DAY6:閑話(上)
「非常にまずいです」
殺風景な長い廊下を歩きながら、両手に抱え込んだ資料たちに注意しつつ、助手は博士にそう言った。
二人の歩調はぴったりと揃っていて、天井の魔力照明が齎す閃光の真下、二つの影が淡々と進んでいく。
エリシア王国第二汎用魔法研究所所長であるところのその女性―――あるいは博士は、助手の意見するところを聞くと、一言呟いた。
「確かにまずいが、まずいだけだとも思わないか?」
「……何を言ってらっしゃるんですか」
助手は呆れ声で続ける。
「リドリーザ氏は……とんでもないことをしてくれましたよ。〈精霊〉関連で起きた混乱は多々ありますが、ここまでのものは今までにも……あー、300年以上前の【造形精霊】の件を除けば、無かったはずです」
「確かに……それくらいになるだろう。そもそもこの300年間、〈精霊〉研究には大したブレイクスルーが訪れていないしな」
「300年ぶりのブレイクスルーって言っても限度がありますって! 【言葉で伝えた〈魔法陣〉を自動生成する精霊】はどう考えても危険です! 〈魔法陣〉の自動生成の時点でかなりのものなのに……」
助手は一度言葉を止め、鞄から水筒を取り出して、中身を飲んだ。【高度細工精霊】の働きにより、その構造は複雑なものに仕上がっている。
ぷはぁ、と彼女は息をつき、水筒の蓋を閉めながら再開する。
「……かなりのものなのに、『一人あたり一日一回』以外には制限も代償も無しです。大抵の〈精霊〉は特定地域でしか使えないのに、【〈魔法陣〉自動生成精霊】はエリシア全国で使える。子供から老人まで、誰でも〈魔法陣〉を作れるんですよ!? 王属の連中は一応止めようとしてるみたいですが、動きが遅すぎる!」
その口調は危機感に満ち溢れたものだったのに、なぜだかそこから出た言葉は、新商品をアピールする営業屋のような聞こえを帯びて、息苦しい廊下に反響していった。
歩みを進める彼女たちの両脇を、またドアがふたつ通り過ぎる。
「確かに危うい技術ではあるが―――」
「危うい、というだけじゃありませんよ。既にその危うさは発揮される段階まで来ている」
助手は資料の束を漁ると、一冊の雑誌を取り出した。
「これが」
【清書精霊】と【複写精霊】が生み出す色彩に富んだ表紙には、親しみやすい書体で『緊急特集! 【恋愛魔法】を作るには!?』の文字列が躍る。
「噂好きの淑女のための雑誌だそうです」
助手は神妙な面持ちで言った。彼女は雑誌を両手に持ちかえると、ぺらぺらとその内容を確認していく。
「表紙にある【恋愛魔法】とは……要するに、『意中の人を自分への恋に落とす魔法』を指すのだそうです。『恋に落とす』ですよ! こんな【水源精霊】の一体も呼べないような素人が、洗脳魔法の研究をしてるんです!」
「まあ……自然な流れではあるな。今のところ、【〈魔法陣〉自動生成精霊】の得意分野は……『よくある魔法』と、『精神に干渉する魔法』だ」
「自然ですけど、どう考えても危険です! ……まだありますよ」
助手は雑誌を書類の束に戻すと、今度は一枚のビラを取り出した。
「これが」
手書きのものにそのまま【複写精霊】を使ったと思しき、手作り感の溢れる紙だ。そこには、荒々しい筆跡で『〈レクモサクソ=キュウリ教〉』の文字列が躍る。
「新興宗教の分派の宣伝ビラです」
「……それの何が問題なんだ? 新興宗教など今までもずっとあったじゃないか。そして、何の成果も残さず消えていった」
「こいつは違うらしいから問題なんです。このビラによれば、『【〈レクモサクソ神〉を召喚する魔法】という指示文に色々なオプションを付けたうえで〈魔法陣〉を生成して起動すると、キュウリが出現する』と書いてあります」
「……キュウリが出現する、か」
「ええ。"赤い"などの条件を加えることでトマトに誘導することも可能だといいます。これが確かなら、『生成魔法は精度が低い』なんて言われる時代も終わりが近いことになりますよ」
「…………」
「極めつけはこれです」
助手はビラを書類の束に戻すと、今後は一組の新聞を取り出した。
「これが」
速報性を高めるために工夫を凝らしながら【清書魔法】と【複写精霊】を使用されたであろうそれには、大面積を占めて一つの広告が載せられていた。
「新聞社がやっているという……顧客の頭の中にある〈魔法陣〉を印刷するサービスです」
「なるほどな」
「なるほどな、じゃありませんよ! これって……要するに、複雑すぎて人が倒れるような〈魔法陣〉でも、手順さえ踏めば実体化できるってことですよ! しかも印刷サービスそのものは〈常時陣〉ベースみたいですし!」
「【世界を終わらせる魔法】にしろ【神を召喚する魔法】にしろ、指示文はおおざっぱだし必要魔力も計り知れない。そう悲観的になるな」
「それって……指示文を改善して魔力を補給すれば、世界を終わらせることも神を召喚することもできる、って……」
「そんなものは」
博士は助手の言葉に割って入った。
「【〈魔法陣〉自動生成精霊】が現れる前から、同じだったはずだろう」
「でも」
「いいか助手よ」
博士は続ける。廊下が彼女たちを沈黙の中で包んでいる。
「私は常々思っていたのだ。この世界は少々つまらなすぎるとな」
「博士……?」
「助手よ。先ほど君は『【造形精霊】の件を除けば』なんて言ったが、そもそもこれがおかしい。300年の中で生きた人間が、だれ一人バルヴェールに勝てていないと認めているようなものなんだぞ」
「あの」
「急激な変化? いいじゃないか。王属なんたらの連中は【究極魔法】に固執しているようだが、あの概念ができたのも300年前、はっきり言って古いんだよ。とっとと見つけて次に行くべきだろう」
「でも……このままだと、次に行く前に世界が終わる気がしてならないんですが」
「だから」
博士は立ち止まった。ついに立ち止まったのだ。廊下の硬くて冷たい床に、ひときわ強い足音を響かせて。助手はそっと今まで歩いてきた廊下を振り返り、それが思ったより長くなかったことに気付いた。
血色の悪い博士の右手が、空中をうろつくかのように伸ばされる。そして、木製の茶色いドアに備わった、一つの取っ手を掴む。
「私も、色々と考えたのだ」
軋みながらも開いたドアの先では、大型の〈魔法陣〉がいくつか、星空に似て煌めいていた。