葛城智子のひとりごと 木
起きると、体の節々に痛みが走った。
パソコンを前に、いつの間にか寝てしまったらしい。
起きた反動で、手元のコーヒーをこぼしてしまうところだった。
かけられていた毛布は、下に滑り落ちた。
誰だろう? お母さんかな?
コーヒーを持ってきてくれたのはお母さんだから、きっと毛布もお母さんだろう。
はっと、時計を見る。
もうすぐ七時半になろうとしていた。
私はすぐにビラを完成させて印刷をし、大量生産させた。
摂津を叩き起こし、ジャージのまま、ブツブツ不満を垂れる兄を助手席に乗せて、駅まで車で向かった。
今日も、駅の中は足早に学校や会社に向かう人であふれていた。
「こういう卵を探していまーす。見かけたらここまでご連絡くださーい、よろしくお願いしまーす!」
急いでいるからか、受け取ってくれる人は少ない。
ならば、と、厚かましさを前面に押し出し、問答無用で突き付けるようにして渡す。
それでも受け取らない強者には、後ろからそっとカバンの中に忍ばせるなどして、戦いに勝っていた。
嫌な顔をされても、可愛い弟のため。弟が笑顔を取り戻すため。弟が引きこもりを卒業するため。
自分に言い聞かせながら声と体を張っているというのに、対面にいる摂津はやる気がなさそうにしている。我慢できずに、摂津に詰め寄った。
「突っ立ってるくらいだったらお兄ちゃんは電柱に張ってきて。ここは私がなんとかするから」
摂津を駅から追い出し、白い目で自分を見ていた兄がいなくなったことで、行動に規制がなくなり、行動範囲が広がった。
ビラを配るだけでなく、いけそうならば会話にまで持ち込む。
知らない、という若者には、知らないんじゃない、自分が本当に知らないかどうか考えてないだけだ! と、怒鳴り散らしそうになる。熟考した上で、卵について質問をしてくるのが、理想である。
今、あのイケメンにナンパをされたとして、理想のタイプは? と聞かれたら、
「目の前の卵を本当に知らないかどうかを熟考した上で、その卵について質問をしてくる人です」
と答えるだろう。
だが、目に留まったイケメンはナンパどころかビラを手に取ることなく、私の前を素通りしていく。
ちくしょう! 後ろからビラを叩きつけた。
イケメンが振り向いたとき、怒った顔ではなく、女神の微笑みを見せてあげるとばかりに微笑んでみたが、ひいた顔で足早に去っていった。
「あの、落としましたよ?」
イケメンが落ちたビラを拾わなかったので、ご丁寧に拾って追いかけた。
イケメンは忌々しげにビラを受け取る。
「あの、私この後空いてますけど」
大胆にもナンパを誘発してみたが、勘弁してくれ、と去っていった。
今までの自分だったら絶対にこんなことはしないのだが、昨日のナンパで私は生まれ変わったのだ。
二百枚あったビラ全部配り終えると、一つの達成感が湧いた。
さて、帰って電話番だ。
スマホで摂津に電話をすると、まだ張り終えていないらしい。
「私は帰って電話の前で待機をするから、お兄ちゃんは張り終わったら聞き込み調査をお願い」
「は? ずるいよ、俺が電話番するからお前が聞き込みしろよ、そっちの方がお前は向いてるよ」
「泣けるねー。明日は交代しましょう」
「明日? 明日もやんの?」
「見つからなかったらね」
「冗談じゃない、俺はそんなにバイトを休めないからな」
「じゃあ、今日中に見つけてきなさい」
尻を叩いて電話を強制終了させる。
尻を叩いてやるのも、妹としての役目。
私は、姉であり、妹だ。
それぞれの役目を果たすことができたな、と自己満足に浸ると、腹の虫が鳴った。
考えれば、朝ご飯がまだだ。
ふっくらと卵焼きでも焼こうかな。
それはちょっと不謹慎かな。
でも、喜一は部屋から出てこないんだし、いっか。
喜一には母が何かを作るだろう。
そこは母に母としての役目を果たしてみよう。
駅のガラス張りから行き交う人を眺める。
今日も、それぞれがそれぞれの役目を果たすために、生きている。
ふと、太陽に両手をかざしてみたくなった。