葛城智子のひとりごと 水
「おおっ」
私、葛城智子(22)は、トイレの中で声を上げていた。
この前合コンで連絡先を交換した青年から、食事の誘いのメールが来たのだ。
私は小さくガッツポーズをした。
トイレから出ると、母がちらっと私の方を見て、にやっと笑った気がした。
は?
気持ち悪っ
だが、そんなことに突っかかる気分ではない。
「おかえり」
小学校から帰ってきた弟と入れ替わるようにして、私は外に出かけた。
最近買ったばかりのお気に入りの自転車にまたがる。
弟にヘンテコな名前を付けられ、はいはい、と流していたが、名前をつけると愛着が湧いてきた。
町並みを眺めながら、先ほど来たメールの内容を反芻する。
町並みの景観など頭に入らず、それを思い浮かべては笑みがこぼれるのを必死でおさえる。
すぐにメールに返信しないのは、このわくわくが相手に筒抜けなのを防ぐためなのと、携帯依存症だと思われないようにするためだ。それに、相手にプレッシャーをかけるのもよくない。
春の匂いはどんな桜餅よりもおいしい。
私は匂いフェチだ。
牧場の匂い、夜の匂い、この町の匂い、好きな人の匂い。
好きな匂いに囲まれて生きていることが幸せ、というタイプだ。(どんなタイプやねん)
本の匂いを求めて、この辺りにある、大型書店に行くことにした。
あの時の合コン。彼と私は対角線上にいた。
その位置のせいで、私たちが直接会話をすることはなかった。
穏やかな独特な雰囲気を身にまとい、心奪われていたものの、話すチャンスのないまま終わってしまったので、自分から連絡しようかどうか迷っていたのだ。
まさか、同じ気持ちだったなんて。
本屋のランキングを眺めながらも、心は携帯電話にあった。
返信のタイミングを伺っている。
まだ、早いか。一時間は寝かせたい。
すると、目の端で、本棚から本が雪崩のように崩れ落ちるのが見えた。
男性が、慌てたように、本を片付けていく。
男性と私の距離は、一メートルほど。男性の近くには、私しかいない。
私は手伝おうか、迷った。
もし、他者の助けが煩わしいのならば、私に近い右側の本から片付けるはずだ。
だが、彼は左側から片付けていた。
少なくとも、彼は私の助けを突っぱねる気持ちはないらしい。
しかし、私はまだ迷って本を探すふりをしていた。
ここで本を手に取り、大丈夫ですか? と声をかける、もしくは、黙って手伝うもんなら、ドラマのワンシーンを狙っているように見えないだろうか?
狙ってなくても、運命の出会いを体で表したような展開に、苦笑せずに耐えられるのだろうか?
そこから会話が始まり、連絡先を聞かれたとして、私はその場に崩れ落ちずにすむ自信がない。
私は心を鬼にして、見て見ぬふりをすることに決めた。
無視を決め込んだものの、この至近距離でのシカトは気まずい。彼は、恥ずかしさのあまり、その場にいられなくなったのか、片付けるとすぐにどこかに消えてしまった。ようやく緊張の糸がほぐれた私は、どっと疲れが体から湧き出るのを感じた。
もしかすると、神様があの人と恋愛をしなさい、と言っていたのかもしれない。
私は神様の声に耳を傾けなかったことに後悔した。
一分がすぎるたびに、後悔が大きく膨らんでいく。
ぱあんっ
後悔が弾ける音がすると、私は携帯電話を取り出し、例の男に短く返信した。
行かないです。
私は、自分で打った文字を確認して頷き、彼の後を追った。