DAY1:【リンゴを作り出す魔法】
エリシア王国に存在する五つの都市の中でも、ポートラムの経済的傑出には目を見張るものがある。近辺には通信・輸送系の〈精霊〉が多く、その系統の魔法を発動することに関しては、他のどの都市よリ簡単だ。一方で、建築系の〈精霊〉についてはむしろ少ない方であり、ポートラムの領内に立ち並ぶ建物は、その活気にそぐわず小規模なものがほとんどだ。
そういうわけで、学校帰りの三人の子供たちが集まっていた裏路地も、べつに漆黒の闇に包まれているというわけではない。ただ背の低い建物の背の低い影を受けて、ちょっと薄暗くなる程度のものだった。
「アンタたち、アレは聞いた?」
口を開いた少女は三つ編みだ。顔を少し上気させ、いかにも興奮しているといった表情で聞く。
「おう聞いたぜ!」
日焼けした少年が溌溂に返し、
「……アレを試すの? やめといたほうがいいよ……」
もう一人の少年が俯いて、【高度細工精霊】が作り出した精巧な眼鏡を影に隠した。
「なんでよ!?」
「だって……先生たち言ってたじゃないか」
「はぁ!?」
「……そうだったかぁ? 寝てたから覚えてねーや」
「確かに言ってたよ。国じゅうに声を届けたのは事実みたいだけど、〈詠唱〉については嘘っぱちかもしれない……って」
それはもっともな言い分だった。
〈精霊〉を使用する場合、まず使用者は地理や時間などの条件を満たしたうえで、既定の〈詠唱〉を行って特定の〈精霊〉を呼び出す。そのあと代償を払って指示を出すことで、〈精霊〉に魔法の発動を代行させるのだ。この"代償"に何かとんでもないものが設定されている可能性も、無いとは言い切れない。
しかし、無いとは言い切れない程度の可能性など、子供にとっては無いのと同じようなものだ。
「アンタまだ先生の言いつけなんか守ってんの!?」
少女が激しい剣幕を見せる。
「い、いや……そうは言っても」
「あのね、先生の話をそんなによく聞いてるなら、〈魔法陣〉を描くのがどれだけ難しいかもわかるはずでしょ!? あと……そんな〈魔法陣〉を〈精霊〉を呼ぶだけで作れるのが、どれだけすごいことなのかも! 嘘なんて何よ! 嘘だから何よ! 確実にやってみる価値はあるわ!」
「……」
「オレはよくわかんねえけどよ、やってもいいと思うぜ。なんか面白そうだしな!」
「…………わかったよ。僕はとめない」
「決まりね」
現在、王国は混乱の渦の中にある。教師が子供たちに〈詠唱〉を行わないよう釘を刺した理由は、別に「行わない方が良いから」というわけではない。「行った方が良いのか行わない方が良いのかわからないから、とりあえず判断を先送りにしておく」というだけの話なのだ。この路地裏から少し明るい方に進んでみれば、そこでは当の大人たちが、子供の比ではないほどに混沌を描いている。
しかし子供たちからすれば、そんなことはお構いなしだ。
「ええと……じゃあ、どんな魔法を作ろうか?」
「そもそもよぉ。『好きな〈魔法陣〉を作れる』って話だったけど……『好きな魔法』って、やっぱり口から伝えるのかな? それとも念じてみるとか?」
「その辺は〈詠唱〉してから考えればいいわ!」
「それもそうだな! それじゃあ……よし、【リンゴを作り出す魔法】でやってみようぜ!」
「わかったわ。それじゃあ、まずは私が〈詠唱〉するから」
「……本当に大丈夫かなぁ」
眼鏡の少年の呟きを無視すると、少女は僅かに居直って、雑然とした舗装を施された街路に目を落とす。そして、両手を前に突き出す。
実際のところ、突き出したことに理由はない。【微風精霊】を使う授業すら満足に終えていない彼女には、それが必要なのかどうかわからない。ただ……なんとなくそれっぽいからやってみただけなのだ。実際、それっぽくはあった。少女が手を突き出したその一瞬だけ、少女は少女であると同時に、〈精霊〉を自在に駆使する、一種の〈魔法使い〉でもあるのだった。
彼女は小さな口を開く。
「【ヴィル・テル・プル】!」
蕾が花開くかのようだった。
少女の視界の中央で。日焼けした少年の眼前で、眼鏡の少年が少し後ずさる前で。詠唱と共に現れた光の渦は結束し、ぐねぐねと変形し、眩い光をさらに強め。そして―――破裂した。破裂の向こう側には、一体の〈精霊〉が浮かんでいた。
「わぁ……」
箱を乱雑に積み上げたような情報量の少ない胴体に、黒の単眼が大きく埋め込まれている。そんな姿。あまりかわいげのある外見とは言えなかったが、子供たちは気にしなかった。
精霊は口を開かない(そもそも口を持っていない)。しかし、子供たちは確かにこんな声を聞いた。
『お望みの魔法をお教えください』
無機質な声だった。
「……あなたが、【言葉で伝えた〈魔法陣〉を自動生成する精霊】?」
少女は問いかけ、
『お望みの魔法をお教えください』
精霊はそれを無視した。
「……えっと」
『お望みの魔法をお教えください』
「その……」
『お望みの魔法をお教えください』
『お望みの魔法をお教えください』
『お望みの魔法をお教えください』
その声は、決まり文句以外は喋れないように定められているかのようだった。
少女は対話を試みたが、それが意味をなさないらしいことを早々に悟ったし、対話するより〈魔法陣〉を生成する方が圧倒的に面白いだろうとも思った。だから何度か決まり文句を聞いたら、後は何の迷いもなく、こう伝えた。
「【リンゴを作り出す魔法】の〈魔法陣〉を作って」
『【リンゴを作り出す魔法】ですね。承りました』
三人の子供たちは全員その声を聞いたが、それを体験したのは少女一人だけだった。
「うわ!?」
「どうした? 大丈夫かよ」
「……やっぱりやらない方が良かったんじゃ」
いきなりの叫びをあげた少女に、二人の少年が視線を移す。そのせいで、〈精霊〉がどのタイミングで消えたかは、誰にも分らなくなってしまった。
少女はジェスチャーで彼らを抑えると、言う。
「……大丈夫。ちょっと、〈魔法陣〉が頭に流れ込んできただけよ……」
「頭に!? 頭って首の上にあるヤツかよ!?」
「……その〈魔法陣〉を描け、ってことなのかな」
「でしょうね」
それだけ言って、少女は石灰の塊を取り出した。目の前の地面にそのまま座り込むと、握りしめたそれを一心不乱に動かし始める。少女の手によって、少女らしからぬ複雑にして難解な模様が、その辺の路地裏に顕現し始める。
「……すげえな」
「もしかして、本当に〈魔法陣〉を生成できるのかな……?」
少年たちの声も無視だ。
少女の脳裏に閃光のごとく現れた〈魔法陣〉は、そのまま一時記憶として強力に刻み込まれ、もう数時間は意識せずとも彼女の意識下に残り続ける。リドリーザ博士は【言葉で伝えた〈魔法陣〉を自動生成する精霊】の開発時、とにかくコストを抑えることを追求した。この〈精霊〉をなるべく広くばら撒くことが彼の至上目的だったからだ。完成した〈魔法陣〉が直接精神伝達によって出力され、物理的な印刷・刻印を伴わないのも、基本的にはそれが理由だ。
少女の手は速度を落とさない。必死に地面の上を動き、動き、動き―――そして。
「できたわ」
僅かに長くなった影に覆われて、〈魔法陣〉が完成した。
眼鏡の少年は唾を飲み込む。
「……本当に、これが」
その声色には、確かな畏怖が込められている。
彼は真面目な生徒だったから、授業もちゃんと受けていて、先生がその最中に話したことも、軽い冗談を含めだいたいは覚えていた。そんな彼の記憶によれば、〈魔法陣〉とは―――非常に作るのが難しく、しかも一度使ったら二度と使えない。汎用的な〈精霊〉の組み合わせで解決できない場合のみに使う、極めて高度な魔法技術、そういうものだったはずだ。
それが今、自分と同い年の少女の手によって、十分足らずで足元に描き出されてしまった。
「……それじゃあ、魔力を流すわよ」
「おう……なんか緊張してきたぜ」
「…………」
眼鏡の少年は……自分はもしかして絶望しているのではないかと、思い始めていた。
しかし、少女の手は止まらない。小さな体に貯蓄された僅かな魔力を、指先ごしに陣へと流し込む。地面を走る白線が、発光を始める。
「ああ―――」
眼鏡の少年は、自分は間違いなく奇跡を見ているのだと思った。残りの二人はただワクワクと、無邪気に事が進むのを見つめている。でも彼にとっては、それが無邪気な目ではとても見られないような、ひどく恐ろしいことに見えてならなかった。〈魔法陣〉の光が弱まり始める。術が、そろそろ終わるのだ。彼はなぜか、「この術が失敗したらどんなに良いだろう」なんてことを思い始めていた。そして、それがきっと無意味な仮定に終わることを知っていた。
魔力光が晴れる。
「終わったみたいよ!」
「どうなった、どうなった!?」
少女と日焼けの少年が、我先にと〈魔法陣〉に目をやる。眼鏡の少年からは彼らの背中しか見えなくて、彼はそれを目を背ける言い訳に使った。彼は、怖かったのだ。
「あっ!」
「おいおい!」
本当ならその声も聞かず、耳をふさいでいたかったのだ。
「おいお前、こっち来て見てみろよ!」
しかし、そういうわけにもいかない。日焼けの少年はいつも通りの溌溂さで、眼鏡の少年に来るように言った。眼鏡の少年はしぶしぶ立ち上がって、僅か一夜にして訪れた新時代を目の当たりにしようと、歩き出した。二人の体が作る隙間から、〈魔法陣〉の中央を覗き込む。
少女が言った。
「どうやら、リンゴと見せかけてレンガの欠片が作り出されたみたいね」
【リンゴを作り出す魔法】は明らかに失敗していた。
夕方が終わりつつあった。