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記憶を無くしてしまう彼女と死んでしまう僕

作者: sink

大切な人を大切にできるのなら

 高校の放課後の教室はエモいという雰囲気だけが漂っていた。

 そのエモさは感じながら東山翔とうやまかけるは横に座っている山田志保やまだしほに視線を向ける。

 翔は自分の心を落ち着かせるため、一度心の中で深い深呼吸をする。

 可愛い。うん。可愛い。

 そんなことを感じている翔と違って志保は静かに読書をしていた。太陽の光が志保を照らす。照らされた志保は翔から見て天使みたいに感じてしまう。どうして、感じてしまうのかは明白であった。

 翔は恋をしている。隣に座って読書をしている志保に恋をしているのだ。

 不意に志保は翔の方を見る。それにより、翔は思わず目を逸らす。

 あぶねーバレるところだった。

「ねぇ、さっきから私を見てるけど何か用?」

 志保は至って普通の声で言う。の、だが翔にとっては聞きたくて仕方がない声でもあった。

 緊張のあまり、翔はしどろもどろになりながらもなんとか言葉を紡ぐ。

「いや、その、何の本を読んでいるのかなって……」

 やべー。絶対変な奴だと思われたって。くそ、もう少し頑張ってくれよ。

「へー。本当に?」

「うん。本当……だよ!」

 なんとか出た言葉は怪しさ満開であった。その様子に志保は思わず笑ってしまう。

「今読んでいる本は、これだよ」

 そう言いながら本のタイトルを見せつける。

「愛する人を忘れてしまっても。っていうタイトルだよ?」

 志保は翔に向かって優しい笑みを零しながら言う。

 翔はタイトルなど一切頭に入っていなかった。あるのは、可愛い笑みを溢している志保だけである。

 なんて可愛い笑みなんだ。って、今は違う。ちゃんと話を聞くんだ。

 志保は目を細める。

「話聞いてる?」

「聞いてるよ。それはもちろん」

「ふーん。じゃあさ、さっき言ったタイトル言ってみてよ?」

 意地悪な笑みで志保は翔を見つめる。

「えーと。愛する人を……」

 翔はそこで言葉が止まってしまう。えーと、なんだっけ、確か。

「はい、そこまでー! ちゃんと話聞いてないじゃん?」

「ごめんなさい。ただ、その、笑顔が素敵だなと思って」

 翔は思わず言ってしまう。

 志保は耳を赤く染める。

「初対面の人に、そんなことを言うのは間違っていると思いますけど!?」

 照れているのか声が一音ほど上がっていた。

「そうですよね。僕もそう思います」

「反省してる?」

「してます。めっちゃ、してます」

 2人の姿は高校生をらしさを表す。照れているのを隠すことに必死になっている志保と、初めて志保と喋れたことを喜んでいる翔。

 でも、現実は甘くない。人の人生はいつ崩壊するのかは誰も知りやしない。


 

 志保と話していく中で分かったことがある。志保は見た目から想像できないくらいお喋りだ。ちゃんと相手の目を見て話す人で楽しそうにしてくれる。だから、僕もついつい話してしまう。

 でも、距離を置いているように感じてしまう。志保は自分の個人情報を決して話さない。好きな物や趣味、自分に関することは一切話そうとはしてくれない。ただ、僕が信頼されていないだけかもしれないけど。

 そんことを考えながら翔は廊下を歩く。

 すると、音楽室からピアノの音が聞こえてくる。既に下校時刻になっているため誰も居ないと思っていた翔はピアノの音に驚く。いつもなら、そのまま帰るのだが翔は何故か興味を示してしまった。

 僕はドアの前に立ち、ゆっくりと開ける。隙間から見えてくるのは志保がピアノを弾いている姿だった。

 その姿は天使のようだった。指先がピアノを撫でるように、踊るように綺麗に弾いていて魅かれてしまう。

 なんだろう、いつもと雰囲気が違う。どこか大人で高校生らしさは一切なかった。でも、雰囲気が違っても、翔から見たら相も変わらず天使で可愛いと思ってしまう。

「そこで、除くとはいい度胸ね?」

 ピアノの音が止まり、志保は隙間から覗いている翔に視線を向ける。

 翔はドアを開け。苦笑いを浮かべる。

「覗くつもりはなかったんだけど……ついつい」

「ふーん。言い訳だけは達者ね」

「そんな、言い訳ではないよ? 本当のことだ!」

 若々しい2人の会話は微笑ましく、高校生らしさも漂っている。そして、志保はまた視線をピアノに戻す。

「私はピアノを弾くために生まれてきたの」

 志保は優しくピアノを撫で、小さく呟いた。

「小さいとき、親から言われたの。「あなたはピアノを弾くために産んだからね」その言葉を聞いた時私は小さかったな」

 志保は懺悔するように言う。

 初めて自分のことを話した志保は戸惑いも交えていた。聞きたかった志保の個人的話は想像の斜め上を行っていた。

 翔は見つめることしかできない。どうしても言葉が見つからない、だって分からないんだ。

「でも、小さかった私でもその意味はちゃんと理解したんだと思う。私はピアノは好きだよ? でもね、誰のために弾けばいいのか分からない」

 志保はそっと上を向く。

 悲しそうな顔を浮かべる。

「僕のために弾いてよ」

 翔は志保を見つめながら言う。

 どうして、こんなことを言っているんだろう。ああ、そっか。好きだからか。守りたいと思っているからだ。それに、好きな人にはかっこつけたいんだ。

「ふふ。確かにいいかもね?」

「ほんと?」

「ええ、翔のためにピアノを弾く。うん、そうする」

「応援するよ!」

「頑張ってみるよ」

 志保はそっと視線を翔に向ける。

 そこで、目が合い翔は視線を逸らす。

 僕が支えられるなら支えたい。好きな人が苦しんでいるのなら、守りたい。大丈夫の存在になりたい。

 翔は心で誓う。

 僕は志保を幸せにすると。



 翔は大きなコンサート会場に来ていた。志保から招待状が届いていたのだ。翔は緊張しながら舞台を眺める。志保のちゃんとした演奏を聴くのが初めてであり、招待されたことに喜んでいた。

 僕が本当にここに居てもいいのか。深い深呼吸をする。大丈夫だちゃんとした服装だし。身なりも整っている。

 それに、僕なんかに興味がある人なんていない。

 そんなことを考えていると舞台が照明によって照らされる。

 大きな拍手が会場に響く。

 照らされた舞台に志保の姿が現れる。遠い距離から見ても志保は綺麗であった。白いドレスに身を包み。天才ピアニストを漂わしていた。

 翔は息を呑む。

 すると、志保は観客に向かってお辞儀をする。

 気のせいだよな……今僕に向かってお辞儀をしたのか? いや、気のせいだ。翔は背筋を正し舞台を眺める。

 

 志保はピアノの前に座る。

 

 そこでアナウンスが流れる。

 

「演奏曲・勿忘草 」

 

 アナウンスの声で会場は盛り上がる。

 だが、翔にとっては理解できていないかった。

 そんなに有名に曲なのか?

 ピアノの演奏が流れ始める。志保はピアノを撫でるように演奏をする。

 綺麗な音色が会場を包む。音なのに花の香りが広がっていく。だが、音はどんどん不協和音に変わっていく。どこか行き場のない気持ちのように。私を忘れることは絶対に無理だよと音が言っているように。

 絶対に忘れないで。私だけは忘れたらだめと。音が奏でる。奏でているだけなのにそう聞こえてくる。

 そして、音が転調する。盛り上がるを見せる。

 一つの音は逃げるように、もう一つの音はそれを追いかけるように。段々と音が速くなる。けど、重なることはない。

 そこでふと音が止まる。

 そして数秒程経つとまた、音が走る。そして、演奏が終わる。

 大きな拍手が響く。

 凄い。天才だ。

 いつもの志保からは感じられない何かを感じる。本能的に鳥肌が立つ。

 志保はお辞儀をし舞台袖に歩く。

 取り残された観客たちは余韻に浸る。浸ることしかできなかった。彼女の素晴らしい演奏は世界を包むことができるほどの演奏であった。




 演奏を終えた志保は楽屋で休憩していた。

 楽しい。久しぶりの演奏会は思ったより楽しい。誰かのためにピアノを弾くことはこんなに楽しいことなんだ。

 志保は置いてあるペットボトルのお茶を開け口に運ぶ。

 不意に自分が来ているドレスに目が行く。似合ってないな。

 ピアノを弾くのは楽しいけど、どう頑張ってもこのドレスが似合うくらいの人にはなれない。

 私はピアノは好き……なはず。だって弾いてる時楽しいし、なんせ翔のために弾くピアノはいつもり楽しい。

 そこで、ノック音が響く。

「入るよ? 志保」

 声の主は志保の母親であった。

「うん」

 ドアを開け入ってくる母親は貴族のように気遣っていた。どこを見ても美人で花がある。

 そんな母親を見て志保は思ってしまう。

 やっぱり私は母親みたいにはなれない。所詮私は私だ。誰かになろうと頑張ったとしても絶対に無理だ。

「演奏素晴らしかったよ」

 母親は志保に向かって笑みを零す。

「ありがとう」

「そこでね。海外の演奏会に行きましょう?」

 母親は我が子を想うよに口にする。だが、その言葉は志保にとってストレスでしかなかった。

 ああ。また、母親のおもちゃになるんだ。


 

 志保は演奏会した日から学校に来ることはなくなった。連絡をしたところ一カ月弱で帰ると送信が来ていた。そんな連絡を見ながら翔はため息を吐く。

 志保のいない学校をつまらない。なんていうか、楽しく感じない。きっと、いや、絶対に志いつも志保と話していたからだ。それに、変わってしまった環境に呆れているんだ。

 翔は鞄を持ち今日も学校に向かう。


 数週間経ったある日。

 

 学校についてすぐ違和感を覚える。妙に盛り上がっている生徒たちが多く気になってしまう。

 僕は自分の席につくと、前から新庄陽菜がやってくる。

 陽菜は翔に向かって声を出す。

「ねぇ、志保と付き合ってるってほんとなのかな?」

 陽菜の声が教室に響く。

 どういうこと? 僕が志保と付き合ってる? そんな良い話はあるなら僕だって聞いてみたいよ。

 翔は呆れ半分で口を開く。

「付き合ってないよ」

「本当に?」

「うん。付き合ってないよ」

「でも、写真が出回ってるよ?」

「写真?」

「うん。ほら」

 陽菜は翔に向かってスマホを見せる。

 そこには演奏会が終わった後、志保と会った時の写真であった。写真からでも分かるように親しそうに話してる様子であった。

 なんだ、普通に仲良さそうに喋ってるだけじゃん。

 安心したような顔を浮かべ翔は陽菜に向かって優しく言う。

「ああ。志保の演奏会に行ったんだよ。それで、演奏会が終わった後、帰宅中の志保とばったり会って話しただけだよ」

「本当に?」

「うん。別に嘘つく必要はないと思うけど?」

「いや。そのね、志保って高嶺の花じゃん? だから、気をつけた方がいいよ」

「何に?」

「妬み、恨みに」

「そんな、大事にならないでしょ?」

「翔が思ってるより人はグロいよ」

 そう言うとドアの方から声が聞こえてくる。

「翔君っているかな?」

「なるほどね」

 翔は呟き、ドアの方に向かって歩く。




 人気がない場所に着き。目の前にいる彼女は翔に体を向ける。

「はっきり訊くけど、志保と付き合ってるの?」

「付き合ってないよ」

 そもそも、僕は志保好きなだけだ。だけど、この想いは決してバラしちゃいない。

 この数週間で志保は天才ピアニストの株を上げた。世界中で活躍する天才ピアニストになっていた。何か面白い動画を探しても必ずおすすめに志保の演奏動画が流れてくる。そんな活躍する志保の姿を見ている翔は辛い立場に居た。

 短い期間で遠くの存在になってしまった志保と、何も取り柄がない翔。その差は誰が見ても明白であった。そんなことは翔にも分かっていた。たとえ想ったとしても決して結ばれることはないと。

 だからか、翔の心は変な感情に蝕まれていた。

「そうなのね」

「あのー。まずは名前聞いてもいい?」

「そうね。私の名前は柊奏柊奏(ひいらぎかなで)。よろしく」

 奏は翔に向かって手を伸ばす。その手を翔は優しく握ろうとした瞬間止まる。

 そっと手を元の位置に戻し、視線を奏に向ける。

「えーと。奏さんは志保とは友達なの?」

「友達ね。それも長い長い友達」

 自信満々に志保は言う。その様子から見て嘘をついているようには見えない。

「そうなんだ……」

 翔は視線を空に向ける。雲一つない快晴な空。太陽だけが輝いて存在感を示す。

 この空は志保も眺めているのかな? ふと疑問に思ってしまう。志保もたまには空を眺めたりするのかな。

 志保もたまにはストレスを感じることもあったりするのかな? なんでだろうな、志保と話したい。

 すると、何かを見限った奏は呟いた。

「志保のことが好きで大切なら、諦めてよ。あんたなんかが好きになったら迷惑だから」



 志保は結局一カ月弱で帰っては来なかった。ただ残ったのはやり場のない気持ちだけだった。

 数週間前に言われた言葉が僕の心を侵してくる。

 奏の言った言葉は翔の心を傷つけた。一生に傷を残した。

 翔はまた、今日もいやいや学校に向かう。

 依存しているのかな……好きだと思う気持ちは自由じゃないのか? どうして誰かに責めらないといけないんだ。どうして、僕が悪者みたいになってるんだ。

 あの写真が出回った日から翔は徐々に居場所を失いつつある。だが、何故か友達ができてしまった。

 柊奏。翔を傷つけたのに何故か彼女はいつも翔を心配していた。けど、翔にとってはどうでもいい存在であった。今一番話したい人は志保でしかなかった。



 学校に着いてからはいつもと同じように自分の席に座る。

 すると、いつものように彼女、奏が僕に話しかけてくる。

「翔。元気か?」

「元気だと思うか?」

「そうだね。元気そうには見えない」

「てかさ、何故僕に話しかけてくるの? 理解ができないんだけど」

「理解なんてしなくても大丈夫。ただ、」

 そこで奏は言葉を止める。そして、何か諦めたように顔をする。

「翔。ごめん」

「? どういうこと?」

「志保は海外に行った数週間後倒れたんだ」

「え?」

 言葉が出ない。志保が倒れた? いやいや、そんな話し聞いたことない。そんなの嘘に決まってる。

「本当だよ。後でやり取りを見せるよ。それで、私が何故君にあんなことを言ったかは、志保が帰ってきたストレスのない環境を作りたいと思ったから」

「待ってよ。ちょっと、話しが理解できない。そもそも、志保が倒れたのか確実なの?」

「うん。志保は倒れたんだ。ストレスによって」

「ストレス?」

「ああ。ストレスによって倒れた。だからね、学校ではストレスのない環境にするために、私は君に向かって酷い事を言った。そうすれば君は諦めて志保と話そうとしないと思ったから」

 あまりいい考えではないことは明白であった。だけど、奏にとっては一番有効的な考えだと思っていた。浅はかであった。結局翔を傷つけるだけで終わってしまったのだ。

「そうだったんだ。それなら奏のやったことは許せるよ」

「いやいや、許されることではない。私は傷つけるだけ傷つけた」

「確かに、傷ついたりはしたよ。でも、奏は志保を守るために行動したんでしょ?」

「そうだけど……」

 そこで翔は窓に視線を向ける。

「色々考えたんだ。僕は志保が好きだよ。でも、実ることは絶対にない。いくら頑張ったとしても実りはしない。分かってるよ。でも、諦められないんだ」

 朝日の眩しさで目がやられているのかな。なんでか涙が出てしまう。

 きっと、僕は臆病で逃げることが得意人なんだ。

 翔は、志保の連絡先は知っていた。だけど、連絡することを避けていた。

 怖かった。遠くの存在に行ってしまった志保が換わっていく姿を見るのが怖かった。

 志保に対して誇れるのは、同級生であることだけ。

 ピアノも弾けやしない、勉強も得意じゃない。お金持ちでもない。何も、何も誇れることなんてない。

「翔。放課後時間ある?」

 奏は後悔した目で翔を見つめる。

「あるよ」


 

 「味覚は戻ったかしら?」

 志保は椅子に座ったまま紅茶をすする。

 味のしない紅茶は不味くて、美味しさの欠片はない。ただ、あるのは母親から向けられる嫌な視線。

「戻ったよ」

 倒れた日から味覚を失った。

 医者はストレスだと明言した。その通りだ、私の今感じたことがないほど怒っている。それに、ストレスの影響かは知らないけど毎日に胸が痛む。

「よかった。志保の人生はこれからなんだから頑張らないと。それに、ピアノでストレスを感じたなら止めていいんだよ?」

 母親は優しく言う。

 志保は母親を見つめる。

 お前のせいだよ。なんて言ってしまえば怒られてしまう。私はおもちゃじゃない。立派に生きてる一人の人間だ。それなのに、なんで母親は私をおもちゃのように扱うの? どうして辞めたいと言わないと分かってくれないの? 理解してくれないの? 知ってくれないの? 助けようとしてくれないの? もう疲れたよ。

「学校に行きたい」

 小さな願いは届くことはなかった。





「電話してみない?」

 放課後。教室には奏と翔の姿があった。

「でも、迷惑じゃないかな」

 翔は奏を見つめながら言う。

「きっと、志保は今翔を必要としてるよ?」

 奏は既に気持ちが変わっていた。応援することにした。どうせなら、翔に志保を支えて欲しいと願う。

「分かったけど。でも」

「翔って、意気地なし?」

「違うよ! でも、怖いとは思う」

「ふーん。まぁ、大丈夫だって。さぁ、掛けてみよう」

 そう言うと、奏は志保に電話を掛ける。

 コール音が教室に響く。

「もしもし?」

 久しぶりに聞く志保の声は変わってはいなかった。疲れなんて感じさせない声であった。

「どうしたの? 奏」

「えーとね。志保ごめんね。翔に倒れたこと言ってしまった」

「そうなのね。それで、翔君はそこに居るのかな?」

「もしもし、志保」

「久しぶりにね。翔」

「うん。久しぶり」

「翔。ごめん」

 突然謝る志保に困惑してしまう。

「どういうこと?」

「帰るって言ってるのに、なかなか帰ってこれなくてごめん」

「別に、大丈夫だよ!」

「夏休み明けには学校に来れそう」

「よかった。会って話したいことが沢山あるんだ」

「そう? 私も沢山あるわ」

 電話越しでも分かる。今の志保は楽しそうに話している。

「ねぇ、志保」

 翔は我慢していた想いが溢れてしまう。

「ん?」

「好きだよ」

「何それ? 慰め?」

「うんん。本心かな」

「ちょっと、今から演奏があるんだけど?」

 志保は慌てる声で言う。

「もー。話は日本に帰ってからね?」

「うん。ごめんね。こんな時に」

「別に、迷惑じゃないからいいわ。また、後で」

 志保は逃げるように電話を切る。

 電話を終えた、翔は前に座っている奏を見つめる。

「あんたって、馬鹿なのかしら?」

「どうやら、そうみたい」

 初めて想いを伝えたのに、ちょっとだけ後悔している。絶対に今じゃないし、絶対に言うべきではなかった。けど、これ以上志保が遠くに行ってしまったら、気持ちを伝える機会はないと思ってしまった。

 それに、言いたかった。言ったら楽になれると思ったから。でも、違った。

 緊張で死にそうだ。




 夏休み明け登校すると、教室には数カ月ぶりに登校している志保は居た。

「おはようございます! 翔君」

 志保はニッコリと笑う。向けられた笑みが翔の心臓を撃つ。ぽっくりと開いてしまった穴を埋めるように翔も挨拶を返す。

「おはよう……ございます」

「下手くそ?」

「いやいや、緊張だよ」

「ふーん。緊張ね。私が可愛くなったから?」

「それは、今も昔も変わらないと思うけど?」

「はぁ、マイナスね」

「いや! めっちゃ可愛くなっていると思います!」

「よろしい。許してあげる」

 久しぶりに面と向かって話すがなにも変わってないな。初めて会った時と同じように笑顔で楽しそうに話している。

「あ、そうそう。翔君って私のことが好きなんだよね」

「それは、まぁ、そう」

「ちゃんと言わないと嫌われるよ?」

「分かってる。うん。好きです」

「ほう? それで?」

「だから、僕と付き合ってください」

「はい」

 志保は天使のような笑みを翔に向ける。

 その笑みを見た翔は胸が高鳴る。

 なんて可愛いんだ。

 こうして、翔と志保は付き合う。



 翔と付き合ってからの私は浮かれているな。でも、今なら大丈夫かな。

 私は翔君のことが好きだ。いつしか、好きになっていた。それに、安心してしまう。翔君といる時ストレスを感じないし楽しくて仕方がない。

 それに、私のために頑張ってくれる。そこまで頑張らなくても大丈夫と言ったのに、翔君はそれでもやめないし。さらに頑張ろうとしてくれる。私がストレスの感じさせない環境を頑張って作ってくれる。

 けど、私には秘密がある。

 味覚ないこと、目の視力が薄れていること。睡眠時間が少ないこと。

 あの日から治る気配は一切ない。きっと、味覚は戻らないと思う。それに、目の視力も戻ることはないと思う。

 相談しようと思えば、相談できる。でも、このことを知った翔君はきっと悲しむ。それだけは嫌だ。もうこれ以上、翔君には悲しんで欲しくない。私が居なかった間翔君は居場所を失っていた、このことを知った時、私の胸がざわついた。なんで? と思った。そして、もうこれ以上悲しんで欲しくないとも思った。

 だから、このことは言わないようにしないと。

 志保は自分の部屋のベットに横になりながら、手を天井に向かって伸ばす。

 ピアノを弾くために産まれてきたか。

 私の手はいつの間にこんなに固くなってしまったんだろう。豆ができている手を眺める。決して誰かの手を握ることが許されない手。誰かと幸せになることが許されない手。ピアノしか弾くことができない手。

 正直、分からない。翔君とは付き合っている。それはちゃんと知っているし理解している。でも、いつ終わるか分からない。それだけが怖い。また、いつ海外に行くか分からない。だから、怖い。

 でも、一番怖いのは翔君と離れてしまった時生きて行ける保証がないことだ。

 もうピアノは嫌いだ。私がピアノを弾いてるんじゃない、ピアノが私を弾いている。

 いくらやめようと思っても辞めさしてはくれない。決して、逃げさせようとはしてくれない。

 親はピアノを弾いている私が好きなだけ。決して、決して、素の私を見てはくれない。理想像だけの私だけを見ようとする。

 親ってなんなんなのだろう。






「今日はどこに連れて行ってくれるの?」

 志保は横に居る翔を見つめながら言う。

 翔と志保は細い道を歩く。

「なんと、心が綺麗になる場所に行きます」

 今日はやっと志保と長時間遊べる日だ。絶対に楽しませる。

「そんな所ってあるの?」

「色々調べたんだけど、結構評判が高い場所があるんだよね」

「へー」

 志保はにやにやしながら翔を見つめる。その視線に気付いた翔は「ん?」と声を上げる。

「いや、ちゃんと調べているんだって」

「それは、調べるよ。志保とのデートはちゃんとした場所に行きたいし。時間も大切にしないと」

「流石ね」

「ああ。だから今日は安心してもいいぞ? ちょー楽しいプランだから」

 僕はこの日のために貯金をしていたし、楽しませるために考えてきたんだ。

 それから、2人はバスに乗り目的地に向かって歩む。



「まさかデートで山を登るなんて普通じゃないと思うけど?」

 志保は息を「はぁ、はぁ」と吐きながら登る。

「いや、僕も驚いているよ。ネットでは五分で登れるって書いてあったのに、どうして40分歩いてもゴールが見えてこないんだ」

「私たちが道を間違えてるっていう馬鹿なことをしているわけじゃないよね?」

「うん。絶対に道は合ってると思う。絶対に」

「その、自信がなくなる言い方はやめてちゃうだい」

 志保はなんとか言葉を紡ぐ。一方で翔は焦っていた。

 本当にこの道で合ってるよな。

「翔君。ちょっと手を借りても?」

「え?」

 後ろでは息切れしている志保が翔に向かって手を伸ばしていた。

「いいよ。僕の責任だ」

 そう言い。翔は初めて志保と手を繋ぐ。

 思ったより、志保の手は柔らかった。ピアノをしている人の手は固いと思っていたけど、それは思い過ごしだったな。

「ありがと」

 志保はそっと手を握る。

 そして、数分後やっとゴールがみえてくる。

「ほら、ここから見える景色を一緒に眺めたかったんだ」

 翔は手を繋いだまま、てっぺんから見える景色を眺める。

 そこから、眺めることができる景色は圧巻だった。海が生きていように動き、それを照らすように輝く太陽。全てが完璧で、心が綺麗になる。風がヒューヒューと吹き、2人の髪を揺らす。

 そこで、翔は小さく優しく呟く。

「志保って味覚ないよね?」




「志保って味覚ないよね」

 翔と同じ景色を眺めていた時、翔君は私を見つめながら言う。その目は私の心まで見透かしている目であった。

「うん」

 バレていた。隠せていると思っていたのに翔君にはバレていた。

 いったい、いつからなんなのだろう。どうしてバレてしまったんだろう。どうして私は気付いていることに気付かなかったんだろう。

「そっか」

「いつから、知ってたの?」

 翔は視線を空に向ける。

「付き合って一週間後くらいかな」

「え?」

「ストレスで倒れる前は、甘い物ばかり飲んでいた。でも、帰って来てからは一回も飲んでない。それに、よくコーヒーを飲むようになってたから。違和感を覚えたんだ」

「凄いね」

「そう? 僕はきっと、いつも志保のことばかり思ってたから分かったんだと思うよ」

「それが凄いんだよ。気になるんだけどさ、どうして私が好きなの?」

「急にどんな質問? まぁ、なんていうのかな。一目惚れであるよ。でも、あの日かな」

 そう言い翔は空に視線を向ける。

「音楽室で志保がピアノを弾いていた日、あの日、守りたいと思ってしまった。大丈夫の存在になりたいと思った」

 翔は思い出すように口にする。

 あの日、私が壊れそうになった日、たまたま翔が覗いていた。あの時頼ろうと思ってしまった。なんとなくだけど、助けになってくれると思ってしまった。

 あの日に私を好きになったんだ。

「ふーん」

 照れているのを隠すように志保もまた空に視線を向ける。

「逆にさ、志保はどうして僕を好きになったの?」

「うーん。心の支えになったからかな」

「何それ?」

 翔は笑みを零す。

「ほんとだよ? だって、もし翔君があの日音楽室に居なかったら私は……多分自殺してた」

 翔は目を丸める。

 うん。私はあの日自殺しようと思ってた。私は自分のことが分からなくなった。どうしてピアノをやっているのか、どうして頑張って生きているのか。どうして親の言いなりになっているのか。どうして、退屈な日々を惰性で生きているのか。

 分からなかった。でも、あの日、翔君が言ってくれた一言が私の人生に光を与えてくれた。


 ――僕のために弾いてよ。


 なんでだろうか。この言葉を聞いた時光を感じた。頑張ってみようと思えた。そして、きっと好きなになってしまった。

「自殺をしようと?」

「うん。でもね、翔君があの日声をかけてくれたから私は生きている」

「絶対に自殺なんて、駄目だよ」

「うん。ごめん」

「本当に駄目だよ?」

「うん。絶対にやらないよ。私は翔君のために生きるって決めたし」

「絶対に、僕が守るから」

 翔は照れている様子なんて一切なくただ、まっすぐな声で言う。

 その声を聞いた志保は分かってしまう。

 きっと、翔君が私の運命の人なんだって。





 志保と付き合ってから数カ月が経ったある日。志保と翔は喧嘩をしていた。

 志保の自宅には志保の部屋に翔と志保が居た。

「どうして、私がピアノを辞めようとすることを止めるの?」

「違う。辞めようとするのは止めてない。でも、ピアノを完全に辞めるのは止めてくれ」

 翔は志保の前に座り訴える。

 志保は完全にピアノが嫌いになっていた。限界を迎えた。弾こうとしても決して指が動いてくれない。どう頑張ったとしても動いてくれない。

「それは、翔の理想よ」

「違う。僕はただ単にピアノは趣味でやってほしいんだ」

「趣味も嫌なの。分かってるでしょ? 私がピアノが弾けなくなったことくらい」

「分かってるよ。でも、完全に離れるのは止めてほしい」

「どうして?」

「だって、志保にとってピアノは大切な存在だったはずだ! それを完全に辞めるのは志保にとって絶対に苦しい」

「苦しくなんてない。翔が間違ってる」

 志保はそう言い、立ち上がる。逃げるように部屋を出て行く。取り残された翔は後悔に押しつぶされていた。

 なにしてるんだよ。僕だって知ってるじゃないか。志保がどんな気持ちでピアノを弾いているのか知っているじゃないか。でも、志保は心からピアノを弾いているのは知っている。

 あの演奏会の時、志保は楽しそうにピアノを弾いていた。笑顔で、志保がピアノを弾いていた。ちゃんと見たんだよ。

 志保が心から楽しんでいる姿をこの目に焼き付かれているんだよ。

 翔は立ち上がり、ピアノの前に座る。

 そっと指を置き、慣れない手つきで弾き始める。

 汚い音が部屋に響く。

 あとで謝ろう。音と一緒に気持ちを乗せる。



 翔は何も分かってない。私はピアノなんか嫌いだ。もう限界を迎えたんだ。どうしてもやりたくない。弾いている時怖くなってしまう。期待の目が私を殺してくる。

 親からの期待が気持ち悪く感じてしまう。

 どうしてなの? どうして、翔はピアノを辞めようとしている私を止めるの? なんで、なんでよ。

 志保はぼそぼそと呟きながら階段を下りる。

 逃げるようにトイレに駆け込む。

 翔の馬鹿。

 


 あれから、翔は私に謝ってきた。どうして謝っているのかは明白だった。きっと、罪悪感を覚えたんだろう。

 翔は私を守るために必死になっていた。味覚を戻そうと頑張ってくれた。美味しい料理を作ってくれた。毎日電話をくれるようになってくれた。

 不安を感じている時、翔は私の表情を見限って相談を受けると言ってくれた。

 頑張ろうとしくれている翔に胸が痛くなる。

 そこまで、私のために頑張ってくれているのに私は彼に対して何もできていない。

 私に誇れるのはピアノを弾けることだけだ。

 翔が帰ってから志保ピアノの前に座ったまま考えていた。

 私が翔に出来るとこはいったい何があるんだろう。きっと、楽しそうにピアノを弾いている私をみたいんだ。

 分かっている。翔はピアノを弾いている私が好きなんじゃない。素である私が好きなことくらいは知っている。でも、心のどこかでは思ってしまう。

 翔もピアノを弾いている私が好きなんじゃないかって思ってしまう。

 最低だ。

 翔は私を支えようと頑張ってくれているのに、私は翔を貶すことばかりしている。最低だ。

 志保はそっとピアノに指を置く。

 ダメだ。怖い。あの目が私を睨んでいる。

 落ち着け大丈夫だ。今は誰も見ていない。

 大丈夫――

 ドンと志保はピアノに向かって倒れる。






 志保と喧嘩した翌日。志保は学校に来ていなかった。

 ピアノで海外に行く予定なんてないのにどうしたんだろう? 気になってしまう。空いた席を眺める。

 そこで、聞き覚えの声が聞こえてくる。

「翔」

 声の主は奏であった。

「奏?」

 数カ月ぶりに声をかけてきた奏は慌てている様子であった。

「聞いいてないのか?」

 奏は慌てた様子で言う。

 聞いてない? いったい何を言ってるんだ?

「何を?」

「昨日、志保が病院に運ばれた」

「は?」

 頭が真っ白になる。あの後志保が倒れた? そんなは、はずないだろ。だって、最後に仲直りしたし。それで、帰った。 倒れる様子なんて一切なかったんだぞ?

「それは……ほんと?」

「うん。今日の朝連絡が来ていたんだ。志保から」

「志保から?」

「ああ。志保から」

 なんで、友達の奏には連絡しているのに、僕にはしてないんだ?

「僕のところには連絡きてないよ……」

「そう、みたいだね」

「今日の放課後お見合いに行く予定だから、一緒に行こう」

 奏は優しく言う。

「ああ。うん。教えてくれてありがとう」

 どうして……なんだろう。彼氏であるよな? なんで連絡をくれなかっただろう。もしかして、まだ怒っているのかな。もしかしれ嫌われているのかな。

 分からない。けど、心配だ。





 放課後。学校を出てすぐ近くの大きな病院に来ていた。

 奏と翔は奏の病室の前に立ち。深い深呼吸をする。

「いい? 連絡のことは訊かないでよ?」

「分かってるよ。でも、彼氏であるのに頼ってくれないのはちょっと納得がいっていない」

「それは、心配を掛けたくないと想ったんでしょ?」

「そうだと、いいけど」

「とにかく、今はお見舞いなんだからね?」

 奏は翔の肩を叩き「いくよ」と言い。ドアを開ける。

 そこには、ベットに横になっている志保が居た。いつもと変わらない志保がそこに居た。

 艶のある長い髪が白い毛布に垂れていて。細い顔がこっちを見る。思わず目が合ってしまう。最初の時みたいだなと思ってしまう。

「あ! 奏来てくれたんだ?」

 志保は奏の名前を呼び、嬉しさを声色で伝える。

 そこで、僕たちは病室に足を入れる。

「待って!」

 志保は僕の顔を見つめて叫ぶ。

 志保の叫び声に思わず体が動いてしまう。どうしたんだ? やっぱり昨日のことをまだ怒っているんだな。

「志保。昨日はごめん」

 翔は頭を下げる。

「志保の気持ちをちゃんと考えていなかった。もう、あんな考えはしない。本当にごめん」

 そう言い。深く頭を下げる。

 そして、数秒程してから頭を上げ、志保を見つめる。翔の目に映る志保の姿は困惑しているようだった。

「あの。どちら様?」

 志保は苦笑いを浮かべながら呟く。


 「どちら様?」

 志保は顔を歪めながら言う。

 何言ってるんだよ……冗談でもダメだぞ。そんな酷いことを言うのはよくないぞ?

 頭が真っ白になる。息ができなくなる。考えることができなくなる。

「志保……?」

「ごめんなさい。あなたのことは知らない」

 志保はそう言いながら険しそうな顔をする。

 翔は横に居る奏に視線を向ける。

 奏は固まっていた。誰も状況を掴めることができないでいた。理解できるはずがない。志保は翔を大切に想っていた。一番に考えていた。翔のためにピアノを頑張っていた。その、大切な存在を忘れている志保を理解できる人は誰も居やしない。

「奏? どうかしたの?」

 志保は奏に視線を向けながら言う。

「ちょっと、外で待っとく」

 逃げるように翔は言う。




 そんなのってあり得るのか? 冗談だよな。だって、だって、昨日はちゃんと覚えていた。それに、志保の彼氏なんだぞ? いや、あり得ない。そんなの信じられるか。壁に手を当てながらゆっくり長い廊下を歩く。

 すれ違う人たちは、それぞれお見舞いに来た人たちで、手にはリンゴや飲み物を持っている人も居る。はしゃいでいる子どもや並んで歩いている人や。みんなそれぞれ違う意味をもって病院に来ている。

 だが、翔はそんな考えや思考ができないでいた。

 なんで? なんでなんだ。志保は僕を忘れた? そんな非現実的なことがあってたまるもんか。そんなの、そんなのってないだろ。

 なんとか、歩き。自動販売機の前に置かれているベンチに腰を下ろす。

 落ち着け。きっと目が覚めたばかりで記憶が曖昧なだけなんだ。そうだよ。何を勝手に決めつけているんだ。

 大丈夫。大丈夫だって。だから、止まってくれよ。この胸の騒めきを止まってくれ。

 もう、嫌だよ。これ以上失うのは。





 私はベットに横になっている志保を眺める。

 いつもと変わらない。どこを見ても同じで変わっているとこは本当にない。ない……だよね。

「志保……」

「どうかしたの? 奏」

「私の横に居た、翔っていう人なんだけど、本当に知らないの?」

「知らないよ? そもそも、私は男と友達になるような人じゃないでしょ?」

「まぁ、そうだけど」

 本当に知らないの? だって、あんなに毎日楽しそうに話してたし、この前だって一緒にデートしたって言ってたじゃない。

 まさか、それも、忘れてしまったの? 写真だって、私に笑顔で自慢してたじゃん。毎日が楽しいって言ってたじゃん。

 初めて恋をしてたじゃん。

 奏は志保が楽しそうに話していた会話を思い出す。

 何でよ。忘れちゃ駄目でしょ。絶対に駄目だよ。

「本当に、忘れたの? 覚えていることは何もないの?」

「うん。てか、忘れたっていうか、あんな人と友達な訳ないじゃん。だって、私は男と友達なんて作らないしさ」

「ピアノは覚えてる?」

 志保は何とか言葉を紡ぐ。

「ピアノ? 私はピアノなんか弾かないよ?」

「……え」

 志保は楽しそうに喋る。

「そもそも、私はピアノなんか弾かないし、毎日友達と遊ぶことが大切だからね」

「……」

 なんで、こんなことになっているの? どうして、どうしてよ。

 奏は志保にバレないように顔を下に向け泣き始める。

 なんで、なんでよ。

 志保にとって大切で好きなことだったじゃん。どうしてよ。




「すみません。翔君ですよね?」

 翔がベンチに腰を掛けている時、不意に誰かが声をかける。

 視線を声のする方に向ける。

 声の主は志保の母親であった。

「あ、はい」

「ごめんね。志保の母親の夏美と言います」

 貴族のように気遣っていてどこを見ても花がある。

「ちょっと横を座ってもよろしい?」

「は、はい」

 夏美は翔の横に腰を下ろす。

「急性ストレス障害」

「え?」

 夏美は翔の方をまじまじと見つめる。

「志保に言われた病気名よ」

「は、はぁ」

「ストレスによって、大切な存在を忘れてしまう。という病気みたい」

「ストレス……」

「ええ。ストレスによってね。でね、もし次大きなストレスを感じてしまったら、感覚の低下、視力の低下、記憶力の低下、そして、記憶を完全に失ってしまう」

「…………」

 な、なんだよ、それ。

 沈黙が流れる。

 考えることができない。ストレスでああなってしまった志保。もし、次大きなストレスを感じてしまえば記憶は完全に失ってしまう。

 嫌だ。嫌だ。

 志保が僕のことを完全に忘れてしまうのは嫌だ。たくさんデートだってしたし、沢山話した。ピアノだって一緒にやったりした。

「ねぇ、翔君。あなたを追い込むつもりは一切ないけど、あなたのせいじゃないの?」


目を覚め見慣れた天井を眺める。今日で入院してから2日が経った。私の母親は毎日甘いものを買ってくる。私の顔を窺うようになった。いったいどうして窺うようになったのかは知らない。

 ただ、どこか距離を感じる。

「別に、私は普通じゃない?」

 志保の独り言が漏れる。

 視線を窓に向ける。降っている雪は心まで冷たく冷やしてくる。いくら、毛布を深くかぶったとしても邪魔をしてくる。

 寒いな。

 今年の雪は異常だ。年々雪を降る時期が早くなっている。これもきっと地球温暖化が進んでいるんだろう。でも、どうしてか、今日の降っている雪は綺麗だと思ってしまう。

 いつもは鬱陶しく感じてしまうのに、どうしてなんだろう。

 志保はそっと腕を上げる。

 少し前まで感じていた温もりが手にはまだ残っている。寝ている時の姿勢が悪かったのかな。

 どうでもいいや。

 志保は体を起こし、横に置いてあるスマホ取り眺める。

 いつの間にか初期化されてしまったスマホに悪態をつきながら、奏にメールを送る。

 そして、スマホを元の位置に戻し。毛布を深くかぶる。

 やっぱり冬は嫌いだ。





 僕のせいなのか……

 学校に向かいながら2日前に言われた言葉を思い出す。

 僕が、僕が志保を追い詰めたのか? 僕が志保と絡んだから僕が悪いのか。

 いったい、いつからなんだろう。志保を守るとか大丈夫の存在になると言っていたのに、口だけになってしまったのはいつからなんだろう。

 どうして、志保を一番に考えることができなくなっていたんだ。どうして、常に自分を優位に考えていたんだ。

 馬鹿だ。

 結局一番を志保を追い込んでいたのは僕だ。

 あの日、志保がピアノを辞めたいと言った時、否定しなければ、志保の願いをちゃんと聞いておけば、馬鹿だ。

 僕は馬鹿だ。

 雪が降る。

 今日降っている雪は、そうだな、汚いな。

 きっと、僕の目に映る雪は汚い。だって、僕の心が汚いのだから。口だけの僕に幸せになる権利なんてない。

 そんな権利があるのなら、そんなのは捨ててやる。

 全部、全部、僕の責任なんだ。

 守りたかった。笑っていてほしかった。幸せにさせたかった。

 僕が幸せにすると想っていた。

 でも、もう。止めよう。

 もし、次に大きなストレスを感じてしまったら志保は志保じゃ無くなってしまう。

 大切な思い出が消えてしまう。五感が低下してしまう。

 そんなのは嫌だ。

 それなら、僕が身を引けばいい。

 それだけだ。それだけ、なんだ。



 

 「翔、どうしちゃったの?」

 奏の声が教室に響く。

 奏と翔しかいない教室には太陽の光が差し込む。まるであの日のように。奏が懺悔したあの日のように。

「どうって?」

 翔は奏を見つめながら言う。

 私の目に映る翔は何もかもが違っている。志保と距離を置いているし、最近の翔は様子が変だ。どこか自分を追い込んでいる。それに、笑うことをしなくなった。

 志保が学校に来てからも、翔は志保と絡もうとは一切しない。

「どうって! 今の翔はおかしいよ。なんで志保と話そうとしないの?」

「おかしいか……」

 翔は窓に視線を向ける。

「別に、普通じゃないかな」

「普通じゃない。おかしい。だって、翔は好きなんでしょ? 付き合ってたじゃん」

「好きだよ。もちろん、これから、ずっと好きだよ」

「なら、どうして、どうして歩み寄ろうとしないの? なんで逃げてるの?」

「逃げてなんかいないよ」

「逃げるよ」

「逃げてない!!」

 翔は叫ぶ。弱々しい声で。

「奏も、知ってるだろ? もし、次。志保が大きなストレスを感じたら、志保は志保じゃ無くなってしまう」

「そんなこと、知ってるよ。でも、志保にとって翔は大切な存在だったんだよ? ストレスに感じはずがないよ」

「そんな保証はないだろ」

「保証は、ないよ。でも、大切な存在だったことは確かだよ?」

「それなら、どうして、どうして、僕の存在を忘れたんだよ? どうして、好きだった存在を忘れてるんだよ? 何? ストレスによる記憶障害? 知ってるよ、ストレスでこうなっていることは知ってるよ」

 そこで翔は言葉を止める。

「でも、でも、大切な存在だけ忘れてしまうって。あり得ていいのかよ」

 翔は涙を流す。

 私はなんで考えもしなかっただろう。

 そうだ、そうだった。私と志保の関係を変わってはいない。親友だというポジは何も変わっていない。

 でも、翔と志保の関係は変わっている。それも、一番遠い関係になっている。それは、どれだけ辛いことかは考えても無意味だ。考えるだけに胸が痛くなるし、この痛みをちゃんと知っているのは目の前に居る翔だけだ。

「あの日、志保が倒れる前、志保の家で遊んだんだ」

「その時、志保は僕に相談してきた。ピアノを完全に辞めたいって。でね、僕は……止めたよ。ピアノを完全には止めて欲しくなかった」

「趣味でもいいから続けてほしかった。でもさ、それが原因だっただよ」

「僕が、あの日、あの時、ピアノを辞めるのを止めていなければ、志保は記憶障害になることはなかった。僕の存在を忘れることはなかった」

「だからさ、」

 翔は奏を見つめる。

「全部。僕のせいなんだよ」

 ああ。やっぱり私は馬鹿なんだ。

 こんなに優しくて大切に想っているのに、私は冷たい言葉ばかりをかけていた。本当に馬鹿だ。

「翔のせいじゃないよ。そもそも、志保の親が原因でしょ。ピアノを辞めたいと言っていたのに親は無理やりやらしていた。それが原因だよ」

「そうかもね。でも、引き鉄になったのは僕だよ。この真実は変わりやしない」

「それは……」

「それに、奏だって言ってたじゃん。志保のことが好きなら迷惑だから諦めてって」

「違う。あの時は、環境を作ろうと思ったからあんな酷いことを言ったのよ」

「分かってる。分かってるよ。でもさ、本当に迷惑かけちゃったね」

 翔は歪んだ笑みを零す。

「だから、もう志保とは話さないし関わらない」

「なんでよ。好きならちゃんと向き合わないと」

「もう、いいんだよ」

「駄目。絶対に駄目」

「分からないだろ!! 分かるよ。知ってるよ。ダメだってことくらいは知ってるよ……でも、でも! もういいんだ」

「翔……」

 私はなんて言えばいいのだろうか。どのような慰めをすればいいのか。いくら、言葉をかけても無意味だ。

 それに、過去の私によって翔を追い込んでいる。

 過去の自分を殴りたくなる。なんで、あんな酷いことを言ってしまったんだろう。

 本当に馬鹿だ。一番の馬鹿は私だ。人の気持ちを考えないですぐに行動に移してしまう。

「奏……志保を頼んだ」

 翔はそう言い、鞄を背負い教室を出る。

 止めないと駄目だ。今逃がしてしまえばチャンスはない。

「翔!! 逃げちゃ駄目」

 奏の言葉で翔は止まる。そして、体を奏の方に向ける。

 覚悟の決まって目で私を見つめる。どこか、限界を迎えた目で。

 太陽の光が翔を照らす。まるで、舞台の真ん中に立っている主人公のように、悲劇を気取っている主人公のように。

 そして、ゆっくりと口を呟いた。

「奏……うざいよ?」


 ああ。想ってもないことを言ってしまった。翔は後悔に押しつぶされながら歩く。今の僕は追い込まれている。志保をどうやったら忘れらるか考えることが増えてしまう。逃げる考えばかりが浮かんでしまう。

 本当にこの選択肢は間違っていないのだろうか。この選択に後悔はないのだろうか。

 どうして、僕だけなんだ。

 志保はどうして、僕を忘れてしまったんだ。

 

 急性ストレス障害・大切な存在を忘れてしまう記憶障害。


 こんな想いをしてしまうなら、付き合うべきじゃ――やめよう。こんなバカな考えをするのは駄目だ。いや、でも、もう分からない。

 志保にとって、僕は大切な存在だったていうことは分かる。でも、それなら、忘れないでくれよ。

 大切な存在だったんだろ? それなら、そんな病気に負けないでくれよ。頑張って僕を思い出してくれよ。もっと、もっと、大切な存在を大切にしてくれよ。

 志保――僕は君にとって本当に大切な存在だったのか? 病気に負けてしまうくらいの存在じゃないのか? どうなんだ。教えてくれよ。

 正直話したい。笑っている顔を見たい。一緒にどこかに行きたい。前みたいにピアノを教えてほしい。でも、それはもう無理なんだよ。

 今の志保はピアノを完全に辞め、僕の存在を忘れた。こんな酷い状況を覆すのはできない。

 それに、怖いんだよ。もし、大きなストレスを感じてしまった志保は志保じゃ無くなる。それだけは、避けたい。

 きっと、今の志保にとって僕の存在は怖い存在でストレスを感じやすい存在だ。だから、僕は絡むことはしない。

「ああ。なんでこんなに辛いんだ」

 翔は空に向かって手を伸ばす。

 その時、綺麗な流れ星が眺める。雪が降っている中その流れ星は綺麗で切なさを伴っていて、見ていて泣きそうになってしまう。

「どうか、志保は幸せになれますように」



 翔と志保と奏は同じクラスになった。二年生が始まってすぐの出来事。

「志保さん。僕と付き合ってください」

 その告白は球技大会の休憩時間で行われていた。

 翔は、遠くからその光景を眺める。翔の心は壊れていた。何をしていても後悔という文字だけが頭の中にこびりつき離してはくれない。いくら、違うことを考えても、いくら、楽しいことをしても、離してはくれない。

 お前は幸せになることは許されないと頭の中で何度も叫んでくる。そのことを理解した翔は人を避けるようになった。あの日から奏とも話すことはなくなっていた。

 あったのは、後悔だけだった。

 そして、人だかりを見つめながら考える。

 もし、志保が他の人と付き合った時、僕は諦めることができるのだろうか。今の志保を幸せにしてくれるだろうか。

 僕は何をすればいいのだろうか。僕の罪は許されることはあるのだろうか。

 志保はストレスのない生活を送れるだろうか。女々しい考えばかりが頭を侵してくる。そんなことを考えたって意味なんてないのに。

「私で良ければ」

 志保の声が翔の耳に届く。ああ、うん。それでいいんだ。


 翔はポケットに腕を突っ込み人気の居ない場所に向かって歩く。

 いいんだ。これで、これで。




「私で良ければ」

 今の私は初めて恋をしている。ずっと、男が嫌いだと思っていた。でも、私の目の前に居る――金城聡はそんな考えを壊してくれた。彼は常に優しくて、可愛い笑みを見せてくれる。笑う時に出るえくぼが可愛くてたまらない。ずっと見ていたいと思ってしまう。

「本当に? 本当に?」

「ええ」

「やったー!」

 聡は大きくジャンプする。心から喜んでいるのように。その場に居た人たちは大きな拍手を送る。幸せになってくれよと、最高だな! と想いを乗せながら。

 そんな拍手を聞きながら志保は微笑む。

 ついに私にも彼氏ができたんだ……嬉しい。これから好きだと思う瞬間をあるのだと思うと嬉しくてたまらない。

「これからよろしくお願いします」

 志保は手を聡に伸ばす。

「はい。絶対に幸せにします」

 聡はその手を優しく握る。

 志保は幸せを感じながら強く手を握る。

 ああ。私は世界で一番幸せだ。

 その時、「志保!」と大きな声が聞こえてくる。

 志保は声のする方に視線を向ける。

 声の主は志保の親友の奏であった。

「本当に付き合ってもいいの?」

 奏の声は周りに居る人たちにも聞こえる。周りの生徒たちは目を細めながら奏を見つめる。誰がどう見ても場違いである。幸せな場所を壊しにきたおかしな生徒。

「どういうこと?」

「だから、本当に付き合っても後悔はしないの?」

「ええ。だって、私は聡が好きなんだから」

 言ってしまった言葉に照れてしまう。まさか、私の口から好きなんて言う言葉を聞く日が来るなんて。

「そう」

 奏はどこかに向かって歩く。その背中を見送りながら、不思議に思う。

 奏どうかしたのかな? いつもの奏らしくないな。てっきり喜んでくれると思ったのに。

 でも、今は大丈夫かな。

 だって、私には彼氏ができたんだし。


 人気のない場所に着いた翔は、壁に背中を預けながら座っていた。

 苦しい。息ができない。志保に彼氏ができてしまった。喜んでいた。いつもと違って声色が変わっていた。恋をしている人の顔をしていた。

 駄目だ。キモい事ばかりを考えてしまう。辞めるんだ。止まってくれ。

 でも、無理だ。

 翔は手で顔を覆う。

 全然大丈夫じゃねーよ。何がよかっただよ。何が幸せになってくれだよ。そんなの願ってない。僕が幸せにしたい。でも、もう無理だ。もう完全に無理なんだよ。

 きっと、僕はもういらない存在だ。志保を幸せにするのはあの彼氏だ。志保を笑顔にするのはあの彼氏だ。

 知ってるし分かっている。どうせ、今更泣いても意味なんてないことくらい知っている。でも、でも、泣くことしかできないなら泣いたっていいんじゃないか? 泣くことで少しでも楽になれるならいいんじゃないか?

 翔は頬を辿る涙を拭く。

「うぁぁぁぁ」

 人気のない場所に翔の叫び声が響く。けして、誰も届いてはくれない。

 



 志保と聡は学校で人気なカップルになった。美男美女だとかそんな話をよく聞くようになった。もちろん、そんな話をは翔の耳にを届いている。奏にも。

 そして、翔は音楽室に来ていた。

 既に下校時刻が過ぎていて生徒はすっかり居なくて、静けさが当たり前になった学校。そんな中、翔はピアノ前に座る。

「僕は、好きだった。でも、諦めたんだ」

 翔はぶつぶつと言う。誰も聞いていないのに誰かに託すように言う。

「でね、僕の初恋は志保だったんだよ。いつも、本を読んでいて凜としている姿が綺麗で愛しく思ってしまった。本当に可愛いと思ってしまった」

 そこで翔は泣き始める。

「初めて――」

 それから、数分後。翔は音楽室を出る。




 数カ月後。

 志保と聡はさらに人気なカップルになっていた。

 そんな中、翔と奏は誰も居ない教室に居た。

「本当に、本当にこのままでいいの?」

「うん。今の志保は幸せそうじゃん。だから、いいんだよ」

「翔は、もう好きじゃないの?」

 私は翔の目を見つめる。翔の目は光を失っていた。これまで沢山泣いてきたのが目を見て分かってしまう。それなのに、決して表には出そうとはしない。決して情けない弱さを見せやしない。

「好きだよ……てかさ、この前はごめん。うざいとか言ってしまって」

 翔は奏に向かって深く頭を下げる。

「別に大丈夫だよ。私の方が悪かったし」

「そっか。ありがと」

 翔は少しだけ頬を緩めた。そして、翔は窓に視線を向ける。

「この景色だけは変わらないな」

 何か後悔を含みながら言う。そして、翔は泣き始める。

「今の志保は幸せだ。僕なんかと付き合っていた時より幸せだよ、多分。いや、絶対に」

 震える声で翔は言う。

 なんで、そんなに自分を追い込むの。どうして、救いを見つけようとしないの? どうして、どうして、頼ろうとしないの?

「そんなこと決まってないよ。今からだって遅くない。ちゃんと志保に想いを伝えてよ。頑張ってみてよ。どうして、どうして、そんなに悲劇を演じるの?」

「そうだね。想いを伝えるか……常に考えるよ。今志保を呼び出して想いを伝えたら思い出してくれるかなって。ストレスを感じなくて普通に笑ってくれるかなって」

「でもね……想いを伝えている様子を想像すると、いつも志保が苦しんでいる顔が浮かんでしまうんだ」

 そこで翔は奏を見つめる。

「だから、想いを伝えるのはもうしない。考えるだけ無駄だ。それに、想像でしかないけど、きっと想いを伝えたら志保は苦しむ」

「そんなこと、ないよ」

 奏は翔に慰めの言葉をかける。でも、その慰めを翔は否定する。

「うんん。きっとそうだよ。でね、言っていないことがあったんだけど」

 翔は再び窓に視線を向ける。

「きっと、罰かな。それとも償いかな」

 翔は小さな声で呟いた。

「2年後死ぬんだ」

「え」

 い、今2年後死ぬって、言ったの? あ、あれ、いや、その、なんで?

「冗談だよね?」

「うんん。ちゃんと2年後に死ぬ。医者がそう言ったんだ。あなたの余命はもって2年って」

「どうして、どうして、翔なの。何も悪いことはしてないじゃん」

「したよ。志保を苦しめた」

「違う。それはたまたまだっただけだよ。それに、いつかは、ああなる運命だった。だから、翔は悪いことなんてしてない」

「したんだよ。だから、神様が僕に罰を与えたんだ」

 そこで翔は顔を歪めながら天井を見上げる。

「ちょうど、よかったよ。志保には彼氏ができたし、幸せそうだし。よかった。もう僕にはやり残したことはない」

「駄目だよ。絶対に駄目だよ。そんな考え駄目だよ」

 私は滲む視界でなんとか翔を見つめる。

 絶対に駄目。駄目。駄目。翔は絶対に死んじゃダメ。だって、志保を幸せにするのは絶対に翔だから。

「無理だよ。もう確定してるからさ」

 翔は優しく言う。

 なんでよ。なんで翔は死ぬの? 死ぬなら私じゃない。翔を傷つけて、志保を守ることができなかった私じゃない。人の気持ちを考えないで行動する私の方が死んだ方がいい。絶対にその方がいい。

 だから、お願い。私が代わりに死ぬからどうか、どうか、翔を助けてください。お願いしますどうか。どうか。



  別に死ぬことなんて怖くない。だって、思い残すことはないし。後悔も……ない。そもそも、これは罰だ。僕が志保を傷つけた罰なんだよ。だから、死ぬのは当然の報いだ。

 翔はすっかり暗くなった道を歩く。

 すっかり雪は降っていなくて、桜風だけが舞っている。鼻を突くような匂いも舞っていて、春の季節を感じる。でも、もうすぐに夏がやってくる。

 夏祭り行ってみたかったな。

 去年の夏は確か、志保は海外に居たな。思えばあの時から志保はストレスを感じていたんだな。それなのに、僕は気付きもしなかったな。志保の株が上がっていくことに焦りを感じていたな。てか、当時の僕って頼りになってないな。助けるとか口だけで、決して行動に移そうとはしなかったな。

 きも。

 本当に僕は口だけだ。いつだって行動をしない。逃げる人生で、困ったら泣いて。思っていることを口にしないで。泣くことで助けを求めて。手をさし伸ばしているのを見て見ぬふりして。

 こんな自分が嫌いだ。志保の幸せを願っているって言ってるのに、心のどこかでは淡い期待をして。ありもしないことを想像して。笑っている志保を想像して。過去のことを思い出して。

 そして、願ってばかりだ。

「もう一度付き合いたい」

 不意に漏れてしまう。

「って、もう無理か」

 僕は死ぬ。死ぬんだ。そっか、死ぬんだな。ああ、怖くなってきちゃった。ずっと、傍で見たかったな。成長する姿を見たかったな。笑っている姿を見たかったな。手を繋ぎたかった。もっと、温もりを感じていたかった。笑わしたかった。そして、一緒にピアノを弾きたかった。

 志保の隣に居たかった。支えたかった。守りたかった。大丈夫の存在になりたかった。

 分かってるさ、こんな考えをしていることは気持ち悪いってことくらし分かってるよ。でも、もう、時間がないなら、してもいいんじゃないかな? だってさ、どうせ罪は償うからさ。







 夏休み明け。志保と聡が喧嘩をしている噂が流れた。

「志保と聡けんかしたらしいよ?」

「分かる~」

 目の前に座っている、女子たちは騒がしく楽しそうに話す。

 翔はそんな女子たちを遠目で見つめる。

 大丈夫なのだろうか。志保はストレスを感じていないのだろうか。心配になってしまう。どうせ僕にできることなんてないのに。心配したって力になれやしないのに。

 翔は鞄からスマホを取り出し、奏にメールを送る。

 すぐに既読が付き返ってくる。

(翔)「志保と聡の喧嘩は本当なの?」

(奏)「うん。ほんとうぽいよ」

(翔)「今は志保と一緒?」

(奏)「それがね、今志保と一緒に公園にいるんだ」

(翔)「公園?」

(奏)「そう。ずっと泣いているんだ」

(翔)「え? 待って、その、泣いてるの?」

(奏)「うん。あのね、翔。来てほしい」

 

 僕が行っても意味なんてない。だって、無意味だろ。それに、嫌な想いをするはずだ。

 でも、志保は泣いている。それなら、助けるべきだろ。でも、でも、僕なんかが慰めることができるのか? 僕が、僕なんかが。

 いや、悩んでいる暇はない。

 今だけだ。今だけ志保を助けよう。きっと、彼氏と喧嘩したことを後悔しているんだ。それで、男の気持ちを知りたいんだ。

 何も期待するな。キモいぞ。そんな期待ばかりしているのはキモい。

 翔は鞄を持ち教室を出る。



 歩いて数分。学校から近くの公園には泣いている志保と志保の背中をさすっている奏が居た。

 翔はゆっくりと、ベンチに座っている志保たちに歩み寄る。

「ごめんね」

 奏は志保の背中をさすりながら言う。

「別に大丈夫」

 志保の泣いている姿を直視できない。見ているだけで泣きそうになってしまう。志保の吐息が公園を包む。

「それで、どうすればいいかな」

 翔は奏を見つめながら言う。

 来たのはいいが、僕に出来ることはあるのだろうか。

「志保がね。男の人に相談がしたいって」

「男の人に?」

「うん。男の方から意見を訊きたいみたい」

「なるほど」

 そこでやっと、泣いている志保を直視する。何も思うな。落ち着くんだ。僕にできることは相談に乗ることだ。

「はぁ、はぁ。あ、のね。男の人って……」

 そこで言葉を止め、志保は呼吸をする。

「浮気をするものなの?」

 は、は? 志保の言葉から出たのは想像の斜め上の発言だった。う、浮気? もし、もしもだ、志保の彼氏が浮気をしていたのなら、

「彼氏が聡が。浮気してたんだ……」

 志保はまた呼吸を乱す。死んでしまうんじゃないかって心配になってしまうくらい。

「そ、それは。その、ほ、本当……なのか?」

 翔は泣いている志保を見つめる。手に力を込めながら。

「うん。昨日、聡が違う人と手を繋いでる所を」

 ああ。なんでなんだよ。どうして、どうして、なんだよ。

 そして、翔は学校に向かって走り出す。

 クソ、クソ。

 許さない。許すもんか。

 僕がそんなクソ野郎をぶん殴ってやる。



「てかさ、お前喧嘩したって本当なのか?」

「ああ。本当だよ」

 翔と同じクラスの聡は多くの生徒の囲まれていた。人気なカップルの喧嘩話をすぐに広がっていた。そして、何より高校生はゴシップが好きであるため、多くの生徒が聡の様子を見に来ていたのだ。

 だが、そんな多くの生徒が集まっている中、翔は多くの生徒の間を歩く。

 そして、翔は聡の前に立ち。

 勢いよく腕を上げ、聡の顔面を殴る。

 勢いよく殴られた聡は椅子から落ち、しりもちを着く。

 翔は聡の胸倉を掴む。

「なんで、なんで、浮気なんかしたんだよ? なんで、なんで」

「はぁ? 浮気なんてしてねーよ。そもそも、お前は誰だよ? いきなり殴るなんてよ」

「そんなことはどうでもいい。なんで、なんで、浮気したんだよ?」

「だから、してないって。そもそも、麻衣以外付き合って――」

 そこで、自白するように別の女子の名前を出す。

 翔はそれを見逃さなかった。

「いいか。2度と志保に近寄るなよ? 次は許さない」

 そう言い終えると、ベストタイミングなのか、先生たちが教室に入ってくる。

「なにしてる? お、お前。こっちに来なさい」

 先生は翔の肩を掴む。

 もう一人の先生はしりもちを着いている聡に手をやり、聡は立がる。

「二人とも生徒指導室に来なさい」

 怖そうな先生はそう言うと、2人は階段を下りて行く。





 なんで、なんで幸せにしてくれると思っていた人がクズだったんだよ。どうして、悲しませるようなことをする人と付き合ったんだよ。

 翔は1カ月の停学処分となった。そして、肝心な聡と志保は別れた。

 その話は直ぐに広がった。聡が浮気をしていたことも広がり聡は転校した。そして、志保はいつもみたいに元気になった。志保にとって彼氏を失ったことは悲しいことでもあった。でも、友達が居るから無事に乗り越えることができていた。

 そして、孤独なった翔は追い込まれていた。

 もう、僕の余命は少ない。志保を幸せにできやしない。もう、僕にできることは完全にない。

 だから、僕は願うことしかできない。

 必ず幸せになってほしい。と、願うことしかできない。



 翔は聡を殴ったと知った時私は驚いた。どうして、志保のためにそこまでやったのか不思議でしかなかった。志保を守るためにそこまでやれることに驚いてしまった。でも、肝心な志保は馬鹿だ。

 志保のために頑張った翔を貶した。

 ――やっぱり男の人は怖いな。

 と、自信満々に言った。その時、志保の変化に気付いてしまった。志保の性格は変わった。

 誰にでも優しかった志保は人を選ぶようになった。誰かを下に見るようになった。気のせいだと思いたい。でも、志保は確実に変わっている。

 思春期から来る心の変化なのかは分からないでも、これだけは分かる。

 きっと、翔を忘れる前までの志保が一番幸せだったということは分かる。

 でも、もう時間がない。

 どうにかしないと、今の志保は幸せの道を辿ることなんて無理だ。不幸になる未来しかみえない。決して馬鹿にしているわけではない、今の志保からは幸せを与えてくれる人はどこにもいない。

 だから、なんとかしないといけない。

 そして、私は知っている。やっぱり、志保を幸せにできるのは翔だけだ。



 翔は学校に来ることはなかった。奏は翔が座っていた場所に目を向ける。

 停学処分が明けても翔は学校に来ていない。それに、もう2カ月は来ていない。

 少しだけ、胸が痛む。大丈夫、翔は死ぬ人間じゃない。人を幸せにする人だ。だから、大丈夫。大丈夫なんだ。

 お願い。翔。私の目の前に現れて。話したいことがあるの。

 雄一志保が翔を思い出す方法が分かったの。だから、翔が来たら教えるから。お願い。お願い。

 それに、まだ死んじゃダメでしょ。だって、だって、まだ翔、あなたは言ってないじゃない。ちゃんと自分の想いを言っていないじゃない。だから、絶対に生きないと許さない。

 そこで、悲しそうな顔をした先生が教室に入ってくる。

 ねー。だめ、そんな悲しそうな顔をしないでよ先生。どうか、違って。どうか、お願いします。

「お前ら、席に着け」

 怒っているのか悲しんでいるのか先生は小さく言う。

 そして、先生は生徒たちの顔を眺める。すると、先生は目元を緩める。

「昨日。東山翔が亡くなった」

 ああ。駄目。駄目。絶対に駄目。そんな言葉なんて聞きたくない。

 嘘じゃん。嘘じゃん。何が2年よ。1年も持ってないじゃん。なんで、なんでよ。なんで、死ぬのよ。なんで。

 教室には悲しい雰囲気が流れる。けど、誰も心から悲しんでいる様子はない。みんな偽りの悲しみを気取っている。誰も心から悲しんでない。

 雄一心から悲しんでいるのは奏だけだった。

 奏は手で顔を覆う。

 なんでよ。なんで、死んじゃうのよ。翔の人生はまだあったじゃん。なんで後悔を残して死ぬのよ。まだ、志保を幸せにしてないじゃん。どうするのよ、志保は全てを思い出したら。どうやって責任を取るのよ。どうやって、志保を幸せにするのよ。

「奏、泣いてるの?」

 すると、横にいる志保が奏に小さく声をかける。

「はぁ、っ! 泣いてない」

 泣くの隠すようにゆっくりと言う。

 すると、志保は声色を変える。

「そうだよね。悲しいけど、泣くほど思い出もないよね」

 志保の言葉に奏の心が弾けてしまう。

 駄目だ。もう、無理だ。

「黙ってよ。志保、なんで、なんでかな。思い出しなさいよ。忘れちゃ駄目でしょ? 大切だったじゃん」

「何言ってるの? 奏?」

 志保は戸惑いながら奏を見つめる。

「もう、嫌い。みんな嫌い」

 そう言いながら奏は教室を出る。

 大っ嫌い、みんな大っ嫌い。どうして、誰も偽りの悲しみを演じるの。

 どうして、志保はあんなことを言えるの。どうして、思い出そうと努力をしないの。どうして、どうして、どうしてよ。こんなのってあんまりだよ。

 翔は誰よりも志保の幸せを願ったんだよ? 一番に考えて。好きだという想いを言わないで我慢したんだよ? 死ぬことが分かっていて過ごしたんだよ? 自分のことを後回しにして志保を常に考えていたんだよ? なんで、なんで、誰も翔を救ってくれないの? なんで、困っている人を助けようとしないの? どうして、どうしてよ。

 奏は泣きながら屋上に向かう。

 もう、疲れたよ。




 屋上に着いた奏は座り込む。

 何度も翔にメールを送る。お願い、お願い、返事してよ。連絡を返してきてよ。

 耐えられないよ。私だけじゃ、志保を幸せにすることは無理だよ。私は自分の考えでしか行動できない馬鹿なんだよ? 絶対に無理だよ。

 すると、通知音が響く。

 それは、翔からのメールだった。

 二本のファイルが送られていた。



 この動画は志保へ。




 この動画は奏へ。



 私は息を呑む。そして、動画を開く。




 翔の部屋なのか、うす暗い部屋に翔は居た。

 スマホの真ん中に翔は座っていた。

「えーと。なんていうか。恥ずかしいな。でも、動画だから、動画のテンションで行こうかな」

 そう言うと翔は笑みを零す。

「まず。ごめんなさい。僕は二年だと言ったけど、本当はいつ死んでもおかしくない状況でした。なので、この動画は予約で送っています。もし、まだ僕が生きているなそっと消してほしいです」

「それですね。ありがとう」

「僕の初めての味方になってくれてありがとう。心配してくれてありがとう。でも、手をさし伸ばしてくれたのに、否定してごめん」

 翔は深いお辞儀をする。

 顔を上げ、カメラを見つめる。

「本当は頼りたかった。でも、いつ死ぬか分からなくて頼ることができなかった。ごめん。でも、本当に嬉しかった。僕を助けようとしてくれて本当に嬉しかった。これだけは本当だ」

 そこで、翔は頭を掻く。

「いつも、逃げるように言い訳をしてた。志保が悲しむとか、志保は泣くとか、そんなダサい言い訳を並べて逃げてた。でも、想いも伝えたかった。けど、それはできない」

「想いを伝えたとして、もし成功したとしても、いつ死ぬか分からない僕が付き合えるなんてできるはずがないんだ」

 ……そうだったんだ。そうだったから、いつも想いを伝えようとしなかったんだ。奏は泣きながら動画を見る。

「だから、僕は想いを伝えなかった。本当は付き合いたかった。大好きだと言いたかった」

 ……分かってるよ。それくらいは知ってるよ。

「まぁ、もう遅いから。後悔はない……っていうのは嘘かな。後悔しかないよ」

 ……生きてよ。生きて頑張ってよ。

「とにかく、まだ言いたいことは沢山あるんだ。ねぇ、奏。君が今罪悪感を芽生えているなら、そんな辛い想いはしなくても大丈夫だ」

 ……無理だよ。全部私が悪いんだよ。死ぬなら私だよ。

「確かにさ、初めて会った時は驚いたよ。迷惑だからやめて。って言われた時は本当にびっくりしたよ」

 ……ごめん。ごめん。ごめん。

「でも、時間が経つにつれ君が僕に優しくしていた。その時気付いたよ。君は、奏は優しい人だって」

 ……私はそんな人じゃない。私は人の心を考えない馬鹿なんだよ。

 「だから、僕は怒ってない。なんせ、奏は優しいから。それにさ、志保のことを想っているからあんなことを言ったんだと思う。友達を想うのはいいことで大切なことだ」

 ……違う。違うよ。

「だから、罪悪感なんて芽生える必要はない。ただ、もしそれで罪悪感があるなら一つだけ頼みごとがある」

「志保を支えてくれ」

 ……ずるいよ。翔、君が支えるべきだったんだよ。私が、私なんかが無理だよ。

 「って言ったら、奏はきっと自分を貶すと思う。でも、安心してほしい。奏、君は強い人だ。誰かを守ることに躊躇しない、それに」

 そこで翔は咳をする。

 ……ああ。駄目。駄目。死なないで。

 「ごめん。今日はちょと体調が悪くて。それで、その、奏はきっと……なんて言おうとしたんだっけ」

「そうだ。そう、奏は優しいよ。誰がなんと言えど奏は世界で一番優しい人だよ」

 ……違う。違う。違う。私はそんな人じゃない。

「だから、自分に自信を持つんだ。僕が言えたことじゃないのは分かってる。奏、自分を追い込み過ぎないでくれ。たまに怒る奏は僕からして天使ように感じしまう時もあったよ。話してみたくなってしまう時もあったよ」

 ……そんなこと、言わないでよ。私はそんなじゃないよ。

 「だから、なんていうのかな。自分に自信を持つんだ。自分を大切にしてくれる人は自分だけだ。だから、自分を貶すことはやめてくれ」

 ……分かったから。頑張るから。お願いだよ。私の目の前に現れてよ。

 「それで、最後に。多分、僕は死んでいる。だから学校に来ることはないと思う」

 そこで翔は泣き始める。

「本当は……奏をもっと知りたかった。いつも喧嘩をして、奏のことをちゃんと知る機会がなかった。もっと好きな食べ物や、趣味とか、いろんなことを話したかった。好きな物を共有してみたかった」

 ……私もだよ。もっと、知りたいよ。もっと話したいよ。だから、だから、お願いだよ。

 「何より、友達になりたかった」

 ……親友だよ。もう、親友だよ。だから、お願いだよ。学校に来てよ。また、憂鬱そうな顔を見せてよ。

「こんなことを言ってごめん。でも、もう時間がないからさ。許してほしい」

「最後にお願いがある。志保に動画を送ってほしい。志保は壊れそうになったとき、どうか、志保に動画を送ってほしい」

 ……やるよ。送るよ。

「最後に、奏。僕を助けようとしてくれてありがとう。そして、ごめん。こんな最後でごめん」

 そこで動画は終わる。

 バカバカ。翔の馬鹿。こんな最後じゃ認められないよ。学校に来て私を怒ってよ。バカな私を怒ってよ。

 奏はただ泣き続ける。泣くことで何かが変わると思って。誰かが救ってれると思って。



 「志保」

 奏の声が私の耳に届く。

 私は奏の方に視線を向ける。

 雪が降り始めて外が暗くなっている放課後の教室には奏と志保は居た。

 奏は考えた。いつ、動画を見せるべきか。いつ、伝えるべきか。それで今日だと考えた。

 今日は志保が翔のことを忘れた日。ちょうど、今日と同じように雪が降っていた日。

「志保。翔のこと覚えている?」

 奏は志保を見つめながら言う。

「確か、亡くなった人だよね?」

 志保は戸惑いながら奏を見つめる。

「そう。でね、志保の彼氏だった人」

「わ、私の彼氏?」

 分からない。私に彼氏がいたの? そんな記憶はない。あるのは、あのクズだった聡だけの記憶だ。でも、志保は嘘ついているようには見えない。

「そう。志保の彼氏」

 奏はそこで窓を見つめる。

「志保にとって大切な人だったよ。それに、私にとっても」

「そうなんだ」

 どうしてだろうか。何故か焦りを感じてしまう。記憶にない思い出が心の中で踊ってしまう。

「これ、翔からの動画」

 そう言うと奏は志保にスマホを渡す。

「私、外で待っとくから」

「え、あ、うん」

 奏は教室を出て、ドアを閉める。

 これを見るってことだよね。

 恐る恐る志保は動画を開く。



 ピアノの前に座る翔が現れる。音楽室? かな。

 翔はスマホを見つめながら深呼吸をしていた。

「えーと。志保の彼氏の翔です」

 ……やっぱり、私の彼氏なのかな?

「きっと、困惑してると思うし。怖いと思う。でも、どうか、どうか最後まで見てほしい。その、まずは僕のピアノを聴いてほしいんだ」

 すると、翔は背中を向け。ピアノを弾き始める。

 ……この、演奏。あれ、なんでだろう。知っている。

 ピアノの音が教室に響く。

 一つの音は逃げるように、もう一つの音はその音を追いかけるように。やがれ、不協和音になる。不快な音で、まるで、忘れちゃ駄目と言っているような音色だ。

 あ、ああ。

 思い出していく。私が弾いた曲だ。そうだ、そうだ、私がこの曲を弾いたんだ。

 滲む視界でなんとかスマホを見つめる。

 そうだ、そうだった。私がこの曲を弾いたんだ。でも、思い出せない。翔君。君は本当に私の彼氏だったの?

 弾き終えた翔はまたスマホに体を向ける。

「へへ。どうかな? 結構練習したんだ。いつか、もっと綺麗な音で志保に聴いてほしいと思っているよ」

 そこで、一度画面が暗くなる。

 数秒後画面が付く。

「今日も、また、練習の成果を見せてもいいかな? って、答えは聞けないけど」

 すると、翔はまたピアノを弾き始める。

 だんだんと思い出していく。ピアノを弾いた日。私は誰かと合っていた。演奏を終えた後私は誰かに。そうだ、そうだ翔君と会っていたんだ。たまたま、翔君と会っていたんだ。

 思い出した。あの日、帰宅中にたまたま、会ったんだ。

 あの日の記憶が鮮明になっていく。

 また、画面が暗くる。

「今日で、一カ月が経った。もうピアノは完璧になりつつあるよ。それと、もう2年生になってしまう。その前までには完璧に引けるように頑張りたい。じゃあ、今日も弾くよ」

 すると、同じ人が弾いていると思えに程音が変わっている。

 綺麗で、切なくて、泣いてしまいそうな音だ。

 私のために弾いてくれていると思ってしまう。あ、あぁ、そうだ、そうだったんだ。

 私は、私は翔君のためにピアノを弾ていたんだ。

 あの日、お辞儀をしたとき。翔君に向けてお辞儀をしたんだ。

 初めて誰かのために弾いていると思ったから翔君にお礼を込めてお辞儀したんだ。そうだった、そうだったんだよ。

「どうかな? 思い出しかな?」

 翔はそっとスマホに体を向ける。

「きっと、思い出すと願っているよ。でね、ここから話したいことがあるんだ。きっと、志保を辛くさせると思う。だから、辛いと思った時動画を止めてほしい」

 ……すべて思い出した。思い出したよ。私の大切な彼氏。思い出したよ。

 志保は動画を再生する。

 音楽室じゃなくて、暗い部屋に翔は真ん中に座っていた。

「まず、僕は死んでいる。きっと、この動画を見ている時は死んでいるよ」

 ……あり得ない。だって、だって、やっと思い出したんだよ? そんなのってない……よね

 思い出した志保は慌てていた。

 やっと思い出した志保にとってありえない状況の連続であった。

「思い出したばかりに、こんなことを言うのは本当に悪いと思っているよ。だけど、許してほしい」

 ……許すから。私の手を取ってよ。私の目の前に来てよ。

「そうだな。まずは、思い出を語ってもいいかな」

 ……うん。いいよ。

「まず、志保と最初に話した日を覚えているかな?」

 ……もちろんだよ。読書をしている私をチラチラ見ていたことをちゃんと知ってるよ。

「その日、初めて喋れて心から嬉しかった。やっと、好きな人と話せたことが世界で一番嬉しかった。生きてる意味があったんだなと思ってしまった」

……私もだよ。私も話せて嬉しかったよ。

「でね、数週間後。志保が音楽室に居たとき、僕は驚いた。まさか、ピアノが弾けるなんて」

 ……私は天才ピアニストだったよ。うん。しっかり覚えてるよ。

「その時、志保は誰にために弾いているか分からないと言ったよね?」

 ……うん。言った。

「それで、僕は好きだったからかっこつけたよ。僕のために弾いてって言ったよ。くさいセリフだけど、言えたことを誇りに思ってる。それに、その言葉を聞いた時志保は喜んでいた。その様子をみて守りたいと思ってしまった」

 ……ありがとう。翔が居たからピアノが引けていたよ。

「そして、ピアノの演奏会の招待を貰った時、喜び過ぎて大変だったよ。本当に嬉しくて。泣いたしさ。それで、志保がピアノを弾いている姿を見たとき、心が綺麗になった。それに、美しいと思ったよ。白いドレがとても似合っていて。花があった」

 ……違うよ。あのドレスは似合っていない。私なんかが着ていいドレスじゃない。

 「きっと、志保は今否定しているよね? 分かるよ。志保のことだからきっと否定している。でも、僕は心から綺麗で似合っていると思ったんだよ」

「だから、自分に自信を持ってほしい。これはお願いだ」

 ……分かったよ。分かった。

「それから……志保が海外に行ったとき、僕は心が壊れそうになったんだ」

 ……どうして?

「好きな人が遠距離に居ることを感じてしまうと泣きそうになったし、それに」

 翔は天井に視線を向ける。

「志保の評価が上がっていく一方で、僕は平凡になる一方だった。それが、なんていうのかな、凄く怖く感じてしまったんだ。志保に対して誇れることが1個も無くて、それに比べて、志保は沢山誇れることがある。それが、ものすごく怖くなってしまった。僕なんかじゃ志保と話しちゃ駄目だって思ってしまった」

 ……そんなのいらないよ。翔は優しい。それだけで、十分だよ。

 「でね、僕が告白まがいのことをしたのを覚えているかな?」

 ……もちろんよ。演奏する数分前に出来事で慌てたんだから。

「その時、言ってしまった後。後悔が大きかったんだ。なんで、言ってしまっただろうと。ずっと、ずっと、後悔していた。でも言ってよかったよ。なんせ、志保と付き合えたんだしさ」

 ……そうね。嬉しかったよ。初めて想いを伝えられて嬉しかったよ。

「それでね、志保と山を登ったデート覚えているかな?」

 ……もちろんよ。慌てている翔が面白くて楽しかったのを鮮明に覚えているよ。それに、初めて手を繋いだことも覚えてる。

「あの時は、その、ごめん。まさか、あんなに時間が掛かるなんて思っていなかった。でも登って良かったと思っている。志保と手を繋げたし、志保の思ってたことを来たから」

 ……ええ。あの時、私も話せてよかった。

「確か、志保は音楽室に居たとき、自殺を考えていたんだよね?」

 ……ええ。そうよ。

「まさか、自殺をしようとしていたなんて思いもしなかったよ。でね、僕は必死に止めたよ」

 ……うん。ちゃんと覚えているよ。初めて叱ってくれた。しっかり、覚えているよ。もう、そんな考えは絶対にしない。

「実はさ、僕は一回だけ自殺未遂をしたんだ」

 ……え? どういうことなの。

「昔、両親が自殺したんだ」

 そこで、翔はスマホを真っすぐ見つめる。

「それで、僕も両親を追うように自殺を行った。でも、怖くて途中でやめたんだ。けど、一番怖いのは親が居なくなった環境だった。何をする時でも僕だけで、年を越すときだって僕一人で、誕生日だってずっと一人で過ごした」

 ……そう、だったんだ。ごめんなさい。また辛い想いをさせてごめんなさい。

「だから、かな。志保が自殺したいと言った時、僕は怒ってしまった。それに、これ以上失いたくはなかったんだ」

 ……ごめんなさい。

「でね、喧嘩した日。あの時は本当にごめん。僕が、僕のせいで志保が苦しんでしまった。守るとか言っているくせに傷つけてしまった」

 ……もう、許してるよ。とっくに許してるよ。それに、翔の言っていることは理解しているよ。だから、大丈夫だよ。そんなに謝らなくて大丈夫だよ。大丈夫だから。

「本当にごめん。志保を傷つけてしまったことが一番許せないんだ。ずっと、後悔している。ずっと、謝りたいと思っている。本当に、本当にごめん」

 ……分かったから。大丈夫だから。もう、謝らなくていいから。

「でね、志保が僕を忘れた日。あの時、僕は死にたいと思ってしまった。僕のせいで志保がああなってしまった。僕のせいで志保が傷ついた。僕のせいで志保は記憶を失った」

 ……違うよ。翔、あなたのせいじゃない。私が我慢していたから悪いんだよ。ちゃんと言っておけば、あんなことにならずには済んだの。私のせいだの、だから、お願いだよ。そんなに辛そうな顔をしないでよ。

「僕のせいだと思った。だから、志保が僕を忘れたときから僕は志保と関わらないようにしていた。でも……関わりたかった。もっと話したかった」

 ……私もよ。私も、もっと話したいよ。もっと、いろんな所に行きたかったよ。もっと、もっと、一緒に居たかったよ。

「けど、僕は怖かった。志保がもう一度大きなストレスを感じてしまったら、志保は志保じゃ無くなってしまう。だから、怖くて、怖くてたまらなかったんだ。志保の人生を大切にしたくて、志保に幸せになってほしくて。そんな、逃げ道ばかりを考えて。怖いといい聞かせていた。怖いのは本当だよ。でも、勇気がなかったんだ」

「正直ださいよね。ずっと、淡い期待ばかりして、自分では行動に移さない。環境に頼って生きていた」

 ……ださくないよ。分かるよ。分かるよ。どれだけ辛いかは分かるよ。

「それで、この話はするか迷ったけど、ちゃんと言っておきたいからするよ。志保に彼氏ができたとき心から喜んだ……っていうのは嘘かな。本当は悲しい気持ちに殺されそうになっていたんだ。どうして、志保は僕を思出さないんだって。どうして、志保は違う人を選んだの? って、ずっと、悲しい気持ちが僕を殺そうとしていたんだ。でも、これだけは本当だよ。志保には幸せになってほしい」

 ……ごめんなさい。私は馬鹿だった。あなたを一番傷つけて私だけ幸せになろうとした。ごめんなさい。私がずっと好きなのは翔だけなの。

「女々しいことは百も承知だけど、やっぱり僕が幸せにしたかった。もっと、もっと生きられたら幸せにできなのかな? 分からないよ。保証はないよ。でも、これだけは誓う。志保を一番想っているは僕だ。絶対に。僕だ」

 ……ええ。そうよ。翔が一番だよ。私も、私もよ。翔のことを一番想っているのは私よ。

「こんな、ことを今更言っても遅いのは分かってる。でも、今だから言うよ。愛している。僕は世界で一番志保を愛している」

「たとえ、志保が他の人と付き合ったとしても、僕は応援するし、幸せを心から願う。でも、きっと、この気持ちだけは忘れないしずっと芽生えていると思う。ずっとずっと好きだ」

 ……ああ。なんで忘れていたんだろう。なんで思い出そうとしなかっただろう。私の大切な翔を傷つけて、孤独にさせて。追い込んで、それで、私だけ幸せになろうとした。バカだ、私は世界で一番馬鹿だ。

 大切で、一番好きだった。翔を忘れていた。そんなの許されるはずがない。ごめんなさい。ごめんなさい。

「僕は……死んでいる。だから、思い出したとしても君の傍には居ることはできない。幸せにすることも、笑わすこともできない。だから、お願いだ。違う人と幸せになってくれ。もっと人をみてちゃんと優しい人と付き合ってくれ。それで、その人と幸せになってくれ。笑顔で暮らしてくれ。じゃないと、僕が悪戯しちょうよ?」

「でも、本当に幸せになってほしい。できれば僕を忘れてほしい。じゃないと、きっと志保は幸せになろうとはしない」

 ……そうよ。私はあなた以外と幸せになんてならない。私は、翔。君と幸せになりたい。だから、お願いよ。私を守ってよ。笑顔にさしてよ。幸せにしてよ。お願いだよ……翔。

「お願いだ。志保、幸せになってくれ。でも、」

 そこで、翔は泣き始める。

「無理だ。僕を想っていてほしい。忘れないでほしい。付き合いたいし、楽しいことだって共有したい。でも、でも僕には時間が無いんだ」

「本当はこんな辛い想いをさせるために撮ったわけじゃない、前を向いてほしいから撮ったんだ。でも、でも、最後に伝える機械なんだ。だから、僕の最後の言葉を送るよ」

「僕は、弱い人間だ。逃げる道を探して、言い訳を自分に言い聞かせて。何度も何度も逃げて。志保の幸せを願っているとか口で言っているけど、本当は僕と幸せになってほしいとずっと想っている。だけど、時間がない。だから、志保。君が前に進むるように」

 ……お願いだよ。翔、私を守ってよ。死なないでよ。お願い。弱い私を守ってよ。泣き虫で、言いたいこともちゃんと言えない私を守ってよ。

 翔は赤くなった目で見つめる。そして、小さく、優しい嘘を呟く。

「志保――僕は君が嫌いだ」

 そこで、動画は止まる。

 そなので、そんな一言で嫌いになれるわけないよ。

 変わらないよ。変わりやしないよ。忘れることもないよ、ずっと、ずっと、覚えられる。

 好きだよ。

 忘れるなんて、絶対に無理だよ。だって、好きなんだもん。

 志保は後悔するように、泣く。

 教室を深海に染める。

「私も、愛している」


「では、3年生代表の志保さんお願いします」

 志保は生徒たちの注目を感じながら舞台に上がる。

 志保はピアノの前に座り。深呼吸をする。

 私はピアノが嫌いだ。誰のために弾いているか分からない。そんな、ピアノが嫌いだった。でも、私はピアノが好きになった。誰かのために弾くことの楽しさを覚えた。

 誰かを愛することの大切さを覚えた。

 人は忘れられることが一番辛いということが分かった。大切な存在ほど、大切じゃ無くなってしまうことを理解した。

 私は、あなた――東山翔。君が大好きだ。

 忘れやしない。何が起きても、たとえ死んだとしても絶対に忘れやしない。

 私は、あなたを翔。2度は死なせない。ずっと、ずっと支えるような音楽をあなたに贈る。だから、傍で聴いていて。

 きっと、楽しくて仕方がないと思う。だって、私は天才ピアニストなんだから。



「演奏曲・勿忘草」

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