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(閑話)叶わぬ思いと歩き巫女、そして頼み事(前)

(閑話)となっておりますが、途中挿入した話で本編同等です。

読んで頂く方が、より作品の理解が進むと思います。




 

 永禄五年(1562年)六月、美濃、長良川中流の街道にて

 一女ひとめ



 また、甲高い口笛が鳴った。

 短く二回、長く三回、一拍の間、長く一回、短く一回。


 先回りされ道を塞いだ気配がする。これで、飛騨に戻る道は完全に断たれた。


 明らかに狙いは、私だ。


 短い音と長い音を組み合わせた口笛は、指示だ。今回の口笛は、私の東にいる者たちに、北に行けとの指示だったのだろう。飛騨に抜ける道を塞ぐための。


 これで、進めるのは南のみ。

 包囲の口が開いている長良川に沿った道を進めと言うのだろう。


 来た道を戻ろうとしても、山に入って逃げようとしても、そして、物陰に隠れてやり過ごそうとしても、口笛による適切な指示が出され、追い詰められてきた。

 十数人が一組となり東西南北に配置された四組が包囲の輪を縮めてきている。

 基本的には、東西と北の三組が動き、南側の長良川に沿った道を進むように追い詰められている。


 恐らく、そこには私を待ち構えている男がいる。


 海野幸稜うみのゆきかど、それが私を待つ男だ。


 海野幸稜は、昌幸様の新しい主となった男で、決して姿を見せることのない御月衆と呼ばれる忍びの主。そして、どうにも気味の悪い男。


 ここ数ヶ月、この男を付け回しその行動を監視してきた。


 外では、どのような働きをする男なのか。

 御月衆とはいかなる集団なのか。

 それを、探るように新しく真田家の当主となった昌幸様から命じられたから。




 真田家の先代当主の幸綱ゆきつな様が健在であった頃、昌幸様は武藤家に養子に出された。

 昌幸様には、武勇と知略に優れた二人の兄がおり真田家を継ぐことは叶わぬことだった。しかし、そのお陰で私は昌幸様に出会うことができた。


 天は、昌幸様と私を巡り逢わせてくれた。


 世が永禄に代わった頃、私は武田家配下の望月千代もちづきちよ様が組織している歩き巫女の集団に入った。


 ある日、信濃と美濃の山間にあった村に望月の者たちがやって来て、私を目麗しいと言って買い取った。そして、望月の里に連れて行き、歩き巫女としての訓練を受けさせた。

 巫女としての作法や知識、そして、山や谷など道なき道を走破する技術を教えてもらった。

 歩き巫女は、武家のように刀を振り回して戦うことなどはしない。ただ、望月の里と各地を往復して情報を集め、そして、武田家に都合のよい噂を流すだけ。


 里での修業が終わると、武藤家の屋敷に連れていかれ昌幸様と会わされた。そして、昌幸様の配下として預けられることになった。

 恐らく、武藤の家を継ぐことになった若い昌幸様へ、父である幸綱様からの手向けだったのだろう。


 その時、昌幸様から「一女、俺の目となり、俺の耳となり、俺を助けてくれ。頼む」と手を握られ真摯な眼差しで言われた。

 それは、上下関係での命令ではない、これから共に歩む仲間だという昌幸様の意志を感じた。

 だから、私は、昌幸様を、この人を、助けるために、立派な歩き巫女になろうと心に誓った。


 当時は、二人とも子供だった。

 元服したばかりで武藤家を継いだ昌幸様には配下らしい配下はおらず、私も修行を終えた歩き巫女とはいえ、右も左も分からない小娘。


 頼れる者もいない同じ年の二人が、打ち解けるに時間はかからなかった。

 上下関係や男女差もなく、お互いのことを忌憚なく話しすることができた。


 多分、この時が、一番良い時だったのもかも知れない。


 やがて、二人は年を重ね、上下関係があることや、男女であることの差がよく分かってきた。

 二人は対等ではないと周りから注意され、自分たちも意識したりで関係は変わっていった。


 それでも、昌幸様に仕えてよかったと思っている。


 多分、これは恋。

 決して実らぬ恋なのだろう。

 でも、昌幸様の側にいたい。


 ずっと、ずっと、これからもずっと、昌幸様の側にいたいと願った。



 そして、昨年の春。

 十四となった昌幸様に室を迎える話が持ち込まれた。


 嫌だった。


 そんな話を持ち込んだ真田本家も。

 はにかみながら、その話を教えてくれた昌幸様も。

 そして、昌幸様に室が入るのは嫌だと思った自分も。


 子孫を残すのは武家当主の役目。そして、自分はその相手にはなれない。


 叶わぬ望み。


 昌幸様の側にいれるだけで、十分だと自分に言い聞かせたはずなのに、言うは易いが行うは難しい。


 昌幸様の顔がまともに見られなくなり、このままでは気が触れそうだったので、今川を下した尾張の織田家を探るとの名目で、無理やり歩き巫女の旅に出た。


 昌幸様は、急に暗くなった私を心配して無理に旅に出ることはないと言ってくれたが、その優しさが別の女人に向けられることになるかと思うと悲しくて、悲しくて。



 その年の秋、尾張にて東美濃に上杉勢が現れたと噂に聞いた。

 驚きと戸惑い、そして、胸騒ぎ。


 急いで信濃に帰ることを考えた。しかし、遅かった。


 織田勢が、内情が漏れることを嫌って尾張から東美濃へ行く街道を封鎖してしまった。

 この時、織田勢は東美濃の遠山家の後詰めに向かうことを決めており、上杉勢との合戦準備に入っていた。


 一刻も早く信濃の昌幸様のもとに戻りたいのに戻れない。

 早く昌幸様の顔を見て安心したかった。

 何事もないのだと確認したかった。


 気だけが焦った。


 尾張から東美濃の街道が通れないのであれば、一旦、三河を抜け三州街道で信濃に入る方法がある。あるいは、北に向かって飛騨に入り野麦峠を越えて深志に出る道もある。


 しかし、どちらも遠回り。どうしようかと迷っていた。

 飛騨経由の道を想定して旅支度を整えていると、織田勢が上杉勢との合戦に敗け逃げ帰ってきた。


 これで、中山道が通れる。


 上杉勢の狼藉の危険があったが、物売りに混ざって抜ければよいと思い、近道である中山道を信濃に急いだ。


 途中、街道脇に駐屯している上杉勢を見た。


 心の片隅には、東美濃に来たのは上杉勢ではなく、本当は武田勢なのではとの思いもあったが、確かに上杉勢であったことに落胆した。

 上杉勢は、乱取りなどの狼藉を働く雰囲気は微塵もなく、淡々と普請をしていた。

 その姿が不気味に見え、ますます不安にかき立てられた。


 一体、武田家は、信濃は、どうなっているのか?

 上杉勢が美濃にまで来たことは、何を意味するのか?

 いや、昌幸様さえ無事であれば、他のことなど些細なこと。


 一層、足を早めた。


 峠を越えて信濃に入る。


 信濃や甲斐が上杉勢に下ったと道すがら耳にし、破裂寸前まで膨らんだ不安を抱えて武藤屋敷にたどり着く。

 最初に見つけた家人を捕まえ、息を切らしながら昌幸様の無事を確かめた。


 無事だった。


 私は、その場にへたり込んだ。


 昌幸様は無事だった。しかし、無事でないかも知れなかった。

 昌幸様は、すでに武藤屋敷にはいなかったから。


 家人は、川中島の地で武田勢と上杉勢の大合戦があって武田勢が大敗し、真田本家の当主や昌幸様の兄たちが合戦場から戻って来ず討ち取られたらしいと語った。

 それで、合戦に参加していなかった昌幸様が、真田本家に呼び出されたと。


 再び、奮い立ち、真田本家への道を急いだ。


 武田勢は敗け、上杉勢は勝った。

 それも、信濃と甲斐を捕ったほどの上杉勢の大勝。


 敗けた者たちの処遇は、勝った者が決める。

 下った者を家臣として遇することもあれば、首を跳ねることもある。それが、勝者の権利であり世の習い。


 昌幸様の無事を願いながら、真田本家の屋敷に駆け込んだ。


 昌幸様は、無事だった。

 五体満足な昌幸様が目の前にいた。

 昌幸様が、疲れた顔を無理やり笑顔に変えて「一女、よく戻った」と言ってくれた。


 私は、昌幸様の面前で泣き崩れた。


 昌幸様は、何度も「心配をかけてすまぬ」と私を慰めてくれる。

 膝を土に着け、私の手を握り、肩に手を置き、優しい眼差しで何度も「すまぬ」と。


 私は、昌幸様の手を握り返して、涙を流すことしかできなかった。

「よかった。よかった」と声にならない嗚咽とともに泣いた。


 私が落ち着いた後、武田勢と上杉勢の合戦経過のこと、武田勢が籠っていた海津城に星が降ったこと、真田家の当主と兄たちが戻らぬために昌幸様が仮の真田家当主を務めること、そして、上杉に降ったことを教えてくれた。


 昌幸様が調べたところでは、武田方の名だたる武将の行方が分からなかった。昌幸様は、恐らく、星降りによって海津城とともに亡くなったと考えられると言った。

 それは、理屈では分かる。しかし、気持ちは納得できない。

 もしかしたら、皆が山中に逃げ隠れているのではないかと思いたい。


 昌幸様にその思いをぶつけると「難しかろう」と悔しそうな顔で言い、しばらくは真田屋敷にいるように命じられた。


 夏が終わり、紅葉で山が赤く染まる。その赤い葉が落ちると、今度は雪が降り出した。

 静かな正月を迎えた後、暖かな日が増えてゆき、雪が融け始めると、ふきのとうが芽を出した。



 そして、春となった永禄五年(1562年)四月。


 村上義清むらかみよしきよは、信濃国人に対して深志城に登城するように命じた。


 越後上杉家は、もと信濃人である村上義清に信濃の国を預けたと噂で広まっていたので、皆が村上義清からの呼び出しに驚きはしなかった。


 この頃になると、旧武田家臣の内、誰が生き残っているかがはっきりしていた。簡単に言えば、川中島合戦に参加していなかった者たちだけが助かっていた。


 助かった者たちが合力しても上杉勢には対抗できないと皆が諦めており、自家を残すために上杉に従うと誓約を出していた。


 真田家もその一つ。


 むしろ、村上義清の呼び出しによって、自分たちの知行地や役目に興味が移っていた。


 武田ゆかりの家や重臣たちの知行地は、改めて没収を言い渡され、国人も軒並み減封となった。

 代わりに、これまで村上義清に従ってきた家臣や越後から移封された上杉家臣が新たに知行地を得て治めることになった。


 真田家は旧武田重臣であったため、村上義清が出した沙汰から逃げることはできなかった。しかし、真田家を拾う者がいた。


 それが、海野幸稜だった。


 武田ゆかりの諏訪勝頼と旧武田重臣である真田昌幸を自分の家臣にと切望したと聞いている。


 海野家は、東信濃に所領を持っていた武家であり、望月、根津、真田といった滋野一族の嫡流である。

 しかし、二十年前に武田、諏訪、村上の連合軍に敗けて行方知れずとなった家であると昌幸様に聞いた。


 その海野家が、いつの間にか村上義清の家臣となって残っていて、このほどの川中島合戦の勝者側で再登場してきた。


 昌幸様と同じ年頃の少年である海野幸稜は、顔合わせの場で諏訪勝頼と昌幸様を家臣にすることを一度断ってから引き受けるという行動を見せた。

 それが、弱気なのか、知恵なのか判断に困った昌幸様は、海野幸稜を試したそうだ。


 結果、海野幸稜は愚者ではない、だが、武家としての気概がないと評価を下した。

 多くの家臣を集め自家を盛り立てようとするのが武家たる務め。だが、海野幸稜にはそれが感じられない。


 海野家臣となる真田家にとって、それでは困ると昌幸様は言った。

 いずれ故郷である東信濃を真田家に戻したいと考えている昌幸様は、海野家が手柄を立て大きくなってもらわねば、真田家も大きくなれないからと。


 だから、昌幸様は、私に命じた。

 真田家復興の手がかりを求め「海野幸稜の人なりを調べよ」と。


次回、(閑話)叶わぬ思いと歩き巫女、そして頼み事(後)



一女ひとめの物語でした。

前編では一女の紹介、後編では本編にかかわる話となります。

ところで、一女は前作で登場していましたが、どこで登場したでしょう。

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