質量とエネルギーの等価性
永禄五年(1562年)六月、越中、富山城近郊にて
海野幸稜
富山県の梅雨は、おおむね6月中旬に始まり7月半ばに終わる。その梅雨時期の晴天率は、2割ほど。5日のうちに1日晴れる日があるという勘定になる。
その割合が多いと思い「へえ、意外と晴れるもんだ。今度晴れたら…しよう」と言うか、その割合が少ないと思い「雨と雲ばっかりだな、気分も暗くなるぜ」と言うか。
それは、気の持ちようである。
だから、事実は、気の持ちようでどうともなる。
ちなみに残りの5割は雨、3割は曇の日となるようだ。
さて、戦国時代の越中の梅雨も、その割合は同じである。
違う点を上げるとするならば、旧暦六月ともなれば、そろそろ梅雨が開ける頃合いになるぐらいであろうか。
今にも雨を落としそうな暗い雲が、さらに、暗くなっていく。日が落ちようとしているのだ。
「さあ、日が暮れる前に、策を決めよう。敵は待ってはくれぬし、包囲されてからでは遅い」
俺が、そう言うと昌幸が言葉を返す。
「そうですね。ですが、この空模様。敵は足を止めたようです。これから雨が降ると考えているのでしょう」
海野勢が敵に包囲されつつあるとの知らせをもたらしたのは、真田昌幸だった。
昌幸は、独自の忍びを使っているようなのだ。
そのことを俺に言っていないのは、海野家に仕える御月衆という謎の忍びに遠慮しているのか、それとも、真田家の小飼の忍びを俺に取られたくないと思っているのか。
上杉家の忍び、軒猿も御屋形様だけに情報を上げているようだし、忍びとは武将の小飼であるのが一般的なのかも知れない。
「雨が降ると読んだか…」
昌幸の忍びが、敵は足を止めたとの新しい情報を持って来たようだ。なかなか、優秀な忍びだ。
「では、なおさら今日中に策を決めねばな。先手を取って朝が開けると同時に動きたい。昌幸、敵の包囲の状況とはどのようなものだ?」
「はい。富山城には、逃げ込んだ兵を含めておそらく二千。我らが松倉城に退かれぬように背後に回った兵が千。そして、山側、我らの南から二千。三方から我らを逃がさぬよう囲みを縮めております」
「城から兵千が出れば合わせて四千か。我らの倍の兵数だ。そして、北側は海。海では逃げることもできないか。うまく謀られたな」
俺の話しに昌幸が頷く。
神保長職は、加賀一向衆に兵三千を借り、富山城を落として旧臣たちを二千ほど集めた。よって神保勢は総勢五千ほどの軍勢。
対する上杉方は、海野勢が千五百、椎名勢が千五百。合わせて三千。
松倉城に籠城したならば、敗けることはなかったであろう。
城攻めの時は、攻めは守りの三倍の兵数が必要だというのが定石だからだ。
しかし、それでは敗けぬだけだ。
和睦して越中から海野勢が退いたら、おそらく数ヶ月後には、さらに、兵数を集めた神保方が再び一向衆の力を借りて松倉城に襲いかかるに違いない。
神保長職は、越中を己の国とするために戦っているのだし、一向衆たちも越中を加賀と同じ一向衆門徒の国としたいのだ。
「勝頼、昌幸、お前たちの考えを聞かせてくれ」
俺は、最初に勝頼に顔を向けた。
勝頼は、上目使いで昌幸に視線を流すと、すぐに俺に戻した。
「そ、某は、…」
「どうした、勝頼。俺や昌幸に遠慮はなしだ。それに慣れぬ言葉は使わぬともよい。俺に比べればお前たちの方が、合戦慣れしているのだからな」
今、俺が頼れるのは、勝頼と昌幸だけだ。
強い爺様の武田信虎は、根知で待機している。万が一、俺たちが神保一向衆勢に敗けて越後に逃げ帰った時の守り神としてだ。
信虎は、「それでよい。儂も歳だからの。この根知で、ここまでの疲れを取らせてもらうわい」と不敵に笑っていた。
椎名康胤には、松倉城に残ってもらっていた。そもそも、海野勢で一当てするだけのつもりだったからだ。
今から人を走らせて救援を求めても間に合わないだろう。
三人よれば文殊の知恵。
「俺は、松倉城への道をふさぐ敵に当たるのがよいと思う。敵を打ち倒して松倉城に入れば、城は落ちまい」
なるほど、兵千の敵を打ち倒して松倉城に退くか。真面目で強くありたいと思う勝頼らしい考えだ。
だが、敵兵千を相手に手間取るようでは背後に新たな敵部隊が現れる。だから、兵千の敵を一蹴する必要がある。
勝頼は、一蹴できると思っているのだろう。しかし、手間取るようであれば、新たに現れた敵兵に囲まれて我らは全滅する可能性がある。
おそらく、新たな敵部隊が到着するまでは、一刻もかからない。とすると、兵千の敵に一当てしたら逃げるように離脱することになる。
それでは、敗走に近い。そして、反対に我らが追撃されるに違いない。
危険な賭けになるな。
「昌幸は、どう考える?」
「はっ、某は退くのがよいかと思います」
「退く?」
「はい。退く、すなわち、逃げるです。勝頼様の策と同じですが、兵千の敵部隊だけを相手とする考えです。一旦、北の海側へ目指して移動し、そこから海沿いに東へ逃げます。朝掛けであれば大半の者が、逃げ切れるかと」
「大半?」
「はい、さすがに敵の囲みを抜けて皆が逃げ切れるとは思いません。殿が必要でしょう。百か二百か」
小を犠牲にして、大を逃がす策だ。
現実的な昌幸らしい考えだ。
だが、今の俺に「皆のために死んでくれ」と言えるほどの肝はない。
それに、兵の中には青海の顔見知りの者たちも大勢いる。
彼らは、覚悟があってこの合戦に参加しているかも知れないが、できれば俺の失策で死にさせたくはない。
勝頼が、曇った顔をしている。
「勝頼、逃げるのは嫌か」
「…」
嫌なんだね。その顔は。
「勝頼様、逃げることは、武将として劣っていることではありません。逆に誇ることでございます。れっきとした兵法三十六計の一つなのですから」
「いや、俺は、逃げることを悪いこととは思っておらぬ。ただ、敗けると決めつけて戦いをせぬのが嫌なだけだ。やってみねばわからぬ戦もある」
「いいえ、これは負け戦でございます。ならば、味方の被害を最も少なくするのが、策を出す者の務め。今、我らに求められているのは献策でございます。戦うことではありません。むろん、戦うと決まりましたら、某は全力で戦います」
「ならば、俺が、殿を務める。それならば、わざわざ迂回せずともよかろう。一当てして敵を敗走させてから退けばよい」
「それでは、被害が読めませぬ。それに…」
「まあまあ、二人とも」
献策から口論になりそうな二人を止める。
勝頼と昌幸の考えはわかった。
二人とも目的は、「逃げる」で一致、手段が異なるだけ。
勝頼は、可能性を重んじ、昌幸は、確実性を重んじているだけだ。
俺は、暗い空を見上げた。
ポツリと頭に雨を感じたからだ。
二人も俺に釣られて暗い空を見上げた。
雨が降る。
敵の足は止まる。
雨の中の行軍ほど、兵たちの士気を落とすものはない。それに、もう夜になる、敵は無理をしないだろう。
すでに、我らを捕らえた虫だと思っているに違いないのだから。
さて、どうしたものか。
雨の中、かつ、夜間で退却することも考えられるが敵と遭遇したら目も当てられない。夜間で敗走となったら、どれだけの兵たちが城まで戻れることか。
いざとなれば、俺たちの周囲に月さんの強力なレーザーカーテンを張って松倉城まで逃げるという強引な手が使える。
敵を倒すというより、俺を守るという手だ。
月さんは、厚い雲を通して光学的に地表を観察できないが、通信的に俺の位置は把握している。力業で俺を守ることはできる。
だが、それは、最後の手段。
天候が回復したら、月さんの衛星レーザーで、狙撃することもできるのだが…。
「二人の考えは、よくわかった。悪いが、俺一人で考えさせてもらえないか?」
勝頼と昌幸が、顔を見合わせる。
「何、時はかけぬ、半刻ほどだ。お前たちは飯でも食って来い。まだまだ、働いてもらわねばならないからな」
二人は俺に頭を下げて席を立つと、囲われた天幕から出て行った。
しばらく、俺は、目を閉じて待つ。
雨音が聞こえる。
小さな声ならば、紛れる程度の雨の音。
俺は、小さく呟いた。
「月さん」
『受信した』
「俺がいる地点の今後の天候予想を知りたいんだけど」
『了解した。数分前から降りだした雨は、翌日の日の出時刻まで続く。総雨量は10ミリ以下。その後は曇りとなり、午後には晴れ間も見ることができるだろう。翌々日は、晴れが予想される。幸稜の言う梅雨開けとなる』
「それは、越中全域でも同じ?」
『同じ予想だ』
もう一日早く、梅雨開けしたならば、もっと打てる手はあったかもしれない。
だが、明日の午前中には合戦になってしまうことだろう。残念だ。
「残念だ」
『残念とは?』
「いや、もう一日早く梅雨が開けていればと思ってね」
『可能だ』
「可能?」
『梅雨明けを早めることは可能だ』
「本当に? どうやって?」
『この時期の弧状列島上空では、北の冷たく湿った海洋性の気団と南の暑く湿った海洋性の気団が衝突し、その温度差により降雨の前線を構成する。南北気団の勢力が拮抗することにより前線が停滞し、長期の降雨となる。なお、南北気団の温度差が少ないため、雨量は少ない。そして、南気団の勢力が強くなることで、前線は北に押し上げられ梅雨開けとなる』
「なるほど、で」
『南北気団の温度差を最小化したらよい。降雨前線が維持できなくなる。幸稜のいる地点付近だけであれば、数時間で可能だ』
俺は、理解した。
左の手のひらに右手の拳を振り下ろす。ポン!
わかった。月さんの衛星レーザーを使って気団の温度を変えるということだな。
うほ、さすが月さんだ。
よし、強引に梅雨開けさせて…いや、待て待て、俺。それで、どうする。月さんに敵の狙撃を頼むのか?
落ち着け、ゆっくり、考えろ、時間はまだある。
ん、まさか。
「月さん、逆に梅雨開けを遅らせることもできるのか?」
『可能だ』
「おおお」って、だから浮かれるな!
梅雨開けしても、しなくても、包囲されて合戦となることには変わりない。となると、やはり、月さんのレーザー使用は奥の手、簡単には使いたくない。
「困った」
『何が困る?』
「いやね、今、俺たちは敵兵に包囲されつつあるんだ。今なら北の海側を迂回して逃げられそうだけど、犠牲が必要で…」
俺は、昌幸の手堅い策がよいと思っている。これが、攻めであれば勝頼的な可能性に挑戦するのもありだが、今回は、どう見ても敗け戦、損害を抑えた手堅い策を取りたい。
『なぜ、犠牲が必要か』
「逃げ切れそうもない。だから、敵の足止めに少数部隊が…」
『それは、移動速度が遅いためか』
「ん?」
待ってくれ、今、何か引っ掛かった。
だが、それが何か、わからない。
「月さんが言いたいことって?」
『移動速度が遅いから追いつかれ犠牲が必要となる。移動速度が速ければ逃げ切れ犠牲は不要となる。このような関係条件が成立するかだ』
「速度が、速ければ、逃げ切れる?」
『同一方向に進む物体の場合、速度の速い物体に、速度の遅い物体は追いつけない』
「月さん、遅い物体を速くするには?」
『質量とエネルギーの等価性の関係式を知っているか』
「もちろん、あの有名な式だろ。あっ!」
『人の場合も同様だ。自重以外の質量を減少することで移動速度の増加が見込まれる』
「さすが、月さんだ。ありがとう。策が見えてきた」
『問題ない』
そうだよ、忘れていたよ。これは、秀吉が使った手じゃないか。
俺は、腰にぶら下げている小袋から干し飯と、カチカチに固まった塩の塊のような味噌玉を取り出した。
そして、味噌玉をかじり取り、干し飯の粒を口の中に放り込む。ボリボリと音を鳴らせながら、月さんがくれたヒントをもとに策の結果を検証することにした。
次回、包囲突破の策と太刀
「質量とエネルギーの等価性」の関係式は、色々な応用に活かせます。
さて、幸稜が考えた策とは?