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『命日』

作者: 小川敦人

『命日』


妻がなくなったのは2月27日、命日には子供たちもそれぞれのところからお墓詣りに来る。

朝から雨が降っていた。窓の外を見ると、庭の梅の花が雨に打たれていた。梅は妻が好きだった。「春の訪れを一番に知らせてくれるから」と言っていたっけ。

私は着替えを済ませ、花屋に寄ってから墓地へ向かう準備をしていた。今年で十五回目の命日。時間が経つのは早いようで遅いようで、妻のいない日々は時に長く、時に短く感じる。

玄関のチャイムが鳴った。

「お父さん、おはよう」

長女の直子だった。地元に住んでいる彼女は、いつも私のことを気にかけてくれる。

「おはよう、早いね」

直子は長靴を脱ぎながら言った。彼女は専業主婦している。妻に似て、まっすぐな性格だ。

妻が亡くなって5年目、仕事ができなくなった。

統合失調症を発症した。最近は症状は落ち着いているが、周期的に襲ってくる症状に苦しんでいる。

「お父さん、朝ごはんは?」

「うん、食べたよ。トーストと目玉焼きと味噌汁」

「また簡単なものばかり。お母さんが聞いたら怒るわよ、味噌汁だけは守っているのね」

直子はそう言って微笑んだ。そうだ、妻は私の食生活をいつも心配していた。「バランスよく食べなさい」と言っていたっけ。

妻は生前どんなに朝が忙しくても「味噌汁だけは作ってね」と何回も言っていた。

「まあ、たまにはいいだろう。それより、暢章から連絡あった?」

「うん、昨日電話があったわ。朝一番の新幹線で来るって」

暢章は長男で、東京で働いている。彼は妻の死後、あまり実家に帰ってこなくなった。理由は分かっている。辛いのだろう。母親との別れが受け入れられないのだ。

「そう。では、暢章が着いてから一緒に行こうか」

「うん、そうしましょう」

暢章が到着したのは10時過ぎだった。彼は少し痩せたように見えた。東京での仕事は忙しいのだろう。

「お父さん、久しぶり」

「おう、元気にしてたか?」

私たちは短く抱擁を交わした。

「直子、ありがとう。いつも父さんのこと見てくれて」

「当たり前じゃない。でも、あなたもたまには帰ってきなさいよ」

直子は兄を軽く肘で突いた。

「そうだな、忙しくて...でも、もっと帰ってくるようにするよ」

暢章は少し申し訳なさそうに言った。彼は真面目だ。責任感が強く、自分に厳しい。それも妻譲りの性格だった。

三人で車に乗り込み、墓地へ向かった。雨は小降りになっていたが、まだ止む気配はなかった。


墓前で手を合わせながら、私は妻のことを思い出していた。

彼女の名前は三津子。私たちは高校で出会い、大学卒業後すぐに結婚した。彼女は何事もはっきりと言う性格で、不正が大嫌いだった。会社の飲み会で遅くなると

「約束の時間を守らないのは不誠実よ」と言われたものだ。しかし、その正直さが私は好きだった。

三津子が体調を崩し始めたのは、55歳になったばかりの時だった。最初は単なる疲れだと思っていた。しかし、検査の結果は残酷だった。大腸がん。ステージ4。

医師から余命宣告を受けた夜のことは、今でも鮮明に覚えている。

「あなたは、大丈夫?」と三津子は聞いた。

「怖いよ。でも、一緒に闘おう」

私は精一杯の勇気を振り絞ってそう答えた。

すると三津子は静かに微笑んだ。

「二人の子供と一人の孫を設けて、神様がもう私の役目が終わったって言ってるのかな。御役目御免かな」

彼女はそう言って、少し照れたように笑った。悲壮感は微塵もなかった。

「だからあなたがしっかりとみんなを守っていくんだよ」

その言葉は、まるで生前のことづけのようだった。


「お父さん、大丈夫?」

直子の声で我に返った。

「ああ、ちょっと考え事をしていたんだ」

「お母さんのこと?」

「うん」暢章が墓石に水をかけながら言った。

「俺、今でも信じられないんだ。母さんがいないって」

「私もよ」直子が応えた。「特に何か困ったことがあると、つい『お母さんだったらどうするだろう』って考えちゃう」

私たちは黙って墓前に立っていた。雨は止み、薄日が差し始めていた。

墓参りの後、私たち三人は家に戻って昼食を取ることにした。直子が用意してくれた弁当だ。

「お母さんの好きだったおにぎりよ」

「梅干し入り?」暢章が尋ねた。

「もちろん。塩加減、お母さん譲りよ」

私たちは食卓を囲み、三津子の思い出話に花を咲かせた。

「覚えてる?お母さんが学校の先生に抗議に行ったこと」暢章が言った。

「ああ、あれは大変だったな」私は思わず笑った。

小学校時代、暢章のクラスで不公平な扱いがあった時、三津子は真っ直ぐに学校へ行き、教師と話し合ったのだ。「子供たちを平等に扱うのは教育者の務めです」と。

「お母さんはいつも正義感が強かったわね」直子が言った。

「そうだな」私は頷いた。「三津子は自分の信念を曲げない人だった」


午後、直子は先に帰った。暢章と私は二人きりになった。

「父さん、一人で大丈夫?」

彼は心配そうに尋ねた。

「もちろんだよ。毎日元気にやってるさ」

「でも...」

「心配しなくていい。それに、直子が時々様子を見に来てくれるし」

暢章は少し考え込んでいた。

「父さん、実は転職を考えているんだ」

「え?役所を辞めるのか?」

「うん。地元に戻ろうかと思って」

私は驚いた。暢章は東京での仕事を誇りにしていたはずだ。

「どうして?」

「母さんが亡くなってから考えるようになったんだ。人生で大事なものは何なのかって」

暢章はゆっくりと言葉を選びながら話した。

「時間はあっという間に過ぎていく。もっと家族と一緒にいたいんだ」

私は息子の肩に手を置いた。

「三津子が聞いたら喜ぶだろうな。でも、自分のやりたいことをしなさい。それが母さんの望みだ」

暢章は微笑んだ。「ありがとう、父さん」

「ただ。なにかに逃げることだけはしないでくれ、お前も知っているように母さんならそう言うと思う」

夕方、暢章は東京へ戻っていった。

家に一人残され、私は居間のソファに腰掛けた。壁には三津子との写真が飾ってある。結婚式の日、子供たちが生まれた日、家族旅行...全ての写真で彼女は笑顔だ。

三津子との闘病生活は約2年間続いた。辛い治療の日々、お互いに苦しんだ。しかし彼女は最後まで前向きだった。「あなたと出会えてよかった」と何度も言ってくれた。

私たちは40数年しか一緒にいられなかった。まだまだ一緒にいたかった。孫の成長を見守りたかっただろう。もっと旅行に行きたかっただろう。

しかし、彼女が残してくれた言葉と思い出は、私の心の中でいつまでも生き続けている。

「だからあなたがしっかりとみんなを守っていくんだよ」

三津子、約束するよ。私はしっかりと子供たちを見守っていく。そして、いつか再会する日まで、元気に生きていくよ。

窓の外を見ると、雨は完全に上がり、夕日が雲間から差し込んでいた。梅の花が美しく輝いている。

まるで三津子が微笑んでいるようだった。

その夜、暢章から電話があった。

「父さん、決めたよ。もう少し頑張るよ」

「そうか、あんまり頑張りすぎるなよ」


ふと、孫の侃汰のことを思い出した。今年16歳、高校1年生になる直子の息子だ。侃汰は三津子が亡くなった時、まだ1歳と数ヶ月だった。

三津子はとても子供好きで、最初の孫である侃汰を特別に可愛がっていた。

「かんちゃん、大きくなったわね」

三津子は病床でも、直子が侃汰を連れてくると目を輝かせていた。亡くなる一週間前、弱った体で病室のベッドに横たわりながら、三津子は私の手を握りしめ、ポツリと言った。

「かんちゃんと別れるのが辛い」

その言葉には、祖母として孫の成長を見届けたいという切なる願いが込められていた。きっと三津子にとって、侃汰との別れは心の悲しみだったのだろう。

彼女が最後まで心配していたのは、自分ではなく残される家族のことだった。特に、まだ幼かった侃汰の将来を見届けられないという無念さがあったに違いない。


翌朝、私はいつもより早く目覚めた。日曜日だったが、なぜか体が軽く感じる。久しぶりにゆっくりと朝食を作ることにした。

三津子がよく作ってくれた和食。焼き魚、お味噌汁、卵焼き、ご飯。

「バランスよく食べなさい」

彼女の声が聞こえるようだった。

食事を終え、花の手入れをすることにした。三津子が大切にしていた花々は、私が引き継いで世話をしている。上手くはないが、できる限りのことをしている。

人生は不思議なものだ。出会いがあれば別れもある。悲しみも喜びも、全てが人生の一部なのだろう。

三津子との40数年は、私の人生の宝物だ。短かったかもしれないが、充実していた。彼女が残してくれた愛と思い出は、これからも私を支えてくれるだろう。

そして、これからも続く日々。子供たちや孫との時間。それも三津子からの贈り物だ。

私は深呼吸した。春の空気が肺いっぱいに広がる。

「三津子、ありがとう」

静かに、しかし心を込めて、私はそうつぶやいた。

命日は過ぎたが、彼女との思い出は永遠に続いていく。

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