別れじゃ
雲の流れの速い朝。日差しは植物に溜まった水のしずくを輝かせては雲に隠れてを繰り返していた。
今日、俺は戦場カメラマンとして戦地に赴く。
戦地での悲惨な現状を訴えたい。
この平和な日本の外側で起っている事をありのままに伝えたい。
それは俺の衝動だった。
誰かがやらなければならない事だと感じていた。
例えそれが大切な人との別れになったとしても。
「ねえ、本当に行くの?」
葵は悲しげな笑顔を俺に向けてくる。
俺の心は水を注がれているかのように冷たくて苦しい。
もしもそれが泣き顔だったならば
俺の心は少しは楽になったのだろうか。
「ああ」
応じて俺も笑顔を作る。これが最後になるかもしれない。
最後は笑顔で別れたい。
葵と一緒に暮らし始めて3年が経っていた。
辛いことも、苦しいことも2人で分かち合って来た。
喧嘩もたくさんした。別れようと思ったこともあった。
それでも、どんなことがあっても共に過ごして来たのは
どうしようもなく葵を愛していたからだ。
「やっぱり、行くのやめたら?」
先ほどとは違い、その表情は真剣だ。
葵は玄関先から出て来て俺の腕を掴んだ。
葵の細い腕。手、指先。その腕だけでもどれだけの思い出が詰まっているだろうか。
ふざけて腕相撲をした時の記憶。肩を並べ、腕を組んで歩いた記憶。手を絡ませあってキスをした時の記憶。
全てが大切で、暖かくて。
「離してくれ」
俺は迷いを断ち切りたかった。
しかし葵の手は固く俺を掴み離さない。
「どうしてわざわざ危険な場所に行くの?カメラマンなら日本でもできるじゃない」
「誰かがやらないといけない。俺はその役目を担いたいんだ」
「そんなのショウじゃなくても良いじゃない」
葵は半ば俺を責めるような視線で見る。
そんなことは分かっている。俺じゃなくても誰かが危険な役目を請け負うだろう。だが……。
「葵。何度も言ったが、もう一度聞いてくれ。確かに戦場カメラマンなら他にもいる。でもダメなんだ。紛争の惨状を見た時、どうしても衝動を抑えきれなくなったんだ」
葵は大粒の涙をこぼし始めた。
俺の意思が変わらない事を感じたのだろうか。
俺は言葉を続ける。
「何もせずにはいられないんだ。今紛争で苦しんでる人たちのために俺は何かをしたい!俺は彼らを守ることは出来ない。でも写真を通して世界に訴えかけることは出来る!それが俺の使命なんだ!」
「勝手なこと言わないでよ!」
葵は泣き叫んだ。
葵のことが大切じゃなくなったわけではない。むしろ一緒に暮らし始めて今この瞬間が一番愛おしく感じる。
もう会えないかもしれない。
2人とも口に出したりはしないが感じている。
もしそうなったらと思うと怖くてたまらない。
死ぬことよりも葵に会えなくなる事が恐ろしい。
俺は目を瞑った。
一度深呼吸してからまた葵の赤く腫れた目をジッと見つめる。
「葵、愛してるよ」
「やめてよこんな時に」
葵は俺から目を背ける。
「葵。覚えているか?2人で広島に行った時のこと」
「忘れる訳ないじゃ無い。あんなに楽しかったのに。でも楽しかったのはショウと行ったから」
あれはまだ付き合い始めた時のことだった。
当時の俺たちは毎日、恋に身を焦がしていた。
まるで広島カープのユニフォームのように赤く燃えるような恋だった。鯉だけに。
「俺も覚えているよ。広島駅に降り立ったとき、すごくワクワクしていたのをまるで昨日のことみたいに思い出せる。」
葵は俯いたまま黙っている。
「そのまま呉に行ったことを覚えているかい?2人で大和ミュージアムへ行っただろ?」
「覚えてるわ。あなたが十分の一スケールの大和に夢中になってたこと。こんな精巧な作りのレプリカは世界に無いんだって。あなたっていつもそう。何かに夢中になると私をどこにでも引っ張って行っちゃうんだから」
俺は苦笑した。
確かにそうだ。俺は好きなものにはとことん入れ込んでしまう。
大和ミュージアムはそんな俺を満足させてくれた。
「海軍カレー美味しかったね」
「そうね」
「覚えているかい?そのあと竹原に行ったこと」
「あまり覚えていないけれど安芸の小京都と呼ばれ都市景観100選に選ばれた古い町並みはまるで江戸時代にタイムスリップしたかのかと錯覚するほどに綺麗で美しかったわ」
そして葵は唇を噛みしめる。
「あなた、言ったじゃない。『俺たちもこの古い町並みのように、ずっと長い間、人生が終わるまでお互いを愛し合っていよう』って」
「ああ。よく覚えている。本当にお前を愛しているよ」
「嘘よ!本当に愛しているんだったら危険な所に行くのなんてやめてよ!このまま2人で暮らそうよ!ショウとだったら貧乏でも良い!苦しくたって構わない!2人なら何だって耐えられるわ!」
「それでも俺は行くんだ!使命なんだ!竹原に行った後 疲れていたけど、どうしてもジブリ映画[崖の上のポニョ]の舞台『鞆の浦』が見たくてバスを乗り換えて行った時みたいに強い衝動なんだ!」
「ショウのバカ!あんたなんか牡蠣にあたって死んじゃえば良いのよ!」
葵は平手で俺の頬を打った。
俺の頬はもみじ饅頭のように腫れる。
その平手は、逆に俺を穏やかな気持ちにしてくれた。
その痛みさえ、葵の温もりを感じられる手段だから。
「大丈夫。俺は死んだりしないさ。広島の牡蠣は食品衛生法に基づき安全な規格を満たしているから」
「鞆の浦の話はどうしたのよ!」
葵はもう一度俺の頬を張る。もみじ饅頭は2つになった。
にしき堂 生もみじ 6個入り 770円。
収まっていた俺の感情も溢れ出す。
「本当に良いところだったよ!竹原に負けず劣らず古い町並みに、瀬戸内の美しい景観には息を飲んだよ!こうやって穏やかに打ち寄せる波を眺めながらお前といつまでも過ごしていたいって思ったよ!」
俺は葵を抱きしめた。葵も俺の腰を強く抱き返す。
「大丈夫。大丈夫だよ葵。俺は必ず帰ってくる。そして心はいつだってお前と繋がっている。鞆の浦を観光した後、広島駅に戻るために使った、広島市―福山市を結ぶ高速バスのローズライナーみたいに」
「いくらローズライナーが安くて快適、何より便利だからってそれは無理があるわ」
葵は俺に顔を埋めたまま言う。
俺の上着は葵の涙と鼻水が絡み合っているだろう。広島風お好み焼きにかかるソースとマヨネーズのように。
葵は涙と鼻水でグチャグチャになった顔を上げた。
「私、待ってるから!何年経ってもショウを待ち続けるわ!」
「ありがとう。俺は死んだりしない。葵が見事な大鳥居を誇る世界遺産の厳島神社で買ってくれった、この『航海安全』のお守りを持っているから」
「帰ってきたら、広島で結婚式を挙げようね」
葵の顔は穏やかな笑顔を取り戻していた。
それはいつも見ていた、だけど今まで気づかなかった笑顔だった。
今更気付いた。
こんなに愛おしいなんて。こんなに可愛いなんて。
俺は、本当にバカだなあ。
俺は振り切るように葵に背を向けた。
「約束する。絶対生きて帰ってくる。そして挙式じゃ!」
「約束じゃけえ!!」
終わりじゃけえ
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