番外編一 葉尾になった日
こんにちは、葵枝燕でございます。
今回の『ひきとり屋』は、番外編です。まだ本編であまり活躍してない、従業員の葉尾さんが主人公です。第一回「一人目 水門悠姫」に、ちょこっと名前だけは出てきた彼です。
そんな葉尾さんがなぜ従業員としてひきとり屋にいるのか、というのが今回の物語です。
そんなわけで、楽しんでいただければ幸いです。
俺は母さんと暮らしていた。山の中で身を寄せ合って生きていた。気が付くと、俺の隣にいたのは母さんだけだった。
母さんはよく言った。俺の知らない、母さんと俺以外の家族のことを。「あんたの父さんはね、猟銃で撃たれたの。身重のあたしを守ろうとしたのさ。そしてね、あんたの一番上の兄さんは、あいつらの仕掛けた罠にかかって死んだ。そのすぐ下の姉さんは、冬の寒さに勝てずに死んじまった。その下の兄さんは、少し目を離した隙にいなくなって帰ってこない。そして、あんたのすぐ上の姉さんは、車に轢かれて死んでしまった。みんな、かわいい子だった。あたしはね、赦せないんだよ。あいつらのことを、どうしてもね」と、そう言うときの母さんの瞳は、いつも真っ赤に燃えていた。そこにあったのは、悲しみと、それ以上の怒りだった。俺はいつも、それを直視することができなくて目を逸らしていた。母さんのその瞳はまるで、この世の何もかもを燃やし尽くしてしまいそうに感じてしまうからだ。
でも俺には、母さんの言う“あいつら”を嫌うことはできなかった。顔も知らない父親や兄姉達の命を奪った彼らを憎みこそすれ、嫌うことができなかった。
だから俺はよく、母さんに内緒で彼らの姿になって彼らの子ども達と遊んだ。缶蹴りや、かくれんぼ、鬼ごっこをした。楽しかった。でも、夕方になり子どもたちが一人、また一人と帰っていくと現実を思い知らされる。自分は、彼らとは違うのだということを見せつけられてしまう。どんなに彼らの恰好を真似ても、俺は彼らとは違う形の生き物だった。
俺はいつの間にか、自分の姿を嫌うようになってしまっていた。彼らのような身体になりたいと、それだけをただひたすらに望んでいた。
ある日の夕暮れ時のこと。俺は独り、ブランコをこいでいた。子ども達は、既にそれぞれの家へと帰ってしまっていた。キィキィと、ブランコの鎖が耳障りな音をたてる。その音に混じって微かに足音がした。顔を上げると、公園の入口に母さんが立っていた。母さんは、母さんが何よりも憎んで嫌っているはずの彼らの姿でそこにいた。俺はブランコを降り母さんの元へと駆け寄った。母さんは紅い着物を身に着けて、口には紅まで差していた。
「母さん、どうしたの?」
「葉波、母さんについておいで。さあ……」
母さんは白く細く長い指を俺へと差し出した。俺は、少しの恐怖と大きな嬉しさを感じながら、その手を取った。
母さんはただただ歩いていた。俺の右手を握りながら、しかし一言も喋らない。俺はただ、母さんの横を母さんの歩幅と速度に合わせてついて行くしかなかった。
「さあ着いた。ここが目的地だよ、葉波」
「ここが?」
それは、一見するとただの古ぼけた建物にしか見えなかった。俺の住む山の周辺にある町にも古い建物は多くあるが、それよりも古く感じる。しかしそれでいて、どこか風情を感じる建物でもあった。
「ああ、そうだよ。さあ、入ろうか」
母さんがその木製の扉を押し開ける。からからと、涼しげな音がした。
「いらっしゃいませ」
声の方に目を向けると、藤色の着物を身に着けた女性がいた。その女性は、顔の左半分を包帯で覆っていた。母さんはその人のいる所へと歩み寄る。
「依頼をしたいんだがね、いいかい?」
「構いません。お客様の不要なモノをひきとるのが、私達ひきとり屋の仕事ですから」
女性はそう言うと、一枚の紙を母さんに手渡した。俺の位置からは、そこに書かれた文字までは見ることはできなかった。
「ところで――……」
女性の目が一瞬鋭く光った。それは、母さんが彼らのことを語るときの瞳に少し似ていた。いや、母さんの瞳と比べるのがおかしいほどに強い光だった。俺は思わず、母さんの着物の裾を握った。
「お客様は、それが本当の姿ですか?」
途端に母さんの目が大きく見開かれる。焦りの色が瞬間浮かんで、しかしすぐに消えた。口元に笑みをにじませる。それはどこか、獲物を捕らえたときの瞳に似ていた。
「何でわかったんだい? あたしはまだ、自分の名前も言ってないのに」
女性は袖を口元に当てて、小さな声を上げた。笑ったのだと気付く。
「雰囲気でわかりますよ。お客様の雰囲気は、人間とは違う」
「へえ。そんなこともわかるのかい」
母さんは、すっと後ろへ一度宙返りをした。そこに現れたのは、明るい橙色に輝く毛並を持った一匹の美しい狐。それが母さんの本当の姿だった。人間とは似ても似つかない獣。人を化かすと言い伝えられる生き物。それが、母さんの姿だった。
そしてそれは同時に、俺の本当の姿でもある。
「見ての通りさ。あたしは人間じゃない。この子もそうさ。それで、この姿の客でも依頼を受けてくれるのかい?」
「もちろんです。お客様を選り好みするのは失礼にあたりますから。それで――」
女性の声から笑みが掻き消える。あたりの音が全て、消え去ってしまったように感じた。
「ご依頼は、何でしょうか?」
母さんを見つめる女性の目には、全てを見通しているような、全てを知っているような、そんな不思議な色が浮かんでいた。
「この子を、葉波をひきとってほしいんだ」
俺は驚いて母さんを見る。今の俺の姿は人間の子どもで、狐の姿の母さんよりもほんの少し目線が高かった。咄嗟に母さんの言葉を理解できなかった。
今、母さんは何て言った?
「この子は、お客様のお子さんでしょう?」
「ああそうさ」
「ひきとりの契約をすれば、もう二度と触れることはできませんよ?」
女性のその言葉に、母さんは高らかに笑った。
「そんなことわかっているさ。でもね、あたしにはこんな子いらないんだよ。この子は、あたしの思い通りには育ってくれないからね」
母さんの思い通り? こんな子いらない?
「あたしは、あんた達みたいな人間が嫌いだ。憎んでもいる。夫と子どもを奪われたからね。でも、この子は違う。憎んでいても嫌いになりきれない。そのことがずっと気に入らなかった。あたしは人間を嫌いになるように言い聞かせたつもりだったのに、この子は人間の子どもと遊んで暮らしてたのさ。あたしの気持ちをわかってくれない子なんて、あたしにはいらないよ」
俺が人間を嫌いになるように? 母さんが俺に言い聞かせていたのは、俺が人間を嫌いになること? 人間と遊んでいることに気付いていた? 俺はいらない? どうして、母さんはそんなことを俺の目の前で言うんだろう?
疑問ばかりが、頭の中を駆け巡った。しかし、その疑問は何一つとして外へと溢れることはなく、俺の心の中を暗く重く支配していくだけだった。
「わかりました。依頼を受けましょう。どうぞ、こちらへ」
女性が、言った。
母さんは人間の姿に戻って、女性に渡された紙に何かを書いていた。俺はそんな母さんを見ていることしかできなかった。
だって、それ以外にどうすればいいというんだ? 母さんにとって俺はもう、必要のない子どもなんだから。俺が何を言っても母さんは、二度と俺を見てはくれない――……。
俺はただ、何かを書いている母さんを見ていることしかできなかった。
「では、これで契約は成立ということでよろしいですね?」
「ああ」
母さんと女性の声は、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。
「契約したことの取消しや破棄は、一切受け付けませんよ? それでも、心変わりはないですね?」
「ああ。こんな人間じみた子どもになるなら、いっそ喰い殺しておくべきだったよ」
母さんはそう言うと立ち上がった。そして扉の方へと歩いていく。俺の方を、一度も見ることはないままに。
母さんが取っ手に手をかける。俺は、顔を上げた。
「母さんの手にかかって死ねるなら、それでよかったのに……」
不意に出た言葉は、沈黙の中へと吸い込まれた。母さんは動きを止め、俺の方を振り返る。
「葉波、今何て言ったんだい?」
目が合った。それだけだった。でも、伝えなければと思った。母さんにとっての俺がどれだけ必要のない存在でも、俺にとって母さんは大事なかけがえのない存在だと、そう伝えられればと思った。だから、言葉を紡いだ。
「こういうことになるんなら、母さんが殺してくれた方がよかった。いらない子だって知るくらいなら、それを知らないままに死にたかった。どうして、今になって言うの? 俺は、母さんじゃないんだから、母さんの気持ちなんてわからない。母さんの言う通りだよ。俺は人間を嫌いになれない。憎んではいるよ。父さんと、顔も知らない兄さんや姉さん達の命を奪った奴らだ。それはわかってるつもりだ。でも嫌いになんかなれないよ。人間全部が悪い奴だなんて、俺はそんなこと思いたくない」
バラバラな気持ちだけど、俺の気持ちだった。俺は、母さんじゃない。だからわからない。母さんの気持ちを理解できない。
息を吐く音。母さんが溜め息を吐いたのだ。呆れたような、そんな息の音だった。
「何を言うかと思ったら、そんなことかい。あたしだってね葉波、わかっているんだよ。人間も悪い奴ばかりではないことはね。それでも嫌わずにはいられないのさ。最愛の夫と、大切な子どもを奪われたんだから。あんたにはきっと、わからないだろうけどね。でも、残念だよ葉波」
母さんが、俺に背を向ける。
「あたしはてっきり、しがみついてでもあたしを止めると思ってたんだけどね」
母さんは、扉を開け外へと飛び出していった。俺は、母さんが置いていったその言葉を頭の中で反芻する。
そのとき、カタリと小さな音がした。振り向くと、女性が湯飲みを二つ持って微笑んでいた。
「さて、あなたはこれからどうしましょうか?」
女性が口を開く。俺は彼女を見つめた。
「そういえば、まだ名乗っていなかったわね。このお店の主、イチイキルコよ。よろしくね」
彼女はそう言って、母さんに渡したのと同じ大きさの紙を差し出す。そこにはこう書いてあった。
【ひきとり屋店主:櫟記流子 イチイキルコ】
「記流子?」
「そう。変な名前でしょ?」
そう言って笑う彼女に、俺は小さく首を横に振った。綺麗な名前だと、そう思ったのだ。でも、それは伝えられなかった。どんな言葉で伝えても、彼女は華麗に受け流してしまうのだろうと思ったからだ。
「あなたの名前は?」
彼女が小さな紙と、ペンを差し出しながら訊ねる。俺はそこにこう書いた。
【葉波 ハナミ】
彼女に手渡すと、彼女はまた微笑んだ。どこか暗い印象の見た目と違って、ずいぶん明るい女性なのだろうと思う。
「葉波くんか。いい名前ね」
そんなことを言われたのは初めてだった。遊んでいた人間の子ども達には、「変な名前」だとか、「女みたいな名前だな」とか、そんなことしか言われたことがなかったのだ。
「それで、葉波くんはどうしたい?」
「どうしたいって?」
どうすればいいのだろう? 俺にはもう、帰る場所はない。
「葉波くんの自由にしていいの。ここからでて、他の所に行ってもいい」
俺の、自由?
「じゃあさ……」
俺は彼女の目を見つめた。何色にも形容しがたい深い色の瞳。
「ここで、働かせてくれないか?」
「ここで?」
「うん」
「お店番くらいしかやることないと思うけれど、いいの?」
「うん」
俺には帰るべき場所はない。それならここを、この場所を帰る場所にしたい。
「わかったわ。でも一つ、条件があるの」
条件?
「あなたのその名前、変えてもらうことになる。それでも、ここで働くと言える?」
名前? 何でそんなものを変える必要があるのかはわからないが、でもいい。ここを帰る場所にできるのなら、名前を捨てるくらい構わない。
「いいよ」
「じゃあ、新しい名前考えないと。何か希望はある?」
希望――か。
「葉っていう字を入れてほしい…かな。だめ?」
記流子さんが微笑む。
「わかったわ。いい名前考えて、早めに教えるからね」
それから数日後、俺は新しい名前を記流子さんに与えられた。
葉尾。何だか葉波よりもかわいい響きの名前になってしまった。
でも、葉という文字が入っていることは嬉しかった。葉波という名前は、母さんが付けてくれた名前だ。俺の生まれた五月の若葉がまるで波のように見えたからと、そんな理由で付けられた名前。でももう、葉波と呼ばれることはないのかもしれない。
俺は今から、葉尾という名前になるのだから。
「ちょっと葉尾さん!」
怒っている声。俺はそっと顔を上げる。目の前で腰に手を当てて怒っている少女がいた。もっとも、俺のような従業員じゃない奴が見れば、少女には見えないだろうけれど。短く切りそろえた髪と、少年のような恰好をする彼女を、一発で女だと見分けられる奴は珍しい。
「何?」
「何?——じゃないですよ。木屑、いっぱい落ちてるじゃないですか。ちゃんと後片付けしてくださいよ?」
彼女はそう言って俺の足元を指差す。俺の足元には、木屑が散らばっていた。持っていた小刀を、近くの机に置く。この机も、数年前に依頼品としてやってきたモノだった。
「わかってる。ちゃんと片付けるさ」
「本当ですね?」
「ああ」
彼女は何度も「ちゃんと片付けてくださいよ」と言うと、奥の方へ行ってしまった。ふと大きな柱時計を見ると、もうすぐ三時だった。作りかけのチェスの駒を、机へと並べる。まだ馬の顔が途中だったのに。
頭を搔く。いつの間にか俺は、少し面倒くさがりになっていた。自分の容姿に気を遣うことを忘れている。だから、彼女に怒られる。「シャキッとしてくださいよ、葉尾さん」なんて言われてしまう。俺には、彼女が細かすぎるように感じてしまうのだが。
からんからん……。扉に付けてある鈴が、涼しげな音をたてた。
「あのぅ……」
小さな声。どうやらお客が来たらしい。俺は椅子から立ち上がる。
「いらっしゃい。ひきとり屋へようこそ」
俺はほぼ棒読みでそう言った。ここで働いてみて、身勝手な奴をいっぱい見てきた。でも、それでもやはり人間を嫌いになれない。
自分勝手で、相手を傷付けても平気な顔をしていて、綺麗事ばかり並べ立てるような、そんな生き物だけど、俺は嫌いにはなれないのだ。逆に言えば、だからこそおもしろい。求めてみたり、捨てたがってみたり、そんな自分勝手さがおもしろい。そしてこれは、哀しいことでもある。ここの従業員をしてから、気付くことはいっぱいある。
「俺はここの従業員で、こういう者です」
そう言って、記流子さんから渡された名刺を渡す。その客は、俺の見たことのない服装をしていた。おそらく、学生服というものなのだろう。
「ただいま店主を呼んで参りますので、しばらくお待ちいただけますか」
そう言い置いて、俺は奥へと向かった。自然と、いつもより早足になる。
今回は、どんな依頼なのだろう。そう、どこか高揚している自分がいた。