第82話【蝙蝠】
赤黒い霧が、夜の大地を舐めるように這い広がる。
それはただの霧ではない。鉄の臭気を帯び、重く、粘りつくような妖気を孕んでいた。
霧の中心に立つ男――
血霧の魔人は、ゆっくりと首を傾ける。
「……風が呼んでいる。
“美味い血”の匂いをな」
口元から鋭い牙が覗き、赤い舌が唇を舐めた。
その瞬間、霧の中から無数の影がひらめく。
――バサッ。
羽音。
夜の闇と同化するように、黒い蝙蝠たちが霧の中から溢れ出す。
ただの獣ではない。霧と同じ赤黒い瘴気を纏い、そして――
瞳が存在しない。
魔族特有の“異質”そのものが、空へ浮かび上がっていく。
「行け。血を求めろ。影に潜め。……匂いを持ち帰れ」
指先が軽く動いた瞬間、
蝙蝠の群れは黒い奔流となって四方へ散っていった。
残った霧はひゅう、と形を変え、男の身体を抱くように高く舞い上がる。
影は霧へ、霧は影へ。
男自身が大気へ溶けるように、輪郭を失っていく。
「……黒髪の少年。
お前の“血”は特別だと、直感が告げている」
風が止まる。
霧と影の境界が曖昧になり――
男の姿は完全に消えた。
そして無音のまま、霧の全てがひとつの方向へ滑るように流れていく。
王都より遠く、学園すら離れた――
生徒たちが滞在するキャンプ地へ向けて。
「ふふ……逃がすと思うな。
今宵の獲物は――決めてある」
霧の舌のような風が地を這い、森を抜け、夜を切り裂き進む。
血を求める影は、音もなく静かに。
しかし確実に。
黒髪の少年へ――忍び寄っていた。
その頃、一年生たちが滞在している森のキャンプ地には、焚き火のはぜる音だけが響いていた。
魔物の大規模な進軍によって王都周辺が危険と判断され、学園は緊急回避として生徒たちをこの外縁へ退避させていた。
教師陣は王都防衛に回り、ここにはほぼ生徒だけ――。
夜は深く、静寂は濃く。
それでもどこか、落ち着かない空気が揺らぎ続けていた。
リナは焚き火のそばでノートを開いていたが、筆先が止まった。
「……おかしいです」
エリカが眉を寄せる。
「どうしたの、リナ?」
「魔力の流れ、風向き、湿度……どれも異常はありません。でも――」
リナは周囲を見渡し、薄く震える声で続けた。
「“視えないもの”が近づいている感覚があるんです。
気配が検知できないのに、何かがこちらに流れてきている……そんな矛盾が。」
ショウが無理に笑いながら肩をさする。
「おいおい……リナがそんなこと言うと、本気で怖ぇぞ……」
その時、焚き火の向こう側で、ひときわ静かな少女が目を上げた。
ユリナ・ダークネスト――紅紫の瞳が、夜の闇を射抜く。
「……奇遇じゃない、私も嫌な気配を感じていたところよ」
皆が驚いてユリナを見る。
「ユリナまで……?」
「説明しても理解できないと思うけれど……闇の気配が薄まっているのよ」
「薄まる?」
「ええ。“何か”が……闇さえ飲み込んでいるように」
ユリナの声には、これまで聞いたことのない緊張が滲んでいた。
木の枝に腰を下ろし、空を見上げていたユウマも同じだった。
(……落ち着かない)
風は穏やかで、音ひとつしない。
だが、その静けさが逆に不気味だった。
胸の奥がざわざわと泡立ち、肌が粟立つ。
(何かが……来てる)
理由も根拠もない。
でも――確かに“感じる”。
アストラル・エッジを鍛えられたあの一ヶ月。
剣の魔人の殺気に晒され、必死で生き延びた日々。
その中で培われた“本能”が警鐘を鳴らしていた。
「……気のせいであってほしいんだけどな」
呟いても、不安は晴れなかった。
風が――止んだ。
次の瞬間、焚き火の火が揺らめき、全員が同時に顔を上げる。
「……今の、何?」
「風……じゃない。これは……」
リナが震えた声で囁く。
「霧、です。……魔力を含んだ霧が、こちらへ流れてきています」
ユリナが立ち上がり、紅紫の瞳を無言で細める。
「気配は……感じません。でも確実に来ています。
これは――何かの“襲撃”です」
ユウマは息を呑み、杖を握った。
(……まさか、また……?)
予感が脳裏を締め付ける。
その時――
森の奥で、
バサッ、と複数の羽音が、闇を切り裂いた。
不気味な赤黒い霧が、木々の間から流れ込むように迫る。
血の匂い。
鉄錆のような、生暖かい息吹。
そして――
霧の奥で、蝙蝠の群れが赤い光を瞬かせる。
「き、来る……っ!」
リナが悲鳴交じりに叫んだ瞬間。
霧の中心から、低く甘い声が響いた。
『……見つけたぞ。黒髪の少年』
血の気配が、キャンプ地を満たしていく。




