琉太の死はやはり自殺だったのだ
「母さん、鼻の下にできものができたんだけど」
「なんで笑ってるんだい?」
「ごめんごめん、できものができたってのがおかしくて。できたからできものなんだよね」
「なんだね、自分で言い出しておいて。できものがどうかしたの?」
「薬を買おうと思うんだけど、うちで使ってたよく効く塗り薬、あれ何だった?」
「フルコートのことかい?」
「そうそう、それ。ありがとう、母さん。じゃあね、母さん」
「一度くらい帰っておいでって言おうとしたのに琉太は電話を切ってしまって」
もう何度聞かされたろう。
母がこの話を繰り返し語るのは認知症のせいだけではない。
息子の死をいまだに諦めきれないのだ。
また始まったとばかりに私は椅子から腰を上げた。
夫や子供の夕食の支度がある。
「じゃ、また来るからね」
母もベッドの上で決まり文句を口にする。
「もう帰るのかい?」
4つ下の弟の琉太は大学2年の冬に寮の屋上から転落した。
連絡を受けて父と母と私は当時まだ運航していた沖縄本島行きの旅客フェリーに乗った。
先島諸島から沖縄本島まで約10時間の船旅、次いで那覇から飛行機で東京に飛んだ。
私たちが着いたとき警察は琉太が精神的に抑うつ状態にあったことを既に学内や寮で聞きこんでいた。
そして現場検証の結果もふまえて自死と結論づけた。
私たち3人、とりわけ母は納得しなかった。
琉太が死亡したのは母に電話をかけた日の深夜だった。
しかも電話の内容が内容だ。
「これから薬を買おうとする人間が自殺するはずはありません。もっと調べてください」
実際に弟の鼻の下には化膿しかかっているできものがあり母の疑問はもっともだった。
しかし警察の判断が覆ることはなかった。
あれから21年、父は既に亡く80近くの母も胃がんの末期で長くはない。
胃潰瘍での入院という説明を素直に受け入れているのが救いだ。
やせ衰えた母との近づく別れを思うと40代半ばの私でも胸がしんとなる。
琉太が18歳で島を出て親兄弟や故郷から遠く離れるときはどんな気持ちだったろう。
小さい頃から甘えん坊で寂しがりやの弟だった。
だから帰省しやすい沖縄本島の大学に行きたがっていた。
けれども開校以来の秀才だからと担任も父も東京の有名私大を勧めた。
気の優しい琉太は自分の希望をひっこめて周囲の期待を背負った。
先月のことだった。
病院に行くと看護師が困りはてていた。
どうやら母が検温その他のケアを嫌がっているらしい。
認知症のせいなのだろうが幼児のように駄々をこねた。
看護師が去った後で私は強く叱った。
「ちゃんと看護師さんの言うこと聞かなきゃダメじゃない!」
ベッドの上で正座して母はうなだれた。
そしてこそこそと背を向けたのだが私はその背中がずいぶんと小さくなっていることに気づいて胸を突かれた。
今なら私でもお姫様抱っこできそうなこの母から私は生まれたのだ。
その母が娘に叱られて子供みたいにしょんぼりしている。
怒鳴ったことを悔やみながらも私は椅子から立ち上がった。
すると母は振り向いた。
「もう帰るのかい?」
私は危うく涙をこぼしそうになった。
叱られてもなお呼び止めるのかと。
後ろ髪を引かれる思いで病院を後にするとふいに琉太の顔が浮かんだ。
これまでもやもやしていた琉太の死はやはり自殺だったのだと思った。
琉太も寂しくて寂しくてたまらなかったのだろう。
毎日のように顔を見せても「もう帰るのかい?」と母は寂しがる。
経済的な余裕もなく大都会に一人、学業とアルバイトに明け暮れる毎日。
遠すぎる東京に私たちのほうから訪ねていくこともできなかった。
琉太は「もう帰るの?」と口にする機会さえなかったのだ。
だからと言って島の秀才が学業を投げ出して戻れるはずはない。
最後の電話口で琉太は笑っていたと母は言う。
それも自分で自分を追いこんだ末にふっきれた明るさだったのだろうと思えば胸が詰まる。
寂しさを道連れにと言うより、分かちがたい分身のような寂しさを抱きしめて琉太は寮の屋上から身を投じたのだ。
病院から帰る道々私はそんなふうに確信したけれど自分一人の胸に留めておくことにした。
母に語ったところで慰めになるとも思えないし「それではあの電話は何だったのか」と私に問うはずだ。
その答えもまた母に哀しい影を落とすだろう。
「お母さん、きっと琉太は最期に大好きなお母さんの声を聞きたかったのよ」




