白夜
白い廊下をずんずん進む。黒いコートをまとい、それを、進むことによって生まれる風になびかせる。他の者がこちらを見ていることも気にせずに、感情をその足にのせるように進んでいった。壁も、人の服すらも白いここに対して、黒いコートをまとっている彼は異常だった。後ろからついてきている案内人の意味もなく、彼はいくつもある扉の一つを勢いよく開けた。
「うわっ! 吃驚した。なんだ、お前かよ」
「なんだって、なんだ。どういうことだ。つかまったって」
あくまで冷静な口調。しかし、中にいた人物には、彼が相当苛立っていることが分かっていた。
中にいたのは、昨日逮捕された一人の青年、カイ。カイは、両手首にかけられた銀色に鈍く光る手錠をジャラ、と鳴らせながら座りなおす。しかし、彼、アヤナミはそんなカイを見下ろしているだけだった。背が高いせいで、見下されているように感じるのは仕方ないだろう。
部屋は四畳ほどの大きさで、この中も白い。白すぎて、目がちかちかしてくるほどだ。
部屋の中には、カイが今座っている座布団とたたまれた布団。そして、壁際にある白い小さな机の上にある、これまた白いノートパソコンが一台と、燭台。それだけしかなかった。
ここは、何に対しても白かった。カイが着ている囚人服も白い。下から上まで一つにつながっていて、胸元にはポケットがあり、二の腕の部分には、銀色の小さなアップリケが付いている。それは、よく見ればここのシンボルマークとされているものだった。長い尾のある鳥だ。銀のそれに、光が当たるたびにキラリと光る。確か、これは不死鳥だと聞いたことがあった。
ここは、いわゆるケイサツと言われるところだった。
「で、なんでつかまったんだ」
「そりゃあ、いろいろあるんだよ。俺は従っただけさ。それより…」
カイは口元を釣り上げ手招きをした。アヤナミは意図を察して、たたまれた布団に座る。それを確認してから、カイは顔を近づけ、真剣な面持ちで声を低くする。
「ここの情報の保管場所を見つけた」
「保管場所?」
ニヤリと笑うカイにアヤナミは怪訝そうに眉をしかめて見せる。その表情に喉の奥でクツクツと笑ったカイは周りをうかがうように視線を走らせた後、さらに声を低くした。
「そう。どこだと思う? おったまげるぜ?」
「…どこだ」
「地下さ」
「地下?」
予想外の事実に間抜けな声が漏れる。理由は、この場所に地下という場所は存在していなかったからだ。どこにも、地下があるなんて記されていない。たとえば、デパートや、普通のビルでさえ、何階に何があるか、何階まであるかなどが記されているものがある。それと同じでここにも構内案内図という物があった。そこには1階はもちろん、3階までの情報が記されていた。しかし、地下はないとされている。
「どこにそんなものがあるんだ」
「そう、ここの奴らでも最重要機密。上層部のお偉方しか知らない情報だ」
それをなぜお前が知っているんだという言葉は、アヤナミの口から出ることはなく、そのまま無言でカイを見つめる。アヤナミの灰色の瞳をカイは、まっすぐに見返した。カイは、アヤナミが言いたいことが分かったかのように、焦るなと手で制してもったいぶる。
「情報調達の仕方はいろいろあったんだ。俺も、何の準備もなしにつかまったわけじゃないぜ?」
アヤナミはその言葉に内心せせら笑っていた。そして、納得もしていた。
アヤナミは、今回ある任務を受け取っていた。それに加わったのはカイだ。
その任務内容と言うのは、最近、突如出てきた『正義』を掲げるこの組織を調べるということ。つまり、このケイサツは正規の警察ではない。国の意図しないところで組織されたものだからこそ、今回アヤナミに調査の依頼が回ってきた。今回、この任務にあたってどうやって調査するか、ということを考えあぐねていたところでカイが捕まった。こちらには一切の情報もなく、だ。だからこそ焦った。これでは任務が遂行できなくなる。もちろん、その心配は杞憂に終わったのだが。しかも、カイが独断でそんなことをするはずもなく、先ほども彼自身が言ったように、アヤナミの知らないところで命令が下っていたのだろう。
「今回は、ある上層部の奴につけた超小型追跡機と、パソコンでちょっとここをハッキングした」
超小型追跡機というのは、発信機と盗聴器を合わせたボタン電池のようなもの。もちろん、超最新型だ。世間に出まわってはまずいということで、政府のかなり地位の高い者しか知らない事実であり、民間人はそんな夢のようなものが存在するなんて知らない。それをカイが持っているということは、それだけ政府がこのケイサツを敵視しているということだろう。
カイは、ニッと悪戯が成功した悪ガキのように笑う。アヤナミは白けた目を向けながら言った。
「ちょっとって…、カイ。足がついたらどうするんだ」
「俺がそんなヘマすると思うか?」
その自信がどこから来るんだ、という言葉を飲み込み、ため息をつくにとどめた。そんなアヤナミのため息に苦笑するカイ。それでも、カイにとってはわけのないことなのだ。それが、アヤナミにも理解していることだから、ため息にとどめた。
「さて、本題だ」
先ほどまでのふざけた表情ではなく、真剣な表情になるカイ。その表情に、アヤナミも気を引き締める。カイはパソコンに向き直ると、そこに映ったあるものをアヤナミにも見えるように、パソコンの前から少しだけ身体をずらす。
アヤナミは、先に天井の四隅に目を走らせる。目視できる限りでは、監視カメラはないように見えた。それでも、無いとは言い切れないだろうが。
「大丈夫さ。見えないように多少細工した」
カイの隣に移動したアヤナミの耳元で低く呟く。それはひとり言のようで、しっかりとアヤナミの疑問を解消していた。
「これだ」
カイが開いた画面には、右上に現時刻ではない時刻と、どこかの建物の見取り図が表示されていた。3枚ある見取り図はどこかで見たことがある。そう思いつつその見取り図を見ていると、カイが説明をし始める。
「これは、ここの見取り図さ。ついでにこっちは俺たちがいる二階だ。で、俺が収容されている場所がここ」
そう言って画面を指で軽くたたいた場所は、少し入り組んだ道の角にあった。細い骨ばった指が画面の上を滑る。
「で、これが、上層部の一人に俺がつけた発信機の追跡機能を用いたもの」
マウスを動かし、画面をクリックすると、赤く点滅する光が画面上を意思があるように動き回り始めた。しかも、ちょうど道になっている場所。壁には決して交わりはしない。
「最初は、普通に行ったり来たりしている。たまに部屋に入るけど、ほとんどが五分としないうちに出てくる。でも、奴がここに入った時、ほら、入ったぜ」
赤い光が3階の端にある他より少し大きな部屋に入った。そして、それはしばらく中央部分で停止していたかと思うと、部屋の中を動き回り始めた。つまり、こいつは、この部屋の中を、何らかの理由か何かで歩きまわっているということ。
「で、面白いのはこのあとだ。こいつは、約三十分後に出てくるけど、」
言葉を区切るとキーボードをたたき、時間を進める。右上に表示された時刻が三十分すすめられた。そして、赤い点滅はそれから一、二分とどまった後、部屋を出て行く。それは、階段を下り、次には二階の見取り図に現れた。
そして、この部屋の前を通り過ぎ、ある角をまがり、しばらく立ち止まっていたかと思えば、突如として消えた。
「……どういうことだ」
「俺もおったまげたさ。機械が故障したわけじゃねえんだ。その証拠に、これから二時間後にこいつはまた現れて、動き出す」
「二時間? いったいその間は…。まさか、ここから地下へ?」
「ご名答!」
ニヤリと口端をあげ、白い歯をのぞかせたカイは、再びキーを叩き、違うものを出した。それは、動画のようだった。
「これは、ここの防犯システムにハッキングして映像をコピーしてきた。結構骨が折れるんだぜ。ってことで、報酬増しでよろしく」
「…この情報次第だ」
「まったく。アヤナミはお堅いんだから。俺がわざわざ捕まってまで手に入れた情報が無価値なんてあるわけねえだろ」
「その価値は見てから決める」
「へいへい。ったく。これだからお偉いさんは…。いいから、目をよく見開いて観とけよ? これは、さっきの消えた場所の防犯カメラの映像だ。ほら、きやがった。こいつだ」
指さされたのは、白い服に、似合わない紫の短い髪をした老人。映像からははっきりと判断はつかないものの、男だという推測はできた。
そして、この老人は、行き止まりの五歩ほど前でとまると、一歩大きく踏み出した。すると、床が緑に点滅し、老人の左手の白い壁が音もなく大きくへこんだ。壁がへこむと、そのへこみを補うように黒い壁が上から下りて来る。
「おもしろい仕掛けだろう? 暗証番号を入力するんだぜ」
まるで、自分が造ったのだとでもいうように、自慢げに話すカイには何も答えず、画面から目を離さないアヤナミ。
老人は暗証番号を入力したのか、その黒い扉がそこから、まるで自動ドアのように二つに割れ、両側にスライドした。そして、ここでは考えられないことに、中は黒かった。その黒の中に、白い服に身を包んだ老人がためらいもせずに入り、消えて行った。それはまるで闇の中に飲み込まれているかのように見えた。
ここが、秘密の地下への入り口。
「なるほど…、報酬に関しては後で上に言っといてやる」
「よっしゃ! じゃあ、俺は、ここから出る準備をしようかな」
「は?」
「一度やってみたかったんだ。脱獄」
子供のように笑う彼が、同じ組織の人間だとは到底思えない。いや、同じ組織の人間と言うには少し語弊があるが。あまりにもその無邪気な表情に一瞬あっけにとられてしまうも、カシャンという音に視線を彼の腕に向ければ、手錠はなんなく外れていた。腕には生々しい赤い後が残っている。
「いってー。手錠って、痛えんだな」
「一つ利口になれてよかったな」
自業自得だという言葉に、ちぇ、と唇を尖らせるカイ。しかし、アヤナミの思考はもうここにはなかった。これから、先ほどの地下へと行ってみようと考えていた。そのためには、この黒いコートでは目立ちすぎる。
「アヤナミは、これから、地下へ行くんだろ?」
「…ああ。調べに行かなければいけないからな」
「じゃあさ、一つ。情報を買うか? とびっきりの情報」
「……同じ組織で商売をするのか。情報屋よ」
「組織も何も俺には関係ねえな。金を積まれればそれ相応の対価として情報を与える。その俺を高額で買ったのがアンタの上司さ。だから、俺はお前の部下としてここにいる」
こちらの世界へ足を踏み込んだときより背が伸びた青年がこちらを見上げてくる。
もともと、こいつが組織にハッキングしてきたときに、その腕を買われたのだ。手に負えないものはとりこんでしまえということだろう。そして、アヤナミのもとへと配属された。細い骨しかないような体に、ボロをまとっていたガキを思い出す。
気に食わないガキだ。もともと情報屋としてその日暮らしの金を稼いでいたこいつは、信用できるのはその情報と金ぐらいだろう。カイ自身を信用しては、自分が話した情報を全て金に換えられてしまうのが落ちだ。
「ならば、その部下が情報をわざわざ売ろうとするな」
「これだから、お堅い。この情報については、俺の個人で調べたつもりなんだけど?」
「組織のためじゃなく、か」
「そう。ちょーっと、興味を持ったから調べただけ。それに、恩を売っておくのもいい。あとは、今回の任務に関わっていたことだから、ね」
「……いいだろう。だが、金はお前をここへよこした、その上司様へと請求しろ」
「上司にたかるなよ」
「お前が言うな」
そっと扉をあけて外の様子をうかがう。真っ白な廊下が続く中、一人の真っ白な服装に身を包んだ青年が歩いてきた。堂々と歩き、周りの者が端によけては彼に頭を下げる様子を見て口角をあげる。
彼がちょうどこのドアの前を通り過ぎようとしたときに、ドアの隙間から腕をつかみ、同時に悲鳴をあげそうになる口を己の手でふさぐ。くぐもった悲鳴は一瞬のことで、部屋に引きずり込み、後ろから前に回した手で腹を一発殴る。
「ちょっと眠っていてもらうぞ」
耳元で呟いた声は、彼へと届いてはいないだろう。腕の中でぐったりしているこいつを仰向けに寝かせる。
「ヒュー。やるねえ。本当に極悪人に見えてきたぜ。しかも、ちゃっかり上層部の一人じゃないの」
「カイ。お前は今回のことを上に報告しろ」
気を失っている男から身ぐるみを剥ぎそれを着ながらカイに命令する。真っ白な服に身を包めば、少なからず居心地の悪さを感じ、眉をしかめた。
「アンタ、変装はできねえのか。明らかに、ここの奴らじゃない雰囲気を醸し出してるぜ?」
「知るか。俺は情報収集をまかされただけだ。このコートは持っていけ。派手に暴れてくれればこちらも動きやすくなる」
コートを投げ、それを受け取ったカイはコートとアヤナミを見比べた後に、不満そうな顔をする。
「……俺は囮かよ」
「獲物を捕まえるためのウサギになった気分はどうだ? せいぜい、頑張って脱獄するんだな」
ニヤリと笑ってやれば、ヒクッと喉を鳴らせて顔をひきつらせたカイに、さらに笑みが深まる。
「で、その情報とやらを聞かせてもらおうか」
けたたましく警報が鳴る。あわただしくなる空気。それを煽るかのように壁につけてあるランプが回りながら光る。それにつられて、走りまわる足音は、放送から流れる情報に左右されては、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとしていた。心中で、カイがうまくやっていることを知り、見分けられない程度にほくそ笑む。
動き回る兵士のような面をした奴らとは反対の方向へと足を向ける。混乱しているからか、悠々と歩くアヤナミに注意を払う者はいなかった。
地図で見た情報。
秘密の地下への入り口。
それは、全て頭の中にインプットされていた。
部屋を出る際に、アヤナミのコートに腕を通して、こちらを見上げたカイから買った情報を思い出す。それは、しごく短い言葉で終わった。しかし、確かに、必要な情報。悪戯っ子のような笑みを浮かべたカイ。
『XI90』
耳に届いたカイの声が、甘さの欠片もない余韻となり耳に残っている。耳元でささやかれた言葉。耳に吹きかけられた吐息に僅かに眉を寄せた。意味がわからなくて見下ろしたカイは悪戯っ子のような笑みを浮かべて、『パスしたら、ちゃんと受け止めろよ』と言っておかしそうに笑った。
それが気に食わない。だからこそ、短く乱雑に切られている髪をつかみ、引き寄せてから、耳元で低く囁きかける。
「ガキにはまだ早い。せいぜい、捕まるなよ」
そう言いながらも、優美な動作でアヤナミはカイの柔らかさを持つ手に小型の爆弾を握らせる。爆弾と言っても、煙幕+閃光なので殺傷能力はゼロ。お子様にはピッタリだ。
一瞬不安に揺れる瞳がアヤナミを見つめる。
自分のそれとは違う柔らかさを持つ手を、開けた扉へと導き、そっと背中を押す。
逃げろ。
言外にそれだけを含ませて、華奢な体を押した。
目的の場所にたどり着き、周囲に人の気配がないのを確認する。どうやらあの青年は十分に囮役を果たしてくれたらしい。華奢な体だが、華奢だからこそすばしっこい。組織でも、チョロチョロと嗅ぎ回り、大事な情報という餌を気付かぬうちに盗み取っていくことから裏でネズミと呼ばれているぐらいだ。
真っ白な廊下は、これ以上は壁があり、行けないようになっている。周りにドアはなく、まるで迷路の行き止まりの道のようだ。映像で見た光景を思い描き、あの老人が立っていた場所に似たような場所で立ち止まる。少しずつ足を動かしていけば、カチッという音。そして、白い床に、焦げたような色をしたサークルが浮かび上がり、躊躇することなくその上に足を置いた。
壁の下側が緑に点滅し、アヤナミの左手の白い壁が、音もなく大きくへこんだ。そのへこみを補うように、黒い壁が上からおりてくる。それは、静かに行われたもので、真っ黒な壁は白い壁と相反していて、そこが黒いだけなのか、それともへこんでいて暗くなっているのか、一連の動きを見ていなければ判断がつきかねていただろう。
次の瞬間には、その黒い壁からキーボードのようなものが出現した。壁と同じように真っ黒なそれには、アルファベットと数字。それに、たくさんの記号が書かれていた。
『XI90』
迷うことなく、先ほど耳元で囁かれた言葉を入力する。
すると、黒い壁はどこに境目があったのか、自動ドアよろしく二つに割れスライドした。
中は、闇だった。入ることを躊躇う。
科学が発達してきている現代。この時代に本当の闇というのを体験する機会など無いに等しい。ただでさえ、夜には街灯が照らされ月の光すら霞ませるのだ。
ゆっくりと足を闇の中へと入れる。足をそっとおろすと、すぐに硬い感触があった。重心を前へと移動させて、もう一歩、前へ踏み出せば、突如部屋にほの暗い蝋燭のような頼りない明かりがついた。それと同時に、後ろでドアが閉る。薄明かりでは今まで白い廊下にいたアヤナミには真っ暗なのとほぼ変わらなかった。が、それも次第に慣れていく。
ようやく慣れてきた目に、安堵のため息をつき、辺りを見回す。そこには、真中に二本の柱。そして、その奥に二つのドア。見たところエレベーターのようなもの。全体的に黒光りするタイルが使われていて、地面にしゃがみよく見ると、それにはかすかに緑の線が入っている。何かの石か何かだろうか。
二つのドアに近づく。黒光りする床は歩くたびに足音を部屋に響かせた。
ドアの前に行けば、自動的に開かれるそれ。まるで、誘い込んでいるかのように静かに開かれた扉の中は、同じように黒光りするタイル張りの四角い部屋。何もかもが黒いここでは、白い服に身を包んでいる自分がやけに場違いに感じた。
口端をかるくあげて中へと入る。
チョウチンアンコウは、暗闇に照らす光で誘い込む。今は、情報という名の餌で誘い込まれている。それを分かっていてそのまま誘いに乗る。まるで考えることや、危機回避能力が低下しているかのように、何の警戒心も無く。
入ったと同時に閉じられたドアは、数分としないうちに開かれ、外の景色はまったく別物となっていた。
水を打ったかのように静かな場所。それに、棚に陳列しているのはいろいろとした資料のようだ。中にいる人はアヤナミが奪った服と、同じものを着た者ばかりがいる。ざっと見た限り、年齢層はバラバラ。しかし地位はそれなりに高いようだ。
地下全体を使ってあるんじゃないかと思うほどの広さに圧倒されつつも、端から順に回ってみていく。
端には、骨董品のようなものと、それについての説明がガラスを挟んだ向こう側に光で照らされている。これらは、どうやら押収品らしい。各事件の日付、全貌などが大まかに記されていて、その下にはアルファベットと数字。どうやらこの事件に関するファイルの場所を示しているようだ。
しかし、アヤナミの探しているものではない。アヤナミが探しているのは、他事件ではなく、このケイサツについての資料なのだ。
もっと、奥へ、奥へと進んでいく。奥へと進むたびに、人はほとんどいなくなり、資料には最近開かれた形跡がなくなり、埃をかぶっている。
一番奥。
そこでは、窓ガラスにはステンドグラスで聖母が描かれ、淡い光がガラスを通され色づき、そこを照らしていた。
そして、その照らされている場所には一枚のCD‐ROMとパソコンがあった。
CD‐ROMを手に取り、裏、表とひっくり返してみる。周りに何も表示がない。とりあえず、パソコンに入れてみる。すぐに表示されたファイルを開く。
英語で書かれているそこに、ざっと目を通して見れば、興味深い内容が書かれているようだ。念のため持ってきていたディスクを挿入し、パソコンを操作していく。厳重にロックされている中をかいくぐり、なんとか、持ってきたディスクにコピーしていく。それを待っている間に、内容を軽く読んでいけば、いくつかの単語が目に入る。
『実験』『人柱』『サンプル』
「…先に逃がして正解だったな」
誰に言うでもなく呟く。今更ながらに脳内に警戒心が沸いてきていた。コピーが終わったことを知らせるものが出てもそのまま下へ、下へと画面をスクロールさせていっていると、耳に、カタンと小さな音が響いた。
咄嗟に息をつめ、辺りの気配をさぐる。再びカタン、という小さな音が聞こえてから、すぐにディスクを抜き出し、それを懐のポケットに入れ、CD‐ROMをもとに戻す。
ざっと周りに目を走らせ、足早にそこを立ち去ろうとするも、向かい側から人の気配が近づいてくる。相手はこちらに気づいていないのか、気配を消そうとはしない。足音が徐々に大きくなる。
体が思うように動かなくなる。足を前に出し、進まなければいけないのに、体が言うことを聞かない。
いやだ。
誰かが叫んだ。
相手はゆっくりとこちらに近づいてくる。
遠くの方でサイレンのような甲高い音が鳴り響いている。
影となって見えない向こうから何かがゆっくりと近づいてきた。いつの間にか外は暗くなっている。それなのに、ステンドグラスからは淡い、色のついた光が漏れ、アヤナミの足元を照らし出していた。
動け。
体に命令するも、動こうとはしない。
逃げろ。
本能が命じるも、金縛りにあったかのように、先の見えない闇から目をそらすことも、体を動かすこともできない。淡い光は、頭上からアヤナミを照らす。まるでスポットライトに当たっているようだ。しかも、観客も他の役者もいない舞台でただ根が生えたかのようにその場に突っ立っているのだ。額から汗が流れおちる。
前方から来る人物は、やっと光の範囲に近づいてきた。白いスーツの足元だけが照らしだされる。
顔が、見えない。しかし、あちらからはアヤナミの顔は丸わかりのはずだ。
「やあ」
向こうが言葉を発した。それは、脳髄を刺激するような、ゆっくりとした甘美な刺激を含む声。惑わされそうになる声。
駄目だ。聞くな。
遠くの方でサイレンのような高い音が鳴る。
視界が回り、目が霞んでいく。
月が動き、ステンドグラスから通されている光も動いた。そして、ゆっくりと目の前の人物の顔を照らし出していく。
「―――っ!」
甲高い、耳障りな音が部屋中に響いている。それに紛れるように、荒い息遣いが耳に届いた。それが、自分の声だと気付くのに数秒。さっきから鳴っているサイレンのような音が、枕元にあった目覚まし時計だということを理解するのに数秒を有した。
いまだに、覚醒しきっていないが、そっと溜息を一つ。そして、煩くなっている目覚まし時計を止める。
しん、と静まりかえる部屋は、いつもの見慣れた、アヤナミの部屋だった。机の上に乱雑に置かれている紙は、今回の任務の資料だったはずだ。
もうひとつため息をつき、目頭を押さえる。どこからか流れてきた風が背中を撫でて行った。その風により、汗が冷えて、急激に体の体温を奪っていく。汗ではりつく髪を片手でかきあげて、ため息をひとつ吐く。
「……夢、か」
いやに、ハッキリとした、現実味のある夢だった。しかも、ご丁寧に今回の任務の内容に酷似していた。自分はそんなにも、今回の任務を気負っていたのかと苦笑する。それにしても、最後にでてきたスーツの人物は誰だったのだろう。最後に確かに顔が見えたはずなのに、まったく思いだせない。ただ、本当にいる人物だとしたら出会いたくない相手だと思った。
からからに渇いている喉を潤そうと、キッチンへ行くために立ち上がろうとしたとき、携帯の電子音が部屋に鳴り響いた。その音に、いやな予感を感じ取り、電話に出ることも忘れて、鳴動する携帯を凝視する。
長く鳴り響いた携帯は、一度切れ、すぐに再びかけなおされてくる。
あきらめて、携帯を手に取れば、ディスプレイには、仕事仲間の一人の名前。嫌な予感ほど当たるものはないとは、誰が言っただろうか。
「もしもし」
出たくない気持ちを抑えつつ、携帯を耳に当てる。
『やっと出たか! どれだけ、かけたと思ってるんだ!』
「…こっちは、真夜中に帰ってきて寝たばかりだ。それに、今日は非番のはずだ」
『そんなこと知るかよ! それより一大事なんだって!』
大声でまくしたてる電話の相手に、携帯を耳から少し遠ざける。朝からこの、大声に付き合わされることになるとは…。
「で、なんだ。さっさと要件を言え。簡潔にな。こっちは寝不足なんだ」
苛々とした調子を押さえずにそう言えば、相手は一度深呼吸をすると、ゆっくりと、よく聞けよ。と念を押してきた。その声は、深刻そのもの。
渇いている唇を舐める。
相手は、ゆっくりと、低い声で口を開いた。
『カイが、ケイサツに捕まった』
読んでいただきありがとうございます。
これは、私が実際にみた夢をリメイクしたものです。
アヤナミが私。カイは学生時代の友人でした。
なぜこんな夢を見たのか、いまだに不思議ですが、あまりにSFチックだったので思わず小説に書き起こしてしまった作品です。
夢が元なので脈絡のなさはご容赦ください。