DAY5:【体重を減らす魔法。美貌魔法。反・人体改造。反・大魔法。強・反・危険魔法。強・反・攻撃魔法。効果時間:一時間。反・不可逆。】
髭面の男は月を見ていた。
酒場の窓格子に切り取られた、どこまでも深い夜空の中。丸みを帯びたそれは確かに昇っていて、鋭く魅惑的な銀光を放ち、分厚い雲すら難なく貫いて、地上を月光で満たしている。
「……満月が近いな」
髭面の男は呟きながらジョッキを口に当て、そのままをぐいっと傾けた。【調味精霊】の力で若干過剰に演出された酒の味が、彼の下に至福を与えた。ある程度の量を食道に送ったあたりで、男は古ぼけた机にジョッキを置き、再び、月を見た。窓に付着した黄土色の砂埃ですら、月の前ではどこか優雅に、反射した冷光を瞬かせていて、男はなんだかいい気分になった。
彼は月が好きだった。
見た目が大層美しいのもそうだが、何より、動くのがよかった。動くという意味では太陽も、主に朝から夕方にかけて動いて見せる。しかし、月ほどわかりやすくはない。何と言ったって月は、見る夜によって外見が変わり、満ちたり欠けたりを繰り返してくれる。男は、それが好きだった。
男の過ごす毎日は、月のように忙しく動き回るものではない。朝起きて、面白くもないけれどつまらなくもないような仕事をして、終わったら個人的にちょっとした事をやって、酒場に行って月を眺めながら飲み、帰宅して床につく。そんな平和で退屈な日々だ。そういう生き方を是とする人々もいるだろうが、彼自身はそうではない。もっと動いて、例えば伝説の英雄のように、〈魔獣〉を倒したりしてみたかった。しかしできなかった。〈魔獣〉なんてとっくに絶滅していて、まさに伝説の中の存在でしかなかったのだ。
「……」
髭面の男は、再びジョッキを傾ける。
そういうわけで、彼が人生で真に幸せだと思える瞬間は、結局こうして酒を飲みながら、自分の代わりに目まぐるしく動いてくれる月を眺めているときに限られるのだった。自分はこのまま、止まったような人生を送って、止まったように死んでいくんだろう。そう、彼は確信していた。
しかしながら、ここ数日は少し違った。
「……【耐寒魔法】と【空気補充魔法】はとりあえず完成した」
男はぶつぶつと呟いた。
「……【緊急離脱魔法】と【緊急離脱魔法自動発動魔法】も、例の指示文が正しければちゃんと動いてくれるはずだ」
簡潔に言うなら、彼は〈魔法陣〉を使って月に行こうとしていた。
余りにも無謀な考えだった。300年前の〈大魔導士〉バルヴェールですら、宇宙進出を試みるまではいかなかった。そもそも宇宙で魔法が使えるかは不明だったし、宇宙に出ることに大きなメリットがあるわけでもなかったからだ。〈精霊〉たちのおかげで食料供給やインフラの維持は極めて安定しており、敢えて過酷な宇宙に進み、獲得済みのものを再び得ようとする理由は存在しなかった。
そして300年経った今でも、宇宙で魔法が使えるかは不明で、宇宙に出ることに大きなメリットがあるわけでもなく、〈精霊〉たちのおかげで食料供給やインフラの維持は極めて安定しており、敢えて過酷な宇宙に進み、獲得済みのものを再び得ようとする理由は存在しない。男の画策は客観的に見て、無意味な上に無謀だった。
しかし。
彼自身はそう考えていなかった。いや、考えてはいた。仕事仲間にこの計画を話したりすると、いかにも「無意味な上に無謀な画策だな」というような、冷酷で醒めた視線を向けられるのだ。しかしどれだけ冷酷で醒めた視線を向けようとも結局は単なる仕事仲間に過ぎないため、男は特に気にしなかった。無意味な上に無謀だろうと、停滞した生活よりはマシだと思っていた。要するに彼は、酒に酔うと同時に自分にも酔っていたのだ。
「……やはり問題は……【飛行魔法】ということになるのか」
髭面の男はそんなことを格好よさげに呟いて、また酒を呷った。
彼は自分に酔いながらも、エリシア王国第四特殊精霊研究所元所長であるところのリドリーザ博士について考えていた。そう―――リドリーザ博士。リドリーザ博士こそ、紛れもない『伝説の英雄』の一人なのだ。そう彼は思っていた。一般人でも簡単に〈魔法陣〉を生成できるようにした功績は計り知れない。しかも死んだ。死んだのは重要だ。彼は「この世界では死んだ者だけが名を残せる」みたいなことを考え始めていた。かなり酔いが回っていて、自分の頭痛にも気づけないほどだった。
「よし行くぜッ、【ヴィル・テル・プル】!」
その時である。
彼が座るカウンターの背後から、陽気な良く通る声による〈詠唱〉が聞こえた。
髭面の男は苛立ちを覚えた。【〈魔法陣〉自動生成精霊】を使うのが、彼のような真面目な人間だけではないということは理解していた。しかしそれにしても、ここ数日、毎夜にわたって酒場で〈魔法陣〉を生成している、極めて不埒な集団には―――
『お望みの魔法をお教えください』
「【特定目的造形魔法。女性の石像。反・男性。小型。強・全身像。反・部分的。強・強・劣情を煽る。強・強・煽情的。強・強・挑発的。強・強・高露出度。反・着衣。弱・健全。】を生成してくれッ!」
『【特定目的造形魔法。女性の石像。反・男性。小型。強・全身像。反・部分的。強・強・劣情を煽る。強・強・煽情的。強・強・挑発的。強・強・高露出度。反・着衣。弱・健全。】ですね。承りました』
「さあどうだ!? どうなる!?」
「行けるのか!? 行けるのかオイッ!?」
『生成された〈魔法陣〉に不健全な要素を検知しました。また次回お試しください』
「畜生ァ~~~~ッ!」
「クソ! 今回もダメかよッ!」
「今夜も全員ダメか~」
「ちゃんと『健全』入れてるのに何がダメなんだろうな?」
―――流石に、不快感を抱かざるを得ない。
「……クソ」
髭面の男は小声で悪態をついた。
『伝説の英雄』たるリドリーザ博士が、その叡智をこれでもかと注いで作り出した【〈魔法陣〉自動生成精霊】。それがこんな―――美少女の偶像、それも煽情的なものを作ってやろうと息巻いている連中に使われているのは、まったくもって悲しむべき事態だ。彼はそう思った。
「よし、明日も集まろうぜ!」
だから彼らがそう話し始めた時は、まったく悪夢のようだと感じた。
「ああ、集まろう!」
やめてくれ、と思った。
「明日は造形魔法路線をいったんやめるのも手かもな!」
しかしながら。
「ほんと、この〈精霊〉がいたら全然退屈しないや!」
そういう言葉を聞くと、なんだか彼らを自分と重ねてしまって。それでつい、憎しみの心をどこかに置き忘れてしまうのだった。
「……はぁ」
髭面の男は溜息をつくと、改めて、【飛行魔法】について考え始めた。
動力系の〈精霊〉は多々いるが、こと『飛行』に関しては、なぜかほとんど発見されていない。一番近い【気流精霊】にしても、せいぜい建物二つ分ほど人間を浮かせるだけで、とても月に行ける出力を持っているとは言えないのだ。
「……〈精霊〉の地域別出現が関係してるのか?」
彼は呟く。詳細な原理は解明しなくても生きていけるため解明されていないが、〈精霊〉たちは土地を基準にして分布する。この世界がどういう形状をしているのか定かではないが、大地の上をある程度進むと最初の場所に戻ることと、月や太陽が丸いことを踏まえると、球形をしていると考えるのが自然だろうと男は思っている。
世界が球体だとすると、その半径はあまり大きくないだろう。かつて諸々存在した国々がエリシア一国にまとまっても、なお巨大都市が五つできる程度の面積しかない。
世界は小さな球なのに、〈精霊〉は地図ベースの……二次元的な基準で出現する。この食い違いが矛盾を誘発し、【飛行精霊】の存在を否定しているのかもしれない。だとすれば、二次元も何もない〈魔法陣〉なら、特に問題なく【飛行魔法】を作成可能なのではないか。しかし現実、自分が今までしたアプローチでは―――。
そこまで考えたところで、男の耳に再び〈詠唱〉が飛び込んできた。
「それじゃあ行きますわよ、【ヴィル・テル・プル】!」
男は項垂れた。先ほどの集団の下品さとは、また別の方向性で嫌悪感のある人々が来たのだ。
『お望みの魔法をお教えください』
「【体重を減らす魔法。美貌魔法。反・人体改造。反・大魔法。強・反・危険魔法。強・反・攻撃魔法。効果時間:一時間。反・不可逆。】を作ってくださいな!」
『【体重を減らす魔法。美貌魔法。反・人体改造。反・大魔法。強・反・危険魔法。強・反・攻撃魔法。効果時間:一時間。反・不可逆。】ですね。承りました』
「さぁさぁさぁ!」
「行けるのかしら!? 行けてしまうのかしら!?」
「うっ!」
「おやお嬢様のこのご様子、生成された〈魔法陣〉が脳内にお入り遊ばせたのね!?」
「健闘を祈りますわ!」
「……比較的シンプルな〈魔法陣〉ですわね。このまま手で書いてしまいますわよ!」
その嫌悪は、敢えて言うならば……ぎらぎらとした欲望に対する忌避によるものだった。
実際のところ、客観的に見るなら。男の嫌悪は合理的なものとは言えなかった。彼自身、相当にぎらぎらとした欲望をもとに動いていたし、欲望が進歩にもたらす絶大な効果も知っているはずだった。ただ、なんだか嫌だった。
「発動しますわよ!」
「発動してしまうんですわね!?」
「発動しましたわよ!」
「発動してしまったんですわね!?」
姦しさとはまた別のところで、なんだか嫌だった。
「こ、これは!」
「これは!?」
「浮いてますわ~~~っ!」
しかし、本当になんだか嫌というだけでしかなかったので、
「……え?」
髭面の男はその時、尋常ならざる素直さで振り向いたのだった。
そこでは確かに、豪華な衣装に身を包んだ令嬢が、酒場の橙色をした照明に照らされながら……浮いていた。
悲鳴のような歓声のような高音がかき鳴らされる中、男は黙って酔っ払ったまま、『【飛行魔法】も完成だ』なんてことを考えた。
月だけが静かなまま、ゆっくりと空を動いていった。