DAY4:【対象Aを対象Bに転写する魔法。転写・精神・情報処理・印刷魔法。弱・弱・白紙化魔法。強・強・反・白紙化魔法。一回作用。反・複数回作用。対象A:想像。対象A:発動者の精神。対象B:紙。(略)】
その日、〈ブラルブレル市民新聞〉の編集長を務める壮年の男性は、どこから見ても完璧に立腹していた。余りにも立腹していたため、記者たちは書き終えた原稿を置くや否や、早々に編集部から逃げ出してしまった。逃げつつも最低限の礼儀だと考えたようで、編集部の入り口に備え付けられてある、色褪せて塗装の剥げた小さなドアを、後ろ手でもってバタンと閉めた。いや、実際は閉まらなかった。ドアは経年劣化で満足に動かなくなりつつあり、半開きの状態を維持したまま、編集部に陽光を注ぎ込み始めたのだった。
編集長と言えば、まさしくその陽光が室内を貫く横で、古ぼけたソファに座っている。『どこから見ても完璧に立腹していた』という言葉には自分自身の視点も含まれるわけで、編集長自身、自分は完璧に立腹していると自覚していた。彼としても、このままではまずいという思いはあった。だからこうしてお気に入りのソファに座り、思索にふけってストレスを発散しようと考えたのだ。
はっきり言って、逆効果だった。ソファに座ると位置関係上、どうしても壁に空いた巨大な穴が目に入ってしまうのである。
「……ゴミクズが」
編集長は両手を胸の前で組み、右手人差し指だけを往復するように動かしながら悪態をついた。
この編集部に何が起きたのか? ついさっき逃げ出した記者のうち一人が、原稿の山の中に答えを残している。その記事の出だしはこうだ―――『部屋掃除試み大爆発 魔法陣生成精霊か』。今朝六時ごろ、当〈ブラルブレル市民新聞〉の本社が建っているすぐ横の家で爆発事故が発生し、本社建造物が一部破壊されるなどの事故が発生。なお負傷者・死亡者はいない。原因を作ったとみられる女は、「部屋が散らかってきたので片付けようかなと思ったところで、ふと魔法で片付けができたら素敵だなと思った。【部屋を片付ける魔法】をそのまま指示文として【〈魔法陣〉自動生成精霊】に入力しようかとも思ったが、考えてみると片づけるとは具体的に何か。例えば床に落ちているものを棚に収納する魔法があったとして、本棚で4巻の右に2巻を置いたり、食器棚に靴下を入れてしまったりしないだろうか。そういった疑問が湧いてきたので、少し考えた。考えた結果、「片づけるのは難しいが、散らかすのは簡単だ」という理屈に基づき、【反・部屋を散らかす魔法】を作ればいいと閃いた。しかし既に散らかってる部屋でそれはどうなんだ、とも思ったのでさらに考えて、反・指示文と本来の構文を両立させればいいという結論に達した。即ち、【弱・部屋を散らかす魔法。強・反・部屋を散らかす魔法。】だ。これで完璧だと思って発動したら、なんか爆発した」と供述している。
編集長は、彼女を指してゴミクズと呼んでいるのだ。
一見してその理由は『壁に空いた巨大な穴』と、そこから吹き込んでくるブラルブレルの肌寒い風のみであるかのように思える。しかし、それは間接的理由に過ぎない。
編集長の怒りの、本質は。
彼の視線が、巨大な穴の少し下……欠けた模様のほうに向く。
「…………」
編集長の怒りの本質は、長年編集部に備え付けられていた【清書魔法】の〈常時陣〉が、爆発の衝撃でその一部を破損し、動作を停止したということにある。
◇
〈常時陣〉は、〈魔法陣〉の中でも特殊なカテゴリに属する存在だ。
まず原則として、一つの〈魔法陣〉は一度しか起動できない。【火球魔法】だろうと【微風魔法】だろうと、一度使えばそれっきりだ。しかし、魔法には効果時間というものがある。【火球魔法】で言うなら、まず〈魔法陣〉の上部で火球が生成されていく間が第一効果時間、生成され切った火球が発射され、着弾するまでが第二効果時間だ。〈常時陣〉は、第一効果時間の長さを年単位に設定することで、一つの陣で魔法を複数回発動できるように見せかけるものなのだ。
もちろん、これらの作成にはかなりの制約が伴う。物理的干渉を伴うような魔法には適用できず、あくまで既存の存在に"処理"を施して変質させるとか、あるいは人間の精神を多少読み取るとか、そういう限定的なカテゴリの……静的で、単純な魔法のみが対象だ。しかもそれらを踏まえてなお、〈常時陣〉の構築は、普通の〈魔法陣〉以上に魔法理解を必要としてくる。
その〈常時陣〉が、破損したのだ。
「……どうする?」
編集長はいったん悪態をつくのをやめ、しかし怒りは収めないままに、集めた原稿を読み進めている。とりあえず……内容は問題ない。【複写精霊】を始めとする印刷関連〈精霊〉の多さから、エリシア王国随一の情報集積地と化しているブラルブレル……そこに名を連ねる数々の新聞のうち一つとして、申し分のない品質だ。問題はやはり、【清書魔法】の不在にある。
〈常時陣〉が宿していた【清書魔法】が持つ効果は、おおむね文字通りだ。入力された文書Aを処理し、例えば汚い字を綺麗にするとか、曲がった線を引き直すとか、そういう作業を経た文書Bを出力する。要するに、【複写精霊】に少しばかりの中間処理を加えたようなものだ。ブラルブレルに新聞社は数あるが、大抵の社は一つの〈常時陣〉を共同で使う。独自にカスタマイズした〈常時陣〉を自社保有できるのは、一部の限られた会社のみだ。〈市民新聞〉もそうだった。しかし、今朝までの話である。
「……直すか?」
編集長は呟きながら、それは無理だと同時に思った。
仮に〈常時陣〉に這う複雑な模様をどうにか思い出し、線を書き足して修復を成功させたとしても、その瞬間に陣が再び光り始め、駆動を再開するというわけではないのだ。必要なのは再開ではなく再起動。そして、〈魔法陣〉は一度しか起動できない。
「……借りるか?」
編集長は呟きながら、それも無理だと同時に思った。
〈市民新聞〉の名前があれば、共同清書所のものや別の大規模新聞社のものを借りることはできるだろう。しかし、〈市民新聞〉のレイアウトはかなり特殊だった。レイアウトがかなり特殊でないなら、わざわざ高位の〈魔法使い〉に高い金を払って自社限定の〈魔法陣〉を作ってもらうなどしないという話でもある。編集長は、そのレイアウトを常に保っていたかったのだ。一度すら、絶やしたくはなかった。
「……書くか?」
編集長は呟きながら、それも無理だと―――いや、本当に無理だろうか。そう思った。
〈市民新聞〉のレイアウトは新聞としてのテンプレートから外れてこそいるが、別に毎号変化するというわけではない。彼も編集長をして長いから、生の原稿を見れば、【清書魔法】の結果がどんなものになるか想像することくらいはできる。何なら、詳細な部分はバックナンバーを見て詰めればいい話だ。
本来の場合、原稿を【複写精霊】の能力で複製したうえで、それらを貼り合わせて【清書魔法】を使って最終稿を作る。更に【複写精霊】で控えを作ったら、あとは〈複写所〉まで稿を持っていくだけ。今回の場合、貼り合わせて【清書魔法】を使う代わりに、「貼り合わせて【清書魔法】を使った結果」をなんとなくイメージして、それを手書きして再現するのだ。
「……いや、しかし」
問題がある。
編集長は悪筆なのだ。曲がりくねった、震えた、間違った。そんな字ばかりを書いて生きてきた。【清書魔法】があってこそ、彼は編集長のポストに座っていられるのだった。例え手本を必死に眺めても、彼の皺まみれの手は長年の経験に従い、汚い字を量産し続ける。
編集長ははっとして、原稿に落とした視線を前に向けた。そこにはやはり大穴があって、しかしその向こう側の景色が明らかに違っていた。
……太陽が、夕方へと突き進んでいく。
時間がない、と編集長は思った。そもそも考えてみると、手でちまちま書いていて間に合うかはかなり怪しい。いっそのこと休刊するかとも思ったが、今日休刊したとして、それでは明日からは再開できるのかというと、そうではなかった。ただでさえ高度な〈常時陣〉だから、どんな〈魔法使い〉でも月単位の時間は要する。そう、それこそ……自動生成でもしない限り。
「自動生成?」
編集長はそこで、何か引っかかるものを覚えた。
編集長の手中には、『部屋掃除しようとして大爆発 魔法陣生成精霊か』の記事をトップにした原稿の束が、長くなり始める影を背後へと落としていた。
◇
「あー、【ヴィル・テル・プル】だ」
『緊急特集:指示文作成ガイド』の記事を片手に編集長が〈詠唱〉すると、室内を眩い光が駆けた。
『お望みの魔法をお教えください』
展開した不格好な精霊は、どこからともなく聞こえる声でそう言った。
「ああ。【対象Aを対象Bに転写する魔法。転写・精神・情報処理・印刷魔法。弱・弱・白紙化魔法。強・強・反・白紙化魔法。一回作用。反・複数回作用。対象A:想像。対象A:発動者の精神。対象B:紙。対象B:発動者が接触。反・動力魔法。反・持続性。小型魔法。】を生成してくれ」
編集長は言いながら、【言葉で伝えた〈魔法陣〉を自動生成する精霊】とはこんなものか、と考えていた。彼はここ数日、この〈精霊〉が生み出した数々のニュースに仕事を増やされ、しかも壁に穴まであけられていて、自分で試す機会を奪われていたのだ。
実際に使った感触では……危うい。そうとしか言いようがない。想像を超える簡単さで使用できて、そのうえ編集部の壁に穴をあけるだけのポテンシャルを持つ。とはいえ、そのポテンシャルに怯えているだけでも仕方ない。利用することが必要だ。
『【対象Aを対象Bに転写する魔法。転写・精神・情報処理・印刷魔法。弱・弱・白紙化魔法。強・強・反・白紙化魔法。一回作用。反・複数回作用。対象A:想像。対象A:発動者の精神。対象B:紙。対象B:発動者が接触。反・動力魔法。反・持続性。小型魔法。】ですね。承りました』
「む」
彼の脳裏に焼きつくような感触が走り、〈魔法陣〉の情報がくっきりと刻まれる。指示文の長さの割に、陣にそこまでの情報量はない。結局の所、やっているのは「想像した内容を紙に印刷する」ことでしかないからだ。編集長はさっそく、適当な紙切れと筆記具を取り出すと、意識下にこびりつくそれを現実に写し始めた。
◇
「……クソ」
編集長は目の前の大きな紙を見る。結論から言うなら、失敗したのだ。
彼は〈魔法陣〉を写し終えると、徐々に高度を落としていく太陽に気を揉んで、即座にそこに魔力を流し、脳裏に完成する新聞の全体像を想像しながら、写したそれを起動した。用意しておいた巨大な紙には、確かに印刷が行われた。ただ―――。
「……まさか、そう来るとはな」
印刷されたのは新聞だけではない。
紙についた折り目が影を落とす中には、編集長が『想像した内容』―――すなわち彼の脳裏に刻まれた〈魔法陣〉そのものが、その複雑な形状を誇示していたのだ。
「まあ、いい」
彼は呟いた。自分の作った〈魔法陣〉がノイズになってしまうのは想定外だったが、それを除去することさえできれば原稿を印刷できるのは間違いない。ならば……記者をもう二人呼んできて、一方に〈魔法陣〉を生成させ、もう一方にそれを起動させればいいのだ。
彼は【通話精霊】の発動代償を払うため、棚まで〈詠唱〉用血液を探しに歩き出した。
◇
そして十数分後。呼び出された記者たちはいきさつを聞いて、「これは金になりますよ」、と。確かにそう言ったのだった。