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林檎が繋ぐ恋の糸

作者: 水花月

「こうして会うのも久しぶりだね、ティナ」

「……誰ですか、あなた」

 爽やかな笑顔でそんなことをのたまってくれた目の前の青年を見遣りながら、私はずいと眉を寄せた。思わず不躾な言い方になってしまったのは、この際仕方ないと思うことにする。



 肩に届かない長さの柔らかそうな淡い金色の髪に、優しく眇められた目は彩やかな空色。噂に聞くような王宮の近衛騎士にも似た白銀色の軽鎧に、瞳と同じ色のマント。

 王都から程遠い寂れた街の、それもこんな裏路地に居座っている人の格好では間違ってもないだろう。

 しがない街娘の知り合いにこんな人居るはずが……ない。居ないったら居ない。誰がなんと言おうと居ないのである。

 一瞬脳裏を()ぎった誰かさんの面影を首を振って打ち消すと、私はにっこり愛想笑いを浮かべた。

「ご用が無いなら、そこを退いて欲しいのですが?」

「君は相変わらずつれないね」

「済みません、無駄にキラキラした知り合いなんて全然記憶に無くて。

 まったく、一切、清々しいほどに」

 本当に覚えていないかな? 困ったように続けた彼が誰か、私自身でもこんな風に軽口を叩く前には気づいていた。

 いや、気づいたわけじゃない。そもそも忘れてなどいなかったのだから。ただ、彼とこんな時期にもう一度会ってしまった事実を認めようとは思わなかっただけで。

 往生際悪くも今更接触を回避できないかと考えてる自分は、どこまでも可愛くない。

 その場で固まったまま悩むこと、数十秒。ようやく観念した私は、ふいと彼から視線を逸らした。

「……お久しぶりです、勇者サマ。

 いっそ本当に忘れられたら良かったんですけどね」

「幼馴染との再会を、もう少し喜んでくれてもいいんじゃないかな」

「喜んで欲しいのでしたら、もう少し時間と場所を考えてはどうですか」

「ロマンティックなシチュエーションはまた今度でいいかなと」

 "今度"なんて、無いくせに。

 考えれば事実になってしまうようで「ふーん」適当に相槌のような言葉を返しながら、私はちらりと彼の背後に視線を投げた。

 私がひとり暮らす借り家は目前。斜め右にある建物の2階、奥から3番目の部屋だ。なのだが、この無駄に大きな障害物が退いてくれる気配は一向に無い。残念極まりないことに。

「次はいつ会えるか分からなかったから、先に普通に会っておこうかと」

「普通に、ってなんですか」

「ん、一緒に買い物に行ったりとかお喋りしたりとか?」

「なんで偶然道で再会しただけのあなたと一緒に買い物しなきゃいけないんですか。

 わざわざこの貴重な休日に」

「いや、いいんだ。こうして話せただけで充分嬉しかったから」

 それじゃあ、また。そう言って私の隣を通り過ぎようとする彼が、どこか寂しげなのは長い付き合いから嫌でも気付かされて。これをそのまま放置するのは、さすがの私も後悔しそうだ。

 人通りの少ない路地裏とはいえずっと立ち話している訳にはいかないと自分に言い訳を考え始めている辺り既に大分絆されているような気がして、私ははぁと溜息を零した。

「……週末は買い物帰りの荷物、重いんですよ知ってます?」

 気まぐれで買ってしまった、かごいっぱいの林檎を勇者サマに押し付ける。

 え? ときょとんとした彼がそれを受け取ったのを横目に踵を返して大通りの方向へ数歩進み、着いて来る気配の無い相手を両手腰に当てて振り返った。

「お茶くらい、付き合いますよ。仕方ないので」

 最後に言い訳のように付け加えた言葉は、やはり我ながら可愛くない。

 だからそんな救われた顔をしないで欲しいと思考の大半で考えながら、けれど無意識に脳内ではなるべく近場で落ち着ける場所を探していた。



 温かいミルクティとアップルパイ、イチゴタルト、あとレモンケーキをひとつ。

 結局候補として選んだのは、商店街の外れにある仲の良い老夫婦が営む喫茶店だった。

 カウンターの横の木製の机の上、ガラス製のケーキドームを覗き見ながら、とりあえず自分の注文だけ告げる。そんな私に苦笑して、目の前の勇者サマは続けて紅茶を頼んだ。

「……よく食べるね」

「ストレスには甘いものって言いますから」

 頼んだケーキだけ先に受け取って、休日の昼間だというのに静かな店内の窓際奥の席を選んで座る。ひとつ食べるかと尋ねたのは、完全に定型文だ。

「いいよ、僕は。おいしそうに食べてるティナを見れたらそれで満足だ」

「……まぁ、私もあげる気は無いですし」

「うん、知ってる」

 どうにも調子を崩されている気がする。それほど経たない内に運ばれてきたミルクティを手に取って、湯気越しに彼を覗き見た。

 話を切り出す気配もなく、目の前の彼は興味深げに古本の並ぶ本棚や色褪せたポスターを見回している。

「……それで?」

「ん?」

「用があったからわざわざ来たんでしょう、この忙しい時期に、こんな所まで」

 つい3日前の時点では、重大な発表とやらで彼はまだ王都に居たはずだ。それは国内最大手の広報社の新聞――エンディースウィークリ――で写真つきの記事を目にしたので間違いない。

 普通に来れば丸4日は掛かる距離を()いできたのならば、何かそれに足る理由があるのだと思ったのだが。

「特にないよ。本当に、ただ君に会いたかっただけ。

 引っ越していたのは驚いたけど、ここもすごく良い街だね」

 私の突っ掛かるような物言いを気を留めた様子もなく、彼は動かしていた視線を私に移してキラキラにっこりある意味殺人的な笑みを浮かべた。

 けれどまぁ、幸いにしてここに黄色い悲鳴を上げて倒れそうな年頃の娘は居ない。因みに私は腐れ縁のよしみでこの手の毒物にはとっくに耐性ができている。

 ――というか、そもそもの話。彼はどうやって私の現在位置を特定したのだろう。

「口止めしてあったんだけどなぁ……」

「何か言った?」

 思わず内心を呟きにしてしまっていたらしい。目の前の彼は不思議そうに大きくふたつ瞬いた。

 心当たりが、無い訳ではない。というか目の前のコレの圧力で思わず口を滑らせない人物が居たら、その人こそむしろ本物の勇者か聖人ではないだろうか。


 ……とまぁ、冗談はひとまず置いておく。

 私が何の為に引っ越したと思っているんですか。これでは全くもって意味が無い。

 思わず恨み言のように呟き半眼で睨み上げて、けれど彼にしてみれば随分と酷い言いがかりだろう。

 はぁ、と重い息をはいて肩を落とす。「どうかしたの?」何も続けない私に首を傾いだ青年に、私は首を振った。

「いいえ? 何も。その素敵な笑顔を使って、

 この2年で一体何人誑かしたのかなと想像したら頭が痛くなりまして」

「たぶっ……。僕はそんな事はしないよ」

「ふぅ~ん? そうなんですか」

「そんな風に疑われる要素は無いはずだけどな」

「どの口がそれを言うんです。私が把握している限りでも

 町長さん家のアリエスと雑貨屋のリリィと――まだ挙げますか?」

「それは誤解だ。あれはちゃんとお断りしたはず……いや、そんな事はどうでもいい」

 断ったってことは、じゃあ告白はされたのか。問い詰めたところで"春の感謝祭"に誘われたとかその程度だろうが、その意味を分かっていないとは思えない。思いたくない。

 風の噂で聞いていたこととはいえ、実際本人の口から聞くとなんとなく衝撃的だ。なぜかもやもやする原因は、同郷の知人の心を取られた悔しさだと思うことにした。

「どうでも良い、ですか。だったらそんなに動揺しなければいいと思いますよ」

 複雑な心境はあっさりと思考の海に不法投棄。

 私がにたりと笑いながら嘯けば、彼はどこか困ったように眉を寄せた。

「……ティナ、その喋り方止めない? なにをそんなに怒ってるんだ」

「止めるも何も。私は普段からこんな口調です」

「僕の覚えている限り、その中途半端な敬語口調は機嫌の悪い時だけだったと思うんだけど?」

「気のせいじゃないですか」

 困ったように笑う彼には、見覚えがある。

 ほら、大丈夫。これは私の可愛い幼馴染で間違いない。同じ年のくせに、弱虫で、泣き虫で、寂しがりやの。そんな彼に対して、苛立ちなんて覚えるはずもない。

 ただ今は少し、心の距離を開けておきたいだけで。

「……ねぇ、ティナ」

 だから、不意に浮かんだ真剣な表情に動揺するなんて無駄でしかないだろうに。

 そう思おうとしても無駄に五月蝿い雑音が耳から消えてくれない。前と同じように、ただの冗談を本気にして、動揺して、困ったように笑ってくれればいいのに。

「もしも僕が――」

 言葉の続きは、中途半端のまま途切れた。

 窓の外を見て僅かに目を見開いた彼を認めて、私も同じ方向へ視線を向ける。そこには会ったことは無いが"見た"ことはある何人かが誰かを探しているようだった。

 誰かを――そう、目の前の勇者サマを。

「タイムリミット、思ったよりも早かったね」

「……」

「ごめん」

「……なにが、ですか」

「最後に、ちゃんと謝っておきたかった。それだけだよ」

「別に、謝られる心当たりなんて無いですが」

「あの年の春祭り、僕から誘ったのにすっぽかしてしまったから」

「それは…――」

 仕方なかったことだ。認めたくはないけれど。

 あの日、王都からの巡礼の騎士団が村に来ていなければ。崖崩れが起こらなければ、救助の手伝いに行くと言っていた彼が森の中で悪魔に出会わなければ、彼が聖剣に選ばれなければ。

 仮定ばかりの事態が起こってさえいなかったら、今頃私たちは結婚式でも挙げていたのかもしれない。

「ねぇ、ティナ。一緒に逃げてしまおうか」

 それは甘い誘惑。きっと2年前に同じ言葉を言われていたら、私は迷わず頷いていた。あの頃は、魔王の脅威なんて遠い場所にあると信じていたから。

 あの春の感謝祭で一緒に花の祭壇を巡って。時々妙に抜けている彼が忘れないように、小さな花を摘んだかごを持って約束の場所で待っている自分は今より確実に素直で可愛い女の子だっただろう。

 もう全部、現実ではありえないただの夢だけれど。

「……なんて、ね」

 テーブルの端に丁度半分の代金だけ置いて、彼は席を立った。明らかに多ければ余計なお世話だと突っ返すのに。

「それじゃあ、また」

 だから嫌なんだ。綺麗な思い出だけ残して、消えようとしているようで。

 こちらに背を向けた彼が、店を出る直前。私は隣の席に座るバスケットの一番上の林檎を手に取って、彼の後頭部に力いっぱい投げつけた。

 綺麗な軌跡を描いて描かれる緑の曲線。途中まで一直線に飛んだそれは、けれど急に失速して振り返った彼の手の中に落ちた。

 簡易防御魔法を掛けっぱなしだなんて、なんとなく可愛くない。

 ここは派手に当たって身悶えてくれるところだろうなんて考えながら、私は大きく息を吸い込んだ。

「……ティナ?」

 不思議そうな彼は、戸惑ったように掌の上の林檎と私を見比べる。

「私の他に、作ってくれる人でも見つけたら?」

 主語もなにも無い言葉。けれど彼には十分通じたらしい。

 ふと口角を緩めて優しく微笑んだ。

「帰ってきてからティナに焼いて欲しいな、アップルパイ」

 どこまでも素直になれない私は、結局最後まで言いたいことのひとつも告げられないままに終わるらしい。

 伝えたかったこと、告げたかった言葉。それらは全て勇気が足りないままに心の中へと仕舞われる。

 厳重すぎる檻の中から顔を覗かせるのはどこか嫌味な言葉ばかり。

 それこそ私らしいといえば、それまでだけれど。

「……行ってらっしゃい」

 視線を合わせず小さく呟いた私に苦笑して、行ってきます、と彼は笑った。



「……また、なんて無いくせに」

 私はぽつりと呟いて窓の外、嫌味な程に良く晴れた空を見上げた。

 こんな外れの店でも聞こえる賑やかな街の喧騒。全てを右から左へ受け流せれば良かったのに。途中偶然聞こえた噂話に、どうして足を止めてしまったりなどしたのだろう。

 知りたくもなかった情報は、久々の休日に浮わついていた気分を一気に冷ましてくれた。

 無意識に唇を引き結んで、けれど聞いてしまった記憶を消すこともできない。

 ゆらゆらと揺れるカップの水面に映る自分を無言で見下ろす。湯気を立てていたはずの紅茶は、気付けばとっくに冷え切っていた。

「そもそも――どうして買い物になんて行こうと思ったかなぁ、私」

 思った所で後の祭り。今更時間を戻して読書でも始めようなんて考えは、どこまでも非現実的だ。

 隣に座る積み重なった青い林檎は話し相手になってくれるはずも無い。


 忘れていたはずがない。

 2年前のあの日<選ばれてしまった>私の泣き虫な幼馴染。


 彼との思い出が記憶の底に沈まなかったのは、こんな田舎に届く新聞でも毎回一面を飾っているから。そんな理由だけでない事には少なからず気づいていた。

 もう隣に居ないはずの姿を、無意識に探してしまう。それ程ずっと一緒に居た相手だ。忘れようとしてそうできるのなら、最初から苦労などしていない。

『なにしてるの、ティナ?』

 呼ばれたような気がして振り返り、けれどそこには誰も居ない。そんなことを繰り返す内に、どうしようも無いほど苦しくなって、生まれ育った村を出たのは1年前。

 記憶に繋がるもの全てを切り離せば自由になれると信じていられたのは最初だけ。

 鳥の声も、風の音も、空の色も、未だ見慣れぬ街の風景ですら。そんな些細なものが彼を思い出す要因に成り得ることを、一体誰が想像できただろう。


 ティナのアップルパイが食べたいな、と。

 甘いものは苦手な癖に、家の裏で取れたという林檎を両腕いっぱいに抱えて。そんな小さくて可愛らしかったあの日の無邪気な少年はもう居ない。

 そんな思い出と一緒に文句を言いながら毎回それを焼いていた不器用な少女も気付けば消えてしまっていった。


 今代の勇者は、遂に先日魔王の城へ向かう命を受けたと聞く。


 勇者という生贄のシステム。100年に一度、魔王に捧げられる聖剣の主(スケープゴート)

 彼はきっと帰ってこない。もう2度と。






「……はい?」

 一日の仕事も終わり、帰り際に聞いた言葉。それがあまりにも予想外で、我ながら拍子抜けするような声が出た。


「だから、勇者が帰ってきたんだって」

「――いやいや、待って。多分反応し難い類の空耳が聞こえた」

 空耳じゃないってば。そう言って目の前の少女はからからと笑う。

「ティナ、随分気にしていたでしょう?」

 丁度私と交代に来た友人は、事も無げにそんなことをのたまった。

 それ程あからさまだっただろうか、いや反語だ。むしろ敢えて意識から外していた節のある私の行動を指して気にしていたと断言出来る彼女は中々の強者だろう。

 返す言葉に窮しながら短く「そっか」と呟いた。エプロンを外して髪を結んでいたリボンを解く。鬱陶しく前に落ちてきた黒髪を後ろに梳いてから、手に持った布を畳んで彼女に渡した。

「ありがとうリエル。それじゃあ私帰るから

 引継ぎ事項はいつも通り、エプロンのポケットのメモにあるから」

「うん。ティナ、今日もお疲れさま! 明日は寝坊しないようにね!」

「……? うん、また明日」

 どこか不思議な最後の言葉に内心首を傾ぎながら、私は職場であるお屋敷を出た。

 私が早番なのはいつもの事で。それと入れ替わりに彼女が入るのもこれまた日常で。今更取り立てて言う程に変わったことではないはずだ。

「それに、知ってるよ。そんなことは」

 魔王を討伐し王城へと報告に出向いた勇者一行は、今は神殿にいると新聞で目にした。それが数週間前の話。身を置くと言えば聞こえは良いが、実際は体の良い拘束だ。

 生きて帰るはずの無い勇者サマの扱いに、偉い人たちも相当困っているのだろう。

 一時は討伐は成されなかったのではと言われたくらいだ。王都に胡坐をかいていた人達は魔王城の結界手前までしか辿りつけなかった勇者の他の仲間――という名目の、実際は勇者を逃がさないための見張り――の報告では知る事ができない。

 実際その後調査隊が組まれたそうだが、暗黒の城の結界は解かれており内部には砂だらけの床が広がるばかり。魔族のひとりも居なかったらしい。

 自分達が役を押し付けた勇者がそんなに信用ならなかったかと飽きれるような、憤るような。それが今から数日前。効率は悪いし、無計画。ただでさえ低かったこの国に対する好感度は私の中で下がる一方だ。

 国王としても信じない訳にはいかなくなり、更には神殿に慰問に訪れた際勇者に一目ぼれした姫君は王に彼との結婚を願い出たと言う。それが、3日前の話。

 勇者サマは美しいお姫様と結婚。末永く幸せに暮らしました。なんて素敵で王道な物語だろう。

 ……まぁ、現実がそれほどすんなりいくとは思えないから今頃幽閉されたの部屋で無理やり既成事実でも作らされてい――や、さすがに考えるのは止めておく。妙に生々しくなりそうだ。

 結局戻ってきたとしても帰ってはこないんじゃないか、なんて。そんなことを考えている時点で私は随分と彼の言葉に縛られていたとようやく気付いた。今更、遅すぎるけれども。



 夕市で賑わう川沿いの大通りを、ゆったりとした足取りで歩く。川原に伸びた長い影は、折り重なってもう誰のものかも分からない。

 その中に紛れて消えてしまいたいなんて私はそんな悲観主義者ではないけれど、私が私でいるために必要だった何かが、いつの間にか欠けてしまっているような気がした。



『ティナ、大好き。ずっと一緒に居ようね』

 幼い頃に何気なく交わした、ただの口約束。

 相手は恐らくその存在を覚えてすらいないだろう。

 けれどそんなものに私はどうしようもない程依存していたらしい。

「昔は昔。時間は巻き戻せない――って、当たり前なのにね」

 自嘲気味に漏らした言葉は、市場の喧騒に紛れて自身の耳にさえ届く事無く消えてしまう。

 小さく溜息を零して上を見れば、空は既に彩やかな夕闇色へと染められようとしていた。

 また無意識に彼の色を探しかけている自分に気付くが、もう苦笑すら零せない。

 日常茶飯事と言える程に彼が旅に出たあの日から何度もくり返した行動は、とっくに止められなくなっていた。


 いつの間にか頼りなさなど消えていた彼と、いつまでも素直になれない私なんて最初から釣り合えてはいなかった。

 いつか訪れる未来、単にそれが今になっただけの話なのに。


「……あ、れ? もう時期も終わりだと思うんだけど」

 だから露天のひとつでふと足を止めてしまったのは、ただの気まぐれでしかなかった。

 首を傾いだ私の興味を見て取って、「ああそれは――」とすかさず店主が言葉を挟む。こんな辺境の地であっても流石に商魂逞しい。

「北西のノルフィース大陸で採れたものだよ。

 勇者さまが魔王を倒してくれたお陰で、600年ぶりに西との海路が開けたんだ」

 おひとついかがかな? そう進められるままに積み上げられた林檎の木箱に視線を落とす。

 値段は銅貨3枚。一般的なパンの値段が同程度だから、物として安くなければ高くも無い。

 束の間躊躇って、けれどひとつ手にとってしまったのは何の感傷だったのか。代金を渡してそのまま持ち帰る。

「どうしよう、これ」

 衝動買いなんて滅多にしない性質であるから、わりと本気で途方に暮れた。

 林檎は嫌いではない。むしろ普段から買い置きしてしまう程度には好きなのだが、既に窓辺に山となっているそれを思い出して気が重くなる。

 本当は甘いものが好きでも無いのに作ってくれと頻りに強請(ねだ)る幼馴染が傍に居ないせいで、一向に減ってくれる気配が無い。私の中で作る気が起きないというのも理由のひとつではあったけれど。



 小さな集合住宅の階段を(あが)ってその奥から3番目、自分の部屋へと向かう。いや、正確には階段をのぼり切った時点で私は足を止めた。

 扉に背を預けるように立つくすんだ灰色のフードの人影。その両腕で大きな紙袋を抱えながら、小さな村の春祭りで最後に謡われるような懐かしい女神の賛美歌を口ずさんでいる。端からのぞいた金糸の髪に、私は自分の心臓が跳ねる音を聞いた。


 突然止まった足音に気付いたのか、扉の前に立つ人影はくるりとこちらを振り返る。

 私を視界に納めた青年は、ゆっくりと優しい空色の瞳を眇めた。

「ちょっと、いつまでも帰らせてもらえないから逃げてきた」

「……」

「ね、ティナ。やっぱり折角だから君のアップルパイが食べたいな」

 呆然と立ち尽くす私の掌を、すり抜け転がり落ちた林檎。彼は足元で止まったそれを拾い上げて、真っ直ぐ私に差し出した。

 

「ただいま」

 お帰りなさいと紡ぎかけた言葉は、けれど涙に紛れて最後まで音には出来なかった。

(……その腕に抱えている紙袋、なに?)(味は林檎みたいだったよ。知り合いに貰ったんだ)

(林檎、って――どう見てもそれ、赤く見えるんですが)


※この世界の林檎は基本緑色です。

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