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第三章

閑静な住宅街を一台の黒塗りの高級車が走る。

 その後部座席で、ジョーは窓に映る険しい表情の自分とにらみ合うように、もの思いにふけていた。

 

彼の頭の中は今、十九歳のアンのことでいっぱいだった。

 思い出すだけでも、ドクンッドクンッと心臓の鼓動が早くなる。

 十九歳のアンを目の当たりにした衝撃は、ジョーにとって相当なものだったようで、あの美しさが脳裏に焼き付いたまま離れていかない。


「あの…ご主人様、着きましたけれど…。」


 運転手の何度目かの言葉で、後部座席のジョーは車が自宅に到着していることにようやく気づいた。


「そうか…」


 改めて窓に映る自分の顔を見ると、ずっと眉間にしわを寄せていたせいか、47際という年齢より老けて見えた。


「奥様は40分ほど前にお届けしております。」


「わかった。」


「それと、私はこれからこの車をメンテナンスに出しにいきますが…。」


「わかった。今日はもう用はないから、そのまま帰ってくれて構わん。」


 ジョーは車を下りると、そこから屋敷までは石畳が数十メートル続く。

 若くして起業し大成功をおさめたジョーが、数億円をかけて建てた自宅は、夫婦二人だけが住むにはあまりに大き過ぎる大豪邸だった。

 ジョーは玄関のドアの前まで来るとインターホンを押すが、しばらく待っても応答がない。


「アンはどうしたのだろう。」


 ジョーはドアについているボタンで、10ケタの暗証番号を打ち込んでから指紋認証すると、ロックは解除された。

 ドアを開け玄関に入るが、家の中は何一つ音がしない。


「ただいま。」


 大きな声で言っても、いつもの「お帰りなさい。」は聞こえてこない。

 ジョーは嫌な予感がして、玄関から入ってすぐのリビングに急いで行くが、部屋の中を見渡してもアンの姿はない。

 三十畳ほどの広さがあるリビングは、十人以上が座れるソファーや高級なアンティークの家具が数多くあり、さらに壁には有名画家の大型の絵画まで飾ってある。

 これらは全てアンが揃えたもので、彼女はこのリビングルームをとても気に入っていっており一日の大半をここで過ごすのだが、そのアンの姿が見えない。


「アンはどこに行ったんだ…?」


 ジョーは部屋の中央まで来ると、テーブルとソファーの間の床に、横向きに倒れているアンを見つける。


「アン!」


 ジョーは駆け寄ると、アンの身体を揺すってみるが目を閉じたまま動かない。

 周囲にはマーガレットの花と、割れた花瓶の破片が散らばっている。

 おそらくアンが倒れた時に、テーブルの花瓶にぶつかって落ちたのだろう。


「アン!目を覚ましてくれ!」


 ジョーは再び叫ぶと、アンはまぶたをゆっくりと開ける。

「ジェイ…。」


「アン、大丈夫か。」


「発作が…早く病院へ…」


 かすれるように聞きとれるかどうかのその声は、今にも消えてしまいそうなアンの命を物語っていた。


「分かった。すぐに運転手を呼ぶから待っていろ。まだ遠くへは行っていないはずだ。」


 ジョーはスマホを取り出すと、運転手に電話をかけたが、運転中の為スマホの電源を切っているのだろう。


「おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波が届かない場所に…」


 それを聞きながら、運転手に連絡がとれないこの状況に、どこかほっと胸をなで下ろしている自分がいることにジョーは気付いた。


 今病院に連れて行けば、妻・アンはすぐ移植手術を受けることになるかもしれない。


 そうなれば19歳のアンの命を奪ってしまうことになるが、あれほど美しい彼女を殺すことなんて出来ない。


 だがそうしなければ、妻・アンが死んでしまう。


 自分はどうしたらいいのだろう。ジョーは、目をつぶり眉間に寄ったしわをさらに深くする。


「ジェイ…早く…病院へ…」


 すぐ隣では妻・アンが苦しそうな声で助けを求めている。

 ジョーは、運転手がダメならすぐに救急車を手配しなければと思いながらも、どうしても「119」をかけることができない。

ただただ、スマホを持つ手を震わせていた。


「ジェイ…助けて…ジェイ…」


 アンの悲痛な叫びに応えず、ジョーは顔中をしわくちゃにしながら目をつぶっている。

 きっと妻は助けを呼ぼうとしない自分に、「どうして、助けを呼んでくれないの?」という顔をしているに違いない。

 そんな妻を見ることはできなかった。


「ジェイ…たす…け…」


 その言葉を最後に、アンの声は聞こえなくなった。


「アン…?」


 ジョーは恐る恐るまぶたを開けると、アンはフローリングの床に横たわったまま眠るように瞼を閉じていた。

 震える両手で身体を揺するがもう動かない。


「アン…アン!!」


 ジョーは大声で泣き叫びながら妻のアンを抱きしめると、いつまでも涙を流し続けた。

 

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