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包囲突破の策と太刀

 

 永禄五年(1562年)六月、越中、富山城近郊にて

 海野幸稜



 越中の国力から判断すると、神保勢も椎名勢も思ったより兵数が少ない。

 神保勢は二千、それに対する椎名勢は千五百ほど集めただけであり、足しても三千五百程度である。

 越中の国力は、越後の四十万石に近い国力だから、本来一万ほどの兵数を動員できるのに、今回の合戦に動員されているのは、その三分の一ほど。


 本来より少ない動員の理由として考えられるのが、神保家と椎名家の統治基盤の弱さである。

 両家とも、これまでの越中大乱の敗者であるに起因するのだ。


 もともと、越中は守護畠山氏が治める国。

 しかし、守護である畠山氏は、政争に明け暮れ畿内にあり、越中には不在だった。そのため、神保家や椎名家の守護代たちが守護の替わりに越中を治めていた。


 そのような中、隣国加賀の一向衆勢力の食指が動く。

 一向衆は己の影響範囲を拡げようと、南の越前と北の能登越中に侵攻を計ったのだ。


 越前では、朝倉家の希代の名将、朝倉宗滴あさくらそうてき、すなわち朝倉教景あさくらのりかげによって一向衆は阻まれた。

 能登でも、能登守護の畠山氏が一向衆を退ける。


 一方、越中での一向衆は、守護からの独立を目論む神保家とひそかに結んだ。さらには、椎名家もそれに乗る。

 結果、越前と能登で敗れた一向衆たちも加勢して、越中に雪崩れ込むことになったのだ。


 そのような一向衆の動きに困った越中守護である畠山氏は、同族である能登守護の畠山氏に、越中に侵入する一向衆を撃退するよう要請した。しかし、能登畠山氏では内紛が始まり、それどころではなくなっていた。


 そこで、越中畠山氏は、越後の実権を握っていた守護代の長尾氏に一向衆の討伐を依頼する。

 越後に一向衆を入れたくないと考えた長尾氏は、畠山氏の要請を受け入れ一向衆討伐のために越中へと侵攻した。だが、共に戦うはずの神保家、椎名家の不意の撤退により孤立した長尾氏当主が敗死してしまった。それが、上杉謙信の祖父の話となる。


 このような出来事から、越後長尾氏には、神保家、椎名家と一向衆は許せぬ相手となった。これが、越後長尾氏ひいては、のちの上杉家の越中に対する姿勢の背景となっている。


 上杉謙信の先代長尾当主の頃、神保家と椎名家の当主はいずれも長尾氏に攻められて自害。

 先代の長尾当主は、敗死した父親の仇討ちを果たした。

 その後、椎名家は長尾氏配下に組み込まれて生き残り、一方の神保家は逃げ延びて家命を残した。


 それから約二十年後、再興を果たした神保家は、再び一向衆と結び越中を支配しようと長尾家配下の椎名家を攻めた。

 攻められた椎名家は、上杉謙信に救援を求める。


 これが、御屋形様が関東管領に就任する前年の永禄三年(1560年)三月の越中侵攻になった。今から二年前の出来事である。


 この時の長尾景虎、すなわち上杉謙信は富山城を落として、神保長職を追い詰めたが、結局は能登畠山氏の仲介により和睦した。

 そして、二年後の今、再び、神保長職は一向衆ともに越中を我が物にしようとしている。


 上杉氏を継いだ長尾氏は、三代三十五年間に渡って一向衆と神保氏と戦っている。


 それはもう、宿敵と言える。




 俺は、これまでの越中と上杉家の関わりに思いを馳せた。


 この合戦で俺たちが大敗するのは、ほぼ確実である。そのことが、御屋形様に対して申し訳なく思われる。


 宿敵に土をつけられる。

 確かに、この合戦で敗けるのは海野勢かもしれないが、上杉方であることには変わりない。

 自分が参加していない合戦だからといって、敗けて何も思わないものではない。

 むしろ、自分が参加できなかったことを悔やむだろう。それが、宿敵相手であればなおさらである。



 俺の考えた策が、さらに上杉方を貶める結果になるかもしれない。

 俺の家臣たちも、そのように思うことだろう。しかし、どんなに情けない策であろうと納得してもらわねばならない。


 敗け戦は、みんなで逃げるが勝ちだ。

 それが、俺の思い。


 それに、敗けて逃げ帰ったことで根知の城代を首になるかもしれない。物理的に首が飛ぶのは困るが、城代を首になるのは大歓迎だ。うけけ。



 天幕を雨避けにした下に、かがり火が焚かれていた。

 そこに集まった五人。

 俺、諏訪勝頼、真田昌幸、鳶角雄とびかどお、そして、角雄の弟の段蔵だんぞう


 周囲がすっかり暗くなった中、俺たちは集まっていた。そして、誰もが、俺の言葉を待っている。俺が決定した話を聞こうと待ち構えていた。


「皆、聞いてくれ。俺は、俺の失策で皆を死なせるのが嫌だ。情けないと思われても仕方ないが、嫌なものは、嫌なんだ」


「「…」」


「そこで、俺は考えた。昌幸の策を取る」

「はっ」と言って昌幸が、頭を下げた。


 俺は、勝頼に目をやる。

 反発するとしたら勝頼なのだが、戦慣れしていない俺が取るであろう策を想像していたのか、勝頼は頷くだけ。


「では、殿しんがりは、いかがいたします」

 昌幸の問いに、俺を見る勝頼の目が強くなる。


「殿は、なしだ」

「馬鹿な」


 勝頼が、誰よりも先に声を上げた。おそらく、自分が殿をやると名乗り上げるつもりだったのだろう。


「まあ、聞いてくれ。殿を置かない理由はある。それは、海野軍は敵軍に追撃されないからだ」

「追撃されないとは、いかなることでしょうか?」


「昌幸、いい問いだ。では、なぜ、追撃されるかだ。それは、簡単だ。敵兵に追いつかれるからだ」


 当たり前のことを話す俺を、訝しげに皆が見る。


「追撃されないようにするには、どうしたらよいか? それは、簡単だ。追いつかれなければよい。とても簡単なことだ」

「話がよく、わからないのですが」


 おいおい、真田昌幸ともあろう者が、わからぬとは情けない。

 やはり、昌幸には師が必要だ。

 彼の脳味噌が柔らかいうちに多くの知識を吸収し、そして、その知識の活かし方を学ぶ必要がある。


「敵兵より速く動くためにはどうしたらよいか」

「敵より速く?」


 昌幸が、手を口許に当て眉間に皺を寄せた。きっと、海野勢が退却する時間や経路の想像をしているのだろう。だが、それでは問題を解決できない。

 そう、それは、質量とエネルギーの等価性の問題なのだから。


 俺は、兜の緒を緩めて頭から外した。

 そして、角雄と段蔵に俺の着込んでいる具足を外すように頼む。


 徐々に外されていく俺の具足を見ながら、昌幸が気づいた表情に変わった。


「まさか」

「ああ、そのまさかだ」


「我らに、具足を外して逃げ走れというのですか」


「そうだ。武器もだ」

「なっ」

 勝頼の見開かれた目が、俺を見る。


「ちょっと待て、言いたいことはわかる。戦から逃げたと言う謗りは、俺が全て受ける。それは、当然だ。この海野幸稜が下した命だからな。海野幸稜は、情けなくも戦から逃げた。何もかも放り投げて逃げた。お前たちも、そのように吹聴するがいい」


 俺は、勝頼を手で制し、先に言いたいことを言った。


 勝頼が俺に言いたいことは、だいたい想像できる。そして、それを聞いたからと言って策を変えるものではない。


 言葉は、言霊だ。力があるのだ。

 そして、その力は、善き力にも、悪き力にも変わる。

 適切に相手しなければ悪き力となって、本人も周囲の者も蝕んでしまう。

 そして、勝頼は若い。自分が発した言霊の力に敗け、悪き力としてしまうかもしれない。


 だから、今、勝頼の言葉は聞いてはいけない。聞くのは、もう少し先だ。



 俺の手によって言葉を止められた勝頼が、口をつぐむ。しかし、勝頼の握っていた拳に、さらに力が入ったのがわかった。


 俺は、比較的に冷静な昌幸に話を振る。勝頼の頭が、少しでも冷えることを祈って。


「昌幸、どうだ。武器や具足がなければ松倉城まで敵の追撃をかわして逃げ切れるか」


「二つほど問題があるかと」

「何だ?」

「はい、一つ目ですが、武器や具足は兵たちに貸し与えている物。それが、失われてもよいのでしょうか」


「いい。そんなもの敵にくれてやれ」

「…では、二つ目です。これが問題なのですが。武器や具足を放り出したとしても、足に自信のない者もおりましょう。その者たちが、追撃を受けるかと」


「足に自信がない者たちは、俺が面倒をみる」


 昌幸が言うように、荷物がなくとも足の遅い者、持続力がない者がいる。だからと言って、その者たちを見捨てることはできない。

 もちろん、俺に考えがある。


「俺が、その者たちを率いて敵の裏をかき、飛騨、美濃経由で越後に戻る」

「なっ」


「待て待て、勝頼、ちょっと待て。わかっている。俺は、わかっているぞ。勝頼が言いたいことは、俺は、わかっている」


 俺は、両手で勝頼を止めた。


 一瞬で赤い顔になり眉間に皺をよせ、上目使いで睨んでくる目が、これほど不気味で恐ろしいものだとは思わなかった。

 勝頼が、地獄からの使者に見えたのだ。


 俺は、勝頼を止めたまま、昌幸に尋ねる。


「昌幸、どうだ、逃げ切れるか」

「はっ、天候が気になりますが」

「明日、梅雨明けする。昼前には日が出るだろう」


「…そこまで言われて、逃げ切れぬとは言えぬでしょう」


「よし。では、武器と具足を捨て、敵兵をかわし、松倉城まで走って逃げる策とする」


「「…」」


 ああ、勝頼も昌幸も、嫌そうな顔をしているな。退却戦ならばいざ知れず、全てを捨てて逃げるのは、やっぱり、武家たる矜持が許さないのだろうか。


「俺が、足に自信のない者たちの面倒をみるのには理由がある。お前たちに頼みがあるからだ。それは、お前たちにしかできぬ事だ」


「「…」」


「昌幸、二つほど頼む」

「はっ、何なりと」


「一つ目は、松倉城の椎名殿に籠城を頼め、堅城な松倉城であれば、敵が三倍であろうと三ヶ月は持つはずだ。必ずや救援すると言え。それでも籠城は無理と言うならば、いっしょに根知まで退け。越中と越後の国境の親不知は隘路だ。城に残っている武装の整った兵が千もあれば、敵も簡単には攻められない」

「はっ」


 俺は、用意していた書状を昌幸に渡す。


「もう、一つだ。この書状は、内海屋の佐吉宛てだ。越中商人と結んで、俺たちが越中に残した武器や具足を買い取れと書いてある。この越中に残した武器具足は、敵兵が見つけることだろう。それを、一向衆を相手に高値で買えと指示してある」


「それは、一向衆と和睦せよと言うことでございましょうか」

「そうだ。一向衆は椎名家を倒すことが目的ではない。越中に寺を作り影響力を拡げることが目的だ。それには、銭がいる。俺たちが残した武器具足を倍や三倍の値で買え」


「武器具足を買い取る名目で、一向衆に銭を払って和睦する。一向衆が和睦に応じれば神保家だけでは、松倉城は落とせないと」

「敵の主力は、一向衆だ。是可否とも和睦できるよう、佐吉に知恵を貸してやってくれ。これは、お前にしか頼めない。やってくれるな」

「はっ、知の限り」


 昌幸が、俺に頭を下げた。


「勝頼、お前にも、お前にしか頼めぬことがある」

「…」


 勝頼が、上目使いに俺を見る。

 勝頼は、すでに普通の顔色に戻っているが、握った拳には力が籠ったままだ。しかし、俺の話を聞いてくれそうな気配である。


「お前にも、頼みごとは二つだ。一つは、根知の信虎殿といっしょに兵を青海まで前進させよ。青海、そして、越後を守れ」

「…」

「兵は少なかろうが、お前であれば信虎殿の力を借りて守り切れる。だから、指揮はお前に任せる」

「…」


 じっと俺を見る勝頼。


「もう一つの頼みだが、お前の太刀は、武田に連なる名のある太刀だと聞く。そのような名のある太刀を、この場に捨て置くのは忍びない。だから、俺に貸してくれ。必ず越後で返す」


 だから、俺のことの心配なんかするな。


 俺は、殿しんがりとして、お前たちを逃がすために足に自信がない者どもを率いる訳ではない。

 それに、お前たちも兵たちも、こんなところで死なせる訳にはいかない。

 死ぬのは、もっと活躍してからにしてほしい。


 歴史に名を留めるくらいに。


 でなければ、歴史に名を残した猛将諏訪勝頼と知将真田昌幸に申し訳が立たん。


「勝頼、青海で俺の家族を守ってくれるな」


 勝頼は、俺を見詰めたまま返事はしない。

 その目は、先ほどの怒りと悔しさに満ちた目ではない。


 勝頼は、俺に強くありたいと言った。

 それは、武将として、そして、武田と諏訪の血の入った者としてだろう。

 勝頼は、ここで皆を逃がす役目を期待した。自分は強いのだと思えるように。


 俺は向き直り、残った二人に告げる。

「角雄と段蔵には、俺の護衛を頼む」


「仕方ないですな」

「任せてください」


 二人とも、すまない。

 普請奉行で雇ったはずなのに、いつも俺の護衛役ばかりで。いずれ、城でも造ってもらうからさ、ゆるしてくれ。

「わかってますよ」と笑顔で言う二人は、大人の笑いだ。気持ちのよい奴らだ。


 さて、これで、俺の番は終わりだ。

 次は、彼らの番だ。


「勝頼、昌幸、言葉を止めてすまなかった。言いたいことがあれば言え」


 今さらだけどな。


「ご武運を」

 さすがに、昌幸は大人だ。一言だけで頭を下げた。


「…にごう」


 に、にごう?


 勝頼は、それだけ言うと腰から太刀を外して俺に向かって差し出した。


「お、おう、きっと、お前の替わりに、この太刀が俺を守ってくれる。預かる」


 勝頼は、太刀を受け取る俺を上目使いで見ていた。


次回、逃避行と首



幸稜、身ひとつで逃げます。

さて、勝頼が言った「…にごう」とは?

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