卒業
東和薬品さんからの電話は、明日受け渡しの予定の原稿を早めに渡したいというものだった。明日から担当者が出張に出てしまうとかで、今日渡しておきたいとのこと。
手一杯で動けない黒くんのかわりに、私が動くことになった。東和薬品さんに原稿を取り、電車で一息ついたときに鞄の中のスマフォが震える。
原稿について、どうだったかという黒くんからのメールかな? と思ったけど違ったようだ。
『やっほー 今日でも明日でもいいから、デートしよ!』
クールな見た目から考えられない、お茶目なメール。文章を読んで笑ってしまった。
こういうタイミングって面白い。コチラが逢いたいなと思っていたら、結構その相手から連絡ってくるものである。
今日は、この原稿を手配すればいいだけだから、今日の方がいいか。そう思って返事を出す。
『喜んで! 久しぶりのデート、ワクワクする~。
デートと分かっていたら、お洒落して来たのに残念!
会社出るタイミングでメールするね』
『オッケ~♪ 慌てなくてもいいから!
デートなのだから、お化粧崩れたまんまってことないように! いつもの喫茶店で待ってるね~♪』
このメールの相手は、婚約者である大陽くんではない。
かといって私が浮気しているわけでもない。私にとって兄というか姉のような存在で大好きで大切な人。
いずれタイミングをみて、大陽くんに紹介したいなと思っている相手である。その前にまずこの人に伝えないといけない事があった。
私は会社に急いで帰り仕事をこなし、なんとか残業三十分程度で終わらせることができた。
私はトイレで、いつもより念入りに化粧を直す。だって、私の知り合いで一番、手を抜いた化粧に厳しいので。
逆に大陽くんは、私が化粧してようかスッピンであろうが、どんな服着てようが、全く気にしてない。そこが楽であり、寂しい所。
喫茶店の前を通ると、切れ長の目の瞳でショートボブの綺麗な女性が店の中にいるのが見えた。私に気が付いてブンブンと元気に手を振ってくる。
コレが待ち合わせの相手の鈴木薫さん。私の高校時代の先輩である。
「ゴメンなさい。お待たせしましたよね?」
薫さんの仕事は比較的定時に帰れる事が多いので、平日デートとなると、待たせてしまう事が多い。
薫さんはそんな私に怒ることもなく、雑誌や本を優雅に読んで待っていてくれる。
顔も整っているし、なまじ身長が百七十センチ超あるの薫さん。足を組んで佇む姿はモデルのように決まっていて格好良い。
しかし『格好良い』というと拗ねるので、『綺麗』という言葉を私はいつも使っている。
薫さんは猫のような目を細めニコニコとコチラを見つめる。
「髪型変えたんだ、フワフワして女の子らしくて可愛い! 凄く似合っている! 触っていい?」
嬉しそうに私の髪の毛をサワサワと触って楽しんでいる。
こんだけ喜んでくれる人がいるなら、この髪型にして良かったと思う。
「また伸ばしてきてくれたのは嬉しいな~。
もうチョイ伸びてきたら毛先だけクルクルっとした感じにするのも良いかも、絶対可愛いよ。
私には無理だけど、百合ちゃんなら絶対似合う」
薫さんの困ったところは。私にやたら可愛らしい格好をさせようとするところ。
私には似合わないと思うのに、薫さんにしてみたらそういう遊びができるのが私だけなのだろう。
ブティックでも、乙女ちっくな可愛いワンピースとかを私に試着させて楽しんでいる。
満足したのか、椅子にゆったりと座りなおし、私の珈琲と新しい飲み物を注文してから向き直る。
何故か思いつめたような顔で私をジッとみつめてくる。
薫さんは宝塚女優っぽい綺麗な人なのでこんな風に見つめられるとドキドキしてしまう。
飲み物がテーブルに置かれ、ウェイトレスさんが去ったタイミングで薫さんは小さく深呼吸する。覚悟を決めたように口を開く。
「百合ちゃん、あのさ、来週温泉旅行に行くよ! 奢るから!」
唐突の誘いに、私は唖然とする。しかも『行かない?』じゃなくて『行くよ!』って?
「あのさ、温泉に一緒に入ろうと言っているわけではないから、部屋も別に取るし」
「あ、薫さん? 嫌とかそういう訳ではなくて最近、チョット週末予定が立て込んでいて。
なので九月以降だったら、家族の許可もとってなんとか行けるようになると思うけど」
そんな私を、キッと叱るような目で見てくる。
「それじゃあ、遅い!
どんな予定があるか分からないけど、キャンセルして一緒に行こう」
遅い? 何が? 私は訳が分からず、薫さんを見つめ返す。なんか必死な様子でその瞳は私に何かを訴えかけている。
薫さんが私に対してここまで必死になるという事は一つしかない。
「もしかして、ひで……いや、星野先輩の結婚式、来週ですか?」
まさか、結婚式の出席をお願いにいって、逆に元彼の花婿強奪を唆されるとは思わなかった。
映画『卒業』なシチュエーションって実際どれ程あるのだろうか?
私は頭の中で、教会に飛び込み元彼である星野秀明と手を取り合って走る自分の姿を想像する。そして薫さんが用意している車に二人で飛び乗り逃亡。
薫さんはビックリ目を見開いて、気遣うようにテーブルの上にあった私の手にそっと手をのせてくる。
「知っていたの? アイツが結婚すること」
私は、ゆっくり頷く。
「去年の秋にね、電話があってその時に」
ついつい薫さんには言いづらくて、黙っていた事を白状することにする。
前に付き合っていた星野秀明さんから電話があった事と、それで恋愛が完全に終わった事を。
私の言葉は想定外だったようで、薫さんの表情に明かに怒気が帯びる。
「ヒデのヤツ、何考えているんだ!
百合ちゃんもソレ、何で言ってくれなかったの?
去年の秋ということは、そのあと逢ってるじゃん僕ら。
相談してくれたら、アイツを説得してもっと平和なうちに破談できたのに」
薫さん、今サラリと『破談』って怖い事いいましたね。
薫さんは、高校時代に私と星野秀明さんの恋愛をずっと見守ってきてくれていた人。それだけに私達二人への想いも強い。
ずっと、私達がまたやり直せると信じていた。だから言えなかった。
薫さんは動揺しているのか、『僕』と一人称が昔の言い方になっている。
「薫さんの想いは嬉しい。
でも私達はもう大丈夫だから。その時の電話でね、私分かったの、ひでくんの事は大好きだけど、それはもう恋愛感情ではないって。
昔から私達って考える事が同じだったでしょ? ひでくん……いや星野先輩もそうだったから電話かけてきてくれたんだと思う」
薫さんは、酷く傷ついたままの顔で、私の方をチラリとみる。
申し訳ない気持ちになってきた。薫さんの望む未来も五年前考えなかった訳ではない。それはそれで、違った幸せのある人生だったのだろう。
選ばなかった未来を考える事は意味のない。しかし正直頭によぎったりもする。別れた後かなり引きずってしまうほど大好きだった人だった。
今は自分の選択に納得している。今だから言える事かもしれないけれど。結婚ってお互い好きなだけでは駄目なんだ。
相手への真剣な気持ち、愛情それは勿論必要だけど、それに加え勢いが必要なのだ。
内的要因であれ外的要因であれ、馬鹿でも無茶でも二人を動かそうとする力がないと結婚は出来ない。
それがあの時の二人になくて、今の大陽くんと私にあったという事だろう。
どちらが素敵な男性か、どちらをより愛していたというわけではなくて、結婚へ向かう勢いの違いだけなのだ。
「……でね、薫さんにお願いしたい事があるんだけど、いいですか?」
怒っているのだろう、何も言葉を返してこない。仕方がなく私は言葉を続ける。
「薫さんは、星野先輩の結婚式に出席されるんですよね?」
大きく溜息をついて、薫さんはアヒル口を不満そうに突き出す。
「私からもお祝いしたいので、一緒に渡して頂けると嬉しいです。
……あとね、もう一つお願いが……」
キチンとアイラインが引かれた瞳が私をジトっと見つめている。
「…………伝言なんて、しないよ」
ギロリと睨んでくる。私は首をブルブル横にふる。薫さんに頼んだら、絶対そのまま伝わらない気がする。
「あのね………………」
この話の流れでとても言いにくい! でもコレはどうしても薫さんに伝えたかった事だから。
覚悟を決めて続ける事にする。
「私の……結婚式にも出席してもらいたいの!」
あまりにも想定外の言葉だったようで、薫さんは口を開けてポカンと私を暫く見てくる。
「はぁ?」
私は、ヘラっとした笑いをそんな薫さんに返した。
~★ ★~
ここで出てくる鈴木薫は、私の『みんな欠けている』シリーズの二作品で主役をやっている人物です。
ここで出てくる鈴木薫は、私の『みんな欠けている』シリーズの二作品で主役をやっている人物です。そちらの『アダプティッドチャイルドは荒野を目指す』において、星野秀明、月ちゃん、薫さんの三人の高校時代の物語が語られています。もしご興味があればどうぞ。
卒業(The Graduate)
1967年 アメリカ映画
監督:マイク・ニコルズ
原作:チャールズ・ウェッブ
キャスト:ダスティン・ホフマン
キャサリン・ロス
アン・バンクロフト