三人目 槇江実希
最近いきなり寒さが増してきた今日この頃。
こんにちは、葵枝燕でございます。
お待たせいたしました、連載『ひきとり屋』第四話でございます。前回第三話の投稿が二〇一六年一月四日(月)ですので、実に十日ぶりの次話更新となりますね。
今回は、父親と飼い犬と暮らす十四歳の女の子が主人公です。
余談ですが、私は犬が大の苦手です。小型犬でも、子犬でも、恐怖のほうが大きくて逃げまくります。そのくらい、犬が苦手です。猫の方がまだましですが、それでも生物全般が苦手です。
話がそれましたが、久しぶりの『ひきとり屋』、お楽しみいただければ幸いです。
凍てつく風が肌を刺す。吐いた息は、白く染まって消えていく。大きく伸びをしてみた。
「冬芽、お散歩行くよ」
私がそう呼びかけると、飼い犬の冬芽は一声吠えて尻尾を振った。首輪にリードを付ける間、冬芽は大人しく待っていてくれる。本当にいい子だと思う。
「行こっか」
冬芽が私を見上げる。そして私と冬芽は、寒い冬の空気の中に勢いよく飛び出していった。
私の家は、お父さんと冬芽の、二人と一匹家族だ。
お母さんは、私が幼い頃に亡くなってしまって、私はあまりお母さんを憶えていない。でも、たまにお母さんの話をするときのお父さんが嬉しそうな表情をするので、きっといい人だったんだと思う。お似合いの二人だったに違いないと、そう思う。
冬芽は、雑種で今年二歳になる雌犬だ。お父さんが上司の笹野さんから貰ってきた。笹野さんは大の犬好きで、自宅で五匹の犬を飼っているらしい。さすがにもうこれ以上抱えるのは無理だと、職場で貰い手を探していたのだそうだ。それを知った父が冬芽を引き取り、今に至る。
笹野さんは、今でもときどき冬芽の様子を見に来る。だいたい一人で来るけれど、たまに奥さんや冬芽のきょうだい達とも一緒に来てくれる。冬芽が病気になったときは、車が故障して困っている父の電話を受けて、すぐに車を出してくれた優しい人だ。おかげで冬芽は今も私たちの家族としてここにいる。
私達の住む家は小さな一軒家だ。二階建てになっていて、二階には物置と私の部屋がある。冬場は隙間風が入ったりして寒いけれど、不便に思ったことはない。庭も小さいけれど、冬芽が走り回る分には問題ない広さだし、何よりここは居心地がいいと思う。
「父子家庭って疲れない?」と友達に訊かれることも多いけれど、私はお父さんが大好きだから、疲れることなんて全くなかった。冬芽もいるし、寂しいと思ったこともあまりない。
だから、それがずっと続く、当たり前のことだと思っていた。
「ただいま」
「おお、実希。いいとこに帰ってきた。聞いてくれ、ビッグニュースだぞ」
冬芽との散歩を終えて家に帰ると、お父さんが満面のニコニコ顔で私を迎えた。
「どうしたの?」
「フフフ……、実はな――」
お父さんはもったいぶるように間を置いて、こう言った。
「本社に戻れることになりました!!」
「そうなの!? 本当に!?」
お父さんの勤める会社は、東京に本社を置く大手の電化製品メーカーだ。私には詳しいことはわからないけれど、お父さんは昔本社の方にいたらしい。でも、私が生まれる前に今の会社に移されてしまった。いわゆる左遷というものかもしれない。でも、お父さんは幸せそうだ。「この町でお母さんと出逢ったし、実希が生まれたし、冬芽にも逢えた。笹野さん達が支えてくれるから、こっちに来て良かったと思うよ」と、笑顔で言えるくらいだから、本当に後悔なんてしていないのだろう。でも、心のどこかでは本社に戻りたいと願っていたのではと、私は何となくそう感じていた。
「良かったね!」
「ああ。でも、引っ越さなきゃならんなあ……」
「大丈夫だよ。私、自分の荷造りは自分でできるし、何だったらお父さんのもやっとくよ」
「頼もしいな、実希は。でも、引っ越した後の生活とかも考えると……」
「それも大丈夫」
今までも、お父さんが帰りの遅いときは自分で家事をしていた。お母さんがいないからとかじゃなくて、それが当たり前のことだった。仕事でいそがしいお父さんに、家にいる間は休んでいてほしかったのだ。
「それで、引っ越しはいつの予定なの?」
「実希が春休み入ってからだな。まあ、もう少し詳しく決まったら言うよ。それより早くあがれ。外、寒かったんだろ?」
お父さんに言われて、自分がまだ玄関先に立っているままだと思い出した。ブーツを脱ぎ揃えて、廊下に一歩踏み出す。
このときはまだ、わかっていなかった。この二人と一匹の暮らしに、終わりが来るなんてことを。
お父さんが本社に戻る話から半月。学校から家に帰ると、お父さんが誰かと話している声が聞こえた。相手の声が聞こえないことから、電話なのだろうとわかった。そして今朝、珍しく平日に休みが取れたと、お父さんが言っていたことを思い出した。
「林さん、話が違うじゃないですか!!」
邪魔しないように自室に向かおうと、階段に乗せた足が止まる。電話のあるリビングから、目が逸らせなくなった。
林さん、というのが本社に勤務するお父さんの元上司だということは私も知っていた。たまにこの家を訪ねてくることがあるし、毎年年賀状や暑中見舞いを送ってくれる人だからだ。
そっと頭を振り、あらためて階段を上ろうとする。邪魔しちゃいけない、それだけを思った。
「冬芽は……」
その言葉にまた足が止まった。全ての音が消えて、お父さんの声だけが聞こえる。そんな気がした。
「冬芽は大事な家族なんです。連れて行けないなんて知ったら、娘が悲しみます」
――……え?
その後のお父さんと林さんの会話から、私はある程度察した。
ひとまずの引っ越し先に決まったアパートは、会社の管理する建物であること。
そのアパートは、生き物が飼えないこと。
それは、犬である冬芽も例外ではないこと。
お父さんはそれらを知ってなお、林さんに訴え続けた。まだ二年しか暮らしていないけれど大事な家族なのだと。それでも結局どうにもならなかったらしく、悲痛な声で電話を切った。
冬芽を連れて行けない。そのことは、ひどく私を落ち込ませた。私にとっての冬芽は家族だ。でも、まだ子どもの私の力じゃきっと、どうにもならない。私がどう足掻いても、冬芽と一緒に新居で暮らすことはできない。
お父さんは何も言わなかった。冬芽を連れて行けないことを、いつまで経っても私に話してくれなかった。きっと、言ったら私がどんな反応をするのかがこわいのだろう。潔く諦めても、駄々をこねても、父にとっては悲しいのかもしれない。だから私も、自分から訊ねることをしなかった。
冬芽と暮らしたい。でも、お父さんを困らせたくない。
そんな思いを抱えたまま、容赦なく時間は行き過ぎていった。
「冬芽、お散歩行こう」
寒さも少しずつ和らいできた頃。お父さんからは何の話もないまま、春休みは二週間後に迫っていた。私は今日も、毎朝の日課である散歩の準備をする。
少し重い足取りで歩く私を、冬芽は時折心配そうな目で見つめた。まるで「何か気にしていることがあるなら聞いてあげるよ」と、言っているみたいに。私はその度に冬芽を撫でた。とても、冬芽に言えるようなことじゃなかった。
ふと、冬芽が不安そうな鳴き声を上げた。顔を上げると、見慣れない街並みが広がっていた。どこか古い印象のそこは、どうやら商店街だった所のようだ。店名だろう文字が消えかけだけどうっすらと残っている。
私は、その中の一つの店の前で足を止めた。看板にはこんな言葉が記されていた。
【ひきとり屋 何でもひきとります。御用の方は声をかけてくださいませ】
古めかしいその扉へと手を伸ばす。試しに引いてみたけど開かない。どうやら、押して開けるタイプの扉のようだ。今度は押してみる。開いた。扉に付いているのだろうベルがチリリン……と音を立てた。
「あの……」
薄暗い店内。そこには、様々なものが並んでいた。なぜか赤いのが三本も入った十本入りの油性マーカーセット。白黒放送しかできなさそうなテレビ。短くなった鉛筆が五本。かなり前に流行ったシリーズ物の小説が全十巻、塔のように積まれている。いったいここは、何のお店なのだろう。
「いらっしゃいませ。御依頼ですか?」
驚いて声のした方を見ると、何だか不思議な雰囲気の子が立っていた。年齢はともかく、性別まで感じ取れない。そもそも、人間かどうかも怪しいところだ。黄金色の目がきらきらと美しく、妖しく、艶やかに輝いている。まるで、美しい猫のようだと思った。
「依頼?」
私がそう訊くと、その子は一つ頷いて一枚の紙を差し出した。
【ひきとり屋従業員:澪尾 ミオ】
どうやらそれが、その子の名前らしい。私はもう一度その子を見る。恰好だけ見れば男の子だけど、名前は女の子っぽい。いったい、どっちなのだろう。
「少しお待ちいただけますか。ただ今店主を呼んで参りますので」
その子――澪尾は、そう言うと奥の方へと行ってしまった。辺りは、痛いほどの静寂に包まれる。私はただ、店内を見回しているしかなかった。
「お待たせしました。店主のイチイキルコと申します」
やがて、澪尾が一人の女性を連れて戻ってきた。黒色の丈の長い長袖のワンピースを身に着けている。まるで真夜中の海のような、全てを飲み込みそうなその服。髪も真っ黒で、闇から出てきたかのよう。その中で、女性の顔の左半分を覆う真っ白な包帯が際立っていた。美しい人なのだろうが、その包帯が痛ましくて、だけど私はその女性を見つめていた。
女性が、一枚の紙を差し出す。
【ひきとり屋店主:櫟記流子 イチイキルコ】
櫟、記流子。この人が、ここの主。
「変わった名前…」
「ふふ。よく言われるわ。それで、ここに来たということは依頼なのかしら?」
店主は美しく優雅に笑った。どこか気品すら感じさせる。何だか、この世の人間ではないような気がした。
「あの、さっきから思ってたんですけど……。その、依頼って何ですか?」
「ここは、ひきとり屋。お客様の不要なモノをひきとるのが我々の仕事。その個数に制限はなく、形のあるモノから形のないモノまでおひきとり致します。ただし、依頼成立後の契約の破棄等は一切受け付けませんので、そこはご了承いただきたく……」
不要なモノ? それってつまりは、いらないモノってこと?
「あなたにもあるのでしょう? 不要なモノが。それをひきとるのが、我々の仕事です」
「そんなの、ないです」
あるとしても、不要なんかじゃない。いらなくなんてない。私には、必要なものだ。
たとえもう、一緒に暮らせないとしても。
「捨てられるのか――って言ってんぞ」
突然、若い男の声がした。私から見て、店主の右側には澪尾がいる。その逆の左側に、いつの間にか見知らぬ男性が立っていた。
「ちょっと、ハオさん」
澪尾が咎めるように言う。どうやらこの男性はハオという名前らしい。こげ茶色の髪は整えられておらず、ちゃんとしたらきっとかっこいい人なんだろうなと思う。
いや、そんなことを気にしている場合じゃない。この人は今、何て言った?
「言ってるって、誰が…」
「あんたの飼い犬だろ、その犬。まだ小さいのに、自分が捨てられるかもしれないって薄々感付いてるみたいだな」
そのときになって初めて、私は冬芽を連れたままお店の中に入っていたことに気付いた。いつもなら、お店とかに連れて行くときは店の入り口に繋いでいるのに。
「どうして」
「俺は人間じゃないからな」
男性はそう言うと、欠伸を一つして澪尾を見た。
「ハオさん…」
澪尾が苦しげな声で呟く。
「で、どうすんです記流子さん」
澪尾の呟きから目を逸らし、ハオさんは記流子さんに目を向ける。記流子さんは頬に手を当てながら、私に視線を向けた。
「そうねえ。とりあえず、話だけでも聞きましょうか。話してくれるかしら? その子が、なぜそんなことを思っているのか」
私は話した。母がいないこと、冬芽のこと、父の栄転が決まったこと、新居はアパートでペットを連れて行けないこと、私にとって冬芽は家族同然だということ――。その間、店主も、澪尾も、ハオさんも、一言も口を挟まずに聞いてくれた。
「つまり、冬芽ちゃんはあなたにとって不要ではないモノなのね? でも、連れて行けない」
「お父さんを困らせたくないんです。お母さんが亡くなってからずっと、お父さんは私を育ててくれた。でも、冬芽と離れるのもつらいんです。たまにお母さんを思い出すとき、冬芽は私の傍にいてくれる。優しい子なんです。離れたく、ないんです」
溢れ出る涙。お父さんには言えない。我儘を言って困らせるのはいやだった。せっかく、念願叶って本社に戻れるのに、こんなことで台無しにしたくはなかった。お父さんには感謝している。男手一つで娘である私を育てるのは、きっと苦労したに違いない。それをわかっているつもりだから、私の我儘なんかで困らせたくなんてなかった。
「わかったわ。冬芽ちゃんは、私達がひきとりましょう」
「え?」
店主の突然の言葉に、私の中で全てが止まったように思えた。
「でも、不要なモノをひきとるんでしょう? 私にとって冬芽は――」
「わかっています。でも、不要なモノばかりひきとってきたわけではないのですよ。別れ難いモノをひきとることも、我々は引き受けます」
冬芽は、不要なんかじゃない。私には、何よりも大事なもの。本当は手放したくなんてないけど――……。
「さあ、どうします?」
「お願い、します」
無意識に、そう発していた。
「冬芽を、ひきとってください」
「引き受けましょう。さあ、これを」
差し出されたのは、契約書らしき紙。私はそっと、それにペンを走らせた。
春休み一日目。散歩を終えた私と冬芽は、待っていた。
依頼を引き受けてくれた、ひきとり屋が来るのを。
あの日、私は一つのお願いをした。
冬芽を迎えに来てほしい、と。
お父さんの見ている前で引き渡したかったのもあるけれど、一番は、私自身の手で冬芽とお別れがしたかった。
話し合いの結果、澪尾が迎えに来ることになっている。澪尾は「ハオさんが行けばいいじゃないですか」と言っていたが、当のハオさんが渋ったのだ。「面倒だ」と口では言っていたけれど、きっと何か別の理由があるのだと私は思う。
「槇江様、お久しぶりです」
中性的な魅力の声。澪尾は、お父さんに軽くお辞儀をすると冬芽を撫でた。私は、そっと、リードを差し出す。
「冬芽、元気でね」
目を合わせられなかった。それをしたら、離れがたくなってしまうから。きっと、冬芽と一緒にいたいと駄々をこねてしまうから。
「冬芽」
言いたいことはいっぱいあった。何よりも、ありがとう、と伝えたかった。でも、そのどれも何か違う気がした。薄っぺらい別れになるのだけは、いやだった。
「槇江様も、どうか健康にお過ごしください」
澪尾はそう言うと、冬芽と共に門から出て行った。慌てて追ってみたけれど、もうそこには何も誰もいなかった。
あれから七年。私は二十一歳になった。動物関係の専門学校に通っている。理由は簡単だ。動物に関わる仕事に就きたいと思っている。きっと、あの子がいなかったらそんな夢は抱かなかっただろう。
一人暮らしをしている安い家賃のアパート。表通りに面しておらず、一番近いコンビニでも自転車で十分かかる少し不便な家だ。
お父さんは最初、私が一人暮らしをするのに反対していたけれど、渋々了承してくれた。「たまには帰ってこいよ」という、条件付きではあったけれど。
部屋の前に着くと、小さな箱が置いてあるのに気付いた。藍色の飾り気も模様もない箱。恐る恐る開けてみた。
「これ……」
中に入っていたのは、少し色褪せた赤色の首輪。私はそれに見憶えがあった。
「冬芽……?」
首輪をどけると小さく折り畳まれた紙が入っていた。開いてみる。
四つ折りにされた手紙に記された言葉の羅列。細い生真面目そうな筆跡が告げるのは、かつて家族として過ごしていたあの子の訃報、そして、従業員の男性からの伝言だった。
思わず崩れるようにドアの前でしゃがみこむ。
頭の中で、過ごした二年間が浮かぶ。駆ける。突きつけられた言葉達が、脳内を回る。
私はもう、冬芽に逢えない。そんなこと、七年前のあの日に、決意したはずだったのに。
「どうして……」
呟き、涙を流しても、もう後には引き返せない。七年前にうっすら気付いていたことだったはずなのに。私は多分、わかったつもりで何もわかってなかった。
いつか、またあの子に逢えるのではと、期待していたんだ。
「ごめん、ごめんね――……」
手の中で、色褪せた赤い首輪が自己主張していた。