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逃避行と首

 

 永禄五年(1562年)六月、越中、富山城近郊にて

 海野幸稜



 勝頼から預かった太刀は、甲斐国江かいくにごうと言う名だった。

「にごう」としか聞き取れなかったので、てっきり何とか二号という太刀なのかと思った。武田家に伝わる太刀とはいえ、変わった名だなあと。


 なかなか、勝頼と昌幸の性格がつかめない。二人ともいまだに俺のことを「殿との」とは呼んでない。


 殿と呼ぶのが恥ずかしいのか。

 いや、殿とは呼べないほど、俺が頼りなく映るのか。


「…の、殿、どうしました?」

「嬉しそうな顔をされますな」


 お前たち。

 お前たちだけだよ。俺を殿と呼んでくれるのは。

 べ、別に呼んで欲しい訳じゃないけどさ。



「追っ手もなさそうですぜ」


 物見から戻ってきた段蔵は、息も切らしていない。

 角雄と段蔵の兄弟は、足が遅いわけでも、持久力がないわけでもない。

 むしろ、大工だったときの日々と比べて、体を使うことが少ないので、体力が有り余っている。


「殿の読み通りに事は運んでおりますな。まさか、このように梅雨が開けるなどとは思いませんでしたが」


 角雄が見上げる空は、青空だ。

 多少、雲が残っているが晴天といってもよい。夏特有の強い日射しが容赦なく降り注いでいる。


「まったくだ。殿は、すげえな」

「段蔵」


 いいよ、いいよ。もっと誉めてくれ。


「それで、この後は?」


 ここまでは、順調だった。


 俺の選んだ策は、秀吉の二番煎じ。本能寺の変の、中国大返しだ。

 違いは、あちらは攻めだが、これらは退き。目的は違えど手段は同じ。


 最速で駆けろ、だ。


 東の方角が白けるとともに起床した海野勢の兵たちに、敵軍に包囲されつつある現状を説明し、武器防具を捨て敵とは戦わずに松倉城まで逃げることを告げた。


 それを聞いた兵たちが、もっと騒ぎ立てるかと思ったが、静かなものだった。


 末端の兵から見たら武器防具は借りている物であるので、それを捨てて損もしなければ、それに未練もない。


 感覚的に何も持っていなければ、仮に偶発遭遇しても走って逃げ切れるとの想像も働く。そして、勝頼や昌幸のように全てを捨てて逃げることに躊躇はない。


 富山城と松倉城は、直線距離で六里(24キロメートル)、迂回しても七里なのである。

 今日一日頑張って走れば逃げ切れるのだ。

 兵たちに、不満は生まれなかった。


 しかし、不安に思う者はいる。

 足の速さに自信のない者、持久力に自信のない者だ。


 俺が、足に自信のない者たちを引き受けていっしょに逃げると言った時の兵たちの顔は見物だった。

 まさか、大将が真っ先に逃げず、むしろ囮のような役割をするとは思わなかったからだ。


 俺とともに逃げる者たちは、五十名ほど。

 五名ごとに班を作り、班長が遅れないように面倒を見る。俺は、班長に命令するとした。


 海野勢全軍が急いで朝飯を食って、逃げだす準備をする。


 勝頼と昌幸たち松倉城へと逃げる者たちは、一食分の食糧と替えのわらじを手持ちにして、残り全てを捨てると妙な気合いが入りだしたのには笑った。

 これから合戦でも行うかのような気合いであった。


 反対に、俺に従って飛騨美濃経由で逃げる者たちには、覇気は生まれない。ただ、ひたすら逃げきれるのかと不安な様子でいた。


 そして、俺たちは、北へ、西へと逃げ出した。


 松倉城を目指して、勝頼たちは北へ。

 飛騨を目指して、俺たちは西へ。

 どちらも包囲を狙っている敵軍を迂回する道になる。



 朝日が昇った後、梅雨色の雲が徐々に薄れ、敵を出し抜いた頃には、うっすらと青い空も見られるようになった。


 月さんの力で、梅雨を一日早く開けさせた。午後にはもっと青い部分が増えるだろう。


 さすが、月さんの力は偉大だ。

 これで、動き易くなった。

 梅雨開けした雲の穴を通して、俺たちの状態、勝頼たちの状態を知ることができるようになったのだ。


 俺たちは、朝一で富山城と南側に展開していた敵軍の間を抜けて、神通川を渡り砺波となみを目指す。


 砺波は越中の国であるが、すでに一向衆門徒の土地だ。上杉謙信の祖父が敗死した土地でもある。


 なぜ、砺波を目指したかだが、砺波の一向衆戦力が神保家に加担して富山城方面に展開しているため手薄であること。そして、この砺波に、準同盟相手である斎藤家の稲葉山城下の井ノ口まで至る道があるからだ。


 砺波を南下するとすぐ山岳に突入し、庄川沿いに道なき道を通り五箇山郷にたどり着く。さらに国境を越えて飛騨の白川郷を抜けて分水嶺を越えると、そこは長良川の源流だ。後は、長良川に沿って南下したら美濃の井ノ口に至る。そこは稲葉山城の城下町だ。


 富山、高山、下呂、尾張を通る飛騨街道に比べて良い点が多々ある。

 五十名の浮浪者に対抗できるだけの国人衆がいない。

 飛騨を支配している姉小路家を刺激しない。

 飛騨の統一を果たし姉小路と名を変えたばかりの三木家は高山におり、俺たちが通る道とは距離が離れているためだ。

 もし、俺たちに対抗するために兵を集めたとしても、集めている間に美濃に抜けることができる。




 という状況で、今、神通川を渡って一里ほど進んだ所で休憩を取っている。

 道なき道を進む俺たちは、時間がかかる割に距離は稼げていない。

 今日中に砺波に入れるかどうかといったところだ。


 まあ、空が晴れる限り問題はない。

 明日、明後日と強制で晴れる予定だしな。

 その頃には、山中に入っており、敵も俺たちの意図を悟って諦めるだろう。


 月さんの情報では、勝頼たちも松倉城に至る道を塞いでいた敵軍と激突せずに、海沿いに迂回を果たした模様だ。後は、追いつかれないように走り逃げ松倉城に入城するだけとなる。さらに、早ければその日のうちに根知へと退却する。



 一休憩後、俺たちは砺波を目指して行軍を再開した。空の雲が少なくなるに従って兵たちの表情も明るくなっていく。


 少し離れた後ろからついてくる段蔵からの追っ手の知らせもない。

 雲が切れた場所だけの情報ではあるが、月さんも追っ手については否定的だ。


 俺たちが、敗走しているという噂より早く移動していることから、農民たちの襲撃もない。

 そのまま襲われることもなく、砺波の人気のない場所を抜け、庄川沿いの山道の入口まで来て日が暮れた。


 早朝から夕暮れまでの半日、ほぼ小走りの逃避行。大変な一日であったが、この策は、成功しそうだった。



 この日は、適度に各班が分散して夜を過ごし、日が昇るのに合わせて再集合、再出発とした。

 夜の移動は、怪我をする危険が多いので動かない。


 翌朝、雲のない空が白み始めた頃、干し飯をポリポリ食べ終えてから、兵たちに気合いを入れに回った。

 そして、「もう一息だ。飛騨に入ったら、もう少しゆっくりできるぞ」と言い回っていた時に、それは起こった。


 四組二十名の兵たちが俺の前に現れ、こう言った。


「殿様、悪いがその首を俺たちにもらえないか」


 はあ?


「お前ら、何を言っている」

 鳶兄弟がそう言って、俺の前に出ると兵たちと対峙した。


「その首さえあれば、俺たちは助かる」


 兵たちは、まだ穏便だ。

 俺を説得して何とかなると思っているようだ。腰にある刀に手をかける者はいない。


 おいおい、急に何を言い出すんだよ?

 あと一日頑張れば、飛騨に入れる。そしたら神保勢や一向衆勢から追われることも心配いらないはずだ。


「もう少しで飛騨に越えられるんだぞ」

 角雄が、俺の言いたいことを代わりに言ってくれた。


 そうだ、そうだ。だから、俺の首は必要ないだろ。


「いや、一向衆門徒がこの先の山道で俺たちを待ち構えているらしい。だから、殿様の首を差し出して逃がしてもらうんだ」


 はあ?


 月さんの観測では、この先の越中、飛騨の山道に俺たちの脅威となる集団の存在は否定されている。


 俺に視線だけ向けた角雄に、首を振った。

 俺の忍びである御月衆は、敵の存在を否定しているとの意味だ。そんな敵存在の事実はない。


「そのような敵の知らせはない。心配するな」

「居たら俺たちは、全滅するだろ。その前に殿様の首を」


「おいおい、殿様の首とはただ事じゃないな」

「どうした。この先に敵がいるって聞こえたが」

 争う声が響いたのだろう。わらわらと周りの者たちが、集まってきた。


 青海の顔見知りたちは俺側に寄り、状況の知らない者たちは、争う俺たちの周りを囲んだ。


 俺に味方する者は鳶兄弟を含めて六人ほど、対するは二十人だ。争いになったら、かなり分が悪い。


「殿様、俺たちを守るって言うんだったら、黙ってその首をくれないか。俺たちだって殿様とは争いたくないんだ」


 俺に従って逃げている者たちは、具足は捨てたが、刀や槍までは捨ててはいなかった。俺も勝頼より預かった刀を持っているし、絶えず走って移動する訳ではないからだ。


 お前ら、刀を抜くなよ。

 今は、晴れているからな。

 せっかく、逃げて故郷に帰れるのに、こんなところで仏になるのは嫌だろ。

 俺も嫌だ。


 俺は、角雄の肩に手をかけた。

 俺自ら話をするから前後してくれという意味だ。


「なるほど、山道に敵が待ち構えているのだったら、俺たちは、全滅するかも知れんな」

 首をくれと言った班長格の兵に俺が話す。


 相手の言うことを認める。

 それは、相手を逆上させず会話を行うための第一歩だ。そして、二歩目は、なぜ、そう考えたかを聞き出すことだ。

 それは、問題の解決の糸口を掴むためだ。


 糸口が掴めなかったら?

 解決できなかったら?


 それは、それで仕方ないことだ。

 お互いに天の裁きを受けよう。

 そう、お互いに、天のな。うけけ。



 俺が兵たちを助けるために素直に首をやるとでも思ったのか、対峙する班長の表情が緩まる。


「ところで、敵が待ち構えているというのは、誰の知らせだ。偉い奴だ。皆のために先に探りに行ったのだろう。褒美をやろう。お前か?」


「えっ」

「違うのか」


「誰だっけ?」

 と班長は、自分の背後にいる兵たちに問い合わせるが、周りは首を振るのみだ。


 おいおい、誰だよ。適当なことを言った奴は。

 ってか、お前もいい加減な情報に踊らされるなよ。


「いつ、そんな話になったんだ」

「昨晩」

「昨晩?」


「暗くて誰が言ったかはわからない」

「この話、お前が言い出したんじゃないのか?」


「いや、俺じゃない。昨晩、誰かが言い始めたんだ。このまま、進んだら一向衆門徒がいるから助からないって。一番偉い奴の首を差し出したら助かるんじゃないかって」


 だからって、俺の首かよ。

 ひどい奴らだな。


 ん、ちょっと待て。


「誰かは、わからないが、一番偉い奴の首を差し出せば助かるって言ったんだな」

「ああ、そうだ。そして、褒美をもらえるかもとも言ったんだ。だけど、そこまでは考えてねえ。そんなことをしたら越後に戻れなくなるからな」


 俺が自分から皆を助けるために腹を切ったのであれば、兵たちは咎めを受けない。だが、兵たちが俺を切ったのでは、裏切りだ。越後には戻れなくなる。それは、俺の首で褒美をもらっても同じ事だ。


 ようやく、この話を仕掛けた犯人がわかった。

 俺の首を狙うとは不届きな奴だ。

 そんな奴には、天誅をくれてやろう。


次回、詐欺の手法と犯人の末路



江戸時代前期より長らく行方不明だった甲斐国江かいくにごうは、アメリカで発見されたそうです。

幸稜の首を狙った犯人の正体は!


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