愛情スープ
あるとき、ある町に新しいラーメン屋ができた。隣町で評判の店からの暖簾分けだとかで開店前から近所に暮らす者の期待は高かった。当然、開店早々に行列が出来た。行ってみた客によれば期待を越える美味い店であったという。店は連日盛況であった。
新しいビジネスが上手く行くのは結構なことだが、どこかに客が集まるということは、その客が離れて行った別のどこかがあるということ。
困ったのはその町で二十年営業してきたラーメン屋、万来軒の店主である。町内にライバル店が増えるだけでも苦々しいのに、どういうわけだか、新しい店を向かいに構えられたものだからたまらない。いっときは休む間もなく客が入っていた店も、今では閑古鳥が鳴きっ放し。お義理で顔を出す馴染み客のための仕入れも覚束ない状況である。
しかし禍福は糾える縄の如し。
お金はないが時間はできた。店主は起死回生の一食の開発に取り組むことにした。
「今に見てろよ。ろくに挨拶もない新参者め。本当のラーメンってのはどういうもんか目にもの、いや舌に味をしみこませてやるからな」
開く気配もない入り口の窓越しに向かいの店の行列を睨んで、店主は一つ舌なめずりした。
「ここんとこ忙しすぎて新しいメニューを作る暇もなかったんだ。いっそ良い機会だ。願ったりかなったりだ」
店主は日がな自分を励まし、研究を重ねた。
そして、真夏のある日、とうとう完璧なスープを作りだした。
これならどんな店にも負けない。一度食べた客は、三日とあけずにこの味を求めて帰って来るだろう。店主はそれを「情熱こってりスープ」と名付けた。
店主はレシピノートに完成したスープの作り方を余さず記録した。元来几帳面な性質なのだ。店の食器戸棚にはこれまでの研究成果を記した歴代のレシピノートがずらりと並んでいる。
「よし」
大きく頷いてノートをいつもの場所へしまおうとしたところで、店主は手を止めた。
「待てよ」
首を竦めて入り口のガラス戸を振り返る。ここに店のレシピが収まっていることは常連客なら誰でも知っていることだった。誰かがひょいとやってきてノートを持ち出し、レシピを盗まれたらここまでの苦労が水の泡だ。幸い、今この瞬間を覗いている輩はいなかったが、万が一ということがある。何といってもライバル店は目の前にあるのである。
店主はノートを抱えて店舗の奥、事務室へ滑り込んだ。扉をきちんと閉じ、窓のカーテンもしっかりと閉じてから小さな金庫にノートを収めた。
「よし。これならいいだろう」
小さいといえども金庫だ。店主が叩いてもびくともしないし、持ち上げようとしても一ミリも動かない。
「はあ、ふう。やっぱり完璧だ」
汗だらだらになってそれを確認した店主は胸をはった。
「やれやれ。スープさえ完成すれば苦労も終わりと思っていたが、できたらできたで新しい苦労があるもんだな」
店主は二つほど大仕事をやり遂げた心持で店を出た。まだ夕暮れ時だが、こんな日はさっさと店じまいして、祝杯をあげるに限る。適切な息抜きは、詰めるべきときに根を詰めるのと同じくらい大切だ。
店の戸締りをする店主の背後では新しい店の店員が行列する客の整理に追われている。順番待ちの客の行儀が悪くても店の責任が問われるのだ。客を怒らせないように、しかし、近所のうるさ方にも努力を認められるように、明るく威勢の良い声で、店員は列を誘導していく。
「ふふふ。その苦労も今日までさ。しかし、今日のバイトはえらく声が出ているな。その仕事も今日でしまいと分かってるみたいだ」
鍵をかけ終えた店主は含み笑いで振り返り、目を剥いた。
行列を案内している若い男は、プロレスラーか格闘家かという見事な体格の持ち主だったのだ。
「これはうまくないぞ」
店主は今しがた閉めたばかりの鍵を開けて店内に駆け戻った。
「あの体格じゃあ、金庫くらい持ち逃げできるかもしれない」
事務室に入り、また慎重に扉を閉める。
鎮座している金庫は、さきほどより余程ちんまりとして見えて、店主はますます不安になった。
こんな金庫ではあの若い男から大事なスープのレシピを守れまい。とはいえ、この金庫以上に安全な場所は店の中に他にない。
「とにかく今夜は持って帰るか」
さて、と金庫からノートを取り出したまでは良かったが、いざ持ち帰ろうとしてみても店主はいつも手ぶらで店に来るので適当な鞄がない。
「レシピノート」とでかでかと書かれたノートを小脇に抱えてライバル店の前を通るのは襲って下さいと言っているようなものだ。いかにもまずい。
店主は手近にあったビニール袋を手に取った。大きさは十分だが半透明の袋を通して、中身が何であるかははっきりと分かってしまう。それでは意味がない。
さらに事務室の中を漁ってみるが、こんなときに限って封筒も紙袋も見当たらない。
「そうか、あいつが片付けちまったか」
店主と一緒に店を切り盛りしている細君はこのところ店が暇だからと妙に気合を入れて掃除していた。ここ一週間ほどは掃除をするところもなくなったと勝手に休暇を取っている。
「綺麗好きはいいが、必要なものが必要なときにないんじゃ困るな」
結局、部屋中探しても見つけられたのは季節外れのヨットパーカーくらいのものだった。
店主はヨットパーカーを着込んで、改めて店を出た。パーカーの下ならばビニールと違って透けることもない。万全とは言い難いが家までノートを隠しておくことくらいはできる。
向かいの店の店員をちらちらと気にしながら店のシャッターを下ろそうと手をかけた。
ところが、そのよそ見がいけなかったのか、シャッターは斜めに引っ掛かってしまい、どうにもこうにも動かなくなってしまった。
「おい、やい。なんでこんなときに」
店主はシャッターに文句をつけるが、相手はだんまりを決め込んだきりである。
「こんな半端に店開けたまま帰れるわけないだろう。頼むよ。下りて来てくれよ」
宥めすかしても結果は同じだ。
すると、向かいの店員が声をかけてきた。
「あのう」
「な、なんだい」
「それ、良かったら、お手伝いしましょうか?」
店主は思わず後退りながら、若い店員の太い腕を見た。
この腕なら小さな金庫を持ち上げるくらい訳もないだろう。やっぱりノートは持ち帰ることにして正解だと胸の中でひとりごちる。
ほっとしてパーカー越しにベルトに挟んだノートの感触を確かめる。
「あのう」
放っておかれた店員は怪訝そうに店主を見ている。
店主は我に返った。
この男、親切ごかして近づいて少しでも店の中を覗こうとしているのかもしれない。シャッターを閉めてやる振りをして鍵を壊してしまうつもりかも。
店主は慌てて断った。
「ああ、いや。ありがたいけど、それには及ばないよ。自分の店くらい自分で何とか」
店主がもう一度シャッターに片手を伸ばそうとすると、店員はそれを遮った。
「左肩、痛めてるんでしょう? 片手じゃあこういうのは上手く行きませんよ。変に力がかかって余計に悪くなる」
店主が片手を腹の上から動かさない理由を正直に説明するわけにもいかない。「いや」とか、「まあ」とか、歯切れの悪いことを言っている間に若い店員はさっさとシャッターに手をかけた。男が軽く一息入れるとシャッターは簡単に滑り出す。
「ラーメン屋って意外と重労働ですよね。僕もバイトに入って初めて知って、いやあ、こんなに忙しいなんて聞いてないよって」
シャッターと同時に店員の口も良く滑った。
「そりゃあお宅は繁盛してるから」
「いやあ、店長は儲かるかもしれませんけど、俺達バイトはただ忙しいだけで。むしろ万来軒さんにもっと頑張ってほしいくらいです。いや、割と本気で。もし力になれることがあれば何でも言ってください」
店主は思わず嫌味で返したが、若い店員は動じることなく笑顔も崩さない。そこまでして自分に取り入る気かと思うと、レシピノートを抱えたままこの男の前にいることが怖くなってくる。店主は「はあ」と気のない返事を残してそそくさと家路についた。
家では細君に目玉を剥いて迎えられた。
「あんた、この暑いのにそんなもん着て、どうしたの? 汗も酷いし。どっか悪いの?」
「そんなことはない。それより、お前、腹巻を出してくれ」
「腹巻い? いやだ。食中毒じゃないでしょうね。今の状況でそんなもんだしたら、うちの店はいよいよ」
「うるさい。違うよ。いいから腹巻」
細君はすっかりへそを曲げた様子だったが、それでも腹巻を探しに行ってくれた。
店主はヨットパーカーを脱ぎ、なんとか誰にも知られずに持ち帰ったレシピノートをズボンのベルトの間から取り出した。ベルトに挟むだけでは心配で、ラップで腹にぐるぐる巻きにしていたのでノートは汗ですっかり湿っている。
脱いだTシャツでノートの汗を拭っていると腹巻が飛んできた。
「はいよ。本当に下痢じゃないんだろうね。売れ残ってもったいないからって古いモン食べてやしないだろうね」
「違うって言ってるだろう。しつこいな」
細君があんまりしつこいので店主は素晴らしいスープについて素直に報告するのが嫌になった。そこで、良い報告の代わりに汗まみれのシャツを投げ返してやった。
「臭い」「汚い」との文句を浴びながら、店主はさっさと風呂場へ逃げ込んだ。
「いったいいつからあいつはあんなに気の強い女になってしまったんだろう。二十年前に一緒に店を始めた頃には、何でもあなたについていきますってなもんだったのに」
今や店主が大っぴらに細君への文句を言えるのはシャワーを浴びている瞬間だけである。いつからそうなったのかは、いくら首をひねっても分からない。
普段は満喫する数少ない憩いの時間も、今日はカラスの行水で飛び出した。裸のまま脱いだ服の下に隠したノートを確かめてほっと息をつく。
これさえあれば、店の売り上げは回復するし、そうなれば妻も少しは自分を見直して、態度を改めもするだろう。新しいスープのレシピは店と、そして店主の人生を立て直す秘策である。
よれたノートを片手に台所に戻り、冷蔵庫からビールを取り出す。さあ、祝杯だ。店主は意気込み、どうせならつまみがほしいと流しを振り返った。コンロには鍋が二つほど並んでいる。
「お夕飯、煮物とね」
細君の説明が背中からやってくる。
しかし店主の目は鍋に釘付けになったまま動かない。
大変な失敗をしたことに気づいたのだ。たしかにスープの製法は無事に持ち出したが、いつもの癖で肝心のスープそのものを店に置いてきてしまった。誰かが今夜忍び込んで、舌で味を覚えて帰ってしまったら今日の苦労も台無しだ。
「お、俺はちょっと店に戻るよ」
「はあ? 今から? 店に?」
「ああ、こうしちゃいられない」
店主は腹巻にノートを突っ込むと、勢いよく家を駆けだした。
息を切らせて戻ってみれば、まだ向かいの店の行列は続いている。
いつもなら早く閉めろと忌々しく思うところだが今日は違う。これだけの人目のあるところで盗みを働く奴もいないだろうとかえってほっと安心した。
店に滑り込み、おいたままの寸胴鍋を確認する。どうやら中身は減っていない。
「ああ、良かった。俺の情熱こってりスープちゃん」
寸胴に頬ずりし、それからどこかへ隠してやろうと見回したがノート一冊も安心して隠せない店である。大きな鍋いっぱいのスープなどどうしようもない。
店主はやむなく店に泊まりこむことにした。
「だからそう言ってんだろう。店に泊まるんだよ。理由? そんなもん、お前。何だっていいだろうが」
店主は電話を切るなり、ニヤニヤ。
外泊を知らされた細君が腹を立てたのが嬉しかったのだ。
「なんだ。あいつもまだ可愛いところがあるじゃないか。浮気なんか疑って」
冷たくなったばかりではなかったかと満足して、店主は事務所の椅子にどっかりと腰を下ろした。後はここで寝ずの番だ。
明日、新作を売り出してしまえば味を盗まれてもどちらが本物かはっきりと証明することができる。あと数時間の辛坊である。
夜半、店主が事務室の椅子でうつらうつらとしていると、入り口の扉の開く音がした。
店主は飛び起き、事務室の扉からそっと店舗をうかがった。薄暗い中に人影が一つ、足音を忍ばせている。
「来やがった。やっぱり勘付いてたんだ」
店主はモップを構えて息を潜める。一歩一歩と近づいてくる人影が扉の前まで来たところで大きく扉をあけ放った。
「動くな、スープ泥棒め!」
モップを突きつけ、手探りで電気をつける。
ぱっと白んだ明かりに浮かび上がったのは、店主の細君であった。
「あ、本当にいた」
「いたってお前、こんなところで何してるんだ」
すっかり気の抜けた店主がモップを下ろすと、細君はその脇をすり抜けて事務室に首を突っ込んだ。
「おい。お前」
「よし、誰もいない」
「おいおい。何なんだよ」
困惑する店主を細君はきっと睨みつけて捲し立てた。
「なんなんだはこっちの台詞よ。突然店に泊まるなんて言い出して。店出してからこっち二十年、一回もそんなことしたことない癖に」
「なんだよ。まだ浮気なんか疑ってたのか?」
驚きながら口元が笑いかけてしまうのは、焼きもちを焼かれて嬉しいくらいには店主も細君に愛情がある証拠である。
そんな夫の喜びにますます苛立ったように細君は唇を捻る。
「まさかこんな汚い店で何かするとは思わないけど、世の中万が一ってことがあるからね」
「汚いだと? 俺とお前の店だろうが」
「そうよ。だからこんなところに女連れ込まれたんじゃたまんないのよ」
言葉だけ聞けば意気軒昂だが、細君の目の端は赤い。店をけなされかっとなった店主も、それに気づくと頭が冷えた。
「だから、誰も連れ込んでないだろう」
「知らないわよ、そんなこと」
「無茶苦茶言う奴だなあ」
「何で急にこっちに泊まるなんて言い出したのよ。説明してよ。言っとくけどいびきが煩いのはお互い様だからね。だいたいあんたはいつも」
説明しろと言ったものの細君は聞く耳持たずで店主への不満をぶちまける。
これもまた二十年来慣れた喧嘩の様子である。
店主は黙って寸胴鍋に火をつけた。
「ラーメンじゃ誤魔化されないわよ。もうあの頃とは違うんですからね」
「お前、ちょっと黙ったらどうだい」
「ふん」
そっぽを向いた細君に店主はスープを差し出した。細君は渋い表情のままそれに口を付ける。一口して、仰天した様子で顔を上げた。
「あんた、なにこれ」
「新作の、情熱こってり、愛情スープだよ」
店主が忍ばせた愛の言葉はからりと笑い飛ばされた。
「だっさい名前。せっかく美味しいのに台無しだわ。あんたはラーメン作る以外の才能はからっきしなんだから」
伝わらなかったかと肩を落とす店主の前に空のどんぶりが突き出された。
「作ってよ」
「今食べるのか? 夜中だぞ」
「悪い?」
二十年ですっかりと大きくなった細君は、それでも昔と変わらぬ無邪気な笑顔で店主を催促する。店主は一つため息をついて、新しい湯を沸かし始めた。
向かいの店のスープがすっかり切れた頃、万来軒から漂い出したラーメンの匂いは当てが外れて肩を落としていた客たちを引き寄せた。
予定よりも半日早く発売となった愛情こってりラーメンは恋愛成就に効くと噂が立って、店主の希望通りに店の看板メニューとなった。
まるでその夜の夫婦のやりとりを覗いていたかのような噂の出どころだけは店主も細君もとうとう突き止めることができなかった。そして壊れかけのシャッターの修繕中に正体不明の小さな機械が一つ見つかったときには、もうその疑問もすっかり忘れ去られていたのである。
勢いに負けた向かいの店は、いつの間にか撤退し、アルバイト店員達も姿を消していた。