逃走劇
俺は特段運動神経が良くもなく悪くもなく、普通だ。
それは性別が変わった今も同じである。
だが、それはあくまでも『女子の中』で普通なだけであり、男の頃よりも確実に体が動かなくなっていた。
そんな俺が篠宮のような男に足で勝てるわけもなく。
「何で逃げた?」
あっさりと捕まった。
「いやー、ははは……」
トイレから大した距離も離れていないので、女子の様子が見えてしまう。非常に腹立たしいといった様子。
篠宮が俺を気遣ってくれるのは嬉しいけど、こうなってくると逆に迷惑な気がしてきた。
俺は顎で女子を指すと、篠宮は首だけ動かした。その隙に逃亡を図るも、すぐに捕まった。
「どうしたんだ、様子がおかしいぞ」
俺は無言で俯く。やっぱりトイレに籠っていたほうが良かったかもしれない。
その後も何度か逃げようとしたが、毎回二秒ほどで捕まった。こいつの反射神経どうなってるんだ。
俺が唸っていると、篠宮は埒が明かない、と言いながら突然屈んだ。
「少し我慢してくれ」
「ひぇ」
彼は俺の体を軽々と抱え上げ、屋上へ向かって走り出した。
これは……俗に言うお姫様抱っこでは?
恥ずかしさと情けなさが込み上げてくる。
というか、視点が高い。普段より40センチ近くも高くなっているのだから当たり前なのだが、少し怖い。
これが彼のいつも見ている景色か。大体のものが小さいな。
あっという間に屋上に着くと、萌希が弁当を広げて待っていた。
俺は篠宮に弁当を持っていけと言ったはずだが、なぜ萌希が俺のリュックを持ってきているのか。
篠宮の腕の中で思考を巡らせていると、萌希が威圧感のある声でゆっくりと話しかけてきた。
「蓮ちゃん、篠宮くん。その状況を説明してもらえる?」
「……うわああああ!」
急激に恥ずかしさに襲われて、俺は篠宮の腕の上で暴れた。しかし彼はびくともせず、ゆっくりと俺を降ろした。
俺は息を切らしながらも、説明を始める。
「……あのですね。篠宮と見知らぬ女子が話していたので、邪魔をしたくないな、と……」
正座しながらぼそぼそと述べる。
「それで、篠宮から逃げてたら、こいつが痺れを切らして俺を抱えてここまで来ました……」
俺の説明を聞き、篠宮が驚きの表情に変わる。
「鳴海……見てたのか」
「見てたっていうか、外出ようとしたら耳に入って」
篠宮が大きなため息を吐いた。
「何があったの?」
「いや、なんか見知らぬ女子から告白された」
萌希の質問に律儀に答える篠宮。嫌なら言わなくてもいいのに。
というかあれ、やっぱり女子側は篠宮に気があったんだな。俺の行動は間違っていなかったはず……。
「告白ぅ〜っ!?」
萌希の黄色い声に耳がキーンとなる。
目がその件について興味津々、といった感じで輝いている。そういう話、好きそうだもんな。
「それで、どうしたの? 応えは!?」
「どうしたもこうしたも、普通に断った」
淡々と述べられたその言葉を聞いた瞬間、萌希のテンションが溶けていくのがわかった。
参考までに理由を訊いてみたら、容姿が好みではなかったらしい。その上、全く知らない人から告白されても、内面を知らないのに付き合うのは怖い、と言っていた。
篠宮みたいな堅物にも好みはあるのか、と感心した。
「篠宮くんの好みってどんな娘なの?」
「考えたことなかったな。好きになったら、それが好みなんだろう」
よくある曖昧な答えだ。萌希は不満そうに口を尖らせていたが、当の本人はよくわかっていないようだ。
「お前ってそういうの無頓着そうだけど、好きな人いんの?」
「いるぞ」
「おぉー、いるんだ。予想外」
何気なく訊いてみたのだが、意外な収穫だ。
恋愛かぁ……。
俺はどうすればいいのか。
男から女になった今でも俺の感性は変わっていない。
かっこいいものを見ればかっこいいと思うし、可愛いものを見れば可愛いと思う。
俺は今まで生きてきて、『好き』という感情になったことがない、不器用な人間だ。もしかしたら、ただ単に『好き』だという事実に気づいていないだけかもしれない。
己の心の性に従って女性を好きになるのか、体に合わせて男性を好きになるのか、それともーー。
「鳴海?」
「……あ、うん、何?」
「いや、放心していたようだったからな」
二人から心配される。
いつかは自分の心に向き合わなきゃなぁ。
「何でもないよ。さ、飯食おうぜ」
いつもよりお腹が減っている気がする。今日はちょっとだけ多く食べられそうだ。
─────────
家に帰ると、玄関前に昨日の男が立っていた。今日もインターフォンを鳴らしている。
顔はそれなりに整っていて、身長もそこそこある。なんで家の前に立っているんだ。これでは俺が入れないではないか。
「……あの」
恐る恐る声をかけると、男性はハッとして振り返った。
やっぱりどこかで見覚えがあるような。
「君は……」
「そこの家の者ですけど……うちに何か用ですか?」
「鳴海家の……? 失礼だけど、名前は?」
「見ず知らずの人には名乗りたくないです、すみません」
何だこの人、親戚か何かだろうか。
少なからず、うちについて何かを知っているようだし、俺が感じている既視感も合わせて、どこかであったことはあると思うのだが。
うーん、思い出せない。
「僕は鳴海蓮、という子に用があって来ているのだけど、君は妹さんかな?」
ビクッと体が跳ねる。
この人……なんで俺の名前を?
「その様子だと蓮は中にいるのかな?」
いや、中にはいないですけど。むしろ目の前にいますけど。
どうしたものか。怪しい雰囲気がビンビンだし、わざわざ自分から名乗る理由がない。
でも退いてくれないと家に入れない。
仕方ない、萌希の家に避難しよう。
俺は身を翻すと、萌希の家へと走り出した。今日は走ってばかりである。
「あっ、ちょっと!」
男性は俺を呼び止めはしたものの、追いかけては来なかった。
濃密な一週間




