アン&ドロシー 第八章
クローンのジョーは、明日 自分が心臓を抜き取られ殺されてしまうことを知らずに、生まれて初めて施設を出て、外の世界を目の当たりにします。
翌日の昼過ぎ、市街地を黒塗りの高級車が走る。
高級車の後部座席では、19歳のジョーのクローンがまるで子供のように目を輝かせながら窓の外を見ていた。
おしゃれな店が並ぶ駅前の大通りやそこを行き交う人々、街路樹のヤシの木や信号機などのごくありふれた景色だが、これまで外の世界を全く知らなかった19歳の若者にとっては、見るもの全てが新鮮で驚きの連続だった。
「わあ、高い建物がこんなに…。すごいな!」
車窓から上を見上げると視界には収まり切れないほど高いビルがそびえ立ち、空を覆い尽くしている。
「すごい!本当にすごいな!」
ジョーは大声を出して少しうるさいくらいにはしゃいでいるが、初めて外の世界を見る19歳に、興奮するなというほうが無理な話だろう。
「ほら、遠くに海が見えてきましたよ。」
左ハンドルの運転席から運転手が言った。
ジョーはすぐにフロントガラスに顔を向けると、道の先のはるか向こうに白く光る海が見えた。
「本物の海だ!これまで写真では何度も見てきたけれど、本物を見られる日がくるなんて…」
目を細めながら感嘆の声をあげる。
それから20分ほど走り市街地を離れた車は、海沿いの道をしばらく走ると海岸近くの駐車場に止まった。
平日昼間の海に来る者はいないようで、他に止まっている車もなければ、砂浜にも人っ子一人見当たらない。
「さあ、リクエストしていた海に着きましたよ。車を降りて海を満喫してきてください。ただし、あんまり遠くへは行かないでくださいね。ここには30分ほどいる予定ですので、それまでに車に戻って来てください。」
「わかったよ。」
「あっ、いけない。そういえばこれを渡すのを忘れていた。」
運転手は助手席前のダッシュボードを開けると、長方形の小さな箱を取り出してジョーに渡した。
「これ何ですか?」
「中を開けて下さい。」
ジョーは言われた通りに箱を開けると、中には黒革の腕時計が入っていた。
「うわっ、かっこいい!こんなの前から欲しかったんだ。」
「それを腕に付けてください。」
「え、僕が付けていいの?」
「もちろんです。 それで時間を確認して、予定している30分経ったら戻ってきて下さい。」
そう言われて、ジョーは箱から腕時計を取り出したがそのまま動きが止まる。
「腕時計って、どっちの腕につけるんだっけ?」
ジョーは少し恥ずかしそうに聞いた。
「どちらでも良いと思いますが、私は利き腕が右なので逆の左腕に付けています。」
そう言いながら、運転手は左腕に付けた自分の腕時計を見せた。
ジョーは言われた通りに腕時計を左腕に付けてみる。
「確かに利き手と逆に付けた方が、付けたり外したりする時に利き手が使えるので便利だ。」
腕時計を付けるのは初めてだったが、今までに感じたことのない腕を締め付けられるような感触に、ジョーは顔をほころばす。
「こんないい時計を借りるんだから、うっかり壊さないようにしないとな。」
「それは貸したんじゃありませんよ。あなたへのプレゼントです。」
「えっ、プレゼント!?」
「はい。」
「運転手さんから?」
ジョーが真顔で言うと、運転手は笑った。
「まさか。私の安月給ではそんな高価な腕時計は変えませんよ。」
「じゃあ、誰からのプレゼントなの?」
「私の雇い主である人物からそれを渡すように頼まれました。今日あなたをドライブに連れてきたのも、その方の指示があってのことです。」
「そうだったんだね。でも、誰なんだろう。どうして僕にこんないい思いをさせてくれるのだろう?」
「さあ、それは伺っておりません。」
「そう…。でも僕にこんなに親切にしてくれるということは、きっといい人なんだろうな。名前はなんていうの?」
「ジョー様です。」
「ジョー!? 僕と同じ名前だ。なんか、うれしいなあ。外の世界を見させてくれたり、こんなにカッコイイ腕時計をプレゼントしてくれたり、なんてお礼を言ったらいいんだろう。運転手さん、そのジャックさんに僕がすごく感謝しているってことを伝えてもらえるかな。」
「わかりました。伝えておきます。」
「じゃあ、外へ行ってくるね。」
ジョーは後部座席のドアを開けると、春の日差しと潮の匂いが身体を包み込んだ。
そのままアスファルトの地面に両足をつけると、ジョーはこみ上げてくるものを感じずにはいられなかった。
ジョーにとってはこれが外の世界での第一歩である。
宇宙飛行士が月面に降り立った第一歩目のように、といったら少し大袈裟かもしれないが、施設の外へ出ることのできなかったジョーにとっては、月への道のり程に遠い外の世界での第一歩目だった。
しっかりと踏みしめるように歩きながら、数十メートル先の波打ち際の一歩手前で立ち止まると、潮風を思いきり吸い込みながら両手を上げて全身を伸ばした。
「うーん、気持ちいいなあ。それにしても2時間だけとはいえ、施設の外に出してもらえるなんて、一体どういうわけなんだろう?」
海は青く輝き、白い波は幾度となく寄せては返すを繰り返している。
ずっと憧れてきた海が目の前に広がっているが、それを眺めているジョーの目はどこか寂し気だった。
「アンにも見せてあげたかったな…。突然いなくなってからもう十日になるけど、いったい今どこにいるのだろう。」
ジョーは潮風を思い切り吸い込むと、海へ向かって大きな声で叫んだ。
「アーン!」
だが当然のことながら返事はなく、ザザァ…という波音だけが聞こえていた。
一方、海を見ているジョーの後方では、車から降りた運転手が万が一にもジョーが逃げ出さないように監視している。
すると、車の後部からガタゴトッと物音がして、続けざまに「ニャーニャー」という声が聞こえてきた。
「野良猫かな。まったく、いつの間にトランクの中に入り込んだんだ?」
運転手は面倒くさそうに頭を掻きながら車の後部へ行くと、ズボンのポケットから取り出した鍵をトランクの鍵穴に差し込んだ。
ドアが開いて、数センチ空いた隙間から中を覗こうとしたその時だった。
突然、「シューッ」という音と共に、霧状のものがトランクの内側から飛んでくると、運転手の顔にかかった。
すると次の瞬間、目に強烈な痛みが走る。
「うわあああっ!」
運転手は大きな声を上げるとその場に倒れた。
その声を聞いてジョーが後ろを振り返ると、運転手がアスファルトの上で、両手で顔を押さえながらのたうち回っている。
ジョーは急いで浜辺から戻ると、運転手に駆け寄った。
「どうしたんですか、大丈夫ですか!?」
「目が!…目が!」
運転手は苦痛に顔を歪めていた。
「どうしてこんなことに?」
ジョーがそうつぶやいた後だった。
「ごめんなさい。こうするしかなかったの。」
後方から聞き覚えのある女の声がして、ジョーは振り向くと、全開した車のトランクにはなんとアンの姿があった。
施設にいた時と同じ白いワンピース姿で、手にはスプレーボトルを持っている。
「アン!」
ジョーは大声で叫ぶとアンに駆け寄る。
一方のアンもスプレーボトルを投げ捨てると、トランク内からアスファルトの地面に降り立ち、駆け寄って来たジョーと強く抱きあった。
「ずっと会いたかった。」
アンは歓喜の声を上げる。
「僕もだよ。突然居なくなるから心配したんだよ。今までどこにいたんだ?」
感動的な再会を果たす二人だが、アンはふと我に返ったようにこう言う。
「詳しいことは後で話すわ。それより今は早くここから逃げましょう。」
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