四人目 芝川明哉
お久しぶりでございます、葵枝燕でございます。
『ひきとり屋』、第五話「四人目 芝川明哉」をお送りしたいと思います。
今回の主人公・明哉(二十六歳)は、無職の男性です。そんでもって、交際相手の住むアパートの一室に居候してます。まあ、平たく言えば、ヒモです。そんな男とひきとり屋が出逢います。
それから、新キャラを投入しました。いつか活躍させたいなと思うのですが、いつになるかわかりません。
あたたかく見守っていただければ、嬉しいです。
それでは、どうぞご覧ください。
俺はどうすればいいのだろう。逃げればいいのか? 罪を認めればいいのか? それとも、知らないふりをし続ければいいのか?
目の前にあるのは、女の遺体。この部屋で愛し合っていたはずの恋人のものだ。頭から血を流し動かない。声をかけても、揺さぶっても、きっともう動くことはないだろう。
些細な擦れ違いなんて、今までに何度だってしてきたはずだった。それを修復しながら、今までをやってきたはずだった。
それがどうして、こういうことになってしまったんだろう。
「いい加減にしてよ!」
涼子はそう言って俺を睨んだ。
「あたし、前も言ったよね? ギャンブルはもうしないでって言ったよね? もう何回目よ、いい加減にして!」
涼子とは、付き合ってもう十年程になる。出逢った当初は短かった髪を、銀行員となった五年くらい前から伸ばすようになった。
「だから、謝ってんじゃんか。もうしないよ」
「もうしないとか言って、あんたはまたやるでしょ。どうしてこうも一回で聞けないのかしら。大体明哉、バイトはどうなったのよ?」
「あんなとこ、とっくの昔に辞めてやったさ」
「またなの? 早く安定した職に就いて、結婚しようよ。いつまでもあたしの狭いアパートじゃ暮らせないよ?」
そうなのだ。俺は二十六にもなってちゃんとした仕事に就いていない。どれも長続きしないのだ。じゃあどこに住んでいるかといえば、涼子の借りているアパートの一室で居候させてもらっている。そして俺は働いていないから、全ての面倒を涼子が見てくれているのだ。食事や洗濯なんかの家事はもちろんのこと、光熱費などの支払いも全て涼子が一人でこなしている。
「そうなんだけどさぁ……」
「どうして、明哉はこうなの? もっと頑張ってよ」
頑張って。その言葉に俺の中の何かに少し、罅が入った。俺は、頑張るとかいった言葉が大嫌いだった。
「俺だって頑張ってるよ! 涼子こそ、何でわかってくれないんだ!」
思わず怒鳴って言ってしまったその言葉に、涼子はムッとしたように言い返してきた。
「頑張ってるように見えないから言ってるんじゃない! 全ての面倒を見てもらってる人が、偉そうなこと言わないでよ!」
図星だった。金を稼ぐことのできない俺の面倒を見ているのが、他ならぬ涼子だというのは事実だった。だからこそ、俺は言葉での反撃に出ることができなくなった。
「うるさい!!」
言葉での反撃が不可能になった代わりに、俺は手を出してしまった。思わず涼子を両手で押していたのだ。床に尻餅をつく涼子を見て、我に返る。
「あ……。ごめん、大丈夫か?」
「出てって」
涼子の口から漏れた冷たい声。助け起こそうと伸ばした手が、その場で固まる。
「出てってよ! もう、あたしの前に現れないで!!」
それは、明らかな拒絶だった。
どうして、どうして、俺がそんなことを言われなければならない? 俺とお前は、愛し合ってきただろう? この十年、そうして生きてきたじゃないか。どうして今さら、お前は俺を拒絶するような言葉を吐き出すんだ?
涼子……。
気が付くと、涼子は倒れて動かなくなっていた。俺の手には、透明な灰皿。底の方に血が付いている。
「俺……」
涼子を殴り殺してしまったと、俺は理解した。理解すると同時に、何とかしなければと思った、警察に行き自首するという選択肢は、俺の中には最初から存在していない。十代の頃、夜遊びや喫煙ばかりしていた俺は何度か警察の世話になっている。だから、自首するなんてしたくなかった。かといって、自分がしたことの重さをわかっていないわけではない。人を殺すということが悪いことだとは、さすがに俺もわかっている。
「どうしようか……」
口から漏れる独り言は、弱々しく空気に溶け込んでいった。
とりあえず、いくつか方法を考えてみた。それは、罪をさらけ出す手段ではなく、その罪を覆い隠す手段だった。涼子よりも、自分の保身の方が大切だった。誰だって、結局は自分が一番かわいいのだ、きっと。そう言い聞かせた。もちろん、罪悪感がないわけではないのだが。
まず、埋めてみるのはどうかと思った。だが、この辺には人の死体を埋めて長い間見つからないような所など存在しなかった。車で運べれば苦労しないだろうが、生憎俺は車を運転するために必要な免許を持っていなかった。つまり、この方法は無理だということになる。
次に、沈めるのはどうかと考えた。しかし、この辺は内陸部で、川や湖もない。車を運転できない俺には、遠くの水場に運ぶということも不可能だ。つまり、この方法も駄目だということになる。
最後に、このまま放置しておくのはどうかとひらめいた。けれど、この方法は近隣に迷惑が掛かりすぎる。それに、すぐにばれてしまうだろう。「昨夜、男女の言い争うような声が聞こえた」と言われようものなら、真っ先に俺が疑われる。この方法も、駄目だ。
どうすればいいのだろう。警察に捕まるのだけはいやだった。殺すつもりなどなかったのだ。俺は、涼子を愛していた。
灰皿を持ったまま、俺はベランダへと出た。夜空には、今にも折れそうな細い月があった。星は見えない。そこかしこに明るい人工の光が灯っている。ポケットから煙草の入った箱を取り出し、中から煙草を一本取り出す。口に咥えて、火を点けた。
人を、最愛の人を殺した後だというのに、俺は暢気に煙草を吸っていた。不思議と心が落ち着いた。
とりあえず外に出よう。俺は涼子の死体を避けて、玄関へと向かった。
「何だ、これ」
ドアを開けると、見知らぬ土地だった。古めかしい、というか古い建物が並ぶ道だった。これは、何かの冗談かと思った。夢の中に違いないと思おうとした。そして、涼子を殺したことさえも夢であればいいと思った。しかしどうやらそうではないらしい。試しに、耳たぶをつまみ、頬をつねってみたが、感じた痛みは現実だった。
俺は無意識に、その見知らぬ街の中へ一歩踏み込んだ。よく見ると、何かものを売っていた店が集まった場所のようだ。そのような張り紙が貼ってあるのがわかる。そして、俺はとある店の前で足を止めた。
【ひきとり屋 何でもひきとります。御用の方は声をかけてくださいませ】
そんな言葉が、木製の看板に書かれている。俺は、その扉を開けた。古い扉だと思っていたのに、驚くほど滑らかに開いた。
薄暗い店内には、よくわからないモノがたくさんあった。赤いハート型の箱。くすんだ金色の鍵。お菓子のおまけなのだろう子ども用の指輪。一体これは何なのだろう。リサイクルショップか何かだろうか。
「いらっしゃいませ」
「うわっ」
突然聞こえた声に、俺は驚いてそんな情けない声を出してしまった。声のした方を見ると、焦げ茶色の髪をした男が座っていた。その向かいには、ものすごく強面の男がいる。テレビのサスペンス物で暴力団とか犯人を強請る役とかをしそうな見た目だ。俺はもしかして、大変な所に踏み込んでしまったのだろうか。
「ちょっと待ってくださいね、もう少しで勝てますので」
「ああん? 調子こいてんじゃねえぞ。勝つのは俺だ」
強面の男がニヤリと笑う。その笑顔が恐ろしくて、俺の身体には一気に鳥肌が立った。
「チェックメイト」
焦げ茶の髪の男がどこか面倒くさそうに言う。チェックメイト、ということはチェスでもしているらしい。強面の男が盤上を見て首を捻る。
「は?」
「チェックメイト。俺の勝ちです、フタオさん」
「何だと? クイーンが二体もいるのにか?」
「それは俺のクイーンです。フタオさん、ルールもわからないのに勝負を挑むの、やめたほうがいいですよ」
強面の男が苦々しげに焦げ茶の髪の男を睨む。その視線はとても恐ろしかったのだが、それを向けられている焦げ茶の髪の男はそんなことを気にしていないようだ。そして、手際よく盤上の駒達を片付け始めた。
「ま、待てよハオ。もう一回、もう一回だ!」
「それ、もう三回目ですよ。そして、全戦俺の勝ちです。これ以上やる意味、ないと思いますよ」
手早く駒の片付けを終えた焦げ茶の髪の男は、顔を上げて強面の男を見た。
「もしこれが賭け事で、賭けているのがお金なら、フタオさんは一文無しになってるかもしれませんね。服なら素っ裸、といったところでしょうか」
そう言って、フッと笑う。思いきり強面の男を蔑んだ、そんな笑顔だった。強面の男の太い腕が、焦げ茶の髪の男に伸びる。その、首へと向かって。
「ああ、お客さん。お待たせしてすいませんね」
焦げ茶の髪の男が、その腕を危なげなく自然に避けて立ち上がる。座っているときには気付かなかったが、結構背が高い。俺は百七十六センチくらいだけど、それより軽く十センチは高そうだ。それに、脚も長い。身体の半分は脚なんじゃないかと思えるほどだ。顔の造形も悪くないし、モデルとかしたら人気でそうだなと思う。
「ハオ、お前は後でぶん殴るかんな。憶えとけ」
「お客さんの前で物騒なこと言わないでくださいよ、フタオさん」
ハオと呼ばれた焦げ茶の髪の男が、すっと俺を見た。どこか何かを諦めているような目だった。それでいて、どこか楽しそうに目を輝かせているようにも見えた。
「俺はここの従業員で、こういうもんです」
ハオは一枚の紙を差し出してきた。そこには、こう書かれていた。
【ひきとり屋従業員:葉尾 ハオ】
なるほど、店員だったのか。でも、ひきとり屋って何だ? 一体、何のお店なのだろう。
「フタオさん、キルコさん呼んできてもらえます? ていうか、呼んできてください」
「葉尾、前から言いたかったが先輩をこき使うな」
「先輩とはいっても、元じゃないですか。今は違うでしょう?」
忌々しげに葉尾を睨みながらも、フタオという男は奥へと歩いていった。しばらくして、一人の女性を連れたフタオが戻ってきた。
「お待たせしました。店主のイチイです」
女性はそう言うと、葉尾同様一枚の紙を差し出してきた。受け取ると、こんな文字が躍っていた。
【ひきとり屋店主:櫟記流子 イチイキルコ】
キルコはこう書くのかと、どうでもいいことを思った。
「ここにいらしたということは、依頼ですね。何を、ひきとってほしいのでしょうか?」
名刺から顔を上げ、店主を見る。店主の顔は、真っ白な包帯でその左半分が覆われていた。片目しか見えていない状態だったが、俺に向けているその目は何もかもを見通しているようだった。そう、俺が涼子を殺したということさえも見抜いているように見えた。
いや、そんなことより、気になることがある。まずはそれを訊かなければならない。
「気になってたんだけどよ、ひきとるってどういう意味だ?」
「おい、お前!」
大きな声で怒鳴ったのは、フタオだった。最初は葉尾に対して言っているのかと思ったが、その目線は俺へと向けられていた。
「いくら客だからってなあ、その態度はないだろうが! 敬語を使え、敬語を!!」
「は?」
「いいんですよ、フタオさん。私は気にしていませんから」
店主が笑顔でたしなめるが、フタオは納得していないらしかった。苛立ちのこもった目で俺を睨みつけてくる。正直、恐すぎる。
「さて、まずはこの店のことを話さなくてはなりませんね」
店主はそう言って、俺に向き直った。
「ここは、ひきとり屋。お客様の不要なモノをひきとるのが、我々の仕事です。そのモノが何であれ、形の有無や個数などに制限はありません。その代わり、契約成立後の破棄等は一切受け付けませんので、そこはご理解いただきたく思います」
店主が笑顔で語るそれに、俺は全くついていけなかった。元々の頭の悪さはともかく、ひどく現実離れしているように思えた。ここは本当に、俺の見ている夢の中なのではないかとさえ、考えていた。
だがもし、これが俺の目の前で本当に起こっていることなのだとしたら? これ以上のチャンスはきっと、この先やって来ないかもしれない。そうこれは、最大のチャンスなんだ。
「その不要なモノってのは、本当にどんなものでもいいんだな?」
「ええ、もちろん」
俺の視界の端で、フタオがますます眼を細くし、険しい顔をしているのが映った。しかしそれすら、もう気にならなくなっていた。
「あの、実は俺――」
小さく息を吸う。血の付いた灰皿が、脳内に浮かんで消えた。
「恋人、というか付き合ってる彼女を殺してしまったんだ」
「何だと!?」
フタオの怒鳴り声。そっと見てみると、怒りのせいか顔が真っ赤だった。
「女性を殺したのか!? なんて最低な野郎だ、てめえが死ねや!!」
「フタオさん、落ち着いてください。話が進まないでしょう」
冷静に言い放った葉尾が、フタオを奥の方へと引っ張っていく。フタオよりも体格では劣ると思われるのに、苦もなくフタオを引きずっていく。フタオの怒鳴り声がだんだんと小さくなって、少しずつ聞こえなくなった。やがて、葉尾が一人、戻ってきた。
「元従業員が、ご迷惑をおかけしました。気にしないでください、あの人はただ女性を大事に思っているだけですので」
先ほどと全く変わらぬ口調で葉尾は言う。そこでやっと、俺は納得した。
店主にタメ口をきいた俺に怒鳴ったのも、涼子を殺したことを告げた俺に摑みかかる勢いだったのも、女性を大事に思うがこその行動だったのだと。だとしても、あれは恐怖以外の何ものでもないのだが。
「えっと……じゃ、じゃあ続き、いいすか」
「ええ、どうぞ」
俺は話した。無職だということも、だから涼子に世話してもらっていたことも、その涼子を殺してしまったことも、全てを話した。我ながら意味不明で要領を得ない説明だと思ったが、店主も葉尾も何一つ表情を変えずに聞いていた。それがかえって、この二人が俺のしたこと全てを見透かしているのではと俺に錯覚させる。
「話はわかりました。それで、依頼の内容は何でしょうか?」
店主が、優しげな笑みをたたえて言う。
「彼女の、涼子の死体をひきとってほしい。俺はどうしても、警察の世話にはなりたくないんだ」
「承知しました。では、こちらを」
店主が差し出したのは、契約書のような紙だった。葉尾が、ボールペンを差し出してくる。
俺はそれに、サッとペンを走らせた。
あれから、いつしか十五年の月日が流れた。その間に、俺には家族ができた。美しい妻と、中学二年の元気な息子、小学校に入学したばかりの利発な娘、そして愛らしいマルチーズが一匹の、四人と一匹家族である。それなりに大きな三階建ての庭付き一戸建てで、毎日楽しく暮らしている。
十年前に立ち上げた会社も、順調に業績を伸ばしている。それまでの、何をやっても長続きしなかったのが嘘のようだった。
「ねえ、あなた?」
ある日の朝のことだった。妻が、俺を呼んだ。既に子ども達は出掛けており、家には俺と妻とマルチーズ以外には誰もいなかった。俺は新聞を畳みながら振り向いた。
「話したいことがあるの」
妻が静かに呟く。笑顔だった。この世にこれほど美しいものはない、と自信を持って言えるほど美しい笑みだった。
「何だい、あらたまって」
俺も笑顔で応じる。そして妻は、結っていた髪を解いた。その仕草を、俺はどこかで見たことがある――そんな気がした。あれはそう、何年前のことだったのか。愛し合っていた彼女の仕草に似ていた。
「気が付いてなかったのね」
その声も、聞き憶えがある気がした。結婚して十年以上経つはずなのに、どうして今まで気が付かなかったんだろう。
「どうして、ここにいる? どうして、生きているんだ……。あのとき、俺が……殴って――なのに」
混乱する脳内のまま、混乱する言葉を吐き連ねる。目の前の妻は依然笑顔のまま、俺を見ていた。
「死んでなかったのよ、あたし」
目の前にいるのは、顔こそ違えど、確かに涼子だった。
読んでいただきありがとうございました!!
次回、第六回は番外編の予定です。いつ載っけられるかわかりませんが、気長にお待ちいただければと思います。