佐竹敏郎のひとりごと 土
仕事と家事、空いた時間は家族サービス。それ以外に何かを充てる時間なんてなかった。
だけど、今は修羅場の時間が与えられている。こんなの久しぶりだ。思わず目を細める。
彼氏に事情を説明しても、ああそうですかと引き下がる様子はない。
「そんな話、誰が信じると思ってるんだ」
と怒鳴ってきた。俺だってそう思うよ。だけど、事実なんだ。
ここで捕まるわけにはいかない。
若い独身女の部屋に侵入して逮捕でもされたら、太郎はどうなる?
庭の中に埋められてるはずのワンピースが本当になくなってることを確認して、光明が差した。
「とりあえず警察に」
だからそれは困るんだって。勘弁してくれ。
エリサの存在は公にはできない。
「違うよ、お宅じゃなくて、元カレのことを話す。そのワンピースが元カレからもらったもんなんだったら、電話をかけてきたのは元カレだろうから」
「でも、何のために」
「さあ? 直接電話して聞いてみれば? 誕生日をお祝いされながら」
「もう、馬鹿なこと言わないでよ」
どうやら彼氏は元カレの話を持ち出され、機嫌を損ねているようだ。
彼氏、といっても、年齢が親子ほど離れているように見えるが。
「あなたこそ、奥さん心配するでしょ? 早く帰りなさいよ」
ん?
このおっさん、結婚してんのか?
そりゃそうだよな。俺と同じぐらいの年齢だよな?
女房を早く亡くして真面目に暮らしてる自分が馬鹿らしい。
この男に制裁を加えなければ。
俺は芽生えたことのない感情が芽生えてきた。
「出過ぎた真似をするようですけど、お宅らそういう関係なんですか?」
立場をわきまえて低姿勢でけん制する。
「そうですね、出過ぎた真似ですね」
男はしれっとかわす。
くそ! 奥歯を噛む。
「そうなんですよ、私どうすればいいと思います?」
「人生相談なら乗るよ」
思わぬ展開を迎えた。
「何不法侵入者のおっさんに人生相談に乗ってもらってんだよ、お前」
「いいでしょう、べつに」
ミサと呼ばれた女は、男が持ってきたケーキを三等分にした。
ホールなのでかなり贅沢だ。というか、胃もたれしそうだ。まだ朝の十時だぞ。
「まぁ、座ってください」
正式に相談に乗ることになった。
「私、割り切る関係で満足しようと思ってたんだけど、それはできないことに気が付いたんです」
男の心臓飛び跳ねてんだろうな、と横目で男の方を見た。
「幸せになりたいんです、私。誰かに一番に必要とされたい」
「分かるよ。俺にとってそれは息子だ。女房は息子のお産で亡くなった」
さらりと言う。もう何十回も口にしてきた台詞だ。どういうトーンで言うと、どういう空気になるか手に取るようにわかる。
「私も子ども産んでればよかったかな」
俺のテクニックで、女は暗くなることなく、冷笑した。
「私、ここで、この人と一生分のキスをしたんです」
何を言い出す気だろう。
「元カレとしたキスを消したくて。でも、ここにビビビッてくる感じとか、温もりが全然違いました。一生分のキスが、あの人と最後に交わしたキスを超えられなかったんです」
男の顔は見れなかった。
「本気の恋だったんだ」
「はい」
「本気の恋をするのが怖いんだ」
「そうなんですかね?」
「そうさ。誰かに一番必要とされたいって言っておきながら、本当は怖いんだ。誰かに一番に必要とされることが」
「そうだったのね! って、言うとでも? 相談相手に指名されたからって、そんな気張らなくてもいいですよ」
どうやら今まで猫をかぶっていたようだ。
ならば俺だって。
「このおっさんはどうするつもりなんだ? さっきから花瓶振り上げてるけど」
男はキスの話の段階から、電話の横の花瓶を振り上げて女の頭に落とそうとしていた。
「あなたには喧嘩を売っているようにしか思えないかもしれないけど、今私はもがいてるの、人生の荒波を」
女は顔を見上げながら、落ち着き払った様子で言った。
「人生の荒波なら俺の方が上だぞ? 何かあるたびに家族会議に駆り出され、長男はフリーター、末っ子は拾った卵がなくなって引きこもりになり、嫁は自分ばっかり苦労してると日々苦労自慢だからな」
「でもあなたはそれから解放されようとしない! 手放そうとしないじゃない」
「手放してやったさ、お前の為に」
事態は思わぬ方向に傾いた。
「本当に?」
「ああ。今日からお前が一番だ。そう思ってた。だけどのぼせあがってたのは俺だけだったみたいだな」
男が花瓶をもつ手を動かす。思わず固唾を飲んだ。
ゆっくりそれを元に戻したかと思えば、花瓶にさしてあったボタニカルを、おもいっきり女に投げつけた。
「ふざけんな」
女は黙ったままだ。
言い返す資格はないと思っているのか。
「まぁそうカリカリせずに」
俺は例のワンピースを着衣し、緊迫した状態からの脱出を図ったが、双方から白い目で見られた。
やっちまった。
俺は雰囲気に耐えきれず、その場から逃走した。




