第50話【影から伸びる腕】
黒い靄はまだ尽きない。瞳のない異形が、靄から異形へと生まれ変わらされていた。
ユリナは紅紫の瞳を細め、ひとつだけ静かに後ろへ下がる。ユウマとの間に、模倣を許さないだけの距離を置いて。
(……これ以上、私の闇を盗まれるのも癪に障る)
裾が月影を引き、闇が揺らぐ。
「――《アビス・グラフト》」
彼女の影が地を這い、広がり、やがて“無数の腕”へと変じた。黒い掌が一斉に伸び、異形の四肢を掴み、ずるずると影の縁へ引きずり込む。
牙は軋む音を立てるだけで、振り下ろされることはない。暴れる肢体は、闇の掌の重みでぴたりと止まっていた。
「封じるだけにしておいてあげる。どうせ斬り伏せれば、また増えるだけ」
低く言い捨て、ユリナは影の支配を強める。拘束は広域かつ一挙。数十体が、戦場の床に縫いとめられた。
彼女は横目で、距離の向こうに立つ黒髪の少年を射る。
「……さあ、試してごらんなさい。フレイム・ランス“だけ”ではなく、別の魔法も。失敗して増えても、私が全て拘束してあげる」
挑発とも指揮ともつかぬ声音。
ユウマは一瞬だけ息を詰め、握る杖に力を込めた。
……やっぱり、気づいてるか。俺が“模倣”してきたことを。なら、今さら隠しても仕方ないな!
「そこまで言うのなら、遠慮はしない」
炎を撚り、風を巻き上げ、渦の胎動を一点へ集束――。
「《ヴォルカニック・サイクロン》!」
紅蓮の熱風が噛み合い、戦場ごと咆哮する。拘束された異形の群れを丸呑みにし、蒸気爆発が連鎖して白と紅の壁を幾重にも立てた。轟音、熱波、風圧。周囲の岩肌が鳴動し、焦げた匂いが押し寄せる。
爆炎が引き、白煙が裂ける。
残ったのは、焼けただれた床と、光の粒子の雪――黒い靄はひとかけらすら漂っていなかった。群れごと、完全消滅。
やれた。いや、本当に……俺にしかできないのか?
胸の奥に、熱と同時に得体の知れない恐怖が残る。
「……群れ単位で、復活しないだと?」
レイジが低く唸る。
サクラは扇を震わせ、薄緑の瞳を細めた。
「複合魔法で、ここまで“完全”に……。ただ強い、では説明がつきませんわね」
氷杖を支えにしたマユミが、短く息を整えて言葉を置く。
「槍でも、属性でもない……。――条件は“ユウマ・イチノセ自身が魔法を発動すること”。そう考えるのが筋でしょう」
エリカは唇を噛み、けれど瞳は真っ直ぐだった。
「……だったら、私も追いつく。必ず」
ユウマは答えられなかった。
俺自身が条件……? そんな馬鹿な。でも、もしそうなら……俺はいったい何者なんだ?
呼吸を整えながら、次の波に視線を上げる。黒い靄は遠方にまだ渦を巻いているが、近間は一掃された。戦況は確実に切り替わった。
ユリナは影を緩めず、冷ややかにユウマへ視線を戻す。
「勘違いしないことね。私はあなたを認めたわけじゃない。ただ――アカネ先輩が“あなたと共に”と言った。だから手を貸してあげているだけ」
言葉は乾いているが、影の手は次の獲物へ寸分の狂いもなく伸び続ける。拘束と殲滅の分業が、戦場に秩序を戻していく。
サクラが扇を閉じ、風の加護をもう一段階重ねた。
「《テンペスト・ガーディアン》――主役の足取りを、もっと軽やかに」
ユウマの体幹に通る空気が一段しなやかになり、炎の練りが滑らかに整っていく。彼は短く頷き、次の詠唱へ移った。
主役、なんて柄じゃない。けど……もう逃げられない。俺がやらなきゃ、誰も止められないんだ。
レイジは剣を担ぎ直し、吐き捨てる。
「認めはしない。だが――役割は分かった」
マユミは視線だけで異形の流れを追い、次の拘束域と殲滅域を即座に計算していく。
エリカは鎖を練り、いつでも“捕まえる側”として割り込めるように足を運んだ。
その最中、ユリナは誰にも見せない思考を、心のうちに静かに落とす。
(――見間違いではない。最初にダンジョンから溢れ出した瞬間、アカネ先輩も“瞳のない魔物”を光の粒子にした。完全消滅)
(私の視線は通らず、他の槍も駄目。けれど――先輩も、この黒髪も、同じ結果に至る)
(偶然ではない。二人に共通する“何か”がある)
紅紫の瞳が、わずかに細くなる。口にはしない。だが、冷徹な仮説は針のように心に留め置かれた。
影は再び伸び、異形の足首を掴む。炎は渦を描いて、光をこぼす。闇と炎の呼吸は噛み合い、戦場は確実に削られていく。
やがて、洞奥からの靄の流れが弱まった。
ユリナは影をほどきながら、横目でユウマを一瞥する。ユウマは炎を収め、短く頷き返した。
言葉はない。役割だけが整然と交わされる。
――二人の足元に、黒い靄はもう、落ちてこない。




