を助けた功徳があっても地獄に落とすことがふさわしい罪状なら蜘蛛の糸を垂らしたことが間違いであると。
誰かの判断に間違いがあり、御釈迦様の判断が問われる可能性も高くなりました。
御釈迦様にとって、自らが過ちに関わっている可能性があるということが不快でした。
「罪人が何を言うのか」
カンダタは御釈迦様の言を鼻で笑い、応えました。
「俺が言っているのは簡単な話だ。閻魔大王の下した判決に間違いがあったのか、釈迦如来の慈悲に間違いがあったのかの、どちらかということだ」
地獄はすっかり静まり返っていました。何と罪人が極楽の住人である釈迦如来の罪状を糾弾しているのです。
罪人達に責め苦を与える鬼達も、戸惑ったまま事の成り行きを見ていました。
「いい加減にしろ、罪人カンダタよ。罪人と私が対等に話すことすらおかしなことだ。おとなしく血の池に沈んでおれ」
御釈迦様のうろたえた答えに続いたのは、地の底から響くような声でした。
「オレの判決が間違っていたっていうのは、聞き捨てならないね。カンダタが蜘蛛を助けた件も含めて、カンダタの人生で起こった全てのことに対してオレが判決を下し、こいつは地獄にいる」
カンダタの横には、メガネを掛けたまだ若そうな学者風の女が立っていました。
「閻魔大王」
カンダタはそう言うと頭を下げました。
「すでに大王は何もかもご存知かと思います。俺の居場所が地獄なら、釈迦如来の気まぐれで起こされた無慈悲な罰についてご配慮いただければと思います」
カンダタは頭を垂れたままそう言いました。閻魔大王にも釈迦如来にも見えないカンダタの顔は楽しそうに笑っていました。ただ、声だけは神妙そうに装っていました。
「釈迦如来よ、なぜ地獄の罪人を気まぐれに救おうとした。越権もはなはだしいではないか。貴様がやった事はオレの裁きを傲慢にも無視し、さらにこの世界の秩序を破るものである。大御神様の裁きを受けてもらう必要がある」
閻魔大王はいつも地獄を極楽から見下ろしている釈迦如来が気に入らなかったので、ここぞとばかりに責めました。
「話は聞きました。確かにこの件は、わたくしの裁きが必要ですね」
どこからともなく、か細い声が聞こえてきました。か細い声とは裏腹に凄まじい威圧感のある光が輝いています。閻魔大王は大慌てでその場にひれ伏して言いました。
「天照大御神様、閻魔でございます。お裁きの件、よろしくおねがいします」
「釈迦もよろしいですね」
はるか頭上の極楽から声が聞こえてきた。
「もちろん、おおせに従いますとも」
すっかり元気を無くした釈迦如来の声だった。
「では、後ほど二人とも呼び出します。それまで待っているように」
閻魔大王や釈迦如来の返事を待たずに光は消えました。カンダタは血の池で呆然と立ったままそれを見ていました。
カンダタはすぐに閻魔大王に呼び出されました。
「カンダタよ。釈迦如来の干渉により加えられた刑罰と、そのことによる釈迦如来の告発に対して新たな判決を申し渡す」
カンダタは頭を下げたまま、その先の言葉を待ちました。
「生前に犯した罪を全て償ったものとする。これ以後は輪廻転生までの間、地獄で自由に振舞ってよい。暇なら鬼の手伝いでもしてやってくれ」
閻魔大王は嫌いな釈迦如来をやりこめる事態を作ったカンダタに対して、最大限の好意を示して報いました。
「カンダタよ、よくやった」
閻魔大王は破顔してそう言うと、真顔に戻って聞きました。
「お前、本当に人間なのか」
カンダタは表情を変えず、何も答えませんでした。
「まあいい。オレは願ってもない結果を得た。お前には報いねばならん」
閻魔大王はそう言うとカンダタから地獄の罪人の印を外し、もう一度笑った。
「どうして私が告発されねばならんのだ。私は仏の慈悲を示しただけではないか」
釈迦如来は不安げにうろうろ歩きながら、弥勒菩薩にぼやいていました。
「現世にお慈悲を示したのならば問題無かったのでしょうが、地獄の罪人が相手となると閻魔大王の申し立てももっともかと」
弥勒菩薩は目障りな釈迦如来に取って代わる機会がこれほど早く来るとは思っていなかったので、こみ上げてくる笑いを押さえつけ、いかにも同情している表情を顔に貼り付けて言いました。
「うっかりしていただけだ。閻魔の権限を蔑ろにするつもりなど、もとより無い。ああ、どうしたものか」
釈迦如来は頭を抱えています。
弥勒菩薩は痛ましそうな表情を顔に貼りつかせたまま、カンダタという亡者について考えていました。
本来なら56億年後の釈迦如来の退場まで待たなければならなかったのです。すぐに舞台に上がれるチャンスを与えてくれたカンダタにはそれ相応の礼をしなければならないと。
その日のうちに天照大御神から釈迦如来と閻魔大王に呼び出しがかかり、お裁きがくだりました。その結果は、釈迦如来と閻魔大王との職務交換でした。
業務に対する理解が足りないとのことで、釈迦如来は閻魔大王が行っていた地獄に来る罪人への裁きと、鬼たちの管理も含めた地獄の運営を行うよう申し渡されました。
閻魔大王は逆に釈迦如来の職務を委託されました。極楽の運営です。実際には昇格した弥勒如来が実務を行っているので仕事はありません。これまでの釈迦如来と同様に散歩をするくらいです。
「閻魔大王」
「何だい、弥勒如来」
閻魔大王は釈迦如来よりも堅苦しくなく、弥勒如来にとっては仕えやすい上司でした。
「今地獄にいるカンダタですが、罪は全て償っていて輪廻転生待ちとのことですので、極楽に来てもらってもいいのではないでしょうか」
閻魔大王は弥勒如来の意図が分かりませんでした。
「極楽に?」
「ええ、彼は良い仕事をしましたから」
閻魔大王は弥勒如来のその答えで、わかりました。
「いい考えだ。良い仕事には良い報酬が必要だな」
こうしてカンダタは蜘蛛の糸を使わずに地獄から極楽に行き、輪廻転生を待つ間、面白おかしく過ごしました。
そのカンダタの様子を閻魔大王も弥勒如来も注意深く見つめており、二人は同じ意見となりました。
カンダタの輪廻転生が決まり、極楽を去る日が来ました。カンダタは閻魔大王が指定した場所に行きました。大きな菩提樹の下です。
カンダタがそこに行くと閻魔大王と弥勒如来がひれ伏していて、二人は声を合わせて言いました。
「これまでのご無礼をお許しください」
カンダタが不思議そうに二人を見ていると、弥勒如来が顔を上げずに言いました。
「迦毛大御神様、お戯れも程々にお願いします。我らは職務に邁進し、ゆめゆめ慢心せぬよう勤めてまいります」
カンダタは何も言わず弥勒如来を見ています。
「迦毛大御神様。先のお裁きの前に天照大御神様が見えられました折に、あなた様はひれ伏さず立ったままでしたが、天照大御神様はそれを咎めませんでした。そのような立場でいらっしゃる方は、迦毛大御神様以外には伊邪那岐大御神様しかいらっしゃいません」
ひれ伏したまま、閻魔大王が引き継ぎました。
「伊邪那岐大御神様は黄泉の国に行かれて、まだ戻られていません。あなた様は迦毛大御神様に違いありません」
「……よくわかったな」
カンダタの姿は、鍬を持った農民の姿に変わっていました。
「それが本来のお姿ですか」
「大御神に姿なんて無いが、俺は麦作の神だ。俺が気に入った者の姿形だ。……不満か」
大御神の怒気を含ませた物言いに逆らえるはずもありません。弥勒如来が慌てて言いました。
「めっそうもございません。我らは相手の姿形に囚われることなく、職務に勤めておりますから」
「……言いたいことが無いわけではないが、弥勒の言を良しとしよう。俺は輪廻転生し、再び人間界に行くとする。あそこは面白い。それで良いな」
「おおせのままに」
「出すぎた答えだな。俺は天照に言ったのだ」
「意地悪すぎますよ、迦毛」
突然の天照大御神の出現に、閻魔大王と弥勒如来は再びひれ伏しました。
「もう少し自分の立場を考えなさい」
「少しくらいいいじゃないですか、天照」
「ダメです。大御神としての振る舞いではありません。自重しなさい」
「わかりました、気をつけますよ。では行ってきます」
閻魔大王と弥勒如来がそっと顔を上げると、迦毛大御神は逃げるように輪廻転生していきました。
「行ってしまわれた」
弥勒がつぶやくと、天照大御神の声が聞こえた。
「閻魔に弥勒。地獄にいる釈迦にも伝えて欲しいのですが、迦毛は人間界に再び転生しました。どういった姿で何をするのか私にも全く予想ができません。いずれにせよ再び死すれば、ここか地獄にやってきます。そのときには判断を誤らぬよう気をつけることです。2度目の失敗を迦毛は許しませんよ」
「極楽も地獄も、今回の様な不祥事を起こさぬよう職務に邁進します」
閻魔大王がそう答えると、天照大御神が去り際に一言残した。
「迦毛だけでなく、私も見ていますからね」
何もかも、わかっていたんだ。
閻魔大王と弥勒如来は天照大御神の気配の消えたあたりを見ながら、身震いが止まりませんでした。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花のまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。