天馬の怒り
地を蹴る蹄の音も高らかに、それどころか、地響きすら伴って、凄まじい勢いでそれはやってきた。
――てんめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!
その嘶き、と言うか咆哮を、意訳するならそんな感じだろうか?
荒ぶっているのが丸分かりな馬の鳴き声に、どデカワンコが耳を動かし、明らかに嫌そうな顔をする。
廊下を行き来していた文官や侍女達が、慌てて壁際へと退避していく。
そうして廊下のど真ん中に出来た空隙を、光を置き去りにせんとばかりに、金色の輝きを帯びた馬が猛進してきた。
「――ぬ?
アストゥラビ、腹の具合は大丈夫なのかっ?!」
体調は元から問題なさそうな愛馬に、次兄が、恐らく大いにズレているだろう言葉をかける。
わりかし頻繫に、訳の分からないすれ違いを繰り返す乗り手に、神馬の末裔は、下手をすれば、天井に激突しかねない跳躍を以て応えた。
――着地の先は、丁度、次兄が立っていた場所である。
「――ぬおぉっ?!
アストゥラビ、危ないではないかっ?!」
怒れる愛馬の飛び蹴りを、次兄は転がって避けた。
大理石の床を粉々にしておいて、神馬の先祖返りは怒りを鎮める様子もない。
そして、次兄相手に臨戦態勢に入ったアストゥラビのせいで、これ幸いと不審者がお義姉様――のドレスに、爪を立てたせいで動けなくなったらしい、ふわもこワンコににじり寄ってくる。
――脳筋の癖に、肝心なところで次兄が役に立たない件について。
「シルキーちゃ~ん♪」
「――だからお義姉様に近寄らないでくださいよ、何度言ったら理解するのですか、この鳥頭っ!!」
どうしようもない元帥を、慌てて妨害しようとしたシャルロッティに、不意に影が落ちた。
女神の守護者たる神獣の血を色濃く受け継ぐ獣は、シャルロッティを護るかのように、不審者の前に立ちはだかる。
不穏な笑みを浮かべた戦闘狂を前に、しかし、神の犬の末は一歩も引かずに牙を剥き、低く唸り声を上げる。
――やだ、どデカワンコが頼もし過ぎる。
傷痕のせいで、子供を泣かせかねない強面も、今この時は、安心しか感じない。
ともすれば、うっかり惚れてしまいそうである。
ワンコだけど。
この胸の高鳴りが、吊り橋効果と言うものなのだろうか。
どデカワンコは、雌なんだけども。
「――アストゥラビ、お前は私を乗せる余裕がないくらい、気分が悪かったのではなかったのかっ?!」
困惑しきった次兄の叫びに、神馬の末裔は、がっくりと肩を落とした。
共通言語を使用しても、次兄との意思疎通は面倒なので、言葉を持たぬ愛馬の方はさぞかし大変なのだろう。
――ただ、八つ当たりでものを壊すのは、止めなさい。
ふと、何かに気が付いた様に、アストゥラビが顔を上げる。
――元はと言えばお前がああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!
「――うおぉっ?!
何すんだよこの馬ぁっ!!
馬刺しにすんぞ、ごるぁっっっ!!!!」
いいぞ、もっとやれ!!
傍迷惑な戦闘狂は、今ここで、アストゥラビに性根を蹴り直してもらえばいいと思う!
「アストゥラビ、師匠を蹴ってはいかんっ!!
一応これでも、お前に蹴られては死にかねんのだっ!!!」
今度は元帥に蹴りをかましてきた愛馬を、次兄が慌てて止める。
だが、次兄については色々諦めていても、元帥への謎の恨みは深かったらしい。
天馬の末は、驚異の三次元機動を繰り出し、元帥がアストゥラビの攻撃を避ける度に、大理石の床の割れや、漆喰の壁の罅はどんどん広がっていく。
――やる気漲る神剣さんが、未だに次兄にスルーされっぱなしなのに、城が半壊しかけている件について。
……次兄よ、貴方の資産は、責任を以て増やしてあげますから。
――どうか、借金に自棄になって、野性に回帰しないで下さい……。
そして、シャルロッティは、きりりと表情を引き締めた。
「――お義姉様、今ですっ!
行きましょうっ!!」
「ええっ?
……で、でも、殿下は大丈夫なのかしら?!」
おろおろと事態を見守っていたお義姉様に、シャルロッティはゆっくりと首を振る。
「お義姉様、非力な私達に出来ることは、一刻も早く邪魔にならない場所に移動することだけです。
――アレス、貴方はシルキーを運びなさい」
騒動の間、青い顔で壁に張り付いていた侍従見習い兼専属騎士に、シャルロッティは凛とした顔で命じた。
元帥相手に全く役に立たなかった戦神の寵児だが、戦闘狂に壊されては困るし、生贄、もとい囮にした結果、次兄二号が爆誕したら、それこそ悪夢だ。
次兄も元帥も、この世に存在するのは、独りだけで充分である。
「スカー、後はよろしくお願いしますね」
シャルロッティが声をかければ、どデカワンコは紫眼を煌かせ、静かに頷く。
脳筋には勿体ない程、良いワンコだ。
正直、身体が大き過ぎて、室内では邪魔になるけれども。
「さあ、お義姉様、行きましょうっ!!」
「――え、ええ……」
心配そうに、何度も背後を振り向くお義姉様を促しながら、シャルロッティ達は全力でその場から逃走した。