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婚約破棄された令嬢ですが、辺境の地で薬師として幸せに暮らしているので今さら泣きつかれても困ります

作者: カルラ
掲載日:2026/04/30

 王太子クロード殿下が婚約破棄を宣言したのは、春の大舞踏会の最中だった。

 煌びやかなシャンデリアの下、白手袋の指先をレティシア・ノーヴァルに向けて、殿下はよく通る声でこう告げた。

「レティシア公爵令嬢。私はあなたとの婚約を解消することにした。孤高で冷たい貴女よりも、温かな心を持つ者こそがこの国の王妃にふさわしい」

 会場がざわついた。数百人の目が一斉にレティシアへと注がれる。

 ──来た。ついに来た。

 レティシアは内心でひそかにガッツポーズをした。

 三年前から待ち望んでいた瞬間だった。

 前世の記憶をレティシアが取り戻したのは十二歳のときだ。枕元に転がっていた乙女ゲームの攻略本を見た瞬間、全てを思い出した。ここは自分がかつて遊んだゲームの世界であり、レティシア・ノーヴァルは攻略対象である王太子の婚約者、つまり物語の邪魔をする悪役令嬢だと。そしてゲームのルート上、この舞踏会で婚約破棄されることも、その後、辺境の地へ追いやられることも、ぜんぶ最初から決まっていた。

 普通なら絶望しただろう。しかしレティシアが最初に覚えたのは──安堵だった。

 なぜなら彼女は前世において薬学部の学生だったからだ。異世界に転生したと知ったとき、何ができるかを真っ先に考えた。答えはすぐ出た。薬だ。この世界の医学は前世に比べてはるかに遅れている。自分の知識があれば、どれだけ人の役に立てるか。そしてゲームの知識から、辺境の地こそが薬草の宝庫であることも知っていた。

 だから婚約破棄は、むしろ好都合だった。

 三年間、レティシアは密かに準備を重ねた。薬草の栽培を独学で学び、調合の腕を磨き、必要な道具を少しずつ揃えた。侍女のアンナには「令嬢様が突然農作業に目覚めた」と心配されたが、それも今となっては笑い話だ。

 クロード殿下の演説がまだ続いている。温かな心を持つ者──というのは明らかに隣に立っているマリア・シュルツ男爵令嬢のことだろう。栗色の巻き毛に大きな瞳の、いかにもゲームのヒロインらしい少女だ。悪い子ではない。ただ縁がなかっただけだ。

 会場の視線がさらに強くなる中、レティシアはドレスの裾をつまみ、静かに膝を折った。

「謹んでお受けいたします」

 一切の乱れのない所作で答えると、殿下と取り巻きの貴族たちが明らかに拍子抜けした顔をした。涙のひとつも流さないのかと、そういう表情だった。

 泣く理由がないので仕方ない。

 レティシアは内心で軽やかに笑いながら、会場を後にした。


 翌朝、父に呼ばれた。

 「辺境伯アシュフォード殿の領地へ行くよう、王家より命があった」と父は気まずそうに言った。傍らで母が目頭を押さえている。

 「流刑も同然です……! あなたには何の落ち度もないのに」

 「お母様、大丈夫ですよ」

 レティシアはにっこりと笑った。本心からの笑みだったので、両親はよけいに心配そうな顔をした。

 馬車への荷積みが始まると、侍女のアンナが目を丸くした。

 「令嬢様……この荷物の量は、いったい」

 木箱が次々と運び込まれる。中身は薬草の種、調合道具、薬学書、乾燥ハーブ、各種鉱物、ガラス瓶の束。三年間かけてこっそり集め続けた、レティシアの全財産だった。

 「辺境は薬草の宝庫らしいのです。楽しみで」

 アンナは何か言いたげに口を開け、また閉じ、最終的に「……ついてまいります」とだけ言った。

 辺境アシュフォード領まで馬車で五日。山道を越えるごとに空気が澄んでいき、緑の濃さが増していく。窓の外を流れる景色の中に見覚えのある薬草の群落を見つけるたびに、レティシアの胸は弾んだ。

 領主館に到着すると、ヴァルク・アシュフォード辺境伯が門前に立っていた。

 三十歳ほどの男だった。短く刈り込んだ黒髪、鍛えた身体、日焼けした顔に深い目。軍人の雰囲気を色濃く残している。表情は読みにくいが、目が鋭い。品定めするような視線がまっすぐにレティシアへ向いた。

「薬師の腕があると聞いた。本当か」

 挨拶もなく、第一声がそれだった。

「試していただければわかります」

 レティシアは微笑んで答えた。

 辺境伯はしばらくレティシアを見つめ、それから短く「では頼む」とだけ言った。


 アシュフォード領は、想像以上に豊かな土地だった。

 標高の高い山腹には希少な薬草が自生し、川沿いには薬効の高いハーブの群生地がある。宮廷の薬師が一生かけても集められないものが、ここでは土手に普通に生えていた。

 しかし荒れ果てた一角があった。館の南側の斜面、日当たりはいいが石がごろごろと転がる、誰にも使われていない一画だ。

「ここは何でしょう」

 案内役の老執事が言った。「以前は畑だったようですが、もう何十年も手が入っておらず……」

「ここをお借りできますか」

 老執事が絶句した。「あの、こちらは荒地でございます。石だらけで、何も育たない……」

「宝の山です」

 レティシアは目を輝かせた。

 翌日から、彼女は毎朝夜明けとともに斜面に出て、石を拾い、土を耕し始めた。侍女のアンナが仰天したが、手伝ってくれた。そして三日目の朝、石を拾っていると背後に人の気配があった。

「何をしている」

 振り向くと、ヴァルクがいた。馬から降りたところらしく、手綱を持ったまま斜面の上からこちらを見ている。

「薬草を植える準備です。この土は意外と深くて良質です。石灰を少し混ぜれば、山薬草が育ちます」

 ヴァルクは少し間を置いて「石が多い」と言った。

「おっしゃる通りです」

「……手伝う」

 意外な言葉だった。レティシアが目を丸くすると、辺境伯はすでに上着を脱いで斜面を下りてきていた。

 二人で並んで石を拾いながら、レティシアはふと、この人が最初から自分を「王都から追いやられた可哀想な令嬢」として扱っていないことに気づいた。そこにあるのはただ対等な目線だ。それが妙に嬉しかった。

 ヴァルクの側近、ガルドという中年の騎士が遠巻きに二人を見ながら額に手を当てていたが、それはまた別の話だ。


 薬草園が軌道に乗り始めた頃、村で流行り病が出た。

 子どもを中心に次々と高熱と発疹が広がっている。王都から来た巡回医師が「原因不明」と首を傾けたまま匙を投げた後、ヴァルクがレティシアの部屋の扉を叩いた。

「見てもらえるか。無理には言わない」

「すぐ参ります」

 道具箱を手に村へ入ると、三軒の家で子どもが寝込んでいた。発疹のパターン、熱の上がり方、目の充血具合を確認して、レティシアは思い当たった。川上の湿地帯に生えるある植物の、果実の時期と重なる。子どもが遊びで口に入れたのだろう。毒ではないが、大量に摂取すると免疫反応を引き起こす。

「解毒薬というより、反応を抑える薬です。二日で熱は下がります」

 道具箱を広げ、手際よく薬を調合し始めると、傍らでガルドがぼそりと言った。

「……あの巡回医師が一週間わからなかったのを」

「前世で似た症例を見たことがあるので」

 口から出てからしまったと思ったが、ガルドは「ぜんせ……?」と首を傾けただけで深く追わなかった。

 二日後、子どもたちの熱は引いた。

 村に広まるのは早かった。「アシュフォードの聖女様」という呼び名がいつの間にかついており、レティシアが薬草園に立っているとぽつりぽつりと村人が相談に来るようになった。腰が痛い、眠れない、子どもの咳が続く。全員に同じように向き合い、薬を渡した。

 報酬はいらないと言っても、みんな野菜や干し肉や卵を置いていく。気づけば台所が充実していた。


 ある夜、館の中庭で焚き火を前にしてヴァルクと二人きりになった。

 珍しいことだった。いつもはガルドかアンナがいる。二人とも気を利かせて席を外したらしい。

 しばらく炎を眺めていると、ヴァルクが口を開いた。

「聞いていいか」

「何でしょう」

「婚約破棄されたのに、なぜ笑っていられる」

 直球だと思ったが、この人はいつもそうだ。

 レティシアは少し考えて、正直に言うことにした。

「ずっとここへ来たかったからです」

「……ここへ?」

「辺境の、この土地へ。薬草が豊かで、空気が澄んでいて、王都の社交界より土の方が好きな私でも変に思われない場所へ。婚約があった間は来られませんでした」

 焚き火がはぜる音がした。

「だから、婚約破棄は……」

「待ち望んでいました。正直に申しますと」

 ヴァルクが珍しく言葉に詰まっている様子だった。それから、かすかに口元が動いた。笑っているのだと気づくのに少し時間がかかった。

 この人が笑うのを見たのは、初めてだった。

「そうか」

「はい」

「では、ここへ来て良かったか」

「とても」

 短いやりとりだったが、レティシアはその夜、布団の中でしばらく天井を見つめた。ヴァルクの笑顔が思いのほか心に残っていて、うまく眠れなかった。


 王都から使者が来たのは、薬草園に秋の花が咲き揃った頃だった。

 馬を三頭潰す勢いで飛ばしてきた使者の顔は青白く、息も絶え絶えだった。

「レティシア様……王都で疫病が……!」

 詳しく聞けば、正体不明の熱病が王都で広がっており、宮廷医師も手が出ないという。民が次々と倒れ、王族にまで感染者が出始めた。そして宮廷のどこかから「辺境に追いやられたノーヴァル令嬢が類まれな薬師だ」という話が流れ、使者が飛んできた、という経緯らしかった。

「どうかお戻りください。殿下も……王太子殿下も、ご自身の誤りをお認めになり……」

 レティシアは少し考えてから、静かに言った。

「今は薬草の収穫の時期で、手が離せないのです」

 使者が呆然とした。

「わたくし、今とても忙しくて。種まきと収穫が重なる時期は特に。それに──」と言いかけてやめた。ヴァルクとの予定も今週は詰まっている、という言葉は飲み込んだ。

 数日後、今度はクロード王太子直筆の詫び状が届いた。

 丁寧な文章だった。自分の誤りを認め、レティシアを傷つけたことを詫び、王都への帰還を求めていた。

 レティシアは手紙をひととおり読み、きちんと折り直して封筒に戻した。そしてちょうど馬の世話から戻ってきたヴァルクに、内容をそのまま伝えた。

 ヴァルクは無言でレティシアを見た。しばらく間があって、それから静かに言った。

「お前が決めろ。俺はどちらでも──お前を守る」

 その言葉がひどく真剣だったので、レティシアは少し胸が熱くなった。

「では」と彼女は言った。「薬の製法だけお渡しします。わたくしは行きません」

「それで良いのか」

「王都に未練はありません。ここに、あります」

 言ってからわずかに頬が熱くなった。少々直截すぎたかもしれないと思ったが、ヴァルクは何も言わず、ただ一度だけ頷いた。

 レティシアは書き物机に向かい、疫病の対処法と薬の製法を一晩かけて書き上げた。翌朝、待ちわびていた使者に製法書を手渡して、畑に戻った。


 秋が深まる頃、疫病が王都で収束したという知らせが届いた。

 製法書に書かれた通りに薬を調合したところ劇的な効果があった、レティシアの名が王国中に広まっている、という内容だった。

 しばらくして、クロードとマリアが辺境を訪ねてきた。

 二人とも馬で旅してきたらしく、王太子にしては珍しく汚れた格好だった。クロードはどこかぎこちない顔で玄関口に立っており、マリアはひたすら申し訳なさそうにしていた。

「レティシア様……このたびは」

「お疲れでしょう。お茶でもいかがですか」

 応接室でお茶を出すと、マリアが「本当に申し訳ありませんでした」と深く頭を下げた。「私のせいで、あなたは婚約を……あなたには何の落ち度もなかったのに」

 レティシアはしばらくマリアを見た。この子は本当に真剣な目をしている。ゲームのヒロインとしての彼女は知っていたが、実際に向き合うのは初めてだった。

「マリアさん」

「は、はい」

「あなたのおかげで、わたくしは一番行きたかった場所に来られたのです。感謝こそしていますが、恨んではいません」

 マリアが目を丸くした。

「本当に、ですか」

「本当に」

 レティシアは窓の外に目をやった。秋晴れの斜面で、アンナとガルドが薬草を刈り取っている。遠くに山並みが見える。空の色が澄んでいる。

 心の底から、本当に、恨みの欠片もなかった。

 クロードは結局ほとんど喋らなかったが、帰り際に「……幸せそうだな」と一言だけ言った。嫌みでも皮肉でもなく、どこか呆然とした顔で。

「ええ。とても」

 二人が馬で去っていく背中を見送って、レティシアは小さく息をついた。終わった、という感覚があった。何かが完全に、綺麗に終わった。


 夕暮れの薬草園は橙色に染まっていた。

 刈り取りを終えて片付けをしていると、背後から足音がした。振り向けばヴァルクが立っている。今日は早く仕事を切り上げたらしい。

「終わったか」

「はい。今年は良い出来です。山薬草が特に」

「そうか」

 ヴァルクは何か言いかけてやめ、また言いかけてやめた。珍しいことだった。いつも無駄口を叩かない人が、珍しく言葉を探している。

 レティシアが不思議に思って見ていると、ヴァルクがまっすぐ前を向いたまま言った。

「──ここに、ずっといてくれるか」

 言葉は短かったが、その分、重かった。

 レティシアは胸に何かがじわりと広がるのを感じた。暖かくて、柔らかくて、形容するのが難しい何かだ。ずっと名前をつけずにいたが、今ならわかる気がした。

「もちろんです」

 声が少し震えた。

「ここが私の家ですから」

 ヴァルクが手を差し伸べた。無骨な、農作業でも鍛えた手だ。レティシアはその手を取った。

 山の端に日が沈んでいく。薬草の香りが風に乗る。遠くでアンナの「あーーっ見てはいけませんガルド様!」という声がしたが、二人とも気にしなかった。

 捨てられたのではなく、辿り着いたのだ。ここへ来るべくして来たのだと、レティシアは夕日を見ながら思った。

 王都など、もう少しも恋しくなかった。


終幕


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