葛城敬心のひとりごと 水
「え? 作ってきてくれたの?」
昼休み、庶務課のミサちゃんが恥ずかしそうに弁当を渡してきた。
待てよ。浮かれるな、浮かれるな。
作ってきてくれたの? って、勘違いだったらどうする、俺。
自分の台詞を思い返して、一気に恥ずかしさがこみ上げてくる。
同じ部署の若い子から人気のあるあのイケメン社員に渡してくれって意味なんじゃなかろうか。
「誰に渡せばいいのかな?」
えっという顔をされた。
俺も、えっという顔をする。
「よかったら、食べてください。いつもインスタントばかりだから」
見てくれてたんだ。
胸の奥がキュッと締まる。
「ありがとう」
弁当を受け取ろうとし、まてよ、と自分の頬をつねった。
こんな都合のいいこと、現実で起きるわけがない。
夢だ。俺は夢を見てるんだ。
起きたらだらしなく開いた口元とピクピクさせた鼻を、節子が冷めた目つきで見下ろしているのだ。
そうに違いない。
俺の妻の節子は、いつも俺が起きる十分前に起きて、じっと俺のことを見下ろしている。
あの悪い癖はどうにかしてもらいたい。
「やっぱり、気持ち悪いですよね、こういうの」
俺が手を引っ込めて険しい顔をしているのを見て、ミサがしゅんとしてしまった。
「いや、違うんだよ! 慣れてないから、こういうの」
俺はミサの手首を掴んで、弁解した。
本当に、違うんだよ。
そんな顔をさせてごめん。
「ミサちゃんもお昼まだ?」
「はい」
「じゃあ、一緒に食べない?」
「でも、変な噂が立ってご迷惑おかけしたいけないから」
なんていい子なんだろう。妻帯者である自分のことを心配してくれている。
「後でこっそりお弁当箱取りに来ます」
そう言って去っていく後姿を、追いかけて抱きしめたかった。
夢なので、抱きしめてもいいんじゃないかと思った。
俺は今までそこにいたミサの空間を抱きしめる。
いい匂いが残っており、抱きしめる腕に力が入る。
今の姿を見られる方が、よほど変な噂を立てられるだろう。
お弁当箱の中身は、五大栄養素がたっぷり詰まったもので、俺の健康のことを考えてくれていることが伝わってきた。一つ一つを、味わいながら食べる。
包みの中には、手紙まで入っていた。
出過ぎた真似をしてごめんなさい。
その一文に目を通したとき、グラグラしていた俺の心は、カタン、と落ちた。
いい歳になった子どもを持つ父親でありながら、若い子に恋をしてしまった。
自覚をしたところで、俺は手紙の返事を弁当箱の中に忍ばせることにした。
ありがとう。君のような素晴らしい若者には素敵な未来が待っていることだろう。
などと、少し偉ぶって書いてみた。
約束通り、夕方社員が出払っている隙を見つけて、ミサが弁当箱を取りに来た。
「すごくおいしかったよ。手作り弁当なんて何年も食べてなかったから」
「ありがとうございます」
短い会話しかできなかったが、彼女にきちんと気持ちが伝わっただろうか。
俺は、これがうすうす夢ではないことに気が付いていた。
いつもは眠くなってしまう午後からの業務も、お弁当パワーでいつになくがむしゃらに職務を果たすことができた。
水曜日はノー残業デー。今日は同じ課の皆で飲みに行くことになっている。
仕事を切り上げて、会社を出る準備をしていると、財布がないことに気が付いた。
顔から血の気が引いていく。
この歳で若手におごられるわけにはいかない。
急用を思い出したと言って帰ってきたのだ。
すると、節子は俺の顔をみるなり、オムライス作ってくれたのだ。
俺は、昼間のミサちゃんのお弁当の件を知っているのではないかとひやひやした。
だが、それについて問い詰めてくる様子はない。
様子見か?
俺が自分から白状するのを待っているのか?
切り出そうとしたちょうどそのとき、智子が帰ってきた。
これで、切り出すタイミングがなくなってしまった。
そのあとすぐに、喜一も帰ってきたのだが、オムライスを食べたのはまずかったようだ。
節子が勝手に喜一が持っていた卵を持っていたとか。
疲れて帰ってきて、オムライスを食べたことを責められ、踏んだり蹴ったりである。
ああ、時間よ戻れ。
できれば今日の昼間に。
そして午後からの仕事は飛ばしてくれ。譲歩して、早送りでもいいから。
やっぱり朝一からかな。
財布を持ってきていれば、この時間は回避できたはず。
部屋で泣き喚く喜一をなんとか連れ出し、家族会議を開くが、埒が開かない。
「どうすれば、お前の気がすむんだ?」
ついそう言ってしまった。
「もう僕の気はすまないよ! 一生ね」
子どもって面倒くさい。だが、卵一つでヘソを曲げることのできる自由さが羨ましくもある。
家族会議がなんとか終わり、ベッドに倒れ込んだ。
長い一日だった。
明日こそ飲みに行くぞ。
財布の中身を確認する。先週給料日だったので、いつもより多めだ。
ミサちゃんに、お弁当のお礼でもしようかな、と思ったとき、節子と目が合った。
ぎくっとしながらも、勇気を振り絞って、おやすみ、と声をかけた。
おやすみなさい、という声が返ってくる。
任務、終了。
電気を消す瞬間まで緊張感に襲われていたが、ようやく解放された。