おんなは顔ではないのです
*初め第三者視点
月の光さえも疎ましく、カーテンを閉め切った部屋には、日中にもかかわらず、薄闇が沈殿していた。
もう血の流れぬ傷が原因の、時折頬を走る鈍い痛みが、幾度も彼女に現実を突き付ける。
叩き壊した鏡を見ずとも、決して消えないと理解できる傷痕は、彼女の細やかな未来予想図を簡単に破り捨ててしまった。
商品としては致命的な疵を負い、それでも彼女が捨て置かれなかったのは、育ての親代わりの女主人の慈悲と、打算の結果だろう。
かつて、この国を興したという半神が有したそれと似ているらしい、瞳の黄金色と、光の加減で女神の末裔のそれに見えなくもない、銀灰の髪。
珍しい組み合わせの色彩は、ただそれだけで価値を見出す好事家だって、居ないことは無い。
――例えば、まだ見習い娼婦にすぎない彼女に、どろりとした粘性の視線を向けていた客のような。
こもっていた私室の扉を叩く音に、彼女はのろのろと顔を上げる。
ただの事故か、それとも何者かの悪意だったのか。
客同士の諍いに巻き込まれ、高級娼館の要求を満たす面を深々と切り裂かれた彼女には、原因など何も意味がない。
このまま死ねば、ただの無駄死にで、――これから生きていくなら、金が要るのだ。
どの様な手段で、手に入れるのであれ。
死にたくないなら、生きていく覚悟を決めるしかないではないか。
いつか。
……そう、いつか。
幸せになりたいと願ったまま、惨めに死ぬことだけは、不格好にひしゃげた彼女の矜持が耐えられない。
応えた声は、しばらく使われていなかった喉のせいで掠れて、ひどく無様に耳に届く。
定位置になりかけていた寝台から、床に下した足は、よろめいて。
それでも、踏みしめ、歩き出す。
指先まで神経を張り詰め、叩き込まれた優雅な挙措で武装する。
――心まで、醜くなってくれるなと。
その在り方に憧れ、救ってはくれないと理解しても、憎めないひとの言葉が、頼りない杖になる。
かさついた唇に乗せた紅は、手放せない意地だ。
顔を上げて、自ら閉ざした扉を開けた。
その先で。
彼女に向けられた三対の瞳の、薄い琥珀色は、確か王族に特有のものであったはずだ。
「――採用」
なぜか彼女の顔ではなく、胸元をガン見していた、茶髪混じりの金髪の青年が、そんな事を言いながら親指を立てた。
「だから、レヴァン、その女性は、シャルロッティに部下として育てさせる予定だと言っているだろう」
「その前に、そこの方の意向も汲んであげましょうよ、ラザロス兄上」
真顔でのたまう青みかかった黒髪の青年に、片手で額を押さえながら、真っ赤な髪の少女が突っ込みを入れる。
予想の前に、彼女の常識すら外れた組み合わせの『客』達に、元娼婦見習いの娘は固まるしかなかった。
◆◆◆
シャルロッティの言葉に、従兄は露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだよ、騎士団長様と次期大公様は、とうとう権力振り回すことでも覚えたんですかね?
たかが一般市民に、公爵家の妾腹の子爵と、王位継承権持ちの発言力を比べさせろってか?」
「そもそも、貴方は、そこの方に何をさせるつもりだったのですか?
高級娼婦の見習いに、手が荒れるような炊事や洗濯なんて、させる訳が無いでしょう」
応接室に入ってきた娘を見やり、シャルロッティは胡乱な目でレヴァンを見上げる。
何よりも、双眸に宿る黄金色が印象に残る娘だった。
病み上がりのせいか、白磁の頬はこけ、光の加減で銀色にも見える髪は、緩く編まれて背中に流れる。
その所作を見れば、なるほど、夜の蝶として最高の教育を受けたのだろう。
王家直系の姫であるシャルロッティの目にも、及第点を出せる礼儀作法を身に着けていた。
だからこそ。
夜の華として君臨するに相応しい相貌に、――額から口の端近くまで、深々と刻み込まれた傷痕が、無残なまでに際立ってしまっている。
高級娼婦の教養の中には、給仕に使えるものもあったはずだが、これでは、来客のもてなしに不向きではあるまいか。
傷が漢の勲章な、脳筋ばかりの騎士団ではあるまいし、一般人が生死を彷徨う傷痕を目にする機会はそうないのだ。
見慣れないものを受け入れるか、拒絶するかは、結局、個人の価値観次第でしかない。
そして、裏方の仕事は、一夜の夢を売る華が、手を出す領分ではないのである。
……一応従者の前なので、娼婦本来の用途に関して、シャルロッティは、従兄妹の情けで言及しないでやることにした。
シャルロッティの指摘に、レヴァンはいかにも小馬鹿にしたように、はっと嗤った。
「末姫様も、まだまだお子様なんですね。
――いいか、女は胸が大事なんだ。
化粧程度でどうにでもなる顔なんか、気にするもんじゃないんだよっ!!!」
「レヴァン、私達が今いるのは、高級娼館なんですけど」
シャルロッティの従兄が、ある意味では清々し過ぎる、けれど、美容に気を使っている世の女性達を尽く敵に回す台詞を、ドヤ顔で言いやがった。
流石のシャルロッティも、馬鹿にされてイラッとくる前に、ぶれないレヴァンに呆れるべきか、一周回って尊敬すべきか迷ってしまう。
そして、レヴァンの瞳が、不敵な光を宿して次兄に向けられた。
「おい騎士団長様、軍部で潜入用に使う化粧道具があるだろ。
どんな傷だろうと誤魔化せるやつがっ!
裏は取れてんだ、うちの領地で軍事演習させてやってんだから、ちょっとは寄越せっ!」
補助金と自領の警備費削減目的で、子爵領での軍事演習を受け入れている従兄が、軍の備品を次兄にたかってきている件について。
無駄にふてぶてしい従兄に、次兄が理解しかねるという風に眉を寄せた。
「胸がどうだろうと、顔に傷があろうとなかろうと、淑女は淑女だろう」
次兄が、珍しくまともなことを言っている。
「うちのスカーは、胸が目立たなかろうと、傷跡が目立とうと、立派な淑女なのだぞ」
「スカーって、犬じゃねぇかっっっ!!!!
今しているのは、人間の話なんですけどねっ?!!!!」
ただのどデカワンコ自慢だった。
「何を言うのだ、レヴァン。
兄上目的で私に近寄ってこないし、私に毒入りの食べ物を渡したりしない淑女に、犬も人間も関係ないだろう」
「――なんであんたの淑女の条件が否定形なんだよっ?!!」
次兄の女運の悲惨っぷりに、シャルロッティは頭が痛くて仕方がない。
まあ、長兄目的の変態共に比べれば、賢くて働き者のどデカワンコは、十分以上に淑女であろう。
それに、どデカワンコは、お義姉様を庇って戦闘狂に立ち向かってくれるし、でっかい熊もがぶりな…………しゅく……じょ………………?
――あれ、しゅくじょって、なんだっけ……???
シャルロッティ、十二歳。
王家の姫君なのに、淑女の条件が良く分からなくなってしまったとある日。
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