葛城敬心のひとりごと 日
ミサと一生分のキスをした部屋で、一生分の涙を流した。
家族を捨てるときさえこんなに涙は流れなかった。
もはや、ミサに対する気持ちは浮気じゃなくて本気だった。
もし俺が芸能人か何かなら、ワイドショーのコメンテーターに、めったぎりにされているだろう。
支えてくれた家族を捨てて、若い女にのぼせ上がった愚かな男。
誰もがそう思うに違いない。
だが、ちょっと変わったうちの家族から離脱して、また新しくハートが芽吹いただけだというのに。
だが、ミサの剥き出しの台詞に、あの時、二人が魂を交わした瞬間の声、表情、温もりが手のひらから離れていく。
本気だったのが自分だけだというオチがつけば、世間の笑われものだ。
ざまあみろ。
節子の声が聞こえてきた気がした。
なんて声をかけたら許してもらえるだろうか。
そもそも出戻りをする勇気などない。
あんな形で離婚を切り出して、笑って許してくれるほど節子の人間が出来上がっているとは思えない。
俺は、戻った瞬間から、一生節子のしもべだ。
それでも、一瞬期待する。
あら、もう戻ってきたの? 案外早かったわね。
そんな、どっしり構えた懐の深い台詞を。
本気にしてないからあっさり受け入れたような気もする。
寿司でも買って、帰ろう。
ぼちぼち身支度を整えて実家に帰ってしまうかもしれない。
帰るのを先伸ばしにすると帰りづらくなるだろう。
寿司屋に入る前に、電柱の影に隠れた。喜一が走ってこちらに向かってきたからだ。
引きこもってたんじゃないのか?
あいつが俺の不貞のことを知らないだろうが、咄嗟に隠れてしまった。
手に何か瓶をもっている。瓶の中には錠剤が入っているのが見えた。
あいつ、もしかして死ぬつもりなんじゃ!
あわてて喜一を追いかける。
「待て、喜一」
喜一は振り向いて、俺だと分かるとスピードを上げた。
「お前、なに考えてやがる」
威勢が戻ってきた。
「ほっといてくれよ」
「バカ! お前は俺の息子なんだ、そうはいくか」
「どうして今さら僕に執着するんだよ」
卵会議での積極性のなさとはうらはらな態度に、喜一が戸惑いの声をあげる。
「お前のしようとしてることが心配なのさ」
「ただの人助けだよ」
会話がこのへんまでしか出来なかった。
喜一にうまいことまかれた。
愛人に捨てられ、嫁に愛想をつかされ、小学生の息子にまかれるなんて。
公園のベンチに寝そべる。
楽しげな声で鬼ごっこをしていた子供たちが、公園から消えていく。
嫌な夢を見た気がした。
「みーつけた」
瞼を開けると、節子が見たことのないマフラーを巻いて微笑んでいた。
「お話よろしいかしら?」
節子がこういう話し方をするときは危ない。敬信は何も刺激させないよう、声も出さずに小さく頷いた。
「好きな人はどちらにいらっしゃるの?」
「もう、いいんだ」
「何言ってるの? 彼女にこのマフラーを渡さなきゃ。あなたにとって愛のたすきなんでしょ? 直接顔を見て返したいの」
なんて恐ろしいんだ。やっぱり、こいつを敵に回すとこえぇ。
「参りました」
お前の作る料理が食べたいとか、お前の笑顔を守りたいとか、いろいろ考えていたのに、こうなってしまうのか、俺は。
節子は、肩をすくめて、降参宣言を受け止めていた。




