機と挑発
永禄六年(1563年)三月、越後、糸魚川、青海にて
海野幸稜
俺に声をかけた信虎様と角雄が、ゆったりと寄ってくる。
二人が、俺の隣にいる光秀に一瞥を向けたので紹介することにした。
「信虎殿、この者、新しく海野の家臣となった明智光秀です。良しなに」
「光秀、海野家臣の鳶角雄だ。さっきの段蔵の兄だ。そして、こちらの方が海野の指南役をお願いしている武田信虎殿だ」
「ほう、美濃の明智の者か」
信虎様が、睨みを効かせる。
おそらく、光秀の人なりを見極めるための演技だ。
「はっ、この度、海野の殿にお願いして家臣に召し抱えて頂いた次第。何卒、良しなに」
光秀は、信虎様の眼光を反らすことなく受け止め、頭をわずかばかり下げて答えた。
「…」
「…」
「小僧、何を笑っておる」
笑っていたのが見つかった。
「いえ、これで戦には敗けぬと思っただけですよ。信虎殿に光秀、角雄に段蔵、海野勢が皆、揃ったのです。さらに、後詰めには長親殿がおります。これで敗けたとあっては、よほど自分に徳がないのだろうなと想像して可笑しくなりました」
「ふんっ、つまらぬことを」と信虎様は、光秀に向き直り「分かった、使こうてやる」と言った。
光秀は、再び頭を下げて「ありがたく」と返した。
怖い信虎殿の挨拶が終わると、角雄が光秀に声をかける。
「鳶角雄です。殿からは普請役を頂いております。これから、弟の段蔵ともども良しなにお願いします」
「これは丁寧に。鳶殿、こちらこそ、何をも分からぬ身でありますゆえ、良しなにお願い申す」
「光秀殿、俺たちのことは、角雄、段蔵と呼んでください」
「であれば、某のことは光秀と」
「では、光秀、ともに殿のために」
角雄が、右手を光秀に差し出した。
それが、何を意味するのか分からない光秀は、返事もできず目に戸惑う色を見せる。
「光秀、右手を出してください。殿直伝の海野の挨拶を教えましょう」
そう言われた光秀が、角雄を真似て右手を出した。
角雄が、光秀の右手を掴み二度ほど小さく振った。
「これが、海野家の挨拶である握手です。これは、海野の配下としてともに歩む者同士の絆とのこと」
角雄が、光秀の手を離す。
「なるほど」と、光秀は自分の手のひらを見つめる。
「ともに殿のため役目に励みましょうぞ」
「ともに殿のために」
光秀が、角雄の勢いに飲まれて精彩を欠いているのが面白い。
美濃とも、越前とも違う雰囲気なのだろうが、良い方向であることを祈るだけだ。
「南蛮被れの小僧よ、あれは、どういうことだ」
信虎様が、親不知側の浅堀を埋めて、青海側に浅堀を掘っている処へ顎を向けて尋ねてきた。
「光秀」
「はっ」
光秀に代わって信虎様に答えるように促し、角雄には「段蔵を手伝ってくれ」と命じる。
そして、光秀と信虎様は浅堀について話を始め、角雄が返事とともに走り去ったのを見て、皆から距離を取ることにする。
どうしても、笑い顔になってしまう。
なぜ、笑い顔だと信虎様に問われて返した言葉は嘘だった。
笑い顔になっていたのは、何とも不思議な気持ちが湧き上がってきたからである。
あの武田信虎とあの明智光秀が、この越後で戦の話をしているのを見て不思議な気持ちが湧いた。
御屋形様、村上様、諏訪勝頼、真田昌幸たちと出会った時とは、また一味違う感慨が湧き上がってきたからである。
目の前で越後にいるはずのない有名な二人が、越後の運命の一端を担い、話をしている。
そのことが、知っている歴史ではなく、新らたな歴史を歩んでいるのだと実感させてくれる。
そして、彼らと、同じ時、同じ場所にいっしょに立っているのだと思うと、なぜか嬉しくなったのだ。
実に、感慨深い。
だから、これから合戦となるというのに、ついつい顔が笑ってしまう。
皆に、笑った顔を見られないように背を向けて波際の方へと歩んだ。
俺を知っている者たちは、忍びの報告を聞くのだろうと思えるように。
ふー。
「月さん」
『受信した』
「椎名勢の状況を教えてくれ」
『親不知に入った集団は、現在、中間地点にある関を通過中だ。その少し前に関から出た小人数の集団は青海側に移動中だ』
親不知に入った集団は椎名勢。
小人数の集団は、関を守っていた海野勢。
ほどなく、関から退却した海野勢が青海にたどり着くはずだ。
「よし、予定通りだな。月さん、ありがとう」
『問題ない。幸稜、話を変える』
ん?
「何?」
『幸稜が指定した監視地域で、軍勢と推定される集団の移動を確認した』
「どこだろう」
『尾張、武蔵、会津だ』
織田に、北条に、蘆名の反上杉が同時に動いた。やはり、椎名勢もそれに同調してのことだろう。
「尾張方面を詳しく教えてくれ」
『約六千の集団が三河方面へと移動している』
織田勢が三河へ?
織田信長に対抗している犬山城の尾張守護の斯波義銀や、岩倉城にいる尾張守護代の織田信安の軍勢でないことは確かだ。
移動している軍勢の兵数が多すぎるし、三河方面に移動するというのも解せない。
なぜ、織田勢が三河に行くのかは不明だが、上杉への動きではないだろう。
織田家の姫たちが人質となっているので、あからさまな上杉への敵対行動は取らないと思うが…。
「月さん、武蔵と会津の動きも教えてくれ」
『武蔵でも、約六千の集団が数ヶ所で移動をしている。会津では移動していないが拠点に集合している』
武蔵では、数ヶ所?
俺が行ったことのない地点は、月さんの地図に地名がない。だから、月さんは、ざっくり武蔵として教えてくれる。
なぜ地名がないかと言うと、その場所の地名を特定することができなかったからだ。
一度、月さんの地形情報だけで江戸や小田原などの町を特定しようと試みたことがあった。だが、その試みは失敗。
稚拙な地図、俺の無知が原因だった。
記憶と異なる海岸線、河川、湿地帯などの地形から、そこが江戸と確定には至らなかったのだ。
相模の小田原、尾張の清洲、会津の黒川なども同じだ。
江戸はともかく、小田原、清洲、黒川なんかは、そもそも、それどこだよって感じだ。
おそらくは江戸だろう、おそらく小田原だろうとの思いはあったが、それを前提とすることはリスクがあり取り止めた。
だから、月さんからの情報では敵味方は、分からない。想像した内容となる。
武蔵では、北条方が複数の軍勢を移動させたのだろうが、江戸の御屋形様が蹴散らしてくれると思う。
一方、会津の蘆名勢は、これから奥越後へ侵攻するつもりなのだろうが、血の気の多い阿賀北衆と知恵者の宇佐美様を簡単には破れないはずだ。
大丈夫だ。どの戦線でも問題ない。
一番、問題あるのは、この越中戦線かも知れない。
各戦線での反上杉勢の活発化にともない、援軍が期待できなくなった。
唯一当てにできるのは、河田長親殿の後詰めの兵が数百程度だ。
「小僧、よいか」
思考に沈んでいた俺は、海を眺めていただけに見えたことだろう。
信虎様の声に振り向くと、海野勢の関係者四人が揃っていた。
「椎名勢が現れたときの出方を決めておかねばならぬ。どうする、どうしたい」
信虎様の言葉は、勝つ前提の話に聞こえた。敗けるつもりは一切ないのだろう。
信虎様は、この合戦に勝った後に椎名勢を追撃するのか否か、追撃するとして松倉城まで攻め上るのか否か、を俺に問うている。
俺の覇気を確かめるように睨み付ける。
信虎様は、俺の言葉を覚えているのだ。
兵二千五百があり、条件が揃えば、松倉城を落とせるかと言った俺の言葉を。
「機は掴むもの、と聞いています。そして、機とは鼬のように素早く動き、人のことなど待ってはくれぬもの。だから、機とは逃したら捕まらぬものだと教えられました」
「そうだの。して」
「信虎殿、獲って頂きたい」
存分にやってください。
俺は、青海屋敷に残って吉報を待っていますけどね。
「分かった」と口角を上げ、爛々とした眼光の恐ろしい笑顔を俺に向ける。
思わず身震いが起こった。
二千五百の兵を預けて大丈夫かと思えるほどであった。
しばらくして、親不知の関の守備隊が、伝令とともに無事に逃げてきた。
逃げてきた者たちの話では、椎名勢は、御屋形様の指示により春日山に参陣するため関を通過するとの話であったようだ。
だが、関の者たちは、そのような知らせは受けていないと拒否し関の門を閉じた。
すると、椎名勢は鉄砲と弓で威嚇し、切り出した丸太を破城槌として門の破壊を始めた。
強引に関を破ろうとする椎名勢に弓を引くこともできなく、四半刻を稼いだ門の守備隊は青海に撤退してきたのだ。
守備隊が逃げてきたことで、青海の柵で普請する者たちを下がらせると、ほどなく、椎名勢が現れた。
柵を挟んで海野勢二千五百と椎名勢二千が、鉄砲や弓に対応できる距離を開けて対峙する。
閉じられた柵、自分たちを超える兵力に、椎名勢が動揺しているのが伝わってくる。
これで引き下がるかと思ったが、椎名家の武将が、柵に近づき大声で名乗り上げて話を続けた。
「我ら椎名家は、御屋形様の命により春日山に参陣せねばならぬ。柵を開け、我らを通されよ」
角雄が、俺に頷いてから海野勢の前に出た。
「海野家家臣、鳶角雄だ。そのような知らせは受けてはいない。よって、ここを通す訳にはいかぬ。松倉まで退かれよ」
角雄も遠い相手に声が届くよう大声を出す。
「それでは椎名家が、御屋形様の命に背いたことになる。海野などと言う端役では、知らぬこともあるのだ。早く柵を開き通さぬか」
「我ら、端役なれど、これが役目。知らぬのに通す訳にはいかぬ」
「御屋形様に背く気か!」
「知らぬものは知らぬ!」
遠目でも、椎名家の武将の顔が赤くなっているのがわかる。
大声を張り上げたからだけではない。
嘘を言っているのにも関わらず、椎名勢に従わぬ海野勢が癪にさわるのだ。
埒が明かないと見たのか、椎名勢から具足で身を固めた椎名康胤が出てきた。
「海野の者どもよ。いい加減にせぬか、ただではすまぬぞ。儂を誰だと思うておる。儂こそが、東越中守護代の椎名康胤だ。早う柵を開けぬか」
敵の大将が出てきた。
椎名康胤もよく言うよ。
こっちが油断したら一気に襲う気でいる癖に。
浅堀という蛸壺に潜んだ鉄砲兵に撃つように指示したろか。
ん?
角雄が、振り返って俺を見ている。
横に立つ信虎様や光秀の視線も感じる。
おい、おい、待ってくれ。
敵の大将が出てきたからといって、俺も出ていく必要はないよね。
えっ、駄目。
やだよ、あっちだって鉄砲やら弓やらで、俺を狙撃してくるに決まっている。
前に出るなんて危ないだろ。
駄目?
駄目なの?
なんだよ、そりゃ。
戦場のことは信虎様に任せて屋敷に帰れば良かった。
くー。
周りの非難めいた視線に耐えきれず、仕方なく前に出ることにした。とは言え、いつでも蛸壺へ飛び込めるように椎名勢の様子を伺って角雄の横まで進む。
そして、大声を出す。
「これは、椎名康胤殿、お役目ご苦労様でございます」
「海野、幸稜」
声は聞こえなかったが、椎名康胤が俺の名を呟いたように見えた。
「海野、また、お主か。早う、この柵を開けぬか」
またってなんだよ。
後詰めに来たが役に立たず逃げ帰り、その退却に巻き込まれて松倉城を失った。
その後の雑賀衆の活躍で松倉城は取り戻したが、松倉金山を奪われた。
その相手が俺、海野幸稜。
ろくに戦えもしないのに金で成り上がった俺、海野幸稜。
椎名家の疫病神のような俺、海野幸稜。
「お前だけは、生かして帰さん。だから、この柵をさっさと開けろ」と聞こえる。
海野勢の兵が椎名勢より多そうだとはいえ、海野勢は一戦もせずに逃げ帰るぐらいの弱者集団。簡単に一蹴できると思っているのだろう。
冷静に考えれば、椎名康胤の思いも分からんでもない。
だが、それは、それ。これは、これだ。
「申し訳ありませんが、椎名殿を通す訳にはいきませぬ」
「なぜだ」
反逆者だからさ。
「これは異なこと。椎名殿が上杉に弓を引いたからにございます」
声に詰まるのが聞こえそうだ。
「ど、どこに、そのような証拠がある。お主が、また、儂を陥れる気であろう」
考える振りをして口もとを隠し、横の角雄に小声で伝える。
「角雄、下がれ。康胤殿が暴発するかも知れん。そうなれば鉄砲や弓を使う」
角雄は、目配せで了解と言って後ろに下がって行った。
これだけ伝えれば、皆に鉄砲や弓の対処をさせろと聞こえたはずだ。
「証拠は、ここに、ございます」
俺は、懐から文を取り出し、空にかかげた。文は、伝令用のもので白紙である。
再び、声に詰まる椎名康胤。
「ここには、尾張、武蔵、会津で軍勢が動いた。約束通り、早々に、軍勢を動かされよと書いてあります」
嘘だけどな。
反上杉の伝令を捕まえ、その運んでいた文だとの体で説明する。
反上杉の動きを匂わせれば、後は勝手に椎名康胤が頭の中で補完してくれるはず。
「残念なことでございます。椎名殿と戦かわねばならぬとは。うけけけ」
さらに挑発するため、椎名勢の動きなどお見通しだと嘲る調子で笑い声を上げた。
「ぐぬぬ」と悔しがる声が聞こえそうだ。
悔しがる椎名康胤の隣の武将が、後ろに合図を出したのを見逃さない。
くる。
蛸壺に近づく。
「海野幸稜、儂を馬鹿にした報いは受けてもらうぞ。鉄砲兵、あやつを狙え、逃すな、撃て」
椎名康胤の大声が聞こえた瞬間、俺は「撃てぇぇ」と叫びながら蛸壺に飛び込んだ。
次回、矢の雨と入城
幸稜、手段は選びません。いや、策略はどの武将でもやっています。